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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(42)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 6:9-11
Date
   2007-10-26


[黙示録6:9-11]
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

「ヨハネの黙示録講解」四十二回目の時間です。黙示録の[6章]からは、将来聖徒たちが空中に上げられた後、この地上で七年患難が進んでいる内容です。
使徒ヨハネが幻を見ると、終わりの時までのことが記された巻き物があって、それは七つの封印で封じられていました。主がその封印を一つ一つ解かれると、七年患難はさらに深刻になっています。だからといって、七年患難の間、この地上に災いを主が思いのままに下されるという意味ではありません。人類がこれまで自分の悪と欲に従って行なったことが、期限が来て公義に従っていろいろな災いとして実を結んだということです。
すでに空中に上げられた聖徒たちは婚宴に入り、とても幸せな時間を送っていますが、この地上では戦争と自然災害と病気など、各種の災いがますます深刻になっていきます。そのうち、上げられなかった人々の中で、何としてでも救いの道を探そうとする人々がいて、彼らが殉教するようになります。
きょうの本文に、このように殉教した人々が登場します。[9節]に「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。」とあります。
七年患難が始まってから、戦争や自然災害などで死ぬ人々は多いのですが、きょうの本文ではそういう人々を言うのでなく「信仰を守るために殉教した人々」を言っています。彼らはまことの信仰を持てなかったので、主が再臨されたとき携挙されず、七年患難に落ちた人々です。
彼らの中には、一時主を信じて恵みを受けたが、その恵みが冷めて世に向かった人々もいて、教会に通っていても霊の信仰がなく、世の情欲に従って生きた人々もいます。このように世を求めて生きているうち、ある瞬間、周りから聖徒たちが消えると、自分たちが携挙されなかったことを悟ったのです。そして、このように残された人々には、みじめな絶望と恐怖が襲います。「携挙とは何か」「これから自分に臨む災いと地獄の苦しみがどんなものなのか」を知識としては聞いて知っているからです。
彼らはすでにこれらのことについて聞いていましたが、心から信じられなかったので、結局殻のような信仰生活をしてきました。ところが、実際に携挙が起きるのを見て、神様のみことばが真実であったことがその時初めて信じられて、恐怖が臨むのです。
しかし、時はすでに遅く、彼らが上げられる道はありません。ただし一つ、救いの可能性は残っています。それはまさに殉教するまで主の御名を否認せず、信仰を守ることです。たとえば、獣の刻印を受けないために殉教する場合もあります。
皆さんも「獣の刻印」については、ずい分聞かれたでしょう。獣の刻印の詳しい内容は[13章]で伝えますが、きょうは簡単に調べましょう。
獣の刻印とは、簡単に言うと、将来反キリストの勢力が権勢を握るとき、彼らが人々を統制する手段です。すなわち、バーコードに各人の個人情報を入力して、そのバーコードを人のからだに付けることで、その人がどこへ行くのか、何をしているのか、コンピュータで監視できるシステムです。
ところが、[黙示録14:11]に「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」とあります。七年患難の時に獣の刻印を受けるということは、結局反キリストの勢力に同調して、獣とその偶像とを拝む結果になります。そして、これは主を否認することになります。
したがって、信仰を守ろうとする人々は獣の刻印を受けないようにしますが、反キリストの立場ではそれを認めません。信じる人々が刻印を受けまいといくら逃げて隠れても、反キリストの勢力は執拗に追いかけて、あらゆる拷問と脅威で刻印を受けさせます。こういう困難な状況で、すべての迫害と苦しみを最後まで信仰で勝ち抜いて殉教する時でこそ、やっと救われるのです。
もちろん、これらのことは七年患難の後半期に入って本格化しますが、すでに反キリストが掌握している影響圏では、七年患難の初期から殉教が始まります。前の時間に「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」というみことばを説明した内容も同じ背景です。つまり、大きい台風と各種の災いが臨むとき、イスラエルの民と携挙されなかった聖徒たちがある程度までは守られるけれど、彼らが全部生き残れるのではないと言いました。戦争や病気、自然災害などによって死ぬ人もたくさんいますが、信仰を守るために迫害を受けて殉教する人々も生じるからです。
愛する聖徒の皆さん、それでは、なぜ七年患難の時は、こういう迫害によってだけ救われるのでしょうか?
たとえば、農夫が収穫をする時は、麦をすべて倉に入れた後も、ひょっとして落穂はないのか、もう一度見回します。殻のように見えて捨てられたものの中で、少しでも中身がありそうなものは、なるべくたくさん倉に入れようと調べるのです。
このように、すでに耕作の期間が終わった後も、神様はもう一度機会を与えられます。信仰がなくて上げられなかった人の中でも、ひょっとしてでもほんのわずかな善良な心を持った者がいるのではないかと顧みられるのです。
しかし、この時は、救われる信仰があると証明することが簡単ではありません。すでに携挙によって、神様のみことばが事実だったことがあまりにも明らかにされたところです。もちろん、こういう状況を見ても、相変わらず悪い心で神様に立ち向かう人々もいますが、それでもほんのわずかな良心がある人ならば、神様を恐れるようになります。しかし、これは目で見たので知識的に知っているのであり、心で信じる信仰だと認められるのは難しいのです。知識的な信仰では救われません。
したがって、このように聖書の預言が成就されて明らかにされたところで、地上に残った人々が信仰を持っていると認められるためには、それだけ大きい関門を通過しなければなりません。どんな拷問と飢え、ひどい迫害にも勝ち抜き、今でもまことの信仰があることを証明しなければならないのです。
この時、敵である悪魔の立場では、反キリストの勢力を支配して、何としてでもひとりでも多くの魂を滅びに引いていこうとします。人としてはとても耐えがたい、ひどい苦しみを与えながら主を否認させ、それでも否認しない人には、その前で幼い子どもを拷問したりするなど、言葉ですべて表現できない残酷なことを行ないます。
しかも、この時は聖霊が呼び戻された時代です。聖霊に満たされることも、慰められることもなく、神様の恵みによって殉教できるのでもありません。純粋に自分の意志と努力で死を迎えるまで、すべての苦しみを耐えなければならないので、その分救われやすくないのです。
聖徒の皆さん、このように携挙が終わった後、遅まきながら信仰を守って殉教した人々は「祭壇の下にいる」と書かれています。「祭壇の下にいる」ということは、彼らも結局神様の恵みのうちに入って来て、救われたという意味です。
しかし、彼らは自分の意志で殉教して、やっと救われただけです。この地上で聖霊に助けられなかったので、真理を心から悟ることも、心の割礼をして変えられることもできなかったのです。
本文[10節]に、このような事実がとてもはっきりと現れています。「彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』」とあります。
殉教した人々が、自分たちの血の復讐を神様に訴えているのです。自分たちが悪い者の手で殉教するまで、あまりにも多くの苦しみと悩みの中で残酷なことにあったので、悪い者をさばいて、怨みを晴らしてくださるように、ということです。
もちろん、公義の法則によると間違ってはいません。聖徒たちを迫害して悪を行なった者たちは、必ずそれぞれの行ないによってさばかれるようになります。殉教者たちもこのような公義を知っているので、自分たちの血の復讐を祈っているのです。
しかし、いくらこれが公義だと言っても、真理を知っている皆さんは彼らの祈りが神様の心とはかけ離れていることが悟れるでしょう。聖書では何と言われているでしょうか? [マタイ5:44]に「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。このように、イエス様はご自身を釘づけて殺す人々も、憎んだり呪ったりされたのではありません。むしろ自分の罪を悟れない彼らを憐れみ、神様に彼らを赦してくださるようにと祈られました。
また、初代教会のステパノ執事はどうだったでしょうか? ステパノ執事は大きい神の力を現して真理だけを語ったのに、悪い人々がこれを憎み、ステパノを石で打ち殺しました。
[使徒7:60]を見ると、ステパノ執事は殺される最後の瞬間も「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』」とあります。
このように聖められて神様に似せられた人は、いくらわけもなく殺されて殉教しても、その怨みを晴らしてくださいという祈りはしません。また、完全に聖められなくても、少しでも心の割礼をした人ならば、肉を脱いで主の前に立つ時は、憎しみや恨みを晴らそうとしません。むしろ主の前に申し訳ないだけです。十字架の大いなる恵みによって救われたのに、信仰生活をしている間、罪と悪を全部捨てられなかったのがあまりにも申し訳なくて、恥ずかしいだけなのです。
ところが、今、落ち穂拾いで殉教した人々は全く違います。悪い人を赦して憐れむのではなく、怨みを晴らしてくれと求めているのです。ですから、この殉教者たちはその前に上げられた聖徒たちとは善の水準が大変違うことがわかります。
ただし、極端な状況でも自分の意志で殉教したので、かろうじて救いの線の中に入って来ただけです。それで、たとえ信仰を認められて救われたとしても、その口の言葉だけを聞いても、正しく信仰生活をして上げられた聖徒たちとは次元が違うのです。
したがって、彼らは殉教した後も主とともに七年婚宴に入れず、千年王国の時も王となれません。七年婚宴が終わって千年王国が終る時までは、先に上げられた人々と区別されて、他の場所で待つようになります。
まさに本文の「祭壇の下にいる」ということは、第二の天に用意された、別の空間にとどまっていることを表しています。第二の天は光と闇の領域に分けられていて、神様に属する光の領域があって、悪い霊どもがとどまる闇の領域があると言いました。
[エペソ2:2]に、悪い霊どもを「空中の権威を持つ支配者」と表現しています。この時「空中」とは、私たちの目に見える肉の天でなく、霊の空間である第二の天を意味します。第二の天のうち、神様に属する光の領域を「エデン」と言いました。神様はそのエデンの中でも、一部の空間を分けて園を設け、そこに最初の人アダムとエバが住むようになさいました。そこがすなわちエデンの園です。そして将来、花婿なる主とともに七年間、婚宴を行なう所も、空中の第二の天に属する光の領域です。
[第一テサロニケ4:17]に「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。
このように、第二の天には悪い霊どもがとどまる空間もあって、エデンの園もあって、婚宴を行なう空間もあります。そして、第二の天に用意されるもう一つの空間があります。それは七年患難の間、殉教して救われた人々が大審判の時まで休みを得る空間です。
これらの事実だけを見ても、落ち穂拾いで殉教した人々が、主の再臨の時に上げられた聖徒たちとは全然格が違うことがもう一度悟れます。いくら大きい恐れと苦しみに勝ち抜いて殉教したとしても、携挙された聖徒たちと比べる時は、天国では最も小さい者なのです。ですから、将来天国に行っても、パラダイスの最も外側の区分された地域で生きていかなければなりません。
ところで、七年患難の時に殉教した人々の中にも例外があります。一般的な落ち穂拾いの救いとは違って、神様が彼らの信仰を認められるので、パラダイスよりもっと良い天国に導かれる場合ですが、これは今後また説明します。
次に、本文[11節]に、血の復讐を求める人々に、神様が答えられる内容があります。「すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。』と言い渡された。」とあります。
ここで「白い衣」とは、殉教した人々に救われたしるしとして与えられるものです。しかし、この衣もやはり、先に上げられた聖徒たちが婚宴の時に着る、きよい麻布の礼服とは価値が全然違います。
救われた人々は、彼らから出てくる光だけを見ても各自の心が聖められた程度がわかって、衣と飾りを見ると、天国で受ける地位がわかります。それで、救われた神の子どもたちが同じように「白い麻布の衣」を着たと表現しても、各人が心を御霊によって耕した程度に応じて、衣から放たれる光彩と栄光、威厳が違うのです。
ところが、落ち穂拾いで救われた人々には、何の報いも栄光もありません。ただ、かろうじて救われてパラダイスにいるという事実を表す、白い衣が与えられるのです。たとえを挙げると、婚宴に花嫁と付き人がいるとすると、落ち穂拾いで救われた人々は主人公の花嫁ではなく、付き人のようだと言えます。
そして、[11節後半節]に「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言われた神様のみことばは、まだ審判の時になっていないという意味です。
いくら悪い者であり、結局滅びて地獄の火に落ちる魂であっても、神様はいつでもさばかれるのではありません。悪い者に対するさばきは必ずなされますが、その時と方法は正確な公義に従って行なわれます。七年患難が終わりに近づき、彼らの悪が完全に満たされる時までは、神様も待たれるのです。
そして、悪い人たちの悪が満たされている間に、一方では、さらに多くの人々が殉教によって救いの機会をつかむようになります。また一方では、信じる者を迫害する者にまで、わずかな機会を開いておられるのです。彼らの中にも立ち返る人がいるかもしれないからです。もちろん、いくら機会を下さっても、結局悪い者たちは悪に悪を加え、さばきの刑罰に落ちるようになります。そのような事実をご存じでありながらも、神様は徹底した公義に従って、七年患難の摂理を成し遂げておられるのです。

聖徒の皆さん、[ヨハネ20:29]に「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」とあります。皆さんは天国に直接行ったことはないけれど、そして、迫ってくる七年患難を見たことはないけれど、神様のみことばが真実だと信じています。それで、天国を望み、この地上で受けられる多くをあきらめて、自分のものを捨てて生きていきます。時間も物質も、名誉も家族も神様にささげて、自分を捨てて、毎日が死の連続のような生き方をしています。
ところが、これは決して損をする人生ではありません。すべてを捨てるようでも、結局は最も大きい祝福を受ける道なのです。罪と悪を脱ぎ捨てて、神様のかたちを取り戻すほど、この地上ではたましいに幸いを得ているようにすべての点に幸いを得る祝福を受けます。皆さんが御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされるほど、神様は皆さんが求めることに、心にいだいたことにすべて答えられて、健康と富と名誉もみな与えてくださいます。
もちろん、今日も主のわざをなすために自ら苦しみの人生を選ぶ人々も多くいます。名誉と富が得られる機会をあきらめて、主のために、魂のために、自分の人生をすべてささげる人もいて、主の御名によって殉教する場合もあります。
しかし、このような苦しみと殉教は七年患難の時の殉教とは全く違います。苦しみの中にも神様がともにおられて、いつも慰めと望みを与えて、御霊に感じて、すべての苦しみを十分に勝ち抜ける力を与えてくださいます。また、この地上で苦しんだとしても、将来入る天国ではこれと比べられない祝福を受けるようになります。
公義の神様は、これらすべての信仰の行ないを一つも残らず天国の栄光と報いとして返してくださいます。私たちがこのように聖霊の時代に、恵みのうちに信仰を持って耕作を受けられるということは、どれほど感謝でしょうか。聖霊の働きのうちに自分を発見して、神様のかたちに似せられていく一瞬一瞬がより良い天国を攻めていく過程です。したがって、信仰がある皆さんは、時には何かの訓練があって苦しみにあっても、すべての環境で感謝と喜びが出て来るのです。
愛する聖徒の皆さんは、主がまた来られる前に、助け主聖霊様の働きによってまめに自分を発見して変えられますように。それで、花婿なる主がまた来られる時は、最も輝いて美しい花嫁の礼服を着て主を迎えますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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