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創世記講解 メッセージ > 創世記講解
創世記講解
Title
   創世記講解(89)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   創 4:15-16
Date
   2012-06-29


[本文]

[創世記4:15-16]
「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」


愛する聖徒の皆さん、「創世記講解」八十九回です。
カインは弟を殺して「地上をさまよい歩くさすらい人」となる懲らしめを受けました。神はこのようなカインを誰も害することができないように「しるし」を下さいました。そのしるしは、カインを守ると同時に、カインが罪人であることを明らかに表してくれました。
神がカインをこのように守ってくださったことには、重要な教訓が込められています。
第一、神はすべての人を限りなく赦して愛されるということです。
神は、このことをカインの当時と後代のすべての人がいつも覚えておくことを望まれました。神は神性と人性が正確にバランスがとれている方であり、どちらか一方に偏ることがありません。
ところで、神の最も基本的なご性質はまさに「愛」です。「公義」は愛を完全にするために必要な要素です。したがって、神がさばきを行われる時も、責められたり指摘される時も、その根幹にはいつも愛があるということです。
このような神の愛は、イエス様を十字架に渡してくださったとき、絶頂に達しました。[ローマ5:8]に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあるとおりです。
これだけでなく、父なる神は私たちのイエス様を通して、数多くの愛のメッセージを伝えられました。「兄弟があなたに対して罪を犯したばあい、七度を七十倍するまで赦しなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。」「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
このように、聖書全体を通してその根幹に流れるテーマは、結局は「愛」という一つの単語に要約できます。父なる神はまさにその愛を、カインの事件を通して直接表して見せられたのです。
第二の教訓は、「罪は嫌うものだが、人は嫌ってはならない」ということです。
皆さんは罪を犯した人をどう見て、どう待遇したでしょうか? ひょっとしてでもその人を指差して非難したことはなかったでしょうか? 平気で罪に定めたりはしなかったでしょうか? 自分に害を加えなかった人にこうしたなら、もし誰かが自分に害を加えるなら、どう反応するでしょうか?
[ヤコブ4:11-12]に「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」 とあります。
聖書のどこを読んでも、兄弟の罪を指摘して、さばいて罪に定めてもよいというみことばはありません。さばいて罪に定める権限はただ神にあります。私たちはただ罪人を憐れんで、祈らなければなりません。
皆さんが信仰の弱い人を見る時も、このような心構えでいなければなりません。教会に来たばかりの初信者や信仰が幼い聖徒たちは、どうしても思いや言葉と行動に世の習慣がしみついています。皆さんがこのような聖徒に対するとき、何が何でも「それは間違ってます」と指摘して、何かを強いてはいけません。すると相手には反感が生じて、もう教会に来ないぞと思うこともあります。
[ローマ14:1]に「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあり、[ユダ書1:22]にも「疑いを抱く人々をあわれみ、」とあります。
今は聖徒の皆さんのうち、多くの方が信仰の岩以上、御霊の歩みに入る直前まで来ました。これは、心に真理がそれほどさらに多く臨んでいるという意味です。心に真理が多いほど、自分を渡してはまた渡せる心になります。相手を理解して受け入れる広い心になります。
私たちの父なる神様は、カインのような人にも生きる道を開いてくださいました。聖徒の皆さんはこのように広々した父なる神様のお心に完全に似せられますように。罪と悪は徹底的に嫌うが、弱くて罪を犯した人は愛でいだけるようお願いします。それで、罪と悪がはびこっているこの終わりの時、霊の愛の力で多くの魂を救いに導きますよう、主の御名によってお願いします。
聖徒の皆さん、本文[16節]を見ると、カインがこれまでとどまっていた所を離れて、新しい地に定着する場面があります。「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」とあります。
カインはその前までアダムとエバと一緒に住んでいました。アダムとエバがエデンの園からこの地上に追い出されて定着したところは、今の「イスラエル」の地でした。アダムとエバはこの地上に降りてきて、子どもをたくさん生みましたが、カインとアベルの他には、みな分家させました。したがって、カインはその時まで、親と一緒に今のイスラエルの地に住んでいたのです。
しかし、これからは懲らしめを受けて、その地を離れなければならなくなったのです。これについて、本文に「それで、カインは、主の前から去って、」とあります。これは、これから彼が「神の恵みと保護から離れた」という意味です。
神は、アダムがたとえ罪を犯して、この地上に追い出されていても、アダムを注目し続けられました。アダムが定着した地域から霊の通路を取り上げられないで、愛をもって交わられたのです。まるで出エジプトの時、エジプトのゴシェンの地を特別に扱われたように、アダムが定着したその地域に特別な関心を持たれました。
だからと言って、当時、他の地域が汚染されたり、何かの災害があったという意味ではありません。イスラエルの地への神の関心と愛が、他の地域に比べて非常に大きかったという意味です。ひと言で言って、その地には神の恵みと恩寵が臨んでいました。
もし、皆さんの子どもや愛する人が海外にいるなら、どうしてもその地域に心が向くのではありませんか? ひょっとしてその国から大きい事故や災害のニュースが聞こえれば、耳をそばだてるでしょう。うちの子がいる地域は安全なのか、事件、災害の現場からはどれほど離れているのか、確認してみるでしょう。
このように父なる神も、この地上でアダムが定着した地域に特別な関心を持っておられました。アダムの息子カインはそれまで、そのように祝福された空間に住んでいたのです。ところが、今は懲らしめを受けて、その地域を離れなければならなくなりました。こういう意味で「それで、カインは、主の前から去って、」と表現したのです。
カインが新しく定着した地域は「エデンの東、ノデの地」でした。ここで「ノデ」という地名には「荒れ地、不毛地」という意味が含まれています。カインは呪われたとおり「その土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」所に住みつくようになったのです。
ところで、ここでこのノデの地の位置が「エデンの東」とあります。「エデン」は第二の天にある光の領域ですが、それなら、ノデが第二の天にあるという意味でしょうか? そうではありません。アダムも第二の天に再び上ることができないのに、まして罪を犯したカインが行けるでしょうか。
それでは、ここにある「エデン」とは、どこでしょうか? まさにエデンの園に通じる霊の通路がある地域を指します。アダムはこの通路を通ってこの地上に降りてきたし、エデンの園の子孫もこの通路を通って、アダムに会いにこの地上に寄って行ったりしました。
アダムにとっては、この霊の通路がある所が「エデン」のようでした。アダムがこの地上で生んだ子孫には、自然にその地域が「エデン」と呼ばれるようになったのです。カインが新しく定着した地域は、まさにこのエデンを基準にして、東のほうでした。エデンからそんなに遠くなかったのです。カインは「少し遠く移った」と思ったけれど、実際はそんなに遠くへ行けなかったのです。当時は交通手段も発達していなかったので、おもに歩かなければならなかったからです。「このくらいなら同族の目を避けられる」と思われる所にカインは定着しました。しかし、そこは荒れた不毛地でした。以前住んでいた地とはとても違いました。
聖徒の皆さん、私たちはカインを通して、神の恵みと保護にいる人生とそうでない人生がどれほど違うのか、悟らなければなりません。私たちの神は移り変わることがありません。誰かを守ったり、やめたり、思いのまま変えられる方ではありません。初めに立てられた公義に従って実行されるだけです。
まさに神は光であるので、光の中を歩んでいる子どもたちに恵みと愛を施されます。しかし、闇の中にとどまっている人はサタン・悪魔に属します。光と闇が共存できないように、光である神が闇の子どもを守ることはおできになりません。この「規則」は初めから今まで、変わらず適用されてきたし、永遠にそうでしょう。
神はモーセを通して、その規則を具体的にいちいち教えてくださいました。それはモーセ五書に記された戒め、定め、おきてであり、およそ613条項です。神は、イスラエルの民がこの律法を守る時に臨む祝福と、守らない時に臨む災いについても明らかに教えてくださいました。代表的にレビ記26章と申命記28章に詳しく記されています。
ところが、イエス様はこれらすべての律法を愛で全うされました。私たちにも「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と[ヨハネ14:15]で言われました。また、[ヨハネ14:21]には「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」とあります。
父なる神を、主を愛する人は、神のことばどおり生きるのが楽しいです。神のみこころと反対に行なうと、大変で苦しいです。私たちの父なる神は愛そのものなので、まことに神を愛する子どもたちには、あふれる愛を施してくださいます。「いのちの袋」にしまわれて、いつも守ってくださいます。いのちを失うこともある危険な状況でも、全くけがをしないように守ってくださるのです。また、どんな病気にもかからないで、いつも健康に生きるようにしてくださいます。これとともに、子どもたちが願いを申し上げれば、父なる神はお聞きになり、成し遂げてくださいます。人にはできないことも実現して、神の子どもらしく生きるようにしてくださるのです。
皆さんも、神を見つけてから、こういう体験をしたでしょう。主との初めの愛が熱かった時は、求めるものは何でも答えられました。皆さんがその初めの愛を失わなかったなら、神から恵みと祝福もいつも受けていたでしょう。もし前はすぐ答えられたのに今はそうでないなら、自分の信仰を顧みなければなりません。
答えられるための公義は信仰の量りに応じて基準が違います。信仰が成長するほど基準が高くなります。したがって、現在の信仰の行いが、ひょっとして初めて信じた時より劣っているのではないのか、信仰は成長したが、行ないもそれにふさわしく見せているのかを真実にチェックしなければならないのです。まして、再び罪を犯して、いのちの道でなく死の道に向かっているなら、祈りに答えられるのは難しいです。
父なる神が定められたいのちの道、祝福の道は変わりません。人のほうから心が移り変わって、その道からはずれるとき、神に守られなくなります。この事実を悟り、いつも神の恵みがあるところを慕いますように。神が教えてくださった道だけに行きますように。それで、皆さんの人生に、神が皆さんを愛するしるしがいつも伴いますよう、主の御名によって祈ります。

 
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