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メッセージ >
ヨハネの手紙第一講解
Title
ヨハネの手紙第一講解 (2)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 1:3-5
Date
2010-05-09
[本文]
[第一ヨハネ1:3-5]
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、第一ヨハネ[1章1-4節]は導入部として、この手紙を記した動機と目的が記されています。きょうの本文に入る前に、簡単に前回の[1節]と[2節]を復習してみましょう。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、...このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。...」「初めからあったもの、...すなわち、いのちのことば」とは「神の御子であるイエス・キリスト」のことだと言いました。
御子の神であるイエス・キリストは御父の神と永い歳月ともにおられましたが、滅びるしかなかった罪人たちに永遠のいのちを与えるために、この地上に来られました。
ヨハネをはじめ弟子たちは、永遠のいのちであるイエス・キリストを見て、イエス・キリストを通して救いの摂理が成就されるのも見ました。イエス様の働き、十字架で死なれて復活、昇天されるまでのすべての過程にともにいた証人です。それで、自分が見て聞いた確かなものを他の人にも伝えると言っているのです。
[本論]
続く本文[3節]に「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」とあります。
イエス様は、福音を聞いてイエス様を救い主として受け入れた弟子たちを自ら「兄弟」、あるいは「友」と呼ばれました。それからは主とかかわりのない、知らない人でなく、互いに交わりを持つ、親しい関係として認めてくださったのです。
このように主と交わりを持つ弟子たちが福音を伝えるとき、これを聞いて信仰を持った人は、やはり弟子たちと交りを持つようになります。主にあっての兄弟、姉妹になるのです。イエス・キリストが神の御子であるように、私たちも福音を聞いて主を信じることによって、イエス・キリストの兄弟であり、父なる神の子どもとされます。このように神と交わりを持つので、この地上でも神の子どもとされた生き方をして、将来、天国の栄光も味わうことができるのです。
これはまことに驚くべきことです。たとえば、遠い昔、王政時代には王が平民と友のように交わりを持つことは、想像するのも難しいことでした。まして神はこの地上の王と比べられる方ではありません。全知全能の神であり、宇宙万物の創造主であり、支配者であられます。被造物である私たちが、この上なく輝く神と交わりを持ち、しかも神の御子であるイエス・キリストの兄弟、友と呼ばれるとは、どれほど驚くことでしょうか? ただ福音を聞いて信じたという理由だけでそうなのです。このように途方もない愛を与えてくださるのに、多くの人がこの愛をさげすみます。福音を聞いても信じないで、むしろ妨げます。あるいは、神を信じているといいながら神の愛を侮り、神に申し訳ないことをします。皆さんの中にはこのようなことが決してあってはなりません。
ところで、ここで皆さんが必ず覚えておくことは、福音を聞いて信じると告白する人がみな神と交わりも持っているのではないということです。人のほうから「私は主を知っていて、神を知っている」と言っても、神は「わたしはあなたを知らない」と言われるかもしれません。それなら、どうしたらまことの交わりを持つのかは、[6節]でまた伝えます。
愛する聖徒の皆さん、続く[4節]に「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」とあります。使徒ヨハネが、神のみことばを伝えるとき、これを聞く人が弟子たちと交わり、さらに進んで神とも交わりを持つようになると、それによってヨハネの喜びが全きものとなるということです。
皆さんが伝道や聖徒を訪問してみると、これがどういう意味なのかわかるでしょう。福音を伝えるということが、どれほど皆さんの喜びが全きものとなるようにするでしょうか? 伝道してひとりの魂を救ったとき、あるいは聖徒を訪問して、恵みと力が与えられて、相手の問題が解決されたとき、みことばを伝えた皆さん自身がさらに喜びます。もちろん、福音を聞いて救われて問題が解決された人も、当然大きな喜びが与えられます。
私が一日一日を過ごしながら一番幸せな時は、神様に栄光をお帰しする時です。そして、皆さんが変えられて、毎日、魂に幸いを得ていく姿を見る時と、祝福された証しを聞く時に、喜びが全きものになるのです。皆さんが祈って、伝道して、忠実に仕えて、熱心に善を行なうのを見ると幸せです。熱く信仰生活をしている働き人たちがひとりひとり御霊の歩みに入ってくるのを見ると、その喜びは言い尽くせないのです。
また、[ルカ15:7]に「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」とあります。このように、罪を犯す聖徒たちを思うと、涙で夜を明かしても、そのうち立ち返って真理に歩んでいるのを見れば、ほっとするようになります。
[第三ヨハネ1:4]に「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」とあります。皆さんもこのみことばを心に耕し、主の心をもって主の羊の群れを愛して仕えるとき、主も皆さんをもっと尊く思われます。こまめに福音を伝えて教え、このように魂によって得る喜びが皆さんにもあふれるまで臨みますように。
愛する聖徒の皆さん、本文[1:1-4節]は第一ヨハネの導入部分だと言いました。私たちを救うためにこの地上に来られた神の御子イエス・キリストについて、ヨハネ自身が見て、聞いて、手で触ったものを伝えると言っています。それで、この話を信じた聖徒も、神と交わりを持つようにして、自分の喜びが全きものとなるために、と言いました。
これからヨハネの手紙第一の本論に入ります。[5節]に「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」とあります。
初めに神は光として存在しておられました。まるでさまざまな宝石を山のように積み上げると、そこから光がまぶしく放たれてくるように、美しい虹色の光だと言いました。その光の中に、清らかに透き通った声を帯びて存在しておられました。
また、霊的な意味でも、神は闇が全くない光であられます。すなわち、罪と悪が全くない、全き善であり、真理そのものであられます。[ヤコブ1:17]に「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」とあります。
肉の世では、光があれば影があるはずです。しかし、全き光である神には「移り行く影はありません。」とあるように、闇が全くありません。それでも、誰よりも正確に闇について知っておられます。悪を体験したのでご存じなのでもなく、悪の属性を持っておられるのでもありません。初めから悪についてみな知っておられるけれど、神はただ善の属性だけを持っておられます。
[マルコ10:18後半節]に「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」とあります。このように、初めから善と悪についてすべてをご存じでありながらも善なる方、尊い神とは違って、被造物である人は初めから善と悪を知っているのではありません。人は悪がどんなものなのか、実際に体験してこそ、心から神の善が悟れます。その時、本当に神を恐れて愛する、善なるまことの子どもになれるのです。(神がルシファーの反乱と悪い霊の世界の存在を許された理由が、まさにここにあります。)
初めに光と声としておられた神が、姿をとって三位一体の神になられたのも、人間耕作のためでした。神の心を知って、神とまことの愛が分かち合える存在を得ようと、最初の人アダムを造られました。
しかし、アダムはまだ神の心が悟れなかったのです。闇、すなわち、悪を体験する過程がなかったので、善が何かも知らなかったのです。それで、神に心から感謝したり、まことの愛をささげたりすることもできなかったのです。
肉的にも、病気で苦しんだことがないなら、健康だということがどれほど幸せなことか、心から悟れないのです。一度も貧しくなかった人は、豊かに生きるということがどれほど祝福なのか、悟れないのです。また、いとけない小さい子どもでも、親が教えてさせるなら、「ママ、パパ、大好き」と言って、チューもして、抱きしめたりします。しかし、その子どもの心に、親へのまことの愛と感謝があるとは言えないのです。
このように最初の人アダムも、苦しみを全く体験しなかったので、神が下さったすべての祝福がどれほど感謝なのか、わかりませんでした。神を本当に愛することも知らなくて、自分が味わっているエデンの園の暮らしがどれほど幸せなのかも知らなかったのです。
このようなアダムに、まことの幸せと愛がわかるように、神は「悪」という相対的な概念が体験できる時間をお与えになりました。これが人間耕作であり、この時に必要なものが悪い霊の世界だったのです。それで、神はルシファーが堕落して裏切ることを知っておられましたが、あらかじめ滅ぼさないで、そのまま放っておかれました。しかも、ルシファーとその下の悪い霊どもに、肉の人を支配する空中の権威までお与えになったのです。それで、罪を犯して肉の存在に堕落したアダムは、闇の支配者である敵である悪魔サタンの権威の下で、罪と苦しみを体験するようになったのです。
聖徒の皆さん、いくら闇が深くても、光が臨めば闇は退くしかありません。漆黒のようにまっ暗な部屋でも、明かりをつければ闇は消えます。そのように、いくら闇の権威が強くても、光そのものであられる神に立ち向かうことはできません。神はルシファーとすべての闇の勢力を支配することもでき、願われるなら一瞬にして滅ぼすこともおできになります。実際に、将来、大審判でさばかれた後は、彼らを深い底知れぬ所に閉じ込められるでしょう。
しかし、人間耕作の間は、ただ闇を支配されるのではありません。徹底的に公義に従って治められます。彼らに与えられた権威の範囲では彼らの好きなことをするように、そのまま放っておかれるのです。敵である悪魔・サタンが肉の人を支配するのも、この公義に従って許される部分です。
[創世記3:14]に「神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、(すなわち、サタンに操られて、人が罪を犯すようにさせたので)おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。また、[創世記3:19]には「 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」とあります。
人を惑わした蛇がちりを食べなければならないとは、実際に蛇がちりを食べるという意味ではありません。「ちり」とは、土地のちりで造られ、罪を犯して「肉にすぎない存在になってしまった人」を意味します。「蛇」とは、エデンの園の蛇を操った「闇の支配者である、敵である悪魔・サタン」のことです。すなわち、敵である悪魔・サタンが肉にすぎない存在になってしまった人を餌食にして、試練や患難をもたらすことを「蛇がちりを食べなければならない」と表現したのです。
[ローマ6:16]に「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」とあります。
このように、罪を犯して闇にとどまっている人は、罪の支配者、敵である悪魔・サタンの奴隷になります。サタンが自分に属する人に思いきり試練、患難と災いをもたらしても、これは公義にあって許された部分です。結局、滅びに引きずっていっても、神はそのまま放っておかれるしかありません。
しかし、神は公義の法則に従って、人が闇の力から抜け出す道も示してくださいました。すなわち、神を信じて闇から抜け出て、光であられる神のみことばどおり生きていけばよいのです。するとその人はこれ以上罪の奴隷ではないので、敵である悪魔・サタンが試練、患難と災いをもたらすことはできません。神が炎のような御目で守られるので、悪い霊どもがあえて触れることもできません。
一方、いくら神を信じているといっても、相変わらず闇の中にとどまっている人は守られません。闇の支配者である敵である悪魔・サタンが「こいつは私の奴隷なので、私の好きなとおりいたします」と訴えると、神も許されるしかありません。
聖徒の皆さん、敵である悪魔・サタンは、イエス様の十字架の出来事の後にも、自分の権勢を維持できると思いました。イエス様が罪人の代わりに死なれ、救いの道を開いてくださいましたが、かといって皆がそれを信じるのではありません。たとえば、神が空に火で字を書いて、「救い主イエス・キリストを信じなければ地獄に行く」と、すべての人に見せてくださるのではありません。福音を聞けば、本人が心の扉を開いて、信仰で受け入れてこそ救われるのです。
したがって、敵である悪魔・サタンは自分たちが人の思いに疑いを吹き込んで、福音が信じられないようにすればよい、信じるという聖徒も、再び罪を犯すように惑わして救われないようにすればよい、と計算したのです。また、福音を伝える人々をひどく迫害して、伝えられないように防げばよい、と思ったのです。そうすれば神の摂理が失敗して、自分が勝利できると思ったのです。
しかし、神は徹底に公義に従いながらも、聖霊の働きをとおして魂たちを救われます。いくら敵である悪魔・サタンが惑わしても、福音を聞いて信じられるように信仰を与えられ、みことばのとおりに歩めるように導かれます。聖霊を遣わして心に悟りを与えられ、神の人々を用いて神の力ある証拠を現してくださいます。光で、真理で、それぞれの人生を照らして、闇から離れるようにされるのです。このように公義の法を守られる中で、神のまことの子どもたちが無数に出てくると、神の公義はさらに輝くようになるのです。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、[ヨハネ15:14-15]に「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」とあります。
神が仮にあらかじめ防ごうと思われたとすれば、いくらでも人が蛇に惑わされないようにすることもおできになりました。それなのにアダムが神の命令に聞き従わなかった時は、手塩にかけて育てた息子に裏切られたように、心を痛められました。それから、罪を犯した人の子らが受けるあらゆる苦しみを思われ、悲しまれたのです。
それでもアダムが聞き従わないのを放っておかれた理由は、彼にまことの幸せを味わわせようとされるためでした。不幸も知らないけれど、まことの幸せも知らないままに永遠に生きるのでなく、しばらく耕作を受ける体験をとおして、まことの善と愛の幸せを悟るようにされたのです。
ところで、人が罪を犯して悪を体験したら、自分で罪を贖う方法はありませんでした。相対性を体験して、よくわかったとしても、すでに罪を犯して罪人になったので、結局、地獄に行くしかなかったのです。それで、神はあらかじめ備えられたひとり子を渡してくださったのです。
聞き従わずに罪を犯した人々のために、彼らを再び幸せな天国に入らせるために、イエス様はご自身死の刑罰を代わりに受けてくださいました。そして、その愛を受け入れて、真理の中に生きる人々には、いとしそうに「友」と呼んでくださいます。救いの摂理と霊的な奥義までも教えてくださり、親しい友のように喜びを分かち合うことを願われます。
愛する聖徒の皆さんは、私たちの主の友だと大胆に告白できるでしょうか? 十字架の愛を大切に心に保って、主をこの上なく愛して、真理の中に完全にとどまる皆さんになりますように。それで、皆が主の友であり、神の友と認められる光の子どもになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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