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黙示録講解
Title
黙示録講解(19)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:18-29
Date
2007-03-23
黙示録2:18-29
また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
信仰生活では、過去よりはいつも現在が重要です。たとえ過去はよくやったけれど、現在はそうでないなら、これは過去の報いでさえすべて失うだけでなく、まかり間違えば救いにもかかわるようになります。
テアテラ教会がそうでした。近ごろの行いが初めの行いにまさっていることは、主から称賛されましたが、預言者だと自称しているイゼベルをなすがままにさせて、その行いに参加したので、神様の前に大きな罪を犯しました。
悔い改めの機会が与えられたのに 悔い改めなかったので、主は「この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。」と、恐ろしい警告をされます。そして、「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」という、厳しい神様の公義を宣言されます。
ところが、神様はこのように行ったとおり報われる公義の神ですが、同時に、長く耐え忍ばれる愛の神様であられます。<第二ペテロ3:8-9>に、「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深(ぶか)くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあるように、千年を一日のように、忍耐深く待たれて、悔い改めて立ち返り、救われることを願われます。
こういう主は、悔い改めないテアテラ教会に、もう一度勧めのみことばを下さいます。<24節>に、「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」とあります。
ここで、「この教えを受け入れていない者」とは、まだ神様のみことばどおり生きられない初心の者です。熱心に神様のみことばを聞くけれど、みことばどおり守り行うほどの信仰は持てなかった人々です。神様のみことばで悟らせて教えても、まだそれを受け入れるほどの信仰ではないから、受け入れていないのです。彼らについて「サタンの深いところをまだ知っていない」と書かれていますが、「サタンの深いところ」とは、つまり、深い霊の世界を意味します。
どこの国でも法があって、その法を知って守り行えば問題にならないのですが、法を知らないなら、まかり間違えば、知らないうちに法を破って処罰されることもあります。これは霊的にも同じで、神様の法がよくわからなければ、ややもすればサタンに惑わされて、神様の法を破るようになります。それで、その代価として罰を受けますが、この時、同じ罪を犯しても「どの段階の信仰にいるのか」によって刑罰が違います。
たとえば、初心の者が安息日を守らないことと信仰の三段階の人が安息日を守らないことでは、同じ罪でも罪の重さが変わります。また、初心の者が真理をよく知らなくて、人をさばいてこそこそするのと、信仰がある人がするのとは全く違います。
信仰がある人ならば、人をさばいて罪に定め、こそこそすることが、自ら裁判官になる大きな罪であることが明らかにわかるはずですが、このように知っていながらも行なったら、その罪はそれだけ大きくサタンに訴えられるようになります。このように、霊の世界も深さが全部違って、その深さによるサタンのしわざも変わります。ところが、初心の者はこのような霊の世界が深くわからないために、「サタンの深いところをまだ知っていない」と言われたのです。
聖徒の皆さん、人はそれぞれ信仰が違うので、自分が先に経験してきた信仰の段階については、他の人の相談を受けることができます。しかし、まだ自分が経験も通過もしていない信仰の段階については、他の人に何とも言ってあげられないのです。聞いた知識的なみことばをもって話はできますが、それは完全なものになれなく、正しい霊的な相談にも訪問にもなれないのです。
肉的にも、英会話に堪能な人が自分より実力の低い人に対しては、いくらでも評価して、教えられます。相手がどの程度の実力を持っているのか、また相手の問題点や直すべき点が何かも指摘してあげられます。しかし、英会話の下手な人が、ただ自分が知っている理論的な知識だけで、自分より実力が上の人を評価したり教えたりすることは正しくありません。
もちろん、あるスポーツ(たとえばゴルフ)では、コーチが選手より実際の実力はなくても、選手を教える場合もあります。しかし、肉の世界でも実力のより優れた人がそうでない人を指導して教えるほうが一般的です。
ところが、霊の世界では、<マタイ10:24>に「 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」とあるように、必ず霊的に先立っている人だけが他の人を教えられます。霊の世界では、直接その段階に入ってみてはじめて、本当にその段階がどうなのかがわかります。
私たちがある果物の味を聞いて知っているのと、直接食べてみて知っているのとでは大きい差があるように、たとえ知識では深い霊の世界とより高い信仰の段階について知っていても、それだけでは知っているとは言えないのです。知識だけで知っていることを、まるで自分がその段階にいるように思って、他の人を教えるなら、これは自ら高ぶるだけであり、当然みことばの権威も伴わないのです。しかし、教えられる立場では、いくら小さい者の言葉でも、それが神様のみことばで真理ならば、「アーメン」で受けて行わなければなりません。
一方、テアテラ教会の聖徒たちは、サタンの深いところを知っていない、幼い信仰の段階で、まだ霊的に目覚めていなかったので、みことばを聞いても消化できなくて、行える力が与えられなかったのです。それで、神様を愛していると言っても、相変わらず世も愛して、昔の習慣が捨てられないまま、やみと友になって生きていく姿がありました。
これは人の肉の成長段階にたとえるなら、まだ乳を飲み、おかゆを食べる子どもの信仰にすぎないから、彼らに、「ほかの重荷を負わせない」と言われたのです。まだ初心の人にとても高い水準の信仰を要求して、「なぜこうできないんですか?」と言うなら、互いに苦しいだけです。ですから、主はテアテラ教会に、「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」と言われるのです。これは彼らにさらに深い霊の次元、すなわち、「聖められなさい」とか「御力を受けなさい」という次元までは要求しないから、ただ、今持っているもの、つまり、今の信仰だけでもしっかりと持っていて、救われるように、という意味です。
それで聖書は、まるで幼い子どものような信仰を持った人々に対して、<第一コリント3:1-2>で「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」と言っています。
それなら、このみことばを聞く人々は、「ああ、ただ主が来られる時まで、今持っているものだけを堅くつかんでいたらいいんだ」と思っていたらよいでしょうか? このみことばを誤解して、「今の状態だけを維持しなさい」という意味で受けてはいけません。ちょっと間違えば安易な考えで、「このくらいならいいから、ちょっと休まなくちゃ」と言うなら、川を遡っていた船が櫓(ろ)を漕ぐのをやめるような結果を生みます。激しい水の流れに 後に押し戻されるしかありません。
しかも、今は一日一日が5年前、10年前の一日とは意味が違います。もちろん、主にあっては一日一日が大切で意味がありますが、今、しばらく信仰生活を怠けることは、以前にしばらく怠けたのとは途方もない違いが生じます。
たとえば、学生が試験を受ける時も、試験を数ヶ月前にして一日を浪費するのと、試験を二、三日前にして一日を浪費するのとは比べられないほど大きい差があります。ですから今、全き霊の流れが急速に流れているこの時に、万が一にも「現状維持だけすべきだ」という安易な考えで信仰生活をするなら、結局、途方もなく退歩する結果をもたらすのです。
したがって、皆さんはさらに機会を十分に生かして用いて、毎日、近ごろの行いが初めの行いにまさっている、熱くて充満な信仰生活をしなければならないでしょう。
これから、主がテアテラ教会に下さった約束のみことばを調べましょう。
<26節>に、「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」とあります。まず「勝利を得る者」とありますが、これは神様のみことばを守り行うので、真理に逆らうものと悪と暗やみに勝つことを言います。結局、世の支配者、敵である悪魔・サタンに勝つことです。つまり、善をもって悪に打ち勝ち(ローマ12:21)、みことばで世の罪と悪と誘惑に打ち勝ち、みことばどおり義を行なっていくことです。真理である神様のみことばを追って行うので、やみのわざを打ち捨てて光の中を歩む人生です。
次に「最後までわたしのわざ(つまり主のわざ)を守る者」とありますが、ここで主のわざとは何でしょうか?
イエス様がこの地上に来られてなされたことは、ただ善を行うことといのちを救い出すことでした。また、父なる神様のみことばにひたすら従って、神様に栄光を返すことだけをされました。
したがって、「主のわざを守る」ということは、主が行われたように、私たちも神様のみことばに従って、父なる神様に喜ばれて、栄光を返して、熱心に魂を救って神の国を広げていくことなどを意味します。単に頭に聞いて知っているのでなく、実際に行なっていく時、それがつまり、守ることになります。まさにこのように勝利を得て、主のわざを守る者に、諸国の民を支配する権威を与えよう、と言われました。
それなら、「諸国の民を支配する権威」とは何でしょうか? これはすなわち、この地上で諸国の民を支配する権威を持っている、敵である悪魔を支配して治めるという意味です。
聖徒の皆さん、神様は天地を創造して最初の人アダムを造られた後、世界の国々を支配して治める権威をアダムに与えられました。それで、人間を「万物の霊長」と言います。ところが、アダムが思わずサタンに惑わされて、神様に不順従になり、アダムが持っていた権威が敵である悪魔・サタンに渡されました。
これが<ルカ4:5-7>に出てきます。「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。』」と言ったのです。
この時、悪魔はイエス様に世界の国々を全部見せて、「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。」と言います。そして、「それは私に任されているので」と言います。すなわち、世界の国々への権威は、もともとは他の誰かが持っていましたが、それが自分に任されていて、今は、自分(すなわち、悪魔)が願うなら、イエス様に与えることもできるという意味です。
したがって現在、この地上で国々を支配する権威を持っているのは敵である悪魔です。もちろんこの権威は、人間耕作の間だけ神様が許されたものであって、主を信じて神様の子どもになった人には主張できない権威ですが、主を信じる前に世に属していた人は誰でも、悪魔の権威の下にいて、罪の中で悪魔の子どもになるのです。
ところが、イエス様がこの地上に来られて、十字架につけられてすべての血を注ぎ出されて死なれた後、葬られて三日目に死の力を破って復活されたので、私たちを悪魔の権威から救い出してくださいました。
<ヨハネ1:12>に、「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあるように、イエス様を救い主として受け入れた人は、神様の子どもとされた特権を受けて、今は悪魔の権威から抜け出し、神様の子どもとして証印を押されました。
そして、このように神様の子どもとされたので、今からは敵である悪魔がつかさどるこの暗やみの世の友になって生きるのではなく、光に属した真理の中で、神様のみことばを守り行って生きていきます。これがつまり、前にも申し上げた、勝利を得ることであり、最後まで主のわざを守ることです。
ところが、悪魔はこのような皆さんを放っておこうとしません。何としてでも皆さんが真理の中に生きられないように、再び世に陥るようにさせようとします。信仰が持てないように疑いを植え付けて、祈らないように、神様より世をもっと愛するようにするなど、いろいろな方法で妨げるのです。
しかし、このような悪魔の妨害を退けて、みことばを守り行うと、結局、悪魔に一度、二度とだんだん勝利していきます。それでついに、国々を支配する権威を持っている悪魔を支配するようになります。このように国々を支配する悪魔を皆さんが支配するなら、それは、結果的に皆さんが国々を支配する権威を持つことです。
そして、みことばどおりさらに完全に生きれば生きるほど、より大きい権威と力が天から与えられるために、世の支配者の敵である悪魔・サタンももっと充分に支配していきます。皆さんがみことばの中に完全に生きることで、悪はどんな悪でも避けて聖められるなら、悪い者が皆さんに触れることもできないのです。
<第一ヨハネ5:18>に、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあります。暗やみが光をあえて何ともすることはできないからです。
しかし反対に、暗やみの支配者との戦いに負ける人は、相変わらず悪魔の権威の下で生きます。特にニコライ派や、バラム、またはイゼベルなどの人の行いを追うなら、その人は敵である悪魔・サタンの奴隷になり、完全に彼らの餌食になります。そして、結局、厳しいさばきを受けます。
これについてのみことばが<27節>に出てきます。「彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」とあります。
ここで「鉄の杖」とは、鉄の棒を言います。このような鉄の杖で土の器を打ち砕くなら、土の器は粉々になってしまいます。それで、鉄の杖で土の器を打ち砕くようにするとは、さばかれる神様の権威を意味していて、土の器は土で造られた人を意味します。
もともと神様が最初に造られた人は、霊が生きている、価値のある尊い存在でした。神様のかたちに似せられた霊の存在でした。ところが、罪によって霊が死んで、魂に支配される肉の人になり、今は価値のない土の器のような存在になってしまいました。
したがって「土の器を打ち砕く」とは、みことばを守り行えない人、すなわち、神様の前に何の価値もない人を打ち砕く、という意味です。真理である神様のみことばを聞いても行わないので、神様の子どもになれなかった人は、相変わらず敵である悪魔の子どもなので、結局、使い道のない土の器のように粉々になって捨てられるのです。皆さんは、真理である神様のみことばを皆さんの心の中に入れてある尊い器になられますように。
<ヨハネ12:48>に、「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」とあるように、神様は終わりの日に、「みことば」でさばかれるのです。
この時、真理である神様のみことばを受け入れなかった人は、そのみことばにしたがってさばかれるようになります。しかし、神様のみことばを心に置くので、勝利を得て最後まで主のわざを守る人は、「わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」というみことばのように、かえって敵である悪魔・サタンの権威を打ち砕く霊的な光の権威を受けるようになります。
こういう人に私たちの主は、「 また、彼に明けの明星を与えよう。」と言われました。明けの明星は、最も明るく見える星で、人々から最も愛されて認められます。ところで、ここでこの明けの明星とは、まさに主を意味します。
<黙示録22:16>に、「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」とあります。したがって、この明けの明星を与えようと言われたのは、神様が主を愛して認められるように、勝利を得る者と最後まで主のわざを守る者、すなわち、みことばを守り行って、サタンに勝利を得る者を、神様が息子と認めて愛してくださるという意味です。
皆さんが主を信じて、悪はどんな悪でも避けてこまめに主のみことばを守り行うなら、主のご性質に似せられて、霊の人になっていきます。そうする時、神の御子であられるイエス・キリストのように、聖められて完全になるので、皆さんも神の子どもだと認められるのです。
しかし、いくら主を信じていると告白しても、みことばを守り行わず悪魔に負ける人は、明けの明星が受けられません。神様の子どもとして認められなくて、結局、救われないのです。これらのみことばは、霊的な耳を持っている人々に、神様と一つであられる聖霊が言われるみことばで、一点一画も変わらずに必ず成し遂げられることです。
次の時間には、主がテアテラ教会に下さったみことばに含まれた、もう少し深い霊的な内容について調べましょう。
愛する聖徒の皆さん、テアテラ教会は、主にあっての行いと信仰と仕えと忍耐について、近ごろの行いが初めの行いにまさっていることを称賛されました。
しかし、これが単に表面に見える肉的な行いに終わってはいけません。肉的にはいくら忠実であるようで、時間がたつほどさらに熱心に働くように見えても、いざ心に割礼をしないなら、肉的な熱心と忠実は何の役にも立ちません。
テアテラ教会は、肉的な熱心と忠実はありましたが、心に割礼することは熱心でなかったので、イゼベルのようなにせ預言者に惑わされて、真理から離れる姿が出ました。主は何回も悔い改めの機会を与えられましたが、それでも立ち返らなかったので、大きな患難に投げ込まれるしかありませんでした。
それでも主は、まだ霊の世界がよくわからない新しい信者や初心の者に「悔い改めなければ大きな患難と災いを与える」と言ったのではありません。信仰生活もある程度して、真理も知っていて、霊の世界についても聞いて知っていて、自分なりに熱心に忠実だと言っていた人々のうち、長い歳月、心の割礼はしなかったので、結局惑わされて死の道へ行く人々に、悔い改めて立ち返るように、心を込めて言われるのです。仮に、真理も知っていて霊の世界も知っていて、比較的長い間信仰生活していたのに救われないなら、どれほど残念なことでしょうか?
テアテラ教会の聖徒たちの中で、それでも悔い改めて立ち返り、結局は勝利を得る者になっても、彼らはただ救いの約束だけが受けられるのです。以前に積んだ報いもすべて失って、今はやっと救われたことだけに感謝するしかない立場になったのです。
皆さんの中には決してこのような方がひとりもいてはなりません。聖徒の皆さん、主が七つの教会に下さったみことばの中には、特に終わりの時を生きていく聖徒が、自分の信仰を顧みて主を迎える準備をするために必要で重要な内容が入っています。
したがって皆さんは、みことばを聞くとき、諸教会が称賛された内容も重要ですが、非難や勧められた内容はどんなものなのかをよく悟って、万が一にも自分にそのような姿はないのかをよく調べてみられますように。
もちろん今後も、主が来られる時まで、自分を顧みるみことばが伝えられますが、皆さんは今回の七つの教会のみことばを通して、今から完全に称賛される姿だけで走って行けるように願います。毎日、近ごろの行いが初めの行いにまさっているすべての皆さんになられますように。それで、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる神様の前に覚えられて、父なる神様に愛されて認められる皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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