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| 万民ニュース   第 137 号 | HIT 5180 | DATE 2014-03-23
 
神の答えはどんな人に臨むのか?



神は<箴言8:17>で「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」と言われた。<マタイ7:11>では、イエス様が「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言われ、答えの神について教えてくださった。はたして神の答えはどんな人に臨むのだろうか?


アブラハムのように 変わらない信仰を所有した人

アブラハムは変わらず神を信じる全き信仰を持っていたので、神のおことばを疑ったり聞き従わないことはなかった。死んだ者も生かす全能の神を信じたので、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと仰せられた時も、直ちに聞き従えた(ヘブル11:19)。だから、神は彼を信仰の父として立て、子ども、健康、富と名誉などすべての祝福を与えられた。

多くの人が自分の思いに合わなければ疑って聞き従わず、つぶやいて不平を言う。また、信じると言ってから疑い、まるで風に吹かれて揺れ動く海の大波のように、信じようか信じまいかと迷うずる賢い心がある。それで聖書には、二心をいだき、すべての事に定まらない心を持った人は、主から何かをいただけると思ってはならないとあるのだ(ヤコブ1:6-8)。


コルネリオのように 神を恐れかしこんで善を行う人

コルネリオはイタリヤ隊の百人隊長であり、異邦人だが全家族とともに神を恐れかしこみ、民に多くの施しをなし、いつも祈っていた(使徒10:2)。このような祈りと施しが立ち上ると、神はペテロを遣わしてコルネリオの家族、親族、友だちまでも、聖霊を受けて救われる祝福を与えられた。

使徒の働き9章を読めば、ヨッパに住んでいたタビタという女の弟子が病気になって死ぬと、一緒にいた弟子たちがペテロにすぐ来てくださいと頼む。ペテロが到着すると、生前タビタに恵みを受けていたやもめたちが泣きながら、彼女が作ってくれた服をすべて出して見せた。これに感動したペテロがみなの者を外に出した後、ひざまずいて神に祈った。そしてその遺体のほうに向かって「タビタ、起きなさい。」と言った。すると驚くべきことに、死んだタビタが目をあけて起き上った。普段から良いわざと施しに熱心だったタビタの行いが神のお心を動かしたのである。


エリヤのように 火のように祈る人

エリヤは北イスラエル王国のアハブとアハズヤ王の時代に神のみこころを宣べ伝えた預言者だ。彼はアハブ王とイスラエルの民の偶像礼拝によって、国に三年半の間深刻な日照りが続いたとき、神に切に祈って大雨という答えを受けた(第一列王18:42-45)。彼がどんなに切に神を呼んで祈ったのか、はらわたがちぎれるような苦しみで顔が膝の間にうずまるほどだった。

ヤコブもやはり、ヤボク川の岸でもものつがいがはずれるまで、夜明けまで神の使いと格闘しながら祈った。すると彼を殺そうと四百人の者を引き連れてやって来ていた兄エサウの心を神がつかさどってくださり、仲直りしただけでなく、全家族のいのちを守ることができた。


ソロモンのように 霊とまことによって礼拝をささげる人

ダビデの後に続きイスラエルの王位についたソロモンは民を治めるのに先立ち、神に一千頭の全焼のいけにえを心を込めてささげた。一千頭の全焼のいけにえをささげるということは決して容易なことではない。旧約時代のいけにえは場所と時間、供え物、いけにえの方法などに制約が伴った。全会衆とともにソロモンが【主】の前にある青銅の祭壇の上に、一千頭の全焼のいけにえをささげた。

ソロモンが神により頼んだことをどれほど喜ばれたのか、神が夢に現れて「あなたに何を与えようか。願え。」と仰せられた。ソロモンは富と誉れでなく、民をよく治められる知恵を求め、これを喜ばれた神は知恵はもちろん、富と誉れまであふれるように与えられた。
旧約のいけにえは今日の礼拝を意味する。このように、神を愛して神に霊とまことによって礼拝をささげるとき、神の答えと祝福が臨むのだ。


ダビデのように 神の御前にかなう心を持つ人

ダビデは幼い少年だったが、信仰があるので大胆だった。神の陣営をなぶったペリシテ人の勇士ゴリヤテに立ち向かって戦うと、サウル王に言った(第一サムエル17:32)。そして、よろいも着ないまま石五つと杖を持って進み、ゴリヤテを倒して殺す。これを見たペリシテ軍が逃げたので、イスラエルは大勝利を収めることができた。

このように、私たちの前にいくら大きい問題、不可能のように見える問題があったとしても、ダビデのように大胆な信仰を持って出て行けば、何の問題にもならない。神がダビデに「彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」と言われたように(使徒13:22)、私たちも神の御前にかなう心になれば、何でも答えられるのだ。


ヨセフのように 神の義を追い求める人

おとめマリヤはヨセフの妻と決まっていた。ところが、ヨセフは自分といっしょになったことがないマリヤのおなかがふくらんでくるのを見て、内密に去らせようとする。もしこんなことがわかれば、マリヤは当時の律法によって石打ちにされて死ぬしかなかったからだ。ヨセフはこのような優しくて正しい心があったので、主の使いが夢に現れてその声が聞ける幸いな人になることができた(マタイ1:19-23)。

ほとんどの人は自分が正しいと信じることを押し通す傾向があって、他の人にまで自分の主張のとおり従うように要求する。これによって不和が起きても、事を成就するためにはどうしようもないと思う。だが、神はいくら正しいことだとしても平和を壊す人を正しいと言われない。神の義とは、神を恐れるので罪を捨て、みことばを守り行って信仰によって聞き従うことである。

イ・ジェロク牧師著書『わたしはそれをしましょう』第1章「答えの神」より





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