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ヨハネの手紙第一講解
Title
ヨハネの手紙第一講解 (22)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 3:4
Date
2011-06-05
[本文]
[第一ヨハネ3:4]
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」
[本文]
愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」二十二回目です。前回に続き、神の公義について説明いたします。
本文[第一ヨハネ3:4]に「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とあります。このみことばどおりに、罪を犯して不法を行なえば、必ず公義に従ってさばかれます。
もちろん、罪を犯しても悔い改めれば、イエス・キリストの御名によって罪が赦されます。ところが、自分のほうからは「悔い改めた」と思っても、神のほうからご覧になると「悔い改めていない」と言われることがあります。神が受けられる悔い改めは口だけでなく、心からの悔い改めでなければなりません。たましいを砕いて罪を告白して、その後からはその罪から完全に離れていなければなりません。実によって木を見分けるように、その生き方がまことの悔い改めの実になってこそ、心から悔い改めた人だと認められるのです。
それで、罪を犯した人が自分なりに悔い改めたとしても、その悔い改めが完全な実として結ばれるまでは、訓練が続くことが度々あります。また、まことの悔い改めをするには、神の恵みによって悔い改めの霊が臨まなければならないのに、悔い改めの霊が臨まない重い罪もあります。このような場合は、いくら悔い改めようとしても心から悔い改められないので、赦されることも、災いを免れることもできないのです。
ところで、公義に従ってさばかれるとしても、そのさばきは人によって違います。ある人は罪を犯したとき、直ちに懲らしめられますが、ある人は何事もないように生きていて、歳月が経った後、懲らしめられます。罪を犯した本人に災いが臨むこともあり、子どもや子孫の世代に臨むこともあります。
時には、大きい罪を犯しても特に災いもなく、平安に生きている人もいます。しかし、こういう人々も、結局はもっと大きい刑罰、すなわち、地獄の刑罰を受けます。死に至るまで懲らしめも受けないなら、悟って悔い改める機会も得られないという意味なので、懲らしめがないほうがかわいそうで惨めです。
世の人のことを言っているのではありません。自分では主を信じているつもりなのに、神は御顔を背けられて、罪を犯しても何の懲らしめもないなら、どれほど恐ろしいことでしょうか。
実際に、教会でそのようなことが度々あります。あまりにも重い罪を犯して、心からの悔い改めもしなかったのに、大きい懲らしめがないのです。私のこれまで牧会経験によると、その人々と似た罪を犯した何人かの人は心から悔い改めても、その後大きい訓練を受けました。重い病気や災いで苦しみながら、徹底的に悔い改めて罪は赦されたのに、病気はいやされなくて、結局、召天したこともありました。
ところが、このように罪を犯しても何の懲らしめもない人々もいるので、私はその理由を神様に伺いました。自分や先祖が何か大きい善を積んで、特別に憐れみを受けるようなことがあるのか、そうでなければなぜ懲らしめがないのか、その理由が知りたかったのです。その人々が懲らしめられて苦しむことを願って、そう伺ったのではありません。
神の御前に罪を犯しても懲らしめがないなら、それはどんな意味でしょうか? [へブル12:8]に「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、本当の子ではないのです。」とあります。
もしこの人々が何か良い行ないや心があったから、憐れみを受けることができたし、それで懲らしめを免れたのなら幸いだし、感謝なことでしょう。しかし、罪の隔ての壁が壊されたのでもないのに、神が御怒りを起こされて、私生子のように御顔を背けられるのなら、どうしましょうか? その本人より、むしろ牧者である私のほうがもっと恐れおののく心だったので、その理由を知ろうとしたのです。もし神が御顔を背けられたのであれば、それでも何としてでも悔い改めさせて、救われるようにすべきではないでしょうか。ですから、その人々にどんな公義が適用されるのか、伺ったのです。
これについて神様は、その人たちが何か善をたくさん積んだから懲らしめがないのではないと説明してくださいました。先祖が善を積んだのでもないし、むしろその先祖も多くの悪を積んだので、生まれつきの心も良くはなかったのでした。そのような人が罪を犯して生きているのに懲らしめがないのは、どうせ懲らしめてもむだだからです。
もしその人が大事故にあったり病気にかかったりして、過ちを心から悟れるなら、神様もそのような恵みを下さったでしょう。ところが、そのように悔い改めて立ち返るような心でもないということです。以前、説明したケースの中で、恥や罪の意識が感じられない人に特に懲らしめがないことも、これに当たります。
今から説明するもうひとりは、重い肉の行ないを犯した後、形式的には悔い改めました。その後、教会にもちゃんと通っていて、かしらの働き人として使命も果たしています。事故や災い、病気もないまま、自分なりに使命も果たしていると思います。
しかし、私が見ては、その悔い改めはまことではありませんでした。徹底的に心を引き裂く悔い改めでもなかったし、その後の生き方を見ても、罪から離れて聖潔の実を結んだり、憐れんでくださった神の恵みに真実に報いていく様子ではなかったのです。
実は、この人は以前も罪を犯して死の直前に至ったけれど、神の恵みで生き返ったことがあります。罪を悔い改めてから、私に祈りを受けたとき、神が劇的に生かしてくださったのです。
ふつう神の恵みで死を免れた人は、新しいいのちを下さった神に感謝して、いつまでもその恵みに報いようとします。「私は父なる神様の恵みで、牧者の祈りで、新しいいのちを得ました」と、機会さえあればいつ、どこででも証しして、栄光を帰し続けます。神の恵みで生き返った日を誕生日より尊く思って、毎年、私のところに訪ねてきて挨拶をしたりもします。使命も熱心に果たして、最善を尽くして忠実に仕えて走っていきます。
ところが、この人はこのような姿ではありませんでした。感謝の告白をし続けたり、聖徒にいつも証しして、栄光を帰す、そんな姿が見つけられなかったのです。父なる神の力について、牧者に現われる神の力について語るのでもありませんでした。祈ってくれた私に感謝したり、真理に変えられる姿もなかったし、神の国のために実を結ぼうとする姿も見えませんでした。「そんなことが以前にあるにはあったな」と思うほど、記憶から消えてしまったのです。
むしろ、もっと大きい罪を犯しておいても、徹底的に悔い改めるのでなく、うわべだけ悔い改めたような行ないをします。忠実に仕えているつもりで、務めを受けて、聖徒に天国と牧者に現われる神の力について教えますが、真実な心からしているのではありません。祈祷会にいつも参加はしても、心から神の国と義のために主を呼び求めて祈るのでもありません。人に見せるためだけです。そうしてこそ、自分が持っているものをそのまま持って、人に認められることができるから、知識的に話をして行なうだけです。結局、自分の地位と体面を守るための手段にすぎないのです。
しかし、本人はあれこれの言い訳で自分の悪い姿を正当化して、良い人のように装っているので、自分の心が発見できません。明るい表情で笑いながら、聖徒の前で偽善を行ないながらも、「私はこんなによくやっている」と思います。このように良心が麻痺したように頑なになったので、どんな病気にかかっても、事故にあっても、まことの悔い改めになりそうもないところです。もちろん、病気にかかれば苦しくて怖いから、しばらくは悔い改めるかもしれません。しかし、徹底的に立ち返って変えられる、まことの悔い改めはできないということです。
それなら、私が本人を直接呼んで、「神様がこうこう言われました。救われるためには悔い改めなければなりません」と悟らせるなら、どうなるでしょうか? みことばを聞いて真理を知っているので、口では「アーメン」と言うでしょう。それに、「悟りました。立ち返ります」と、私の前では涙を流すかもしれません。しかし、相変わらず心からの悔い改めではありません。さほど経たないうちに、再び恵みのない無感覚な心に戻って、自分の益を求めて生きていくでしょう。
もしその人に病気や事故として懲らしめがやって来れば、私だけ苦しむでしょう。私のところに来て祈りを受けようとすれば、私は何としてでもその人を生かすために、またどれほど悲しみもだえて祈るでしょうか。かしらの働き人がそんな状況に置かれれば、聖徒にも徳を高めることにならないでしょう。ですから、神もただ見ておられるだけなのです。
愛する聖徒の皆さん、神は愛であられます。イエス様はイスカリオテ・ユダを最後まで心にいだいて、一回でも多く機会を与えようとされました。疑いの多いトマスでも、何としてでも信じられるように証拠を見せてくださいました。トマスのように変えられて殉教する人もいれば、ユダのように結局、死に向かう人もいますが、どんな人に対しても神は憐れみをもって寛容を尽くされます。いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともありません。
しかし、神が機会を与えられているのに、この人はだんだん悪くなっています。日が経つほど、その目つきを見るとだんだん肉にだけ従って歩んでいるようで、あまりにももどかしいのです。
それでもその人が憐れみを受けている一つの理由は、神がともにおられる教会の中にとどまっていようとする心があるからです。それは、この教会で現われる何かの恵みを慕うとか、何としてでも変えられようとするためではありません。この中で自分が味わっていることをそのまま味わおうとするからで、また、「この恵みの枠から離れれば、何か害を受けるのではないか」と怖がっているからです。
ところが、このように良心が麻痺して、罪を罪と悟れない人はこの人だけではありません。世にはあまりにも多いし、教会の中にもそのような人が少なくありません。それでもその人々が教会を離れないで、恵みの枠の中にとどまっているので、神は一回でも多く機会を与えてくださいます。しかし、いくら機会を与えてくださっても、結局、選択は各自がすべきものです。
以前、何人かのかしらの主のしもべと働き人について、その人たちは地獄に行くことになると、神が教えてくださったことがありました。その時、私は数か月間悲しみもだえて祈りながら神にすがったし、神もその人々にもう一度機会を与えてくださいました。それゆえにそのうちの多くが悔い改めて、信仰と感謝の告白をしました。「私も今は新しいエルサレムの望みがあふれています。恵みに満たされて走っています。本当に牧者に感謝して、牧者のために涙で祈って断食しています」と告白しました。
ところが、その後、そのうちの多くが移り変わってしまうのを見ました。心を変えさせないので、時間が経つと恵みがなくなることもあり、自分の益に合わなければ移り変わってしまうのです。いくら私がその人々のために神に切に求めて、いくら悟らせて責めても、自分自身が心を変えさせないから、再び死の道に向かったということです。
ところで、このように悔い改める心自体がない人々を神が懲らしめないで放っておかれたからといって、いつまでもそのまま生きられるのではありません。時間が経って、罪の隔ての壁が積みに積まれれば、どんな形にでも現われます。完全に御顔を背けられて、サタンが捕えてしまうこともあるし、その他、立ち返れないほどに困難な状況に落ちてしまうかもしれません。
サウル王は神に立ち向かい続けて、結局、悪い霊が彼をおびえさせたと記されています。この時、神を愛するダビデが立琴をひけば、悪い霊はサウルから離れ、元気を回復しました。しかし、後には、ダビデが琴をひいても悪い霊がサウルに激しく下り、狂いわめいた、と記されています。悪を現して、ダビデを殺そうと槍を投げつけることまでしました。サウル王自身が悔い改めないで、だんだん闇に捕えられる程度がひどくなったので、霊的な力ある賛美を聞いても、むだになるまでに至ったのです。
イエス様を売り渡したイスカリオテ・ユダも、闇に捕らえられて、心の苦しみに耐えられず、結局、自殺したのです。ひょっとして最後まで特に災いもないまま無事に過ごしたとしても、結局、さばきの日を迎えますが、その時は悔い改める機会がありません。ですから、まだ機会があるとき、災いにあってでも悔い改めることができるなら、当然、そのほうが感謝なことでしょう。
ところが、このように悟れないし、悔い改められないほどに心が鈍くなったところで、神がそれ以上憐れんでくださらないなら、直ちにさばかれるのを見ました。
以前、ある青年がひどく罪を犯して、結局、事故で命を失ったことがありました。真理を知っていながらも悪を積み続けたので、それ以上機会を与えても、悔い改められる心でなかったのです。この青年も、先ほど説明した人々のように、この教会から離れたのではなかったので、神も特に練られることなく、彼を放っておくことがおできになりました。
それなのに彼を死に渡されたのは、それをきっかけに他の人々にでも悔い改めの機会が与えられるように、恵みを施されたのです。罪のゆえに滅びに向かうサンプルを見たとき、彼と一緒に肉に属するものを追い求めて罪を犯していた人々が固く心に戒めることができたのです。
また、その青年の家族は祈って忠実に仕え、熱心に信仰生活をしていました。その両親がたとえ肉の息子を失ったとしても、神は恵みを与え、信仰を守れるようにしてくださいました。両親も自分の姿を発見して、霊的に変えられるように、いろいろなことが悟れたのです。また、罪を犯していた多くの人がこのことを見て、罪の眠りから覚めたので、このような苦しみを信仰によってよく勝ち抜いたこと自体が、両親にとっては報いになれるのです。
聖徒の皆さん、親が熱心に忠実に仕えて祈りを積めば、その子どもに恵みが加えられて、罪に落ちた子どもでも、悔い改めの機会がもっと与えられることはあります。しかし、親がいくら熱心だとしても、子どもが変えられるような心でない時は、親の信仰によって子どもが救われるのではないのです。
何度も強調していますが、救いと答え、祝福と呪いにおいて一番大切なのは、自分の選択ということです。「私は良心が麻痺したと言えるほどに悪い心でないから大丈夫だろう」と思って、このようなメッセージを聞き流してはいけません。自分の姿から罪や悪が発見されれば、どのぐらい心の奥底から悲しみもだえているでしょうか? 悲しみもだえているつもりで、口だけで悔い改めるのでなく、真実な悔い改めの実を結んでいるのか顧みますように。
「父なる神様、申し訳ありません。きょう誰々に対して刺す言葉を口にして、無礼な行ないをしました。私の中にこんなに高ぶって相手を無視する心があります。赦してくださり、変えられるように強くしてください。」「このように悔い改めたし、変えられようとちゃんと祈っているから、もういい、大丈夫」と思うのではありません。心から悔い改めて、切に祈ったとすれば、実際に変えられなければなりません。その後からは同じ姿が出てはいけないでしょう。
1年経って、2年経って、もっと長い歳月が流れても、相変わらず同じ悪が出てくるなら、それで相変わらず悔い改めて祈っているなら、どれほど愚かでじれったいことでしょうか。このような人は信仰が成長しないで、停滞しているので、恵みが落ちます。聖霊に満たされなくなって、自分も知らないうちに自分の義と枠が強くなり、高ぶりが根を下ろしたりします。霊的に眠り込んで、惑わされてもわからないまま、平気で大きい罪を犯してしまうこともあるのです。
信仰が停滞しないためには、うわべでなく自分の心が日ごとに新しく変えられていかなければなりません。発見して悔い改めては、また発見して悔い改めて・・・、このように繰り返してばかりいないで、一度発見して悔い改めたら、すみやかに罪の根まで引き抜かなければなりません。ささいな罪だからといって大したことでないと思うのでなく、傷もしみもない花嫁になることを慕って、すみやかに全部捨てなければならないのです。このように、日々新たに、さらに新たにされる聖徒の皆さんになるよう、お願いします。
この続きは次回伝えます。
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