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メッセージ >
黙示録講解
Title
黙示録講解(17)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:18-29
Date
2007-03-02
<黙示録2:18 -29>
また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
きょうは七教会のうち、四番目として、テアテラにある教会について伝えます。
当時、テアテラは軍事と交通の要地で、工業と商業が盛んでいろいろな産業の労働組合がありました。染色組合、織物組合、製パン組合、陶器組合、皮革組合、かじ屋組合などの労働組合は、テアテラの人々の生活に深く関係があって、自分の業種と関係のある労働組合に加入しなければ、生計に差し支えるほどでした。
ところで問題は、労働組合ごとにそれぞれの守護神を拝んでいて、労働組合の活動自体が宗教的な性格を持っていたことです。労働組合が集まる時は、彼らの守護神に祭事をささげ、その後には偶像にささげたものを食べる食事と、いろいろな淫らな行事があり、組合員はこの行事に参加しなければならなかったのです。
生計のためには組合に加入しないわけにはいかなくて、かと言って組合に加入すれば彼らの儀式に参加しなければならない...このように難しい状況でテアテラの教会の聖徒たちは、生計を立てていきながら、信仰生活をしなければならなかったのです。ですから、こういう環境で信仰を完全に守るのがやさしいことではなかったという事実を、皆さんも簡単に察しがつくでしょう。
今日の聖徒たちの中にも、世の人々と一緒に世の中で生きながら、信仰を守ることが難しい場合もあり、神様を信じていると言うけれど、世と妥協して世の人々の生き方をする人々も多いのです。
それなら、主はこういう状況で信仰生活する人々に、何と言われるでしょうか? 今から、主がテアテラ教会に送られた手紙を通して調べてみましょう。
まず本文<18節>に、テアテラ教会の御使いに書き送られた方、すなわち私たちの主の御姿を説明しています。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」と言われました。
<ヨハネの黙示録1章>でも説明しましたが、主の目が「燃える炎のよう」ということは、すべての闇を明るく照らして暖かさを感じるようにしてくれるという意味です。同時に、この炎はあらゆる罪と悪を焼き尽くす炎でもあり、各人の心を探り、真理と真理に逆らうものを明らかに見分けられる炎でもあります。主は、このように燃える炎のような目で神様の子どもたちを敵の悪魔・サタンから守られて、また各人の心と思いと考えも探られます。
本文<23節>にも、「 わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあるように、すべてを探ってさばかれる主は、小さいこと一つでものがさないし、一寸の誤差もなく正確なお方です。このような主を指して、その目が燃える炎のようだと言うのです。
次に、主の足を「光り輝くしんちゅうのよう」とありますが、<黙示録1:15>にも、「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、」とあります。
炉で金、銀、しんちゅうなどを高い温度で加熱すれば、その中に混ざっていた不純物が除去されます。それで金属の純度が高くなるほど、精練される前より価値がより加えられて、その光もさらに輝いて美しくなります。まさに私たちの主の御足が、このように精練されたしんちゅうのように清くて純潔で光輝くという意味です。
足は人のからだの中でも最も汚いところと言えます。靴を履いても、結局その足であらゆる汚いものを踏み、今日のような履き物が現れる前までは、いくら靴を履いても、足は最も汚れやすい部位だったのです。したがって、足は霊的に最も汚いところを表します。
<出エジプト3:5>で、神様がモーセ預言者を召される時も、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と仰せられました。神様の前に出て行くためには、あらゆる汚物がついた靴を脱ぐように、まず世の罪と悪に染まったすべてを脱ぎ捨てるべきだという意味です。
もちろん、すべての罪は心から出てくるものであり、一番汚いのも結局は心ですが、聖書では、私たちが理解しやすいように、肉的に一番汚れやすい足にたとえて表現されたのです。人にとって、足はこのように汚くなりやすい部分ですが、完全で聖なる私たちの主は、足さえも光り輝くしんちゅうのように清くて純潔なのです。
ところで、テアテラ教会の聖徒たちに、私たちの主の姿を、このように「燃える炎のような目であり、その足は光り輝くしんちゅうのようである」と言われたのは、彼らに主の栄光と威厳がどのようなものなのか、もう一度悟らせるためでした。神の御子として万物をさばかれて、この上なく聖なる方であり、栄えに満ちた主は、全知全能の創造主神様と元は一つであられます。人をはじめ、どんな被造物や人が作り出した偶像とも比べられない、この上ない栄光を持ったお方です。
まさに炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足を持たれた主の姿で、このように栄えに満ちた大いなる主を表現したのです。したがって、私たちが崇めて仕えるべき方も、ただ主だけであることを言っているのです。
続く<19節>で、主は称賛の言葉を下さいます。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」と言われたのです。
だが、事実、このおことばに、本当に称賛の意味が含まれているのではありません。うわべだけを見ると称賛される姿だと言えますが、本当に重要なのは心であり、まことの信仰を持って行う姿なのです。これについては後ほどまた説明します。ここでは本文に含まれた一般的な意味について調べていきましょう。
まず「行い」をほめられましたが、これは世の中で利益を求める肉的な行いでなく、主にあっての行いを意味します。神の国のための行いであり、魂の救いと関連したすべてをまとめて「主にあっての行い」と言えます。たとえば、魂の救いのために伝道して訪問して宣教活動をすること、施しやいろいろな使命をゆだねられて忠実に働き、奉仕することなどがすべて含まれるのです。
ところで一つ頼みたいことは、万が一にも、教会の中では、世の事業とつながることがあってはいけない、ということです。教会が建てられた目的は、ただ魂の救いと神の国のためのものなので、教会の名で事業をして世の利益を求めることは決して許してはいけません。
うわべでは神の国のためだと言って、あれこれの事業をする人もいますが、ほとんどその中にかくされた本当の目的は、自分の個人の利益のためなので、教会の中では世と関係のある事業があってはいけません。それだけでなく、教会の中では世の事業に関する話をすることさえも、神様が喜ばれません。したがって、教会の中では、ただ神の国のための霊的な行いだけ熱心に努めてくださるようにお願いします。
次にテアテラ教会には「愛」がありました。
<第一ヨハネ4:7-8>に、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」とあるように、私たちが互いに愛し合うことが神様のみこころで、私たちに下さった新しい戒めです。
したがって、主にあっては当然、愛がなければならないのですが、しかも変わらない愛、主が見せられた愛、このような愛が霊的な愛としてまことの愛であり、こういう愛を行う人だけが神様に属しているのです。テアテラ教会は、聖徒の間でこのように霊的な愛を分かち合ったのです。
また、テアテラ教会には「信仰」がありました。
信仰はつまり、真実ともつながりますが、人の心に偽りがあれば、他の人が真実を言ってもなかなか信じることができなくて、すべてのことにおいて疑うようになります。自分の心に真実がある時でこそ、相手の真実もわかり、信じてあげられるのです。
信仰にあっても同じです。自分の中に真実が臨んだだけ、真理の神様のみことばも信じられるのです。それで、<ヘブル10:22後半節>の「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」というみことばのように、真心になるとき、全き信仰も臨みます。
次に、テアテラ教会には「仕え」がありました。
私たちのイエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えなかったのです。むしろ被造物である人間と同じように、仕える者の姿をとられました。
<マルコ10:45>に、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とあるように、イエス様は私たちに仕えられるためにではなく、私たちに仕えるために来られました。
また<ヨハネ13:14-15>に、「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」とあります。
したがって、私たち神様の子どもたちも、主の模範を見習い、熱心に互いに仕えなければなりません。神様を第一に愛して仕えることはあまりにも当然のことで、同時に聖徒の間の仕えも重要なのです。
ところで、神様が望まれる仕えは、どんな状況でも、またはどんな人にでも、心の底から出る仕えでなければなりません。自分が尊重されるために、へりくだったふりをしたり、相手にうわべだけで仕えたりするのではなく、本当に心そのものを低くして、すべての人を自分より優れたと思うことがまことの仕えです。
このように心から仕える人は結局、自分自身も周りの人々より真心から尊重され、仕えられるのです。それで<マタイ20:26>にも、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」とあるのです。だからといって、偉い者になるために相手に仕えるのではなく、本当に心の底から相手に仕えるとき、本当に偉い者になり、相手からも尊敬されて仕えられるのです。
最後に、テアテラの教会には「忍耐」がありました。
<マタイ7:13-14>に、「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。
私たちが行く天国の道は狭い道ですから、この道を行くためには多くの忍耐が必要です。罪と血を流すまで戦う労苦も必要で、魂たちのために、神の国のために、祈って断食して忠実に仕え、主の御名によって何の理由もなく苦しみを受ける時もあります。
まだ信仰が弱い時は、これらのことがつらいと思われることもあり、休みたいという気がする時もあります。しかし<ローマ8:18>に、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあるように、これらすべてを耐え忍んで行ったとき、その実がとても大きいことを信じるので、また元気を出して狭い道を行くことができるのです。
世で運動選手や学生たちも、自分たちの目標を達成するためには、どれほど忍耐して苦労しなければならないでしょうか? まして皆さんが見つめる天国への希望は、運動選手の金メダルや世のどんな報いとも比べられないほど、光栄で価値あることです。
ところで、皆さんが信仰の岩くらいに立つなら、その時からは、実際、無理にいやいや我慢して、この道を行くのではありません。<ローマ5:3-4>の、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すというみことばのように、これまで熱心に信仰生活をして多くの忍耐を積み重ねた分、それからは心の中に希望が確固としてあるので、どんな状況でも喜びと感謝があふれて、平安な心を持って天国への道を行くことができるのです。
愛する聖徒の皆さん、今まで聞かれたとおり、テアテラ教会には、神の国を成し遂げる行いと愛と信仰と仕えと忍耐がありましたが、主はテアテラ教会にこれらのものがあって称賛されたのではありません。主が彼らを称賛された理由は、まさに、彼らの近ごろの行いが初めの行いにまさっているからです。
エペソ教会が初めて愛が冷めてしまい、初めの行いを失ったことによって主に非難されたのとは反対に、テアテラ教会は、むしろ日が経つにつれて、初めより神様の前にささげられる行いがさらに深くなって熱くなったのです。
それなら、はたして今日はどんな姿でしょうか? 多くの人々が、初めに主を受け入れた時は熱心に主の働きに努めるけれど、時間が過ぎればその熱心が冷めてしまいます。奉仕をしていた人が奉仕を止めたり、伝道した人が伝道を怠ったり、熱心に訪問した人が訪問をおろそかにしたりする場合もあります。
ところで、このように行いが変わるのは、信仰の中での目標がぼけてしまったからです。祈りを休まず、いつも聖霊に満たされている人は心の中に天国、新しいエルサレムという目標が明確にあります。ですから、つらいことがあっても座り込まず、小さい真理に逆らうものとも妥協せず、聖潔へ向かい、徹底的に自分を守っていきます。
しかし、祈りを休んだり、何かの理由によって聖霊の充満を失ったり、また世を見つめたりする時は、それだけ天国の希望がぼけてしまいます。そうすると、今まで自分を打ちたたいて従わせ、信仰にあって熱心だったいろいろな行いも、自然に冷めて変わるのです。
ところが、これとは違って、うわべでは熱心に神様の働きを果たして、満たされた信仰生活をするように見えるけれど、実際、神様の前で認められない場合があります。奉仕もよくして、聖徒たちを愛して仕えて、世の人々の前でも善の行いを積んで、まるで信実な聖徒のように見えるけれど、本当に重要な心の割礼は止めている場合です。このような時は、上から与えられる聖霊の充満や天国の希望で行うというよりは、肉的な誠実や熱心で行っていくのです。
もちろん、皆さんが奉仕や聖徒の交りなど教会の活動に熱心で、神様に喜ばれることを探して行うことは当然すべきことであり、望ましい姿です。しかし、これと共にさらに重要なのは、まさに心から神様の恵みと力を求めて、毎日、もっと霊に変えられていくことです。そうする時、皆さんの奉仕と献身と労苦がまことの信仰で行うことになります。
しかし、このように信仰で行うのではなくて、霊的には停滞していながら、ただ表面で見える行いだけで、「私はこのように忠実に働いているから、このように使命を果たしているから」と、自ら慰めようとしてはいけません。
聖徒の皆さん、行いがない信仰は死んだ信仰ですが、信仰がなくて行いだけがあるのも意味がありません。主の御名によっていくら多く働いても、いざ心から罪と悪を捨てていく努力がなく、聖霊のみわざの中で信仰生活をしなければ、それを本当に霊の信仰、霊の信仰生活だと言えないのです。
ですから、うわべでは熱心な働き人のようだけれど、いざ自分の思いと合わないみことばを聞けば、信じることも、聞き従うこともできないのです。神様の心と御旨を悟ることもできなくて、霊的な深いみことばも悟らずに、歳月が流れても肉の信仰にだけとどまっているのです。このように肉の信仰で行うことが、たとえうわべを見る人からはほめられたとしても、心をご覧になる神様からは認められないのです。
したがって皆さんは、変わらない心で、むしろ日が経つにつれて、主にあってのすべての行いが初めよりさらにまさっていて、いつも称賛されますように。また、皆さんのすべての熱心と行いが、必ず心の割礼と一緒になされて、霊の信仰で行うすべてが神様に認められるように願います。
聖徒の皆さん、テアテラ教会は、近ごろの行いが初めの行いにまさっていたので称賛されましたが、これに続き、恐ろしい非難のみことばを聞きます。
<20節>に「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」とあります。
それでは、イゼベルとは誰でしょうか? イゼベルはB.C.9世紀頃、シドン王の娘として北イスラエルのアハブ王の王妃になった異邦の女性です。この女性はイスラエルに嫁に来るとき、自分の国の偶像の神々を持ちこみました。このためアハブ王はもちろん臣下と国民までも偶像礼拝に染まるようになります。
このように北イスラエル王国全体を偶像礼拝と不品行で汚したイゼベルは、はなはだしきは神様の預言者たちを皆殺しにしようとまでしました。神の人エリヤ預言者が驚くべき御力で天から火を引き下ろして、長い間の日照りの中で雨を降らせたりしましたが、イゼベルはこういう奇跡を見ても悔い改めず、かえってエリヤを殺そうとだけしました。また、イゼベルはアハブ王を操り、いろいろな策略と企みで悪を行いました。このように悪に悪を積み上げたイゼベルは、結局、エリヤの予言どおり、悲惨な最後を迎えます。
ところが、このようにアハブ王とイスラエルの民を惑わして悪を行ったのはイゼベルでしたが、イゼベルの悪い行いに染まったアハブとイスラエルも、その責任を免れることはできませんでした。結局、アハブ王も神様に呪われて、戦場で悲惨な最後を迎えました。
また、北イスラエル王国も、イゼベルのため多くの苦しみにあわなければならなかったのです。三年半も日照りになったのも、彼らがイゼベルの不品行に染まり、神様がイスラエルから御顔を背けられたからです。
ところで、本文のテアテラ教会も、このようなイゼベルと同じ悪の根元を教会の中に受け入れたので、罪と悪に染まっていました。それでは、テアテラ教会がイゼベルをなすがままにさせて、悪に染まったとはどんな意味なのか、そして、彼らが主からどんな警告のみことばを聞いたかは、次の時間に伝えます。
愛する聖徒の皆さん、<第二コリント6:14-16>に「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』」とあります。このほかにも、聖書のあちこちで、神様は神様の子どもたちが悪人と一緒になってはいけないと幾度も戒めておられます。
さらに、教会の中に世の風潮を引き込むことや、真理に逆らうことで聖徒たちを惑わすことは、決して認めてはいけないことです。また、聖徒個人の人生でも、結婚であろうが、事業であろうが、どんな面でも、神様に立ち向かう人と一緒になると、それだけ自分にも試みと苦しみの訓練が伴います。皆さんがいくら熱心にしても、皆さんとつながっている人が神様のみこころと反対に行く人ならば、まかり間違えば皆さんの信仰も妨げられて、世の誘惑に染まることもあるからです。
二頭の牛がくびきをいっしょにつけられると、一頭が違う道に行ったり、怠けたりすると、もう一頭の牛がいくら熱心に働こうとしても願う方向に行けないのです。同じように、神様の前にふさわしくない人々と自分自身をつないでおくと、それだけ自分の魂に幸いを得ていくことにも、祝福されることにも障害物になるのです。
だからといって、職場や家庭で主を信じない人々を無条件に排斥しなさい、という意味ではありませんが、万が一にもイゼベルのような人を受け入れて、彼らと一緒になる過ちを犯してはいけません。イスラエルのアハブ王がイゼベルを妻に迎えなかったら、アハブ王とイスラエルの民はあれほど苦しみと災いにあわなかったでしょう。
このような事実をよく悟って、どんな状況でも世と妥協せずに、いつも神様のみこころを見分けて、正しく行われますように。ただ同じ天国の希望を持った信仰の兄弟たちと一緒になって、互いに力と慰めを分かち合い、新しいエルサレムまで力強く走って行くすべての皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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