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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(79)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 19:9-21
Date
   2008-10-24


黙示録19:9-21

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

愛する聖徒の皆さん、イスラエル第8次宣教を無事に終えて帰って来ました。今はイスラエル宣教において、本当に重要な時を迎えています。父なる神様は、今回の宣教でも数多く神の力を現してくださって、大いに栄光を受けられました。
いつも祈りと最善を尽くした宣教献金で力になってくださる聖徒の皆さんに、感謝申し上げます。皆さんの祈りの汗と心を込めた宣教献金によって、イスラエルの地に主の福音が広く伝えられています。皆さんが信仰でささげて行なったすべては、父なる神様が必ず報いてくださいます。
この間の7次の宣教からは、講壇で報告をすることがやさしくなくなりました。皆さんのご理解をお願いします。そして、恵みあふれる内容は、別の語らいの時間などでお伝えいたします。
聖徒の皆さん、この間は、花婿なる主を迎えるためには、正しい行ないで花嫁の備えをしなければならない、と言いました。心をどれほど真理で満たして、霊に耕したのか、それをどれほど正しい行ないで現したのかによって、将来、天国で着る麻布の衣が決められる、と言いました。
天国で永遠に着る皆さんの衣が、この地で皆さんが霊に耕して行なった程度によって決められるのです。本当に天国への希望があって、愛する主にお目にかかる希望があるならば、どれほど心を込めて花嫁の礼服を備えるでしょうか?
この世でも、汚れた礼服で花婿を迎えに行く花嫁はいないでしょう。このように、皆さんも当然、最高の礼服で花婿なる主を迎えたいでしょう。最もきよく輝く、美しい麻布の衣を着て、花婿なる主を迎えるその日を望まれますように。それで、きょうも最善を尽くして花嫁の備えをしていかれますよう、主の御名で祈ります。

きょうの本文[9-10節]に「御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。』と言い、また、『これは神の真実のことばです。』と言った。そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。『いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。』」とあります。
聖徒の皆さん、世の人々に「どんな人が幸いな人でしょうか?」と聞くなら、何という答えが返ってくるでしょうか? 物質が多い人、名誉と権勢がある人、子どもが出世した人、健康な人など、それぞれの基準があるでしょう。それでは、皆さんはいかがでしょうか?
[詩篇1:1-2]に「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。
また、[黙示録1:3]には「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」とあります。
したがって、神のみことばを読んで、聞いて、神のみこころを悟って、そのみことばを守り行なう人が幸いな人なのです。花嫁の資格を完全に備えて、花婿なる主が私たちを連れに来られるとき、「アーメン、主イエスよ。来てください。」と堂々と告白できる人がまことに幸いな人です。
本文で、御使いは「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」とあります。「小羊の婚宴に招かれた」とは、すでに救いの資格を備えて、婚宴に参加できるようになった、という意味です。
このように、主との婚宴に参加した人は、死や涙、悲しみ、苦しみ、病気、心配、憂い・・・これらが全くない、幸いな人生を永遠に歩むようになります。信仰がある人は、将来のこのような永遠の幸いを知って信じるので、いつも喜んで感謝できます。
しかし、信仰のない人は、すぐに目の前に見えることにもっと執着します。天国がとてもすばらしい所だとは、聞いて知っています。この地上で蒔いて行なったとおり、将来、天国で報いられることも、聞いて知っています。ですが、いざというとまことの信仰はないために、結局、目の前に見える肉的な幸いを追うのです。いくら頭では知っていても、行ないがないため、まことの幸いが受けられないのです。
したがって、皆さんが真理を聞いて悟って、信仰で行なえることは、まことに祝福です。真理にあって神に喜ばれる人生になり、天国に報いを積んで、花嫁の備えをよくしていくことがまことに幸いなことです。
私たちがこうできるのは、神のみことばはまことだからです。神のみことばは、必ず約束のとおり成就されて、移り変わりなく永遠です。仮に神様が信実でなく、一度言われたみことばを変えたり、人の子らのように偽りを言われるなら、そのみことばを信じて行なう人が幸いだと言えないでしょう。しかし、神のみことばは絶対であり、神は信実な方なので、私たちがそのみことばを信じて行なえるのです。それで結局は、そのまことの約束どおり、将来、報いと栄光を受けるのですから、私たちはどれほど幸いな人でしょうか?
使徒ヨハネは、御使いからこのようなことばを聞いたとき、本当にうれしくて感激しました。それで、それを伝えてくれた御使いの前にひれ伏して拝もうとしましたが、御使いがやめさせます。その理由は、御使いも人と同じように神の被造物だからです。礼拝と賛美と栄光を受けられる方は、ただ創造主の神おひとりだけでしょう。

「イエスのあかしは預言の霊です。」というみことばには深い霊的な意味があります。
まず、本文で言う「預言」とは、神のみことばを代わりに伝えることです。これは、聖霊の働きで神のみこころを伝えることです。このように聖霊の働きで伝えられる預言は、神様が認めて成就されるまことのものです。
そして、このように聖霊によって伝えられる預言は、真理をあかしします。そして、イエス・キリストは真理そのものであられるので、真理をあかしするとは、つまり、イエス・キリストをあかしすることになります。
また、イエス様はことばが人となってこの地上に来られた神なので、イエス・キリストをあかしするとは、すなわち、神をあかしすることになります。
したがって、預言の霊は、聖霊の働きで真理そのものであるイエス・キリストと、霊である神をあかしします。
ところで、預言の霊であかしするときは、自分が習った知識で教えたり説教したりしてあかしするのではありません。ただ聖霊に働きかけられてします。このようにするためには、教える人がまず、完全に神のみことば、すなわち、真理にとどまらなければなりません。
たとえば、「祈りなさい」と教えるなら、教える人がまず休まず祈らなければなりません。それで、神様と交わり、聖霊に働きかけられて、導かれなければなりません。真理を心に完全に耕し、主の心と一つになった人は、言葉と行ないすべてが聖霊に働きかけられて、完全に真理にあって出て来ます。その段階に入れば、真理を守り行なうべきことを知っているからするのではありません。たとえ何も考えなくても、自然に、すべてを真理どおりに行ないます。
まさに、このような人の口から出る言葉は、それ自体がすなわち、預言の霊です。このような言葉は、魂、霊、関節と骨髄を刺し通して、人を変える力があります。
一方、単に神のみことばを学んで、それを悟って教える人は、ただメッセージを取り継ぐ者にすぎません。預言の霊とは、全く違う次元です。
皆さんも完全に真理の心を耕して、聖霊に働きかけられて預言の霊でイエスのあかしをする人になりますように。
ところで「イエスのあかしは預言の霊です。」というみことばには、もう一つの意味もあります。
[第一ヨハネ2:1]に「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」とあります。
イエス様は神様と私たち人の子らの間を隔てていた罪の壁を壊すために、十字架を負われました。神様と罪人だった私たちを和解させようと、ご自身がなだめの供え物になってくださいました。神様と私たちとの間を取り成してくださり、御前で弁護してくださるのです。
「イエスのあかしは預言の霊です。」というみことばには、このように、イエスは、神様と人の子らとの仲介者になってくださった、という意味もあります。

[11節]からは、主の地上再臨が記されています。「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実。』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。」とあります。ついにこの地上の反キリスト勢力が崩れて、主がこの地上に下って来られる時が来ました。
ここで「白い馬とそれに乗った方」がありますが、白い馬に乗った方は、まさに主であります。「『忠実また真実。』と呼ばれる方」とありますが、「忠実」とは、主が父なる神様のみことばに完全に聞き従って成し遂げられた、という意味です。「真実」とは、主が父なる神様のみこころに従って、いのちを惜しまずにささげたすべてがまことである、という意味です。
このように、主は父なる神様のみことばに完全に聞き従って真実に成し遂げられたので、義をもってさばきをされるにふさわしい方です。「義」とは、左右にそれることなく、律法に照らして、正しいか正しくないかを公正にさばくことです。
「義をもってさばきをし、戦いをされる。」とありますが、これは主が敵である悪魔・サタンと本当に戦うという意味ではありません。神のみことばの権威で、敵である悪魔・サタンを退ける霊の戦いを意味します。
イエス様が公生涯を始める前に、悪魔から三度試みられた時も、全部みことばで退けられました。神の子どもたちも、この地上に生きる間、いつも霊の戦いをします。一番先に、罪を脱ぎ捨てるために、罪と血を流すまで戦います。また、ひとりでも多くの魂を救うために、敵である悪魔・サタンと霊の戦いをしなければなりません。
続く[12-13節]に「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」とあります。
「その目が燃える炎であり、」とありますが、主の御前では、すべてが明らかにされます。したがって、主は義をもって正確にさばきをされます。
「その頭には多くの王冠があって、」とは、主がどれほど父の御旨に従って、栄光を帰されたかを表します。父なる神様は、神様の働きを立派に果たして栄光を帰した人に、冠を与えてくださいます。主はこの地上におられる間、いろいろなことで神様に栄光を帰されました。
しかし、何よりもイエス様は十字架を負って死なれ、三日目によみがえって救い主になられたので、これで神様に最も大きな栄光をささげました。主はこのようなすべてに対して、父なる神様から冠を受けられます。
皆さんも、このように父なる神様に大いに栄光を帰すなら、神様から冠が与えられます。将来、天国で報いとして受ける冠が増えるのです。
ところで、「その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」とあります。聖徒の皆さん、父なる神様は初めに三位一体の神様に分離されたとき、分離した息子たちにそれぞれの名を与えられました。御子の神、御霊の神に初めの名を下さったのです。まさにこの名を書き記した冠がありますが、その名は、初めにともにおられた三位一体の神様だけがご存じです。もちろん、皆さんが天国に行けば、その名が何かわかりますが、今のところは、その初めの名は、三位一体の神様だけが知っておられます。
「その方は血に染まった衣を着ていて、」とありますが、これは主が十字架につけられて血を注ぎ出して死なれたことを表します。この血を注ぎ出すことによって、人類のすべての罪が赦されて、いのちを得るようにされました。
ところで、これらのすべては、神のみことばどおりなされました。イエス様は、ことばが人となってこの地上に来られた方であり、ただ真理のみことばのとおり教えて、みことばに聞き従って使命を果たされました。それで、「その名は『神のことば』と呼ばれた。」とあるのです。
[14-16節]に「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」とあります。
この地上に再臨される主を護衛して、数多くの天の軍勢と御使いがともに来ます。また、父の御名で働いた預言者と、主の御名で働いた使徒など、かしらの方々も一緒に来ます。
この方の口から出る「鋭い剣」とは、生きていて、力があるみことばを意味します。「諸国の民を打つために、」とは、神のみことばそのとおりにさばかれる、という意味です。「鉄の杖をもって彼らを牧される。」とは、神の強い権威で働かれる、という意味です。「怒りの酒ぶねを踏まれる。」とは、神のみことばに従って正確な公義どおりにさばかれるという意味です。どんな行ないの実を結んだかによって、称賛と報い、または刑罰のさばきが臨みます。
「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」とありますが、「着物」とは、心を意味します。主の心はすべての天の天をいだいておられます。主のももも、すべての天の天の上に立っておられます。したがって、「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」とは、主がすべての天の上に王であり、主である、という意味です。
[17-18節]に「また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。『さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。』」とあります。
「太陽の中にひとりの御使いが立って言った。」とは、義をもって宣言する、という意味です。「太陽」とは、光、すなわち、すべてを明らかに現す正確な義を意味します。このような義によってさばきが臨むのです。
「鳥が来て肉を食べる」とは、肉的な意味で本当に食べるという意味ではなく、霊的に呪われたことを意味します。惨めに死んだ死体の肉を、鳥が飛んで来て食べるとは、呪いを表します。昔の歴史を見ると、呪われて死んだ死体は、鳥の餌食になるように放っておきました。
「王、千人隊長、勇者、馬とそれに乗る者」とは、反キリストと結びついて主に立ち向かった者です。「鳥が彼らの肉を食べる」とは、彼らが義のさばきによって呪われる、という意味です。
また、「自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」とあります。これは名誉や権勢、富、地位の上下などを問わず、誰でも神のみことばに逆らった人々は、みことばどおりさばかれる、という意味です。さばきによって彼らが行なったわざに応じて、とこしえに苦しみを受けるようになります。
[19-21節]に「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」とあります。
「獣と地上の王たちとその軍勢」とは、反キリストの勢力です。「馬に乗った方とその軍勢」とは、主と主を護衛してこの地上に下って来る預言者と天の軍勢と御使いのことです。
この時、反キリストの勢力が主の軍勢と「戦いを交える」とありますが、これは実際に戦うという意味ではありません。彼らはこれ以上主に立ち向かうことができないし、主の軍勢と戦って勝てるのでもありません。ここで「戦いを交える」とは、反キリストの勢力が崩れながら現れる阿鼻叫喚を表しています。
全世界が破壊されて、反キリスト勢力の間にも殺生と破壊が起きます。多くの人々が自ら命を絶ったりします。主の地上再臨が近づいたこの瞬間に、これまであらゆる悪を行なってきた人々は、恐れに耐えられなくて震えるようになります。その上、すべてが破壊された状況で、想像できない混乱と絶望だけが襲ってきます。まさにこのような状況に耐えられなくて、自ら悲観して自殺する人々もいて、生存のために自分たちの間でも殺しあったりします。
しかし、主の地上再臨とともに、これらの混乱も終ります。そして、獣とにせ預言者には、厳かな義のさばきが臨みます。「獣」とは、連合政府のかしらのことです。「にせ預言者」とは、連合政府と結託した宗教勢力の首長を意味します。
ところで、この時「にせ預言者がしるしを行なった」とは、彼らが主や神の預言者のように、実際に何かのしるしを行なった、という意味ではありません。ここで言う「しるし」とは、発達した科学文明を使って人々を惑わしたことを意味します。
反キリストと結びついたにせ預言者は、人々を惑わして反キリストを拝み、彼に従うようにさせていきます。このように大きな悪を行なった彼らは、この地上に再臨される主によって、直ちに硫黄の火の池に投げ込まれます。
この二人は、すでにその罪と悪があまりにもはっきりしているので、白い御座の大審判もしないで、地獄の最も熱い硫黄の火の池に生きたまま投げ込まれます。また、彼らと結びついた輩も、七年患難の終わりの混乱でほとんど死にます。そして彼らは、白い御座の大審判がある前まで、下のよみで苦しんでいて、結局は地獄に落ちて、とこしえに苦しみを受けます。「すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」とは、このように罪と悪の代価を払うことを表します。
次の時間からは、本格的に千年王国について調べていきましょう。

結論

愛する聖徒の皆さん、この肉の世で永遠のものはありません。いくら大したものと見えた富と名誉と権勢も、時間がたつと、結局は消えます。もちろん、この地上に生きる間は、この地上でも誠実で美しく生きなければなりません。ですが、この地上の人生は、結局永遠の人生を備えるためのものにすぎません。
[第二コリント4:18]に「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」とあります。
この地上に肉で蒔いて積んだもののうち、後の世に持って行けるものは一つもありません。この地上で霊で蒔いたものだけを、将来後の世で永遠のものとして受けられます。食べるにも、着るにも、飲むにも、何をしようが父なる神様の栄光を現すためにすること、また父を愛する変わらない心ですること、これらのすべては必ず天国に積まれます。きょうも、このように永遠のもののために、霊で蒔く皆さんになられますように。
[ヘブル11:16]に「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」とあります。私たちの故郷、その中でも新しいエルサレムでまことの幸いを味わって、とこしえにとどまる皆さんになりますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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