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献身礼拝
Title
まことの愛 - 主のしもべ献身・職員
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
マタイ22:37-40
Date
2014-01-05
[本文]
[マタイ22:37-40]
「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、全世界と全国の一万余りの支教会と支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、GCN放送の視聴者の皆さん、2014年度主のしもべ・職員献身礼拝をささげられるように祝福してくださった父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。
愛する献身者の皆さん、きょうのメッセージのタイトルは「まことの愛」です。神様が天と地と万物をお造りになった理由は、まことの子どもを得るためです。互いに心を分かち合って、まことの愛を分かち合える対象がほしいと思われたのです。
それで、皆さんにも過ぎし歳月の間、どうすればまことの子どもになれるのか、父の愛はどんなものなのか一つ一つ悟らせてくださいました。毎年の献身礼拝だけ考えてみても、神様はみこころをまことに細やかに教えてくださいました。しもべらしいしもべになるためにはどうすべきか、レビ族は、また長老、勧士、執事などの務めを受けた者はどう使命を果たすべきか、そして、献身という言葉のとおり、私たちの人生をどう父にささげなければならないのかを詳しく教えてくださいました。
このようなみことばに聞き従ってさえ来たなら、今頃は皆さんのほとんどが御霊の人、全く聖なるものとされていたでしょう。しかし、実際は多くの人がみことばに逆らって、かえって肉の実を結びました。もし過ぎし3年間、悔い改められる霊の空間を父が強権的に開いてくださらなかったなら、今も相変わらず聞き従っていない人がはるかに多いでしょう。
ある人たちは悔い改めの機会が開かれた時に徹底的に立ち返って、すぐ心の実を結んでいきました。信仰の岩の上に立ち、すみやかに御霊の歩みに入れました。一方、ある人たちはそんな霊の流れの中でも、霊的な眠りから覚めることができませんでした。「これぐらいなら大丈夫だろう」と思って、肉に属するものを追い求めて世に目を向けました。「死に至る罪を犯したのでもない。牧者の犠牲は私のためではない」と思って、依然としてなまぬるい状態にとどまっていました。
しかし、3年間も牧者の犠牲が続いて、父が恵みの戸をずっと開いてくださると、遅まきながらも悟った人もいました。3か月の猶予期間に、あるいは夏のキャンプや創立行事を通して、それどころか12月のクリスマスを前にして、ようやく自分を発見することができました。「私は本当に悪い者だった。自分なりに信仰生活をしていたつもりだが、肉的にしていたんだ。実際は霊の流れに乗れなかったんだ」と、このようなことを一つ一つ悟ったのです。
遅まきながらも悟ったなら、もう一度始めればよいのです。1年、5年、10年、15年、あるいは20年以上の歳月を空しく送ったのですから、その分もっと切でへりくだった心で、御霊の歩みへと走っていかなければなりません。きょうの献身礼拝を通して「私はどんな務めを受けた者になるべきか、父なる神様をどのように愛し、どんな心で忠実に仕えるべきか」もう一度悟りますように。それで、必ず御霊の人という実を見せて、父の御前に大胆な働き人になりますよう、主の御名によってお願いします。
[本論]
愛する献身者の皆さん、本文[マタイ22:37-40]には、最も大切な戒めが何なのか書かれています。「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
神様を第一に愛し、隣人を自分自身のように愛すること、これが神様に似せられたまことの子どもの心なのです。皆さんがまことの愛をどれほど心に耕したのか、今から三つをチェックしてみましょう。
第一、父なる神様を第一に愛したのかをチェックしてみますように。
[第一ヨハネ5:3]に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。このみことばがまさに私の告白でもあります。私は死の前で神様が御手を差し伸べてくださり、あらゆる病気がいやされました。そのように神様を見つけて、主を受け入れた後、私の関心はただ神様のみこころにありました。何をして差し上げたら父にもっと喜ばれるだろうか。どうしたら主の恵みに報いられるだろうか。どうすればさらに深く神様を見つけて体験できるだろうか。神様を愛して、愛されることが最高の目的でした。
ですから、みこころはこれだと学んだら、考え直しませんでした。どんな理由も、どんな言い訳もなく、「避けなさい、捨てなさい」と言われたら避けて捨てたし、「守りなさい」と言われたら守りました。また、父なる神様が一度言われたことは心に深く刻んで、いのちを尽くして聞き従いました。いくら難しいことを命じられても、従わせていただけるということ自体がうれしかったのです。
皆さんはどうだったでしょうか? 父をまことに愛して、望んでおられることを何としてでも実現させていただこうとしたなら、御霊の歩みに入ることが難しくなかったでしょう。
たとえば、[箴言8:13]に「【主】を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」とあります。神様が「罪と悪を憎む」と言われているのに、「神様を愛している」と言いながら、悪を心に持っていることはできません。神様より世を愛し、神様より肉を愛し、神様より自分自身を愛するから、依然としてみことばに顔を背けているのです。
ところで、このように悪を捨てなさいと強調しているのも、皆さんのためです。主のしもべの皆さん、なぜ父がこれほど皆さんの過ちを表に現わして、勧めに勧めておられるのでしょうか? まことに愛しているからだということを知っているでしょうか? 主のしもべという使命で自分の人生をささげている皆さんが、神様にとってどれほど大切なのか知っているでしょうか?
そんな皆さんが誰よりも尊重されて愛されることを、父は望んでおられます。聖徒の前に尊く見えて、すべてのところで豊かな祝福を受けることを望んでおられます。皆さんが光の権威で闇を退けてあげて、神の力で聖徒の問題を解決できるなら、主のしもべという働きは世で最も幸いで、喜びがあふれる働きなのです。神様とともに歩む人生、愛されて祝福される人生、保障されて栄光を味わう人生、父なる神様はご自身のしもべたちに、このような尊い人生を与えたいと思っておられます。
主のしもべだと言いながら、価値のない肉に従って生きて、仕方なく働いている雇い人のように生きていく姿を、とうてい見ていられないのです。「御霊の歩みに入りさえすれば、権威も力もあげるから、尊い主のしもべになりなさい。どうか御霊に属するものを生んで、いのちを生む、栄えある生き方をしなさい。」このような切なる心で、一日一日を待っておられるのです。
この愛を皆さんが悟るなら、「私は肉の人だから、牧者に愛されもしないし、羊の群れに対しても恥ずかしい」と思って、へたばっている人はいないでしょう。「どうすれば悪を捨てて、すみやかに聖められるだろうか」と、夜も昼も探り窮めて努力しているので、気を落とす時間もありません。
務めを受けた皆さんも同じです。皆さんは父の愛を深く感じていますか。信仰の量りを教えてくださり、「聖められなさい」と命じられることが、肉の人には御顔を背けるというお心でしょうか? そうではありません。
「わたしが十字架であなたがたの罪をすべて贖った。むごたらしい苦しみを受けてあなたがたの罪をすべて赦してあげた。だから、愛する子どもたちよ、病気になるな、悲しむな、災いと試練、患難で苦しむな。光の子どもとしてすべての事について答えられて祝福されなさい。」これが主のお心で、父のお心なのです。
このように切なる父の愛、主の愛をさらに深く悟ってみますように。父は一瞬一瞬皆さんをご覧になっています。その視線をいつも覚えて、罪と悪とはかかわりのない生き方をしますように。すみやかに聖められて、父に喜んでだけいただける皆さんになりますよう、主の御名によってお願いします。
愛する献身者の皆さん、まことの愛を心に耕すために、第二に、牧者の言葉にどれほど聞き従ったかチェックしてみますように。
[第二歴代誌20:20]に「あなたがたの神、【主】を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」とあります。皆さんもこのみことばのように、父なる神様を信じるので、「父が保障されている牧者も信じて愛しています」と告白する人が多くいました。
それなら、信じている牧者の言葉に耳を傾けて、完全に聞き従ったでしょうか? 私が講壇で、ある説教は10回聞きなさい、三国志を読みなさい、などと言ったことがあります。しかし、完全に聞き従った人は多くありませんでした。「それがそんなに重要なのか。時間がないのに、必ずしもそうすべきか」とあれこれ思いを働かせたりもしました。
それなら、「世のものを断ち切ってください。礼拝は霊とまことによってささげてください。火のように主を呼んで、心を尽くして祈ってください。毎日、聖書を一節暗唱してください」という言葉は心に留めて、完全に聞き従ったでしょうか?
以前、こんなたとえを挙げたことがあります。もし私が「百里離れているある場所にサッカーボールくらいの金の塊を隠しておいたから、早く取りに行ってください」と言うなら、どうしますか? 私の言葉を信じるなら「遠いから行けません。面倒だから行きません」と言う人はいないでしょう。牧者を愛しているなら、すぐ聞き従おうとするでしょう。まして「神様が保障されている牧者が霊的に働きかけられて言われた」と信じるなら、いくらささいに見えることであっても、聞き従おうとするでしょう。
このように聞き従った人は、その従順の行いによって祝福されました。健康や物質など、期待していなかった問題が解決されたり、祝福されて証しする人が多くいました。必ずしもこのように表に現われる祝福だけでなく、目に見えない霊的な祝福も、着々と積まれるのです。
とても長い歳月の間、私は心から聞き従う働き人を待っていました。一回言ったらそのとおりに聞き従う働き人、何が何でも聞き従うのではなく、私の心を推し量って聞き従う働き人を捜しました。多くの人が「愛しています」「信頼しています」と言いましたが、いざとなると聞き従う働き人を見つけるのはやさしくありませんでした。しかし、2010年以降はひとり、ふたりと、そんな人たちが現れ始めたし、聞き従うほど御霊に属する実を結んでいきました。
皆さんははたしてどのように聞き従ったでしょうか? 自分の思いや利益に合わないので、聞き流してしまったものはなかったか、諭された時は聞き従っても、自分の利益を追い求めてだんだん移り変わったものはなかったか、自分の利益に合うものだけ聞き従って、合わないものは知らないふりをしたことはなかったか、一つ一つ悟ってみますように。
それで、これからは聞き従う主のしもべと職員の皆さんになるようお願いします。そうする時こそ「牧者を愛して信頼している」という皆さんの告白がまことになれます。牧者と一つになって、さらに急速な霊の流れに乗れるのです。
愛する献身者の皆さん、まことの愛を心に耕すために、第三、本当に霊の愛をしているのかチェックしてみますように。
多くの人は自分が見て良いように愛します。自分の方法のとおりに愛し、自分の方法どおりに愛されたいと思います。自分が見て良いものを相手にあげて、相手がわかってくれないとむなしくなります。自分が犠牲になったことをわかってくれないので、気を悪くします。また、自分が望んでいる方法のとおりに愛されないと、この時も相手のことをつぶやいたり、つらくなります。ある人は信仰生活もそのようにします。自分の方法どおりに神様を愛していると言いながら、自分の願うとおりに答えられないと、愛も、忠実も冷めてしまいます。
神様を愛しているなら、神様が望んでおられる愛をささげなければなりません。多くの主のしもべが、レビ族が、神様を愛して献身し、勤勉に使命を果たしていると思っていました。しかし、自分が見ての熱心だったし、自分が見ての忠実だった時は、霊の愛の香としてささげることができません。まことに父のために心と思いとまことを尽くして、いのちまでささげる愛でなければなりません。また、自分を誰かがわかってくれても、くれなくても、初め召された時の愛と忠実の行いが変わってはいけません。このような心であれば、聖徒に仕える時も、まことの愛で仕えることができます。
たとえば、教会バスを運転する使命なら、単に運転を上手にすることや、誠実に運行することがすべてではありません。まことに霊の愛をもって使命を果たしてこそ、父がかがれるような忠実になるのです。主の代わりに、牧者の代わりに、大切な聖徒さんを目的地までお連れしているという喜び、聖徒さんが父の聖殿に行ったり来たりする時に、安らかに移動できるように仕える使命だから、その使命を尊く思う心からの感謝、父の聖なる物であるバスを運行して管理する者として、さらに聖で、聖められなければ、と慕う心、このような心で使命を果たさなければなりません。
主のしもべが、レビ族が、すべての人がこのように心を尽くして使命を果たすとき、父はその行い一つ一つをまことの愛の香として受けてくださるのです。
主のしもべとレビ族でない聖徒の皆さんも、自分の愛をチェックしてみますように。「恵みを受けた」「神様の愛と牧者の愛を悟った」「これからはできる」と決断した姿がどれだけ変わらなかったでしょうか? 歳月が経ちながら、いただいた恵みを忘れて、以前の姿に戻ってしまわなかったでしょうか? 肉の家族や聖徒に対するとき、相手の信仰以上のことを強いて、かえってつまずかせることはなかったでしょうか?
実は自分の義と枠に固執していながら、「これは真理だから、こうしなければならない」と相手をつらくさせるのです。家庭で犠牲になって仕えるべき自分の役割は果たしていないのに、相手にだけ自分の思うとおりについて来ることを求めます。いくら自分が見て良いものをあげても、これをまことの愛だとは言えないのです。
区域員や機関のメンバーに対する時も、まことに愛をもって対したのか、チェックしてみますように。自分ひとりだけ熱心に走って行ったでしょうか? でなければ、周りの人たちを顧みて、いつもその立場と状況を自分のことのように思って、訪問したり、施しをしたり、祈ったりして助けてあげたでしょうか? 自分は信仰の量りもチェックされなかったのに、相手が先に信仰の岩に立ったなら、心から喜んで感謝したでしょうか?「あの人はこんな欠けているところがあるのに、信仰の岩とは」とさばいたり、罪に定めたり、むなしくなったりはしなかったでしょうか?
まことに自分が神様の望んでおられる方法どおりに、相手の利益を求めて犠牲になって献身する愛、変わらない真実な愛をしたのか、もう一度チェックしてみますように。
[結論]
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、きょうのメッセージを聞いてチェックしてみたら、完全でない自分の姿が発見されて、申し訳ないと思う人も多いでしょう。しかし、2014年、新しい年が始まりました。
多くの人は新年を迎えると、家も掃除したり、お風呂に入るのも心を込めてしたり、清潔な服に着替えたりします。霊的にも、染みついた垢のように、心を覆っている古い人の属性をすべて脱ぎ捨てますように。決断して、移り変わることなく努力していくほど、すでに発せられた初めの声がさらに威力をもって皆さんの中で働いて、心と芯を変えさせるでしょう。
父なる神様と主を第一に愛し、牧者と魂を自分自身のように愛する皆さんになりますように。それで、父が切に待っておられるとおり、全世界に聖潔の光を照らし、すべての造られた者を救いの道へと導く尊い働き人になりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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