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メッセージ >
黙示録講解
Title
黙示録講解(25)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:7-13
Date
2007-05-18
<黙示録3:7-13>
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
きようからは七つの教会のうち、六番目のフィラデルフィヤ教会について調べていきましょう。
フィラデルフィヤ教会に下さったみことばは、本教会にはかなり重要な意味を持っています。それはフィラデルフィヤ教会へのみことばが、本教会に向けられた神様の摂理とも一致しているからです。
開拓の翌年、1983年、クヮンジュ祈梼院で祈っているうちに、神様は「本教会は神様が直接建てられて、直接つかさどられ、主が来られる時まで直接働かれる」と仰せられました。そして、神様が認めて守られ、ともにおられることを明らかにするために、本教会に関するみことばが聖書のヨハネ黙示録に記されている、と言われました。その内容がきょうの本文、フィラデルフィヤ教会へのみことばです。
もちろん、どの教会でも、フィラデルフィヤ教会に下さった主のみことばを自分たちのみことばとして受けて、それを目標として走って行くなら、いくらでもフィラデルフィヤ教会に下さった祝福がその教会にも臨むのです。
ところが、本教会は去る25年間、本当にフィラデルフィヤ教会が歩んできた道を目標として、実際、そのように行なってきました。みことば一節一節に含まれた内容が、本教会が歩んできた歴史の中でも、そのまま繰り広げられてきました。
それでは「どうして、このみことばが本教会に向けられた摂理と一致するのか」、今から伝えるメッセージを通して、一つ一つ悟っていく恵みの時間になられますように。それだけでなく、このメッセージを聞くすべての教会と聖徒の皆さんも、皆さんの教会がフィラデルフィヤ教会のように、主から称賛される教会になるためにはどうすればよいのかを悟って、まことに主から愛されて称賛される美しい教会になりますように、主の御名で祈ります。
本文<7節>に、フィラデルフィヤ教会に語られる主は、「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方」であり、「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」方として書かれています。ここで「聖なる」ということは、「人より優れて、罪に染まらず、傷と点としみがなく、神様のみことばどおり生きるのでいつも神様に栄光を返している」という意味です。
ところが、もともとこの「聖なる」という表現は、人に使える表現ではありません。聖なる、真実な方は、ただ神様おひとりだけです。ですが、たとえ人であっても、罪によって失った神様のかたちを取り戻して、聖なる神様に似せられた人には、「聖なる」という表現が使えます。
<ヨハネ10:34- 36>に、「イエスは彼らに答えられた。『あなたがたの律法に、「わたしは言った、あなたがたは神である。」と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、 『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」とあります。
ここで「神のことばを受けた人々」とは、真理のみことばを守って行う人を意味して、神様がこういう人々は「神」と呼ばれるようにしてくださる、という意味です。
もちろん「神と呼ばれるように」と言われたからといって、それが本当に神様と同じような神の次元に至る、という意味ではありません。完全な神様の子どもとして、霊の人であり、真理の人であると認めてくださる、という意味です。
したがって「聖なる」という言葉は、もともとは人に使えない言葉ですが、<第一ペテロ1:16>に、「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」とあるように、父なる神様に似せられて、真理の中を完全に歩む子どもがいるならば、このような人は神様が認めてくださるので、「聖なる」と言えるのです。
そして、このように父なる神様に似せられて、子どもたちも聖なることが神様の願われるみこころです。それで、イエス様も<マタイ5:48>で、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と言われました。
また、<ヨハネ17:17-19>には、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」と書かれています。
次に、私たちの主を「真実」と言いましたが、「真実」とは、「偽りのないまこと」を意味します。変わらないこと、 右にも左にもそれないこと、嘘をついたり欺いたりしないこと、約束を破らないこと、ずるがしこくないことなど、こういうすべてが真実です。
聖徒の皆さん、真実はとても重要です。皆さんが真実であるとき、信仰も与えられて、みことばが皆さんに生きて働くようになり、神様の力も体験するようになります。神様のみことばが、つまり、真実だからです。それで、心が真実になるほど、神様のみことばに対する確信が与えられて、真実が見分けられるので、揺れない信仰を所有するようになるのです。
一方、真実でない時は、みことばに疑いが生じることもあって、時にはいろいろな真理に逆らうものに惑わされることもあります。
<第一コリント2:13>に、「 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあるように、真実もやはり真実な心でだけ見分けられるのです。真実でない心では、決して真実が理解できない、ということです。
皆さんもこのような真実を慕い求めて実現して、「まこと」が見分けられる幸いな聖徒になられますように。
このように聖なる方、真実な方である主が「ダビデのかぎを持っている」と言われています。それなら、はたして「ダビデのかぎ」とは何でしょうか?
まずダビデについて調べてみると、ダビデは神様が選ばれた民族、イスラエルの二番目の王でした。彼は幼いころから誰よりも神様を愛して恐れ敬い、神様に多くの栄光を返しました。また、彼はみこころのとおり行なって、神様に喜ばれた人として、「神様の心にかなった者」と認められました。
このようなダビデだったので、彼は神様からすべての祝福を受けて味わいました。ダビデが王だったとき、イスラエルが最も栄えて、多くの領土を拡張して、大きな富を味わって隣国からみつぎ物まで受けました。
また、ダビデ王は多くの民に愛され、称賛されました。言いかえれば、ダビデには富と名誉と権勢、神様の愛と民の愛など、すべての祝福の門が開けるかぎがあったということです。これを示し、まさに「ダビデのかぎ」と言うのです。そして、このダビデのかぎを持つと、ダビデ王がそうだったように、天の門を開いて神様が下さる祝福が思いきり受けられるのです。
ところで、このようなダビデの系図を通して、私たちの救い主であるイエス様がお生まれになったので、最も重要な救いの門も開かれるようになります。ダビデは、このように自分の系図を通して生まれたイエス様によって救いの門まで開かれる、想像できない祝福を受けたのです。
愛する聖徒の皆さん、多くの宝が入っている倉があるとしましょう。この時、この倉を開くためにはかぎが必要です。かぎを持った人だけがその倉の門を開いて、その中にあるものが思いきり受けられるのです。
ところで、神様はダビデにどんな祝福の門でも開けるかぎを下さったので、ダビデは多くの祝福を受けることができました。これは、ダビデがそれほど神様の前にふさわしい者として、そのかぎを受ける資格があったからです。
ところが、ダビデもこのような資格を得るまでは、厳しい訓練の時間を送らなければなりませんでした。神様の完全な祝福の中に入るためには、本性の中の深い悪までも取り出さなければならないからです。
その訓練のスタートがまさに、ダビデ王が部下ウリヤの妻バテ・シェバを召し入れて、これを隠すために忠実な部下ウリヤを異邦人の手で死ぬようにさせた事件です。ある人々はこの事件について、「ダビデ王はどうしてあんなに大きな悪を行なったのに、神様から認められる人になって大いに祝福されたのか」といぶかしく思うこともあります。
ところが、ダビデ王が行なったことはもちろん大きい罪でしたが、これはダビデ王が特別に悪かったからではありません。むしろダビデ王は善良な人だったけれど、彼の「地位」のため、小さな悪の姿がこのように大きい罪にまで現れたのです。これはどういう意味でしょうか?
当時、ダビデは周辺諸国を治める偉大な王であり、その気になればどんなこともできる強大な権勢を持っていました。こういうダビデ王に、まだ本性の中に捨てられなかった悪の姿がありました。それがこの事件を通して、明らかにされるようになります。
この状況を理解するためには、皆さんがダビデ王の立場になったと考えてみましょう。ダビデ王のような強大な権勢を持つと、普段は心にだけ持っていたことを行いに移せることがあるのではないでしょうか?
たとえば、ある人が何の理由もなく皆さんをけなして憎むなら、皆さんの中のある方々はその人が嫌いになり、はなはだしくはその人を何とかしたい、という気がすることもあるでしょう。ところが、ある日突然、皆さんに相手を思いのままに扱う、また、そうしても何の処罰も受けない、絶対的なものすごい権勢が与えられたとすると、はたしてどんなことが起きるでしょうか? 「私にはそういう悪い心はない」と言った人であっても、自分も知らない本性の中の深い悪が明らかにされることがあるのです。
したがって、皆さんはダビデ王の例を通して、いくら小さいことであっても、悪の姿が残っている限り、適当な環境と条件が作られるなら、いつでもそれによって罪を犯す可能性があるという事実をよく悟らなければならないでしょう。
したがって、<第一コリント10:12>にあるように、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけ」るべきであり、悪はどんな悪でも避けるために、みことばと祈りを通して、絶えず罪と悪と戦っていかなければなりません。
神様はまさにダビデにも、このような本性の中の深い悪の姿があることをご存じだったので、彼に訓練を許されて、彼が徹底的に自分を発見して悟って、完全に聖潔な姿になるように導かれたのです。
ところで、ダビデ王はこのような神様の摂理によって厳しい訓練を受けながらも、それを感謝して、よく勝利していきました。息子アブシャロムの裏切りによって、王宮を捨てて急いで逃げているダビデ王に、民にすぎないシムイという人が、「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。」とあざけって、のろいました。こういう状況で、前のダビデならばどうしたでしょうか? 息子に追われてみじめに逃げている状況で、このようにのろいの言葉で自分を蔑む民を、自分の権勢でいくらでも罰することもできたでしょう。
しかしダビデ王は、このようなすべても神様が自分に許されたものとして受け入れました。周りからは、むしろ部下たちのほうがもっと興奮して、すぐ行ってシムイを殺す、と言いましたが、ダビデ王はこのような部下たちを引き止めました。シムイを十分に殺す権勢があったのに、その権勢を使わなかっただけでなく、すべてを神様のみこころとして受け入れるへりくだった姿がよく現れています。以前、自分の権勢を利用して、罪のない善良な民を死なせたのとは、全く違う姿に変えられていたのです。
このようにダビデは訓練を通して、さらに美しくて完全に、神様の前にかなった姿として出てきました。そして、神様はこのように祝福されるのにふさわしい器をお作りになった後、ダビデに驚くべき祝福の門を開く答えのかぎを与えられました。
ところで、このような「ダビデのかぎ」はただ何人かの決められた人にだけ与えられるものではありません。神様を愛して、主に似せられて、聖なる真実な人ならば、誰にでも差別なく与えられるのです。
神様は資格を備えた人がいるならば、ひとりでも多くの人に与えることを願われます。皆さんも神様が願われるふさわしい資格を備えていく分、健康の門が開かれ、物質の祝福の門が開かれ、名誉と権勢、そして神様がともにおられて守られる門など、準備された器にふさわしい祝福の門が開かれるようになります。ついには、最も大きな祝福の門である新しいエルサレムの門を開くかぎも与えられるようになります。
ところで、本教会も開拓してから今まで、このように神様が下さる数多くの祝福の門を開いてきました。それは、本教会が神様の摂理の中で、とても大きくて驚くべきことを実現しなければならないので、主が開拓の時、すでに本教会と私にダビデのかぎを下さったからです。
それで、敵である悪魔・サタンを支配して治められる霊的な権勢の門を開き、霊の世界を明らかに知って体験できる霊の世界の門を開いてきました。大きな不思議としるしと奇跡が行える御力の門を開き、世界宣教と民族福音化を通し、数多くの魂たちを救いの道に導く救いの門を開いてきました。そして、今はカナン聖殿と大聖殿の門を開いていくところなのです。
ところが、皆さんが必ず心に刻まなければならないことは、すべての門は必ず公義に合わせて、ふさわしい資格を備えただけ開かれてきたということです。私ひとりの信仰で開ける門もありますが、教会として実現すべき使命と祝福は、必ず全聖徒が神様の願われるふさわしい資格条件を備えなければなりません。それで、教会としての祝福の門を完全に開いていくとき、皆さん個人的にも新しいエルサレムの門を開くかぎがそれだけさらに近づいてくるのです。
次に、<7節の後半>に、「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」とあります。
私たちの主が門を開くとだれも閉じる者がなく、閉じるとだれも開く者がいません。救いの門もやはりイエス・キリストの御名でだけ開かれるのであり、この開かれた門を誰も閉じることができません。敵である悪魔・サタンもどうすることができないのです。主はすべてを父なる神様のみこころに従って開いて閉じられるので、一寸の誤差もなく正確に父なる神様の摂理の中で、すべてのことを成し遂げていかれます。
このような権威を持たれた主がフィラデルフィヤ教会に対して称賛されます。<8節の前半節>に、「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」とあります。
愛する聖徒の皆さん、主からこういうみことばを聞くことは、大いなる祝福です。主が祝福の門を開いておかれたなら、人や天使、敵である悪魔・サタンでもどうすることもできないのです。同時に、このみことばは途方もない権威と力を認めて下さるみことばです。
<マタイ16:18-19>で、イエス様は一番弟子のペテロに、「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と言われました。
まさに「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」というみことばには、このようにこの地上でつなぐなら天においてもつながれていて、この地上で解くなら天においても解かれている、驚くべき権威が含まれているのです。
ところで、このみことばはペテロにだけ当てはまるのではありません。神様が認めて守られる神の人と教会にも同じように適用されます。神様が直接立てて導いて行かれる人と教会は、すべてが神様の摂理の中にあるために、主が一度開いて下さった門は、どんな状況でも決して閉じられないのです。
これは、本教会が今まで実現してきた、いろいろな海外の聖会を見てもわかります。神様が一度成し遂げようと定めて「実現しなさい」と命じられたことに関しては、いくら敵である悪魔・サタンがひどく妨げても、必ず成就されたことが見られます。武力でも、人間の法律でも妨げられなかったし、いくら人のほうであれこれの方法で妨げようとしても、結局は神様がすべてを働かして益としてくださるので、より大きく栄光を返しました。
<第二コリント4:8-9>に、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」とあるように、主の力強い御手が本教会と私と皆さんを支えて働かれるので、主が私たちの前に開いておかれた門を誰も閉じられなかったのです。そして、きのうもきょうも、いつまでも同じであるイエス・キリスト、私たちの主は、私たちを連れにまた来られるその日まで、変わらずに私たちと共におられて守ってくださいます。
ところが、主はこのように祝福の約束を与えられたフィラデルフィヤ教会に、「あなたには少しばかりの力があって」と言われました。
もちろんこのみことばの意味は、フィラデルフィヤ教会は少しばかりの力があっても、主のみことばを守り、主の名を否まなかったことに対して称賛しておられる内容です。しかし、それでも主から称賛されるほどよくやっている教会に対して、なぜ「少しばかりの力がある」と言われたのでしょうか?
ここには二つの意味があります。まず「少しばかりの力」とは、皆さんが初めて主を受け入れて、からし種ほどの信仰があった時の状態を示す言葉です。
からし種の大きさは、白い紙にボールペンでつけた点一つほどにしかなりません。初めに信仰生活する人はほとんどこのように小さい信仰から出発します。しかし、その小さいからし種が育って、木になって、その木の枝に空の鳥がきて宿るように、信仰もやはり初めは小さい信仰から出発しますが、だんだん成長していって、大きい信仰に至るのです。
ところが、重要なことは、フィラデルフィヤ教会はこのように初めにあった少しばかりの力、つまり、小さい信仰の時から、聞いて学び受けた主のみことばを守り、一生懸命に信仰を育ててきたということです。少しばかりの信仰でも、主の御名を否まないで、世に勝って勝利してきたのです。
実際、多くの方々の場合、初めに信仰生活をスタートして、少しばかりの力をもって神様のみことばを守って行くことは簡単ではありません。世に勝つ力もその分弱いからです。それで「真理はこうすることなのに」と知っていながら、実際、現実では真理のみことばどおり行えないのです。
たとえば、主日に「憤りを捨てるべき」というみことばを通して恵まれてから、「これから、きょうのみことばを守り行おう」と誓いますが、何か気を悪くすることがあったり、傷ついたりすると、すぐ前の姿が出てしまいます。少しばかりの力がある時は、このようになりがちなのです。
しかし、少しばかりの力でも、まことに聞いたみことばを心に刻んで、一週間、みことばをもって火のように祈る方は、聖霊に助けられて十分に勝利することができます。フィラデルフィヤ教会はこのように少しばかりの力であっても、一生懸命に祈って、聞いたみことばを守り行うことによって、すみやかに信仰が成長して、主に称賛される教会になれたのです。
「少しばかりの力があって」と言われたもう一つの意味は、次の時間に続けて調べましょう。
愛する聖徒の皆さん、聖書に記された神様の祝福のみことばは、それを信仰で受けて、自分のものとして実現するために努力していく、どこの誰にも同じように下さった約束です。
したがって、本教会も主がフィラデルフィヤ教会に下さったみことばが、本教会に向けられた神様のみこころと摂理であることを堅く信じて、実現するために努力していかなければなりません。神様が祝福のかぎを下さっても、そのかぎをもって門を開き、その中の祝福を引き下ろすのは、私と皆様と本教会がしなければなりません。
今までもよくなさってきましたが、<ハガイ2:9の前半節>に、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主の御告げ。・・」とあるように、私たちは以前より、今後さらに大いに成し遂げて、神様に栄光を返さなければならないのです。
このために、たとえまだ少しばかりの力を持っている方でも、各自の与えられたところで最善を尽くす聖徒のひとりひとりになられますように。それで、その忠実と献身と涙と汗が集められて、私たちに与えられた世界宣教と大聖殿建築の使命をさらにすみやかに果たすことができますように、主の御名で祝福して祈ります。
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