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Title
   信仰の量り(26)-信仰の五段階(7)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3, 詩 37:4
Date
   2006-06-25


<本文>

<ローマ12:3>

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<詩篇37:4>

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4,500余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、

時々、人々の中には、人情が厚くて他人に贈り物をすることが好きな人たちがいます。周りの人々に何か必要なものがあるとわかれば、自分が先立って求めているものをあげて、贈り物をもらった時も、「これを誰にあげれば一番喜ぶだろうか?」と考えます。自分が持つより相手にあげるほうが好きで、一つだけあげてもよい状況でも、二つや三つ、あるいはそれ以上もあげたがるのです。
ところで、世の中のどんな人よりも人情が厚くて他人にあげたい方が、まさに私たちの父なる神様です。
ソロモンに祝福を与えられた時だけを見ても、そうです。ソロモンが力を尽くして一千頭の全焼のいけにえをささげたとき、これを喜んで受けられた神様はソロモンに現れて、「あなたに何を与えようか。願え。」と仰せられました。これにソロモンが願ったものは、健康や長寿、富や栄華のようなものではなく、まさに「知恵」だったのです。それも自分のために知恵を願ったのではなく、神様が自分にゆだねられたおびただしい数の民を平安によく治めるために知恵を求めたのです。神様はソロモンの願いを大いに喜ばれました。
<第一列王3:12-13>で「今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。」とあります。
ソロモンの願いどおり知恵を下さいましたが、ただの知恵ではなく後にも先にもない知恵を下さり、それに加えて願わないものまで下さって、当代の王たちの中で最も大きな富と栄華を受けるようにされたのです。世界最高の知恵を持てて、当代最高の富と栄華を受けるということは、どれくらい大きい祝福でしょうか?
ところで、皆さんの中にはこのみことばを聞きながら「神様は私たちが知恵を願う時に一番喜ばれるんだな」--こう思う方はおられないでしょう? 知恵を願ったこと自体が重要なことではなく、ソロモンの知恵を願うその心が神様の御前にふさわしかったのです。
すでに一千頭の全焼のいけにえで神様に喜ばれたのですから、かりにソロモンが自分の利益を求めたとしても、悪い願いでさえなければ、神様は何でも聞いてくださったでしょう。このように願うものを何でも得られる機会なのに、ソロモンは自分の欲を追い求めないで、王として民のために、という善良な意図で答えたので、神様が喜ばれたのです。この当時、ソロモンは聖められていたのでもありませんでしたが、その一瞬の善良な返事で神様を喜ばせたことだけでも、神様がどれほど豊かな祝福を下さったでしょうか?
このようにあわれみ深く寛容で、皆さんが一つを求めれば十も百も与えたい方が、まさに私たちの父なる神様です。しかし問題は、下さるままに頂ける器を、私たちのほうで準備しなければならないということです。すべてのことに善なる心と思いを抱き、神様に喜ばれればよいのです。
きょうも伝えられるメッセージを通して、「あなたに何を与えようか。」と言われる父なる神様の祝福が、皆さんの人生の中に豊かに臨みますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、きょうは「信仰の量り」二十六番目の時間で、信仰の五段階に入った全き霊の人々に神様が下さる祝福について伝えます。

その前に、それぞれの信仰の量りについて簡単に復習してみましょう。
人が福音を聞いて信じて聖霊を受ければ、信仰の一段階に入ります。救われる信仰が生じたということです。徐々に神様のみことばを聞いて学んで行おうと努力し始めれば、信仰の二段階に入るようになります。神様を心に信じて認められるので、神様のみことばを聞けば従おうとしますが、あることには従い、あることには従いません。聞き従っても、辛そうに無理に聞き従います。
けれど、もう少し信仰が育って三段階に入れば、ある程度みことばどおり守り行える力が生じます。辛そうに苦しそうに、負担に思いながらみことばを守るのではなく、まるで習慣のように自然に神様のみことばどおり行っていける、安定した信仰の段階に入っていくのです。
神様のみことばどおり行いながら、罪を犯さないだけでなく、心の根にある罪の性質まで脱ぎ捨てれば、この時は信仰の四段階に入るようになります。聖なる聖められた神様のまことの子どもになったということです。
事実、一段階と二段階は肉に属する信仰生活で、まだ信仰の基礎を固める過程です。三段階に入ってこそ、その時初めて霊の信仰生活の土台を固め始めるのです。そして、霊的にまことの信仰があると認められようとするなら、信仰の四段階に至らなければなりません。信仰の四段階では、疑いというものは全くなく、すべての言葉と思いと行いが100パーセント、神様を信頼する中でなされます。
それで、信仰生活を始めて三段階に至る時までは、霊の信仰の土台を固めていく過程であり、霊の信仰を成し遂げた四段階からは、御父の根本に含まれた全き愛を自分の心の中に積み上げていく過程です。
信仰の四段階で、本性の深いところに隠されている肉の痕跡のようなものなどまで捨てていって、すべての霊の実がたわわに実るようになれば、最高の信仰である五段階に入ります。この時からは、御父が各人の心の香りを喜んで受けられて、さらに美しくてさらに全き、最高の実として新しいエルサレムに入ってくるようにと、再び各人を練られて導いていかれるのです。
このような信仰の段階をもう一度くくってみれば、一段階、二段階、三段階を一つとして、四段階と五段階を一つとして見られます。つまり、肉に属しているのか霊に属しているかという基準によって分けたのです。
三段階と四段階の差は、この地上での答えと祝福も、天国の栄光も、天と地の差だと言いました。聖書に記されているすべての約束と祝福が、実は四段階以上に入った人、すなわち霊の人に該当するものであり、五段階に入れば、あらゆる分野ですべての祝福が完全に臨むようになります。
もちろん、霊に入ってくる前、信仰の三段階まででも、祝福と答えがないわけではないのですが、各自の信仰の量りの中で神様の御前でふさわしく行った分だけ、部分的な祝福を受けられるということです。

それでは、今からは全き霊の人が受けるようになる祝福について、もう少し詳しく調べてみます。
何よりも、全き霊の人は何を願っても直ちに答えられるだけでなく、直接願わないで心に抱いたことまで、その時その時にすぐ答えられます。全知全能な神様はいつどの時点でどんなことが必要なのかをご存じなので、あらかじめ備えておかれ、「アドナイ・イルエ」としてすべてを与えてくださるのです。
きょうの本文<詩篇37:4>で「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。主を喜ぶということを文字的に説明すれば、主によって喜んで楽しむということです。もちろん、それぞれの信仰の段階で自ら神様によって喜べますが、まことの喜びが上から臨むためには、人のほうで信仰の五段階、全き信仰で主に喜ばれるべきです。このように神様を喜ばせる信仰を持った人は、心に抱くだけでも神様からすみやかに答えられるのです。
それでは、全き霊に入れば、どのようにして求めるとき、直ちに答えられるのでしょうか?
神様が私たちの祈りに答えてくださる時は、必ず公義に合うように答えてくださいます。その公義において最も代表的なものが「七つの御霊」の測定だと言いました。これは、各人において七つの分野、すなわち、信仰、喜び、祈り、感謝、戒めを守ること、忠実、愛、このような分野を測って、各自の信仰の量りの中で一定の基準値にふさわしい時でこそ答えも祝福も受けられるということです。
たとえば、信仰の三段階にある人が、よく祈るけれど心に喜びはないとか、熱心に忠実に働くのに不平を言って感謝がないならば、それほど七つの御霊の測りに足りない分、答えが遅くなるのです。
ところが、全き霊に入ってきた人は聖められて神様との間に罪の壁がないだけでなく、真理の実が心に完全に満たされているので、いつ測っても七つの御霊のすべての分野で合格点をもらうようになります。ですから、その時その時にすぐ答えが臨むのです。
しかも御父にぴったり似せられた心の中で祈って求めることごとに、御父の心にふさわしいことだけを求めるので、毎回あふれるように答えられても、公義の法則に全くはずれないのです。ですから、神様の御前に何かを蒔いた時も、霊の人は三十倍、六十倍に刈り取り、全き霊の人は六十倍、百倍に刈り取るということが理解できるでしょう。

また、全き霊の人は聖霊の御声を100パーセント聞くだけでなく、御父の心の深みまで悟るので、すべてのことに悟りのある道が探せます。
<第一コリント2:10>に「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」とあります。皆さんが聖霊の御声を明らかに聞くことさえできるなら、栄えないことがどこにあるでしょうか? 危険な道に行く時は「そちらへ行ってはいけない」と言われ、「この道が祝福の道だ」と知らせてくださり、もつれてこじれた問題があっても解ける道を教えてくださいます。ですから、その御声に聞き従いさえすれば、すべてに栄える道にだけ行けるのです。
ところで、聖霊の御声を明らかに聞こうとするなら、必ず真理に逆らうものを脱ぎ捨てなければなりません。心から罪と悪が捨てられた分、真理に逆らうものがない清く澄んだ心を成し遂げた分、聖霊の御声も聞けて働きかけられます。
信仰の四段階にだけ入っても、聖められた心の中で聖霊の御声を正確に聞けるので、御父が望まれることが何であるのかを明らかに見分けられます。一歩進んで信仰の五段階では、「御父がそれをなぜ望まれるのか」と、御父の心と思いを明らかに知るようになります。五段階の中でもさらに深い次元に入るほど、御父の意図されたことに合う方法論まで、100パーセント完全に悟れるのです。
たとえば、皆さんが金曜徹夜で聞かれたヨセフの場合、彼が兄たちに会ったとき、どのようにしたかを思い出してみるようお願いします。ヨセフは幼い頃、兄たちのそねみ、ねたみによってエジプトに奴隷として売られました。しかし、ヨセフはこのように売られてきた状況の中でも、神様の摂理の中ですべての逆境に勝ち抜いて、エジプトの統治者の座にまで上がり、自分を売った兄たちと22年ぶりに再会するようになりました。以前、兄たちにあわれみを求めたヨセフ自身は強大国の権力者になり、兄たちはヨセフが誰なのかも知らないまま、ヨセフに糧を求めるために頭を下げたのですから、状況が完全に逆転したということです。
ヨセフが仮に信仰の四段階だったとしても、そのすべての状況の中に込められた神様の摂理は明らかに悟れたでしょう。自分が幼い頃見た夢のとおり、神様が自分を高めてくださったこと、兄弟たちを赦すとしても、まず彼らに悔い改めさせなければならないことも確実に働きかけられたでしょう。
ところが、ヨセフが心に働きかけられたことは、この程度で終わったのではありません。悔い改めさせるべきだが、自分がどのようにしてこそ兄たちを心の底から悔い改めさせられるのか、その方法論まで悟れて行えました。
たとえば、その場でヨセフが自分の正体を明かし、「私があなた方がエジプトに売ったヨセフです。あなた方の過ちを悔い改めなさい」と言ったとすれば、兄たちは当然驚いて、赦しを請うたでしょう。しかし、これは恐れの中で赦しを求めることだけで、心から徹底的に立ち返り悔い改めたことだとは見られません。
それを知るためにヨセフは、兄たちが心の底から自分たちの過ちから立ち返り、悔い改められるように緻密な作戦を立てます。自分の身分を明かさないまま兄たちをしばらく監禁しておいたり、兄弟の中からひとりを人質として取ったり、末の弟を盗人に追い込んだりするなど、さまざまな状況を作りあげていきます。そのような過程で、兄たちは兄弟の大切さを感じるようになり、自分たちが過去に弟を売ったことを思い出して、心から真実の悔い改めをするようになります。
そうなるまですべての状況を作っていったヨセフの言葉一つ、行い一つが、どれほど驚くべき知恵と悟りの中から出てくるのか、皆さんが「創世記講解」をよく聞いてみれば、感嘆せざるをえないでしょう。
まさにこのように神の深みまで悟ることで、完全な悟りの中で方法論まで働きかけられることが、まさに信仰の五段階で体験する聖霊のみわざです。

次に全き霊に入った人の祝福は、悪い者は彼に触れることもできないということです。
信仰の五段階に臨む御力を説明したとき、全き霊に入った人には病原菌やわずらいが忍び込むことがなく、他の人の病気もわずらいも十分に直せると言いました。悪霊も十分に追い出せます。聖なる全き心から出る霊的権威によって、全き霊に入った人にはどんな闇の勢力も害を加えられません。
それで、<第一ヨハネ5:18>には「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあります。
訴えるだけの罪と悪が全くないので、敵である悪魔・サタンはどんな試練や患難ももたらすことができないのです。イエス様も時になって捕えられるまでは、悪い人々がいくらイエス様を憎んでも、イエス様の前で直接ののしったり敵対したりできなかったのです。
私の場合も、全き霊に入ってきてからは、妨害して迫害する人々がいても、直接私の前ではそのようなことがありませんでした。私がいない所では、教会を妨害して噂を作り出して敵対した人でも、私の前に出てくるとむしろ静かになりました。
もちろん、全き霊に入った人に対しても、敵である悪魔・サタンのほうでは妨害をあきらめたり、じっとしたりしていません。この地上で自分たちに与えられた権力の中で、何としてでも試練の種を作ろうとして、神の国を成し遂げられないように妨害しようと絶えず企んでいます。しかし、いくら害を加えようと訴えても、神様が許されないので、髪の毛一本触れることができません。
ところで、時には霊の人、全き霊の人でも、このような敵である悪魔・サタンが訴えるとき、神様が試練を許される時があります。このような時は、公義の中で神の国を大きく成し遂げられたり、もっと大きい御力を受けるにふさわしい器であることを見せようと、神様が許されたりする場合です。
たとえば、ペテロや使徒パウロのような場合には、全き信仰に至ったのですが、主の御名によって迫害と苦難を受けて、結局は殉教するに至りました。また、初代教会当時に殉教した聖徒たちも、全き霊に入れなかったとしても、死に当たるほどの大きい罪と悪があったわけではありません。しかし、聖徒たちが罪もなく流した血の代価を通して、さらに多くの魂が救われて、さらに広い地域で福音が伝えられるように、公義の法則を満たされたのです。もちろん、信仰で殉教した聖徒たちには、つかの間の苦しみと比べられない天国の栄光が与えられたでしょう。
また、傷もなくしみもない全き霊の人が何の理由もなく苦しみにあうとき、純然たる信仰と愛で勝利したら、神様がその人に一層大きな祝福と御力を下さっても、敵である悪魔・サタンが訴えられないのです。
このように、全き霊に入った人でも、御力に御力を加えて大きく神様に栄光を帰すようにされる摂理の中で、悪い者が妨害することも、しばらくの間、神様が許される時があるのです。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、きょうは全き霊に入った人がどのような祝福を受けるのか説明しました。きょう説明したこと以外にも、全き霊に入る時の祝福は到底すべて話せません。
信仰の四段階の祝福について説明するとき、霊の人にだけなっても、入る時も出て行く時にも祝福され、家庭、職場、事業所はもちろん、周りにいる人まで祝福されると言いました。「あなたもあなたの家族も救われます」と言われたみことばどおり、家庭の福音化も成し遂げられるようになり、祝福権と呪い権も臨み始めると言いました。完全にではありませんが、神様と共に歩むこともできます。
このようなすべて祝福が、信仰の四段階では一つ一つ臨み始め、五段階に入ってくれば完全に臨むようになるのです。
しかし、これらすべての祝福よりもさらに大きくて尊い祝福は、まさに永遠の天国で与えられる新しいエルサレムの栄光です。いろいろな天国の場所の中でも、最も栄華を極めた栄光の場所に入り、神様と共に、主と共に永遠にとどまるのです。
このような新しいエルサレムの栄光については、次の時間に続いて伝えます。 (そうなると、「信仰の量り」全体のメッセージは二十七編で終わります。)
愛する聖徒の皆さんは、光であられる神様のみことばに自分を照らしてみて、こまめに顧みて変えられて、傷もしみもない全き信仰まですみやかに入ってこられるようにお願いします。
それで、皆さんすべてが神様の約束されたあらゆる祝福を受けて味わい、ついに栄光ある新しいエルサレムに入ってとどまることができますように、主の御名で祝福して祈ります。

 
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