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メッセージ >
聖書の学び
Title
第48課 幸いな人
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2008-11-28
読むみことば: 詩篇1:1-3
覚えるみことば: 詩篇1:1-3
教育目標
神は、神の子どもなら誰でも約束されたすべての祝福を味わって、何をしても栄えることを願われる。どう行なえばまことに幸いな人になるのか、具体的に調べて幸いな人になる。
世ではふつう健康、財物、名誉、権威、知識の多い人や、子どもが出世して親孝行して和やかな家庭の人を「幸いな人」と言います。このようなものをすべて得たとしても、ともすると一瞬に消えてしまうこともあり、命を失えばすべてがむなしくなってしまいます。しかし、イエス・キリストを救い主として受け入れて、神が下さる祝福をいただくと、不意の事故やどんな災いにも倒れることなく、天国でも永遠の報いになります。ですから、神が下さる祝福をいただいてこそ、まことに幸いな人と言えるでしょう。それでは、私たちがまことに幸いな人になるためには、どうすればよいでしょうか?
1. 幸いな人は悪者のはかりごとに歩みません
悪者のはかりごとは肉の思いに働きかけるサタンから来ます。人の心に悪があれば、何かを思っても肉の思い、すなわち、真理に逆らう悪い思いをするようになります。このような悪い思いから出てくるはかりごとは、神と反対になる悪いことをはかるようになります。憎んで、そねんで、ねたんで、自分の利益を求めるのであらゆる計略を立て、相手を踏みにじってでも自分が欲しいものを得ようとするのです。
しかし、このような悪いはかりごとでは、決してまことに幸せになれません。たとえば、旧約聖書のハマンは悪者のはかりごとに歩んだ代表的な人物です。ハマンはユダヤ人モルデカイが自分に対してひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかったので、憤りに満たされて、モルデカイだけでなく、その国の中にいるユダヤ人全体を根絶やしにしようと、はかりごとを巡らしました。しかし、神は悪者の計画をご存じなので、悪い計略が明らかにされるように働かれ、結局、ハマンは死んだのです。
今日も、富と誉れを得るためにさまざまな謀略を立てて、不正と非理を行なう人々のことが、いろいろなメディアを通して伝えられています。しかし、神は、幸いな人は悪者のはかりごとに歩まないと言われたので、ただ上からの神の知恵を追い求めて行なう時こそ、幸せで栄える道に導いてくださるのです。
たとえば、神を信じない人々にとっては、主日も休まないで働き、一円でも多く貯蓄して投資することが賢いことです。はなはだしきは、人をだましてでも利益をむさぼり、それがばれないようにすることが賢いと思ったりもします。しかし、信仰のある人々は、主日は神の聖殿に出てきて礼拝をささげ、完全な十分の一献金と心を込めて用意した献金をささげます。また、事業をする時も誠実で正直にして、損害をこうむっても相手をだましたり、何かの害を与えたりしません。このような行ないが時には愚かに見えることもありますが、真理の中を歩む時でこそ神に助けられ、蒔けば、その刈り取りもするようにされる神に祝福される秘訣であり、神の知恵なのです。
2. 幸いな人は罪人の道に立ちません
世では、法で定められていることを行ないとして犯した人を罪人と言います。いくら人を殺して盗む心があっても、実際に人を殺さないで盗まなければ、罪人と言いません。しかし、神は心に罪と悪をいだくことだけでも罪人と言われます。憎しみ、争い、そねみ、ねたみ、盗み、姦淫、さばき、罪に定めることなどが心の中にあれば、神の御前では罪人なのです。
このように心に罪と悪をいだくことも罪人なのに、行ないで罪を犯す肉の行ないは、神の御前にさらに重い罪になります(ガラテヤ5:19-21)。いくら口で「主よ、信じます」と言っても、神のみこころのとおり行なわないで、肉の行ないをするなら、結局、天国に行けないと書いてあります。
[第一テモテ5:24-25]に「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。 同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」とあります。大きいことでも小さいことでも、罪を犯したとき、神の御前では隠すことができなくて必ず明らかにされ、代価が伴うということです。
ところが、神の命令を守り行ない、罪を犯してはならないと言えば、「どうやって人が命令がすべて守れるのか? そんなふうに生きようとすれば、どんなにつらい大変だろうか」と言ったりもします。しかし、命令を守ることは決して難しいのでなく、むしろ命令を守らないことが難しいのです。人を嫌って、そねんでねたんだ経験があったら、その心がどれほど苦しいのかわかるでしょう。命令を守って罪を犯さない人は自分の心に責められることがなく、神の御前に大胆なので、心がいつも平安で幸せです。また、いくらつらくて難しいことがやって来ても、神の力によって脱出の道を備えて、すべての試練や患難、病気、災難も防いでくださるのです。しかし、罪を犯す人の心には喜びと平安がなく、試練や患難にあうとき、助けてくれる人もいません。ですから、幸いな人になるためには、決して罪人の道に立ってはいけません。
3. 幸いな人はあざける者の座に着きません
神は高ぶる人をとても嫌われます。高ぶる人は神に立ち向かって、人の価値を失った人だからです。エバが善悪の知識の木から取って食べたのも、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになる」とサタンに惑わされて、高くなろうとする心があったからです。このように人が高ぶって罪を犯した後、敵である悪魔・サタンが支配する世では、自分を高くしようとして、自分を目立たせて良い待遇を受けようとします。誰かにあざけられているとと感じれば苦しんで、相手に仕えるのではなく、むしろ何としてでも仕えられようとするのです。しかし、高ぶって自分を高くする人は低くなり、へりくだって自分を低くする人は必ず高くされます。これは太陽が東から昇って西の方に沈むように、間違いなくなされる真理の法則なのです。
[ルカ14:11]に「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とあります。神の御姿であられるイエス様も、仕える者の姿をとり、この地上に来られ、十字架を負われ、仕えの手本を見せられました。私たちも、主のように仕えて低い者になるとき、この地上でも多くの人々に尊敬されて、また、天国でも尊い者と認められるので、まことに幸いな人になるのです。
4. 幸いな人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみます
本文[詩篇1:2]で、幸いな人は「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。昼も夜も神のおしえを口ずむので、聖霊の声を聞いて、御霊に導かれていくという意味です。「主のおしえ」とは、聖書六六巻の神のみことばであり、狭い意味では十戒を含めてモーセ五経である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に記された神のおきてのことです。
神のことばである聖書の中には、神のみこころとその妙なる摂理がすべて含まれているので、神のみことばを愛する人ならば、さまざまな礼拝や祈り会などどこでも参加して、みことばを聞くために努めるでしょう。礼拝の時、雑念にふけったり居眠りしたりすることもなく、みことばが蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘くて、「アーメン」と受け入れるようになります。聞くことですむのではなく、みことばを心に留めて口ずさみ、心に完全に耕すようになるのです。
したがって、神のみことばを喜びとし、昼も夜も口ずさむ人は、何か事が起こったとき、悪い感情をいだいたり、肉の思いをしたり、人間的な方法を使ったりしません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と言われたみことばをそのとおり行なって、心の中におられる聖霊の声を聞いて働きかけられ、御霊に導かれていくのです。これがまさに幸いな人の積極的な生き方であり、心構えです。
また、本文[詩篇1:3]には「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。水路のそばに植わった木であるほど、さらに深くさらに遠く根を下してのびのび育ち、さらに豊かな実がなり、いくら長い間の日照りにもいつも水分が吸収できるので、その葉は枯れません。
ここで「水路のそば」とは、霊的に祝福の源、すなわち、いのちの水を思いきり吸い込んでいつも青々して、時が来ると実がなる、神のふところのことです。本当に神のふところの中に植わっているなら、聖霊に助けられて、心の中に真理のみことばが根を下すようになります。すなわち、みことばを悟って心に糧とするという意味です。それで、御霊の九つの実、すなわち、愛と喜びと平安と寛容と親切と善意と誠実と柔和と自制の実がなるための根が心の奥深く下されるのです。
このように神のことばを心で口ずさむ人は、そのみことばどおり従うようになるので、幸いな人になります。幸いな人は悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着きません。まことに主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさんで善と愛の中を歩むようになります。また、いつも喜んでいて、目をさまして祈り、すべてのことについて感謝して、神のみこころに従って生きていくので、求めることは何でも答えられ、神に栄光をお帰しするのです。したがって、真理の中を歩んで神の御前で幸いな人になり、この地上で幸せに生きるだけでなく、将来、永遠の天国でも豊かな報いをいただき、尊い者になりますように。
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