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黙示録講解
Title
黙示録講解(24)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:1-6
Date
2007-05-04
<黙示録3:1-6>
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
愛する聖徒の皆さん、<第一ペテロ1:23>に、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とあります。
それなら、皆さんは朽ちない種、つまり、生ける、いつまでも変わることのない神のことばを受けられたでしょうか? はい、ほとんどの皆さんは、神のみことばである水と御霊によって新しく生まれたでしょう。
ところが、重要なことは、ただ朽ちない種、すなわち、神のみことばを受けたとしても、それで終わったのではないということです。その種が芽生えずに、実を結ばないなら、種をもらっても、結局何の役にも立たないからです。心に植えつけられたみことばの種を、最善を尽くして育てて、豊かな実を結んでいく人が本当に新しく生まれたのであり、「生きている」と言えるのです。
したがって、神様のみことばを聞いて頭だけで知っていて、知識的に保っておくことは、まことの信仰だと言えないのです。聞いたみことばをもって火のように祈って、みことばのとおり行なっていくとき、心に植えつけられたみことばの種が芽を出して育ち、三十倍、六十倍、百倍の驚くべき実として結ばれるのです。
ところが、仮に、今まで聞いたみことばはたくさんありますが、心に霊に耕した実を結ばなかったなら、今からでも本当に悟って立ち返り、見て聞いて学んで受けたみことばを守り行なっていかれますように。それで、皆さんに盗人のように臨まれる主ではなく、慕い待つ花婿として来られる主を、目を覚まして迎えるすべての皆さんになられますように。
聖徒の皆さん、時には務めがあって信仰もありそうな人でも、実は死んだ信仰を持っている場合があります。イスカリオテ・ユダは、表から見ると、イエス様の弟子として認められるほどの位置にいましたが、受けた恵みを捨ててイエス様を売るという大きな罪を犯して、結局死に至りました。
サウル王も一時期は神様に認められて、イスラエルの王に立てられましたが、その心がますます高まって、神様の御心に逆らっていき、ついに死の道へ行きました。
したがって、信仰の基準は人のうわべや務めにあるのではありません。ただ神様のみことばだけが基準になります。務めを持っている者であり、リーダーであっても、あるいは牧師であっても、神様のみことばに逆らうように教えたり行なったりするなら、決してそれに耳を傾けてはいけません。本当に重要なのは「教える位置にいるのか」ではなく、「教える人が本当にそのみことばを守り行なっているのか」ということです。
<マタイ23:1- 3>を見ると、教えてはいるが、自らは行わない人々について、「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。『律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。』」とあります。
また、<マタイ5:19>には、「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」とあります。
ですから、皆さんは小さいものの一つを教えても、それを自分自身がまず行うことが本当に重要だという事実を悟らなければなりません。このように一つ一つ行なって全き行いを実現するとき、そういう人が将来、天の御国でも「偉大な者」と呼ばれ、また、この地上でも伴うみことばの権威によって、多くの人々を変えさせる「偉大な者」になるのです。
愛する聖徒の皆さん、「神様を信じている」と言い、「主よ、主よ」と言いましたが、みことばの中に生きられなかったので、結局行いのない、死んだ信仰を持っていたサルデス教会は、「生きているとされているが、実は死んでいる。」という厳しい非難のお言葉を聞きました。そして、これまで受け、聞いたものを思い出し、それを堅く守り、また悔い改めなさい、というみことばを聞きます。
ところで、サルデス教会の聖徒のみなが死んだ信仰を持っていたのではありませんでした。本文<4節>に、「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」とあります。
もちろん「幾人か」と言われたように、これはサルデス教会の聖徒の中できわめて一部にだけ当てはまるのですが、それでも彼らの中には、信仰を守って衣を汚さなかった聖徒たちがいたのです。それでは、衣を汚さなかったとは、どんな意味でしょうか?
「衣」とは「人の心」を意味します。したがって、「衣を汚さなかった」とは、結局「心を汚さなかった」という意味です。
これはつまり、真理の中で信仰を持ってみことばを守り行なって生きているので、その心が世の罪と悪で汚されなかったという意味です。また、一生懸命に罪と戦って血を流すまでこれを捨てていき、真理を知る前に汚された心をきよめることであり、このようにきよめられた心に再び真理に逆らうものと汚い罪と悪をつけないという意味です。
何としてでも目を覚まして祈り、まことの信仰を守ろうとする人々に当てはまるみことばです。たとえ目の見えない人が目の見えない人を手引きして、ふたりとも穴に落ち込むしかない状況でも、自ら良心の声を聞き、神様が願われることを実現しようとした聖徒たちが、サルデス教会の中にもいたのです。
このような人々に主は「彼らは白い衣を着て、わたし(つまり、主と)とともに歩む。」と言われます。また、「彼らはそれにふさわしい者だからである。」と言われました。しかし、サルデス教会にいる幾人かの聖徒がこのように「衣を汚さなかった」、「ふさわしい者だ」というみことばを聞いたからといって、これが全き聖潔に至ったという意味ではありません。
サルデス教会の全体的な信仰を見ると、それでもそのような環境で真の信仰生活をするために祈って努力したことが主の心にふさわしかったという意味です。ですが、ほとんどが死んだ信仰を持っていたサルデス教会の中で、このように信仰を守ってみことばの中で生きていくので、主からふさわしいと認められた人々ならば、それでも彼らの信仰が良かったことがわかります。
信仰生活をすることがやさしくなかったサルデスで、しかも周りはすっかり世に染まって、世と友になっている聖徒ばかりなのに、その中で信仰を守るということは容易ではありません。しかし、このような状況でも、信仰を堅く守って行くことはまことに大きな祝福です。
たとえば、ある方は信仰生活をしているうちに、家族から迫害される場合があります。すると、「私はなぜこんなにつらい信仰生活をしなければならないのだろうか? 私も家族と一緒に気楽に信仰生活をすればよいのに」と思うこともあります。
この場合、もちろん家族が完全に福音化されて、皆が一緒に信仰生活をするなら、これは本当に幸いなことでしょう。しかし、そうでなくても、これもまた、自分にとって祝福であることを悟らなければなりません。
神様は人の心の畑と器によってそれぞれ訓練をされます。それでその訓練を通して、足りない分野を満たして、魂に幸いを得る祝福に導かれます。家族の迫害の中で信仰生活をする人は、たとえその時はつらくて苦しいかもしれませんが、そのためにさらに目を覚まして祈るようになります。また、忍耐を学ぶようになります。
そして、家族のために切に祈るうちに、家族への霊的な愛が育ちます。家族を肉の親と兄弟として見るなら、自分を迫害することがさびしく思われることもあり、時には嫌な感情が生じるかもしれませんが、霊的な愛を持つと、どんな状況でも感謝ができて、家族もひとりの魂として接することができます。
同時に、主の御名によって受ける迫害ですので、天の御国に報いになり、つらい環境でも信仰を守って信仰生活をしたので、より強い信仰の根を下ろすこともできます。
このように、サルデス教会にもその衣を汚さなかった幾人かの人々は、信仰を守るためにほかのところで気楽に信仰生活をする人々よりも、さらに熱く祈ったはずであり、謹んで自分を守るためにさらに努力したでしょう。その結果、主の前で認められるふさわしい者になれたのです。
したがって、皆さんの周りの迫害や苦しい環境がすぐには、つらく思われるかもしれませんが、これが結果的には皆さんに霊的な祝福をもたらすことを、信仰の目で見つめて感謝されますように。
サルデス教会で主からふさわしい者だと認められた人々も、まさにこのような信仰で走って行ったので、「白い衣を着て、主とともに歩む」祝福を受けたのです。
しかし、私たちが主とともにいることと、ともに歩むこととは違う、という事実を悟らなければなりません。皆さんが将来、天国のどの場所に入っても、主は天国のどこにでも行かれるので、皆さんが主とともにいることは可能です。
たとえパラダイスにいても、時々主が来られて、ともにおられる時間が持てます。もちろん主がパラダイスに来られたとしても、パラダイスの魂たちが主の御前に出て来て、顔と顔とを見合わせて対話したり、自由に散歩できたりするのではありません。しかし、明らかに主はパラダイスの民とも、ともにいてくださいます。
ですが、主とともに歩むとは、こういうこととは違います。三天層以上、もう少し正確に言うと、新しいエルサレムにとどまる民だけが、まことの意味で主とともに歩めるのです。
「ともに歩む」とはどういうことでしょうか? いつどこででも一緒にいることを言います。ですから、主と明らかにともに歩むことができるためには、新しいエルサレムにとどまる資格を備えてこそ、自由に顔を見合わせて対話もして、一緒に散歩することもできるのです。
聖徒の皆さん、ところで、このように永遠の天国で主とともに歩むためには、この地上でも主とともに歩むのにふさわしい資格を備えなければなりません。主は、真理の中で生きていく神様の子どもたちとはもちろん、ともにいてくださいますが、その中でも、神様をこの上なく愛して、悪はどんな悪でも捨てて、聖められた人とはともに歩んでくださいます。
主がともにいてくださることと、ともに歩んでくださることとは、途方もない差があることを、この前、天国での姿を通しても申し上げましたが、この地上でもその差は明らかです。主がともに歩んでくださるなら、それに伴う保障と権威、そして力などが、確実なしるしとして現れます。皆さんも主とともに歩むことを慕って、それにふさわしい資格を備えられますよう、主の御名で祈ります。
次に<5節の前半部>に、「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」とありますが、ここで「勝利を得る」とは、「信仰を守って真理の中に生きていくこと」を言います。そして、このような者は「白い衣を着せられる」とありますが、ここで「白い衣」とは、「救われた人が着る衣」です。
仮に主の空中再臨の時、天に挙げられずに七年大患難に残っていましたが、殉教して恥ずかしい救いを受けた人であっても、その人にはこの白い衣が与えられます。したがって、ここで言う「白い衣」とは、救われた人ならば皆が着る衣として、つまり、救いのしるしを言うのです。
ところで、前の<4節>にも白い衣がありましたが、そこでの白い衣とは、単純に救いのしるしを意味するのではありません。私たちが天国に行けば、皆に白い衣が与えられます。しかし、「どれほど聖められたのか」によって、与えられる白い衣の光が全部違います。神様の前にもっとふさわしい人であるほど、もっと明るい光の白い衣を受けるようになります。
それで、天国では相手の衣だけを見ても、その人がこの地上で耕作を受けたとき、どれほど主に似せられたのかがわかります。また、衣に付けるいろいろな飾りを通して、この地上で積んだ報いについてもわかります。行なったとおり報いてくださる公義の神様は、この地上での各人の行いによって、その報いにふさわしい美しい飾りを授けてくださるからです。
この時間、皆さんも将来、天国で自分が着るきらびやかな光の白い衣を、頭の中で一度描いてみられますように。そして、その輝く衣を着て、主とともに歩むためには、「私が今どうすべきなのか」、もう一度考えて決断する皆さんになられますように。
続く<5節の中間>に、「そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」とあります。
愛する聖徒の皆さん、人が目に見える肉のいのちがあるからと言って、まことに生きているのではありません。
アダムが罪を犯したことによって死んだ霊がよみがえってこそ、まことのいのちがあるのです。主を受け入れずに暗やみの中にとどまり、悪魔の子どもとなっている人は、霊が死んでいるので、結局、死んでも永遠の死である地獄に行きます。
しかし、イエス・キリストを受け入れて、聖霊を受ければ、死んだ霊がよみがえって、永遠のいのちを得るようになり、その名が天国のいのちの書に記されます。このいのちの書に名前が記された人だけが救いに至るのです。それで<黙示録20:15>にも、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とあるのです。
ところが、このみことばは、今、現在、自分の名前がいのちの書に記されたからといって、救いが保障されているという意味ではありません。まさに、白い御座の大審判の時、裁判長であられる神様がいのちの書を開かれたとき、そこに名が記されていてこそ救われるようになります。
「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」というみことばを、私たちが逆に考えてみると、その名がいのちの書から消されることもある、という意味が含まれています。すなわち、一度いのちの書に名前が記されていても、消されることもある、という意味です。
たとえば、子どもが生まれて戸籍に載せましたが、その子どもがさほど経たずに死んだら、どうなるでしょうか? 戸籍からその名前が消されるのです。
いのちの書に記された名も同じです。今日、信仰生活をする多くの人々が、ひとまず自分の名前がいのちの書に記されてからは、勝手に生きて罪を犯しても、教会にだけ行ったり来たりすれば天国に行く、と思っているのですが、決してそうではありません。
これは私の言葉でなく、神様のみことばです。いのちの書に名が記されるその時から、永遠のいのちを得るための道に入ったということですが、それ以後、いつでもこの永遠のいのちの道から離れると、後には聖霊が消えてしまい、いのちの書からもその名が消されるのです。
それで、<第一テサロニケ5:19>に、「 御霊を消してはなりません。」とあります。これは、御霊が消されることもあるから、そうならないように注意しなさい、という警戒のみことばなのです。
また、<出エジプト記32:33>には、「すると主はモーセに仰せられた。『わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。』」とあります。すなわち、いのちの書から名を消すこともある、と明らかに言われているのです。
<第一コリント15:2>にも、「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」とあります。私の宣べ伝えたこの福音のことば、つまり真理のみことばを聞いたからといって救われるのではなく、よく考えもしないで信じたのでないなら、そのみことばをしっかりと保っていれば救われる、と言っているのです。
それでは、「よく考えもしないで信じた」とはどういうことでしょうか? まさに肉の信仰であり、真理の行いがない死んだ信仰を言います。教会にいくら長い間通い、聖書のみことばをたくさん知っていても、みことばどおり行わずに、相変わらず世の人と同じように行うなら、それは死んだ信仰でます。
また、聖書には明白な肉の行いを始め、「死に至る罪」についても言っています。もちろん、罪はどんな罪であっても犯したらいけません。しかし、罪の中でも、ある罪は心の底から悔い改めて赦される罪があるかと思えば、ある罪は、罪のためのいけにえがもはや残されていない場合があります。
つまり、聖霊に逆らう冒とく、聖霊を汚す言葉、そして聖霊にあずかる者となったうえで堕落してしまい、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与えることと、真理の知識を受けて後、 ことさらに罪を犯し續けることが、死に至る罪に当たります。「信じている」と言いながら、こういう罪を行う人もやはり、結局、よく考えもしないで信じたことになります。
聖徒の皆さん、このように聖書には「どうすれば救われるのか」が記されていますが、同時にどうすれば死に至るのかも詳しく記されています。したがって、救いとは、ある瞬間に一気に決められるのではなく、主がまた来られるその日まで進行形であることを悟らなければなりません。
たとえ救いの枠の中に入ってきた人であっても、自分の自由意志の中で選択して、救いの枠を抜け出すこともあり、今は救いの枠の外にいる人であっても、ある瞬間、救いの枠の中に入って来ることができることもあります。
したがって、聖徒の皆さんはひとまずいのち書に名が記されたといっても、主の前に立つその日までは、絶えず上から力を受けて、信仰が毎日成長していかれますように。いつも目を覚まして祈り、聖霊に満たされて、世を支配する敵である悪魔・サタンと戦って勝ち、真理の中を歩まれますよう、主の御名でお願いします。
次に<5節後半部>に、「わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」とあります。
将来、白い御座の大審判の時、裁判長であられる神様の前で、皆さんは主から「この人は神様の子どもです」と言い表されてこそ救いに至ります。すなわち、皆さんに対して主が「この人は神様のみこころどおり、みことばの中を歩みました」と認めてくださる時でこそ、神様も皆さんを認めてくださいます。
ところが、主が御使いたちの前ででも、これを言い表さなければなりません。御使いたちが皆さんの救いを決めるのに、何か陪審員のような役割をするのではありませんが、彼らに認められることはとても重要です。なぜでしょうか?
<マタイ18:10>に、「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」とあるように、この地上で皆さんの行いと思いと心までも探って、天の御国に報告して記録する御使いがいます。
もちろん、救われた神様の子どもたちを守るために、神様が送ってくださった御使いもいますが、皆さん各自を探る使命をゆだねられた御使いもいて、その御使いは誰よりも皆さんのことをよく知っています。そして、御使いは霊ですから、偽りを言うこともできないし、一寸の誤差もなく正確であり、誤りがありません。
まさに、このような御使いによって記されたすべてが白い御座の大審判の時に証拠資料になって、皆さんをさばく根拠になるのです。ですから、御使いが直接皆さんに対して証言して認めるのではなくても、御使いの正確な記録によって皆さんが神様の子どもとして正しく生きてきたことを認められなければなりません。このように、皆さんを最も近くで観察するので、皆さんのすべてを知っている御使いに認められることが必ず必要なのです。このような理由で、主は「彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」と言われたのです。
愛する聖徒の皆さん、主はサルデス教会に、他の教会と同じように、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」というみことばで締めくくっておられます。サルデス教会の聖徒たちが今まで聞いたみことばを心に刻んで変えられることを望む、主の切実な心を込めてもう一度訴えておられるのです。
サルデス教会は死んだ信仰を持っていた教会でした。したがって、今でも立ち返って悔い改めないなら、救いとは関係のない状態でした。しかし、彼らは真理を聞いて学んだので、それでも知識的には真理を知っていました。それで、この知識的な信仰を、行いがある生きている信仰に変えなければならなかったのです。
また、今はたとえ救われる信仰を持っている聖徒であっても、主が来られるその日まで変わらず勝利を得なければなりません。そのような人にだけ救いのしるしである白い衣が与えられて、この地上で行なって働いたとおり、天国で栄光と報いが受けられるのです。
ところが、今日、あまりにも多くの教会がこのような真理を悟らずに、霊的な眠りから覚めることができずに、死んだ信仰を持っているのです。それなのに真理で正しく悟らせる牧者がいないので、救われる信仰を探しにくいし、目の見えない人に手引きされる目の見えない人のようになります。
それでも教会ごとに幾人か目を覚ましている人がいるので、主は「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言われ、何としてでも眠っている魂たち、死んだ信仰を持った魂たちを目覚めさせることを願われるのです。
それで結局、神様は、耳のある者はこのみことばを聞いて必ず救いに至ることを、また、本当に切に父なる神様を愛して、主を捜して、真理を追い求めたいと願う魂たちは、何としてでも正しい牧者に出会って、より良い天国、新しいエルサレムまで至ることを望むのです。
したがって、皆さんはまことのいのちのみことばで導かれて、霊的なまことの信仰が持てる信仰生活をすることが、どれほど幸いで感謝なことなのか、もう一度悟ってみられますように。そして今は、傷もしみも一点もない主の全き花嫁としての資格を備えようという、切なる希望をもって行なって、永遠の天国で主といつもともに歩める皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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