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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(36)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 4:9-5:5
Date
   2007-08-31


[黙示録4:9-5:5]
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」


この前は、神様の御座の周りを守っている四つの生き物を説明しました。彼らの使命をこの地上のものにたとえると、王の最も近くで守る警護員のようです。もちろん、誰かがあえて神様の近くに寄ることはありません。ですが、神様の御座の回りには大きい威厳と権威を持った四つの生き物がいて、神様の厳威と権威を加えています。
ところで、このような四つの生き物もいつも神様を賛美しているのです。「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。』」 と神様を賛美しているのがわかります。
もちろん「昼も夜も絶え間なく」と書いてあるからといって、実際に彼らが神様の前にいつも賛美をささげているのではありません。時には賛美をささげたりしますが、時には心の香だけでささげるのです。状況と環境によって変わりますが、彼らの心だけはいつも神様に向かって賛美して崇めているので、このように「昼も夜も絶え間なく」と表現するのです。
ところで、このような四つの生き物が神様の前で「後に来られる方。」と告白しています。後に来られる方とは、これから人間耕作が終わるとこの地上に降臨される主を示しています。しかし結局、御父、御子、御霊の神様は三位一体のお方ですので、御座に座られた父なる神様への告白がつまり、主への告白と同じなのです。
四つの生き物は、たとえ神様を守る警護の使命を受けた存在とはいえ、彼らもこのように三位の神様について明らかに知っていて、神様のみこころと摂理のうちになされることについても正確に把握しているのです。
また、神様に栄光と誉れと感謝をささげるとは、彼らがただ行為でだけ神様を賛美するのではなく、神様の前にささげられる心の香で賛美する存在であるということです。すべての栄光が神様にあることを悟っていて、神様の尊さと神様への感謝を感じながら、心の芯からの香で賛美する、という意味です。
ところで、神様の前に、このような四つの生き物の賛美よりさらに濃い香りでささげられる賛美があります。本文[10-11節]に「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』」とあります。
二十四人の長老がどんな人なのかはすでにお話ししました。悪はどんな悪でも避けて、聖なる神様に似せられて、与えられた使命を、いのちを尽くして果たした人たちです。この世の何よりも神様を第一に愛した人であり、神様のためになら、また、神の国と魂のためになら、自分の命までも全く惜しまずに、すべてをささげた人々です。その心にただ神様への愛と感謝と熱さが満ちている人々です。神のまことの子どもと認められた人々であり、人間耕作を通して救われた数多くの神の子どもたちの中でも、最高の宝のような存在です。
まさにこのような二十四人の長老が心を込めて父なる神様の前にひれ伏して拝んでいるのです。ですから、これを受けられる父なる神様の心が、どれほど喜ばれるでしょうか。これがまさに、まことの子どもと愛を分かち合うことを願われた父なる神様が人間耕作を計画して、ひとり子を渡すまで成し遂げたいと願われた人間耕作の摂理と目的なのです。
仮に皆さんに何人か子どもがいて、愛の告白をしてくるとしましょう。そのうち、皆さんにぴったり似ていて、皆さんの心を最もよく知っていて、最も喜びになる子どもがいるならば、どうしてもその子の愛の告白が心にさらに濃い感動として来るのではありませんか?
このように、天の御国には御使いと天の軍勢、ケルビムをはじめ、神様を賛美する数多くの存在がいますが、そのうち、何よりも神様に喜ばれるのは、人間耕作によってまことの子どもになった私たちの賛美なのです。さらに人間耕作の代表的成功作と言える二十四人の長老がささげる賛美と礼拝ならば、当然神様はとても喜ばれて感動されます。
ところが、本文を見ると、この二十四人の長老たちが神様を賛美して拝みながら、自分の冠を御座の前に投げ出します。肉的に見ても、目上の人の前では身なりを整えて、身振りも丁寧にすることが礼儀です。それなら、二十四人の長老はなぜ神様の前にこのように自分の冠を投げ出したのでしょうか? 仮に冠を神様の前にささげるとしても、丁寧に脱いでささげるならよいのに、なぜこのように投げ出すと表現したのでしょうか? このみことばを文字だけで解釈するなら、まかり間違えば無礼に見えるかもしれませんが、このように「冠を投げ出した」ということには多くの意味が含まれています。
聖徒の皆さん、二十四人の長老に与えられた金の冠は、この地上で神様のために、主のためにいのちを尽くして献身したことへの報いであり、栄光であります。神様が彼らを認めて、与えられたしるしなので、何よりも貴重で尊いものなのです。
それでも、その冠を神様の御座の前に投げ出したということは、それほど大事な冠であっても、大変尊くて聖なる神様の御前では何でもない、という意味が含まれています。自分たちがいくら尊い冠をかぶっていても、神様の前では恥ずかしいだけであり、ただ頭が下がり、ひざまずくようになるという意味です。神様を恐れ敬う心で自分を完全に低くする、という意味の表現です。
二十四人の長老はあまりにも尊い座に上がったのに、いと高き神様の前では自分たちの存在がどうなのかがよくわかっていました。彼らはこの地上でも、すでに高ぶりや、高くなろうとする心、自分を目立たせようとする心など、真理に逆らう心をすべて脱ぎ捨てただけでなく、天国でもこのようにただ神様だけを高めているのです。そうしながら、二十四人の長老は天下万物が神様のみこころのゆえに創造された、と告白しています。
神様は初め、人間耕作を計画される時から、今後のすべてのことをみなご存じでした。ですから、霊の世界に属するすべてはもちろん、人間耕作に必要な肉の世界のすべてもみな、みこころのゆえに創造されました。
だからといって、勝手に造られたという意味ではなく、すでにご存じでありながらも、公義に合わせてすべてを予定されたのです。定めておいてそこに合わせられたのでなく、すべてをご存じで、そこに合うように決められたということです。
このようなみこころと摂理によって、人間耕作六千年の歴史が締めくくられています。その後は千年間、千年王国があり、こうして七千年という完全数をなすのです。その後は、天国か地獄かの審判と、後の永遠の人生だけが待っています。
したがって、一寸の誤差もなく正確に、父なる神様のみこころと摂理によって世のすべてが動いているのを直接目撃しながら、この終わりの時を生きていく皆さんは、さらに目を覚まして身を慎む幸いな信仰生活をされますように。それで、皆さんからも、多くの方が将来神様の御座の前に出て行き、三位の神様を拝んで賛美する尊い地位に至りますように、主の御名によって祈ります。

愛する聖徒の皆さん、本文[黙示録5:1]に「また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。」とあります。今からが七年患難の序幕を上げる内容です。
神様の右の手に、内側にも外側にも文字が書きしるされている巻き物があって、七つの封印で封じられていた、とあります。
右の手には、能力と強い力、そして重要性と保障、正確な秩序などの意味が含まれています。したがって、神様が右の手に巻き物を持たれたということは、その内容がそれほど重要であって、神様の力と保障によって必ずなされるという意味です。また、正確な秩序に従ってその巻き物を開き、事を成すべき時点になった、という意味が含まれています。
それなら、その巻き物とはどんなものであり、その巻き物の内側と外側には、どんな内容が書きしるされているでしょうか? ひと言で言えば、その巻き物は父なる神様が終わりの時に行なわれることを記した書です。
父なる神様はすでに摂理に従って、終わりの時になればどういう事が起きて、どういう手順と事件によってすべての事を成し遂げていかれるのかを、このようにあらかじめ巻き物に全部書きしるされました。
言いかえれば、神様はすべての事を思いのままにされるのではなく、正確な摂理と計画によって成し遂げていかれるという事実を物語っています。終わりの時の事についても、誰にもわからないようにこっそり進められるのではなく、神様はすでに聖書にどういう事があるのか書きしるされたので、それに備えるようにされました。
今、使徒ヨハネにこのような終わりの時の事について教えてくださるために、すでに遠い昔から書きしるして備えられた、終わりの時に関する内容が込められた巻き物を見せておられるのです。
その上、巻き物の内側にも外側にも文字が書きしるされているということは、もう期限になって、時が近づいていることを意味します。封印されているこの巻き物を開くと、その時から七年患難の序幕が本格的に始まるのです。
ところで、神様はこの巻き物を七つの封印で封じられました。七は完全数です。これはつまり、父なる神様の御名によって完全に証印が押されたことを意味します。三位の神様のほかには誰もこの巻き物の内容をむやみに知ることもできないし、時になって神様が許されるまでは、その中にある内容がなされることはありません。
言いかえれば、七年患難のすべても、結局は神様がつかさどられることを物語っています。神様が時になって起こることを許されて、封印を解いてこそついに七年患難が始まり、その過程も結局は神様の摂理と計画どおりに進められるということです。
七年患難の間、この世は敵である悪魔・サタンの手に渡されていますが、だからといって、主導権を敵である悪魔・サタンが持つのではありません。彼らはあくまでも人間耕作の過程に必要な一つの道具にすぎません。自分たちに与えられた期限と限界の中で、人間耕作のために一部門が任されているだけです。
七年患難の間、彼らがいくら支配していても、結局は神様のみこころと摂理によって、十四万四千名の伝道者が出て来て、ふたりの証人も出て来て、千年王国と白い御座の大審判に至るすべて過程が、一寸の誤差もなくなされるのです。終わりの時になされる内容が込められている巻き物が、七つの封印で封じられていた、ということは、このようにすべての主導権が神様にあることを物語っているのです。
そして、この時、封じられていた七つの封印は神の御名によって彫られた火でできた封印です。その一つ一つを解くごとに封印が消えて、その中に書きしるされた内容が繰り広げられるのです。それなら、この封印はいつ誰によって解かれるでしょうか? その時とは、ただ神様だけがご存じであります。
[マタイ24:36]に「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」とあります。しかし、その時が近づいたということは、聖書に記されているみことばによってわかります。神様がその日とその時について「正確にいつだ」と記されたのではありませんが、いつ頃がその時になるのかは、聖書の所々にある記述によってわかるようにされました。
六千年の人間耕作の歴史で、もう封印を解く最後の瞬間がいくらも残っていないのです。ところが、時になったからといって、誰でもこの封印が解けるのではありません。封印を解くのにふさわしい資格を備えた誰かがいなければならないのです。
[2節]に「また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、『巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。』と言っているのを見た。」とあります。ここで私たちは、もう一度この巻き物の重要性を知ることができます。
今、強い御使いが出ていますが、彼はまさにこの巻き物を守っている御使いでもあります。御使いの間にも権威と力などの違いがあって、強い力の御使いもいて、高い地位を持った御使いもいて、この地上の長官にたとえられる御使いのかしらもいます。そして、権威や力、能力によって与えられる使命にもみな違いがあります。
ところが、今、七つの封印で封じられている巻き物を守っている御使いは、強い御使いだと言っています。この巻き物が重要なので、神様はそれほど大きい力と権威と能力を持った御使いに守るようにされたのです。
ですが、この御使いも巻き物を守る使命を持っているだけで、その封印を解く権限は決してありません。それで彼も「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と、封印を解くのにふさわしい者を探しているのです。それほど封印を解く時が近づいたので、ふさわしい資格を備えた者が誰か、捜しているのです。
だからといって、この御使いがその資格を備えた存在が誰なのか、本当に知らないのではありません。ヨハネにその答えを探すように投げかけているのです。それで、ヨハネが調べてみましたが、それほどの資格を備えた存在が探せませんでした。
[3-4節]に「しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。」とあります。
このみことばのように、天にも、地にも、地の下にもだれひとりその巻き物を開いて、見る資格を備えた人はいません。しかし、ただおひとりおられます。まさにイエス・キリスト、私たちの主であります。それなら、なぜ主だけがその資格を備えたお方でしょうか?
聖徒の皆さん、救いはただイエス・キリスト、私たちの主によります。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。イエス・キリストによって救いの道が開かれて、将来人間耕作が終わる時も、復活の初穂になられた主の後を追って、救われたすべての人々も復活の実として出て来るのです。
ところで、まさにこの巻き物の封印を解く瞬間に、主の空中再臨とともに実質的な人間耕作が終わります。したがって、封印を解くということは、人間耕作の締めくくりであり、イエス・キリストによって得られる救いの実を刈り取る瞬間なのです。ですから、このように重要な瞬間を開く封印をはたして誰が解くべきでしょうか? まさに私たちの救い主である主です。
もちろん、このような実を完全に刈り取るまでは、主の後にこの地上に来られたもうひとりの方、助け主聖霊様の役割がまことに大きかったのです。聖霊様は救いの完成と、多くの魂を新しいエルサレムに導く、とても重要な働きを果たされました。イエス・キリストによって救いの道に入ったとしても、助け主聖霊様の助けがなかったなら、彼らのうち、はたしてどれほどが全き実として結ばれたでしょうか? また、真理の御霊である聖霊様の導きでなければ、新しいエルサレムという目標点に至れる魂もきわめて少なくなるしかありません。この他にも、イエス・キリストによって神の子どもとされた魂を天国に至らせる瞬間まで、助け主聖霊様が果たされる役割はあまりにも大きいのです。
しかし、この地上での聖霊様の働きも、再臨の主が来られると同時に終わるのです。ですから、結局封印を解いて、七年患難と七年婚宴、そしてその後の千年王国につながる終わりのすべてのことを開く権限は、まさにイエス・キリスト、私たちの主にあるのです。父なる神様は摂理に従って、これを執行する権限を主に与えられたのです。
しかし、使徒ヨハネはこの時までは、まだこのような摂理について知らなかったのです。使徒ヨハネは当然、救い主であられるイエス・キリストについては知って信じていましたが、人間耕作の最後を締めくくるために、この重要な巻き物の封印を解く資格を備えた方が誰なのかは、まだ悟れなかったのです。それで「私は激しく泣いていた。」と言ったのです。
ですが、使徒ヨハネが今、神様の摂理が全く悟れなくて、気を落としてこのように激しく泣いていただけではありません。使徒ヨハネは今の雰囲気に圧倒されていました。この巻き物の封印を解くことがあまりにも重要だということは、十分に感じて悟っています。ところが、強い御使いが「封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言うとき、その瞬間、ふさわしい資格を備えた者を探そうとしたら、見つからなかったのです。この時、使徒ヨハネは、人間耕作の始めから今まで、この地上にいた数多くの人々を一瞬のうちに思い出してみたけれど、その中に誰もふさわしい者が探せなかったのです。
「天にも(ない)」ということは、すでに新しいエルサレムに入る資格を備えて、あらかじめ新しいエルサレムに上がっている魂のうち、ふさわしい資格を備えた者を探したけれど、いないという意味です。また、天の上にいる御使いや天の軍勢の中でも、ふさわしい資格を備えた存在が見つからなかったという意味です。
次に、「地にも(ない)」ということは、今、まだこの地上で耕作を受けている人々の中にふさわしい者を探しても、いないという意味です。最後に、「地の下にも(ない)」ということは、よみにいる魂の中で探してもいないという意味です。
このように、天にも、地にも、地の下にもふさわしい資格を備えた存在が見つからなかったので、その瞬間、使徒ヨハネがどれほどとまどったでしょうか。「はたして誰がこの重要な巻き物の封印を解くだろうか」「そのような資格を備えた存在がいなければならないのに...」こういう心によって、一瞬、気を落としたのです。まさにこのような切迫した心のため、当時の状況と雰囲気で使徒ヨハネはこのように激しく泣いていたのです。
使徒ヨハネが落ち着いて思いを潜めたなら、この巻き物の封印を解く資格を備えた方が誰なのかが悟れたでしょうが、当時の状況と雰囲気ではそんな余裕がなくて、一瞬にして落胆と切迫さが押し寄せてきて、それで激しく泣くしかなかったのです。
ところが、この時、二十四人の長老のひとりが使徒ヨハネに、封印を解くのにふさわしい方が誰なのかを教えてくれます。まさにイエス・キリストであることを教えてくれます。そして、イエス様について、ユダ族から出たしし、ダビデの根、と表現しています。
それなら、イエス様をなぜそのように表現したのでしょうか? そして、使徒ヨハネに今、話している二十四人の長老のひとりとは、はたして誰でしょうか? これについては次の時間に続いて調べましょう。

愛する聖徒の皆さん、イエス・キリスト、私たちの主でなかったなら、私たちは将来迫ってくる終わりの時をどのように迎えられるでしょうか。結局は、皆がひどい患難と苦しみの中で生き、ついには永遠の死である地獄に行くでしょう。
しかし、私たちの救い主であるイエス様がおられるので、私たちが迎える未来は希望です。主の再臨とともに空中に上げられて、主とともに七年間の婚宴をした後、またこの地上に降りて来て王となり、千年王国の時期を過ごすようになります。その後には、報いの審判によって永遠に与えられる場所と報いと栄光を受けて、とこしえに天国で生きていくようになります。
ですから、私たちが将来天国に行けば、私たちがこの良いところに来られるように道を開いてくださった主の前に、永遠に礼拝と賛美と感謝をささげるのです。これらすべてのことの支配者であられ、結局、私たちにすべてを下さった父なる神様の前には、あまりにも当然のことです。
ところで、私たちがもうひとり、永遠に礼拝して、賛美と感謝をささげる方がおられます。まさに聖霊様です。将来天国に行って、この地上のことを一つ一つ振り返ってみるなら、私たちの人生の中で、一瞬一瞬、聖霊様がどれほど私たちのために全力を尽くされたのかわかります。親の心で、一瞬も幼い子どもから目が離せないで、傷には包帯を巻いて、病気の子どものそばでまどろむことなく夜を明かす親の心で...このほかにも、挙げようとするならとうてい数えきれないほど、また、実際、肉の親とは比べられないほど、もっと濃くて変わらない愛と忍耐と真心で、大変細やかに私たちの人生の中で、天国へ行く道を導いてくださったのです。ですから、変わることが全くない天国では、このような聖霊様への恵みと感謝をとこしえに表現して生きていくのです。
皆さんすべてが、将来、このような隊列に必ずあずかりますように。それも三位の神様の御座の近くで、とこしえに賛美と誉れと栄光をささげる幸いな皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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