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| 万民ニュース   第 184 号 | HIT 3120 | DATE 2018-02-25
 
キリストの香りを放つ生き方



<第二コリント2:15>に「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」とある。このように、クリスチャンならば、キリストの香りを放つ生き方を通して世の光と塩になって多くの人を主の懐に導かなければならないだろう。はたしてキリストの香りを放つ人からはどんな香りがするだろうか。


キリストの香りは「謙遜と仕えの香り」

<マタイ20:28>で、イエス様が「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』」と言われたとおり、人々がイエス様から感じたものは謙遜と仕えだった。

イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:11)と言われたとおり、しるしと不思議を行いながら、ご自分が神の御子で、救い主だということを人々が信じられるように、驚くべき力を現わされた。

それでもご自分を高くするのではなく、かえってへりくだって仕えられた。あまりにも多くの人がイエス様の前に出て来るので、時には召し上がることもお休みになることもできなかったが、すべての人に心から接してくださった。このような謙遜と仕えの香りは人々の心を動かし、変えさせた。クリスチャンからも、自分を低くして仕えることで謙遜と仕えの香りがしなければならない。

いやいやながらでもなく、身につけた教養からでなく、心から謙遜と仕えの香りが自然ににじみ出て来るとき、相手の心を開くことができ、信頼を得ることができて、伝える福音もしっかり心に蒔かれる。

たとえば、目上の人の前ではへりくだって挨拶するが、後ろでは悪口を言うとか、自分が目上の人だからといって挨拶を受けるばかりで、知っている素振りも見せないし、目を向けることもないなら、謙遜や仕えからはほど遠い。

また、自分が間違っていても、叱られれば気を悪くしてすねて、自分のためのアドバイスや指摘も素直に聞けないならば、高められて仕えられたい心があるということを悟らなければならない。このような心があるから、自分の欠けているところが現れるので、指摘や叱責を聞きたくないのだ。

もし相手が全く理解できないことを言うなら、多くの人は自分の立場で相手の話が正しい、間違っているとさばいて口に出す。しかし、それは間違っていることが多く、自分の心を低くしないで相手より高くしたので、癇に障ってけんかになったりもする。

自分の心を低くして相手の心を理解しようとするとき、ぶつかることがない。このためには相手の話に最後まで耳を傾けることが非常に大切だ。

すると、相手がそう言うしかない心が理解できて、愛されたくて認められたい心、もっとよくやりたい心など、相手の心が感じられるので、相手に合わせて答えられる。このように自分を低くして仕える心から放たれるキリストの香りは必ず相手を感動させる。


キリストの香りは「愛の香り」

弟子ペテロは三度もイエス様を知らないと言ったが、イエス様は彼に顔を背けられなかった。かえって彼の弱さを理解してお赦しになり、再び彼を励まされた。パウロは以前教会を荒らし、主を信じる聖徒たちを捕らえて殺しに回っていたが、主は彼にご自身で出会ってくださってお赦しになったし、使徒としてくださった。このような主の愛が使徒ペテロと使徒パウロになるよう変えさせたのだ。

同じように、私たちの心も主の愛で溶かされた。主を知ることも信じることもできなかった私たちのために、主は全身をむちで打たれ、頭にいばらの冠をかぶられ、十字架で手と足に釘を打たれ、血を注ぎ出して死なれた。その十字架の愛を悟ったので、多くの涙を流して感謝した。このように私たちのために完全に犠牲になってくださった主の愛が私たちに現れるとき、キリストの香りを放つことができる。

何の代価も望まず、与えてはまた与えるが、惜しみなく与えられる愛、自分の罪と咎を主が赦されたように、自分に害を加える人を赦す愛の香りを放つなら、相手の心も感動して変えられる。霊の愛は氷のように冷たい心も溶かせるし、ガチガチに固まった心も解きほぐせる。

このような愛の香りは結局自分も相手から愛されるようにする。ひょっとして「私はなぜ愛されないのだろうか。私が持っている肉的な条件が良くないからか」と考えるなら、肉の愛はつかの間だけ、長く続かないということを知らなければならない。なぜなら、うわべの肉的な条件が変わったりより良い人を見たりすれば、すぐ心が変わることがあるからだ。

私たちが変わらないまことの愛を得るには、人の中身である霊が美しく変えられ、そのたましいに幸いを得ていなければならない。悪がない善の心、肉がない御霊に属する心になってキリストの香りを放つならば、その人は必ず愛されるようになる。これがまことの愛である。

御霊に属する心から出て来る愛の香りは誰にでも感動を与えられる。やわらかくて、温かくて、真実を感じるので、そのような香りを放つ人に自然に心が開かれるようになる。自分も心から湧き出る愛を与えるようになる。

このように美しく変えられているので、その人のすべてを大切にしてあげるのがまことの愛だ。父なる神も私たちのうわべでなく心をご覧になって、私たちのすべてを愛してくださる(第一サムエル16:7)。私たちも心から父なる神を信じて愛さなければならない。

<箴言8:17>に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあるとおり、神を愛するがゆえに戒めを守り行えば、たましいに幸いを得ているようにすべての点で幸いを得、健康である祝福をいただき、神に愛され、神を見つける豊かな生き方ができるのだ。


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