new commer 初めてお越しの方の登録 | ホームページ管理人に
hide
ManminCentralChurch

黙示録講解 | 信仰を測ると | 創世記講解

 
banner
on air
Sermon
Official Service
メッセージ(date)
主日礼拝
主日夕方礼拝
金曜徹夜礼拝
Lecture
ヨハネの手紙第一
黙示録講解
創世記講解
Theme Sermons
十字架のことば
信仰の量り
十戒
愛の章
天国
地獄
Columns
cell bible
隠れたマナ
2019年
六日間のマナ・上
六日間のマナ・下
神の良きみこころ
信仰の量り
愛の章
御霊の実
神の七つの御霊
祝福の秘訣
クリスチャンの基本
わたしはそれをしましょう
義人は信仰によって生きる
八つの幸い
2010年
2009年
2008年
column
counselor
mis_cross_jp
MIS_Spirit
MIS_HolySpirit
MIS_HolySpirit
 
メッセージ >
Title
   心の地を耕そう (6)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   マタ 13:3-9
Date
   2010-04-11


[本文]

[マタイ13:3-9]
「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」

[序論]

愛する聖徒の皆さん、過ぎ去った冬は世の多くの人にとって、身も心もとりわけ寒く感じられました。いつの間にかその冬が過ぎて、春がやって来ました。都市でももちろん春の気配が漂っていますが、農村に行けばもっとはっきり感じられます。春になると、自然は一つ一つ新芽を出して、うら寂しい山と野に緑の衣を着せるのにおおわらわになります。
秋の収穫を終えてひと息ついていた農夫は、農作の準備で再び忙しくなります。例年どおりにすべての作業を繰り返します。まず地を耕して、種を蒔けるような地にします。冬の間に固まった地をすき返して、土の塊を細かく砕きます。石があれば取り出します。肥えた地になるように肥料もやります。豊作になるためには、このすべての過程で最善を尽くさなければなりません。もちろん、このようにしても、ある年は太陽と温度、風、降水量が適切でないため、でき具合が良くありません。それで、農夫は精一杯汗を流して働きながらも、いつも気をもみます。
私たちが心の地を耕す時は、これと少し違います。地を一度良い地によく耕しておけば、種を蒔くたびに豊作になります。蒔くものは何でも百倍、六十倍、少なくても三十倍以上に実を結びます。いつも豊かな実が結ばれることは確かなので、失敗するのではないかと心配することがありません。それ以上、地を耕す労苦をする必要もありません。どれほど幸せなことでしょうか。地を耕す過程には多くの労苦が伴いますが、このように良い地にすれば、心の地を耕す喜びが味わえます。蒔いて刈り取る喜びがいつもあふれるのです。
皆さんの中に、実が結ばれない道ばた、岩地、いばらをそのまま持っていて、苦労ばかりしている方がいるでしょうか? もしそうなら、もう少し努力して、自分の心の地を完全な良い地にされますように。良い地の心とは、みことばを聞いて、そのとおりに従う心です。[イザヤ1:19]に「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」とあります。今年は皆さんの心の地を必ず良い地に変えて、霊肉ともに良い物を刈り取りますように。地を耕す喜びを思う存分味わいますよう、主の御名によって祈ります。

[本論]

愛する聖徒の皆さん、「良い地」とはどんな地でしょうか?
[マタイ13:8]に「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」とあります。「良い地」とは、種を蒔けば豊かな実を結ぶ地です。つまり、神のみことばを聞けば、そのとおりに行なって、多くの実を結ぶ心のことです。良い地には、植物が育たないようにふさぐものがないので、土が持っている生命力がそのまま現れます。一粒の種が多くは百倍、あるいは六十倍、少なくても三十倍以上の実を結ぶのです。
きょうは、今まで説明した道ばた、岩地、いばらと比べながら、「良い地の特徴」を調べてみましょう。皆さんは今まで、それぞれの心の地を熱心に耕してきたと思います。メッセージを聞きながら、心の地がどれほど良い地に近づいたか、よく顧みますように。
第一に、良い地は、道ばたのように固くなくて、やわらかいです。
道ばたの心は、生きてきながら長い間しっかり固めてきた義と枠でぎっしりです。それで、心に神のみことばが受け入れられないのです。みことばを疑ったりさばいたりします。良い地はこれと違ってやわらかいです。良い地に種を蒔けば、土が細かくてやわらかいので、種が土の中によく落ち着きます。それだけでなく、土の中に空気と水分を含んでいるので、芽もよく出ます。
このように、良い地の心は神のすべてのみことばをよく受け入れます。みことばが自分の思いに合えば信じて、そうでなければ信じない、こんなことがありません。鳥が、すなわち、サタンがみことばを奪っていくすきがありません。
たとえば、最近講解している創世記には、深い霊の知識が含まれています。皆さんはみことばをどのように聞いているでしょうか? ほとんどの聖徒がスポンジが水を吸収するように、みことばをどんどん吸収しているでしょう。
もちろん、その内容があまりにも深くて、理解するのに時間がかかることもあるかもしれません。しかし、みことばをさばくとか信じられないことはないでしょう。霊の世界を慕うので、新しいみことば、霊的により深いみことばを伝えるなら、むしろ喜ぶでしょう。
神様が私に聖書のみことばを解き明かしてくださるとき、その内容がよくわからないこともありました。それでも私はそれを全部信じました。聞いたことも見たこともない霊の世界について教えてくださる時も、決して疑いませんでした。聖書六六巻のすべてのみことばを全部信じていたからです。その時、私が、もしこれは全然わからないし、これは理解できないからといって、「アーメン」と言えなかったなら、どうして霊の世界が理解できたでしょうか。
[詩篇119:103]で、記者は「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」と告白しています。良い地の心の人は、神のみことばを聞くたびに、このように告白します。これが聖徒の皆さんすべての告白になりますように、主の御名によって祈ります。
聖徒の皆さん、これまでメッセージを聞いて、「私にもみことばが蜜のように甘くて、聞くたびに恵みがあふれるけど...私の心も良い地に近づいたようだ」と思う方がいるでしょうか? それなら、次の項目にも当たるのか、よく顧みますように。
第二に、良い地の心には石がありません。
皆さんがすでにメッセージを聞いて知っているでしょうが、岩地の心の人も、みことばを喜んで受け入れます。また、たとえ肉の信仰であっても、みことばを信じます。しかし、行ないはしません。
良い地はこの岩地とは違って、みことばを信じるだけでなく行ないます。良い地の心には石がないので、みことばの根がぐんぐん伸びていきます。つまり、聞いたみことばを行なうことにおいて、妨げるものがありません。世を愛する心がないので、「聞き従おうか、やめようか」とためらうこともないし、自分との戦いもありません。心に真理が行なえないようにする真理に逆らうものがないので、みことばを行なうことが難しくないのです。どんなみことばを聞いても、ただ「アーメン」「しかり」と従います。たとえ何かの試みがやって来ても、崖っぷちに立っているような切迫した状況に置かれても、変わりがありません。みことばに聞き従うこと自体が幸せだからです。
ただ「アーメン」「しかり」と言えば、誰が思い浮かぶでしょうか? [第二コリント1:19]に「神の子キリスト・イエスは、『しかり。』と同時に『否。』であるような方ではありません。この方には『しかり。』だけがあるのです。」とあるように、私たちの主の心が、良い地の典型なのです。
「イエス様は神の御子だから、よく聞き従うのは当然ではありませんか?」と思うかもしれません。本当にそうでしょうか? 実際のところ、イエス様の人生は従いにくい状況の連続でした。この地上に来られる時の状況からしてそうでした。イエス様は神の御姿であられる方なのに、被造物のように人となって、この地上に生まれなければなりませんでした。働きをしておられた間も、神の御子だからといって何か特別の恩恵が与えられたのでは決してありません。かえってとても厳しい公義が適用されました。
敵である悪魔・サタンはしきりに悪い者たちをそそのかして、イエス様を殺す口実を探しました。光そのものであるイエス様が真理を伝えると、世の支配者たちはイエス様を迫害しました。
その中でも、イエス様は神のみことばどおりにだけ生きられました。人々に仕えられました。イエス様について悪い思いをいだく者さえも憐れんで、真理で悟らせてくださいました。命がおびやかされても、少しも揺れ動きませんでした。死ぬまで神のみこころに従われました。ご自分を十字架につける罪人のために、なだめの供え物としてご自分をささげられました。このようにどんな試練や患難、迫害がやって来ても、みことばに聞き従う心が良い地の心です。
まだ信仰の小さい方々は、このように神のみこころどおりに生きることが難しく見えるかもしれません。しかし、これは決して難しいことではありません。心の地から石だけ取り除けば、何一つ難しいことがないのです。この石を取り出さないで持っているので、みことばを行なうのが難しいのです。
もし今、誰か世の権力者が来て、礼拝ができないように私の命をおびやかすなら、私が揺れ動くでしょうか? 10億、100億円をあげると誘惑されても、心が揺れ動くでしょうか? 私は少しも揺れ動きません。私には父なる神様、主を愛することが、私の命より、世のどんな宝物より大切だからです。ためらう理由が少しもないので、こんなことは試みとも言えません。
聖徒の皆さんも、ほとんどが同じ心だと信じます。皆さんは、これまで熱心に心の地から石を取り出したからです。つまり、世を愛する心、みことばどおりに生きられないようにする真理に逆らうものを捨てました。
このように石を取り出せば、この世の何よりも天国が一番尊く思われます。みことばどおりに行なえば、天国を得るだけでなく、より美しい天国を激しく攻めて行けるので、みことばどおりに生きることが楽しいのです。良い地の心の人はこのように喜んでみことばを行なうので、人生の中で祝福の実がたわわに実ります。良い地の心は、たとえ試みがやって来ても、平安な時よりもっとみことばを守り行ないます。それで、自分をつまずかせようと近づいて来る敵である悪魔・サタンの陣を、かえって打ち砕きます。
[ヨハネ4章]を見ると、イエス様がエルサレムからガリラヤに向かっていたある日、弟子たちが食べる物を持ってきて、召し上がってくださいとお願いします。するとイエス様は、[ヨハネ4:34]で「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と言われました。
私たちのイエス様は時には召し上がれないことがありました。それでも神のみこころを行なって、そのみわざを成し遂げることだけで、満ち足りておられたのではないでしょうか?
聖徒の皆さんも、どんな状況に置かれても、みことばを行なうだけで幸せで喜ぶようになりますように。また、みことばに聞き従う時に下さる豊かな実のゆえ、喜びがあふれますように、主の御名によって祈ります。
愛する聖徒の皆さん、第三に、良い地にはいばらがありません。
いばらの心とは、この世の心づかいと富の惑わしにふさがれて、みことばが実を結べないことだと言いました。神の子どもとしてみことばどおりに生きるといっても、心に世への未練や欲が残っているなら、実が刈り取れません。みことばを行なうとはいっても、神のみこころにかなって行なえないからです。すべてのことに肉の思いを働かせます。
たとえば、心に欲があれば、神に祈って答えられなければならないのに、自分の思いと方法を先立てて行ないます。世の富の惑わしがやって来れば、みことばを自分に有利に変えて行なうこともあります。名誉への欲があって、神のために働くと言いながら、自分の栄光のために働くこともあります。ですから、うわべはみことばどおりに生きるように見えても、いざとなると霊肉ともに実がないのです。
良い地の心を持った人は、神のみことばを聞けば、そのとおりに従います。どんな肉の思いも働かしません。肉の思いの根である、肉に属する心を根こそぎ抜いてしまったので、肉の思いが浮かびもしません。みことばどおりに行なうので、蒔くものは何でも必ず実がなります。使命を任されて果せば、どんなことをしても立派にやり遂げて、神に栄光を帰します。聖徒を顧みる務めのある人なら伝道の実、家庭訪問の実を結んで、多くの魂を救います。身をささげて忠実に仕えれば神が健康にしてくださり、物質をささげれば三十倍、六十倍、百倍に報いてくださいます。
もちろん、みことばどおりに行なうということが、何も考えずに盲目的に行なうことではありません。[マタイ13:23]に「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」とあります。
このように、良い地の心の人は、みことばを聞けば、それに含まれた神の心を悟ります。すべてのことに神のみこころを推し量って従うのです。心に肉に属するものがないので、神のみこころが正しくわきまえられるし、聖霊の声を正確に聞きます。また、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにします。ですから、蒔いて行なうとおりに豊かな実が結ばれるのです。良い地の心とは、まさにこのような心なのです。
次の時間には、良い地に耕すために必要な三つについてお伝えします。

[結論]

愛する聖徒の皆さん、神が「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じられたとき、アブラムは聞き従いました。ところで、彼がもし、家を出ようと思っていて、「自分なりに落ち着いたと思ったのに、これまで蓄えてきたものが惜しい」とそのまま座りこんだなら、どうなったでしょうか? でなければ、父の家を出るには出たが、途中で神が示す地に向かっていて、自分が見て良いところへ進路を変えたなら、どうなったでしょうか? ひとり子イサクをささげなさいと命じられたとき、百歳でやっと得た息子があまりにも惜しくて「アーメン」と言えなかったなら、どうなったでしょうか? 信仰の系図が違っていったでしょう。その系図には「多くの国民の父アブラハム」「信仰の父アブラハム」という名前の代わりにほかの名前が入ったでしょう。
アブラハムが良い地の心に変えられたので、神に完全に聞き従えたし、彼を中心に神の選民が形成されました。アブラハム自身は、天国で太陽のように輝くまことの子どもになって、地上にとどまる間もあふれる祝福を受けました。
父なる神は、アブラハムを召されたように、この重要な時代に皆さんを召されました。そして、アブラハムのように良い地の心に変えられて、多くの実を結ぶようにと待ち望んでおられます。
それでは、皆さんはどこまで来ているでしょうか? 生まれ故郷、父の家を確かに出たでしょうか? みことばに「アーメン」「しかり」だけでしょうか? でなければ、まだまだ行く道が遠く感じられるでしょうか? たとえそうだとしても、皆さんの心次第でその旅路が短くなれます。これからは本当に決断して、父なる神に三十倍、六十倍、百倍、良い地の好ましい実をささげますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
ManminCentralChurch
address_ManminCentralChurch