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黙示録講解
Title
黙示録講解(11)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:8-11
Date
2006-12-22
<黙2:8-11>
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
<エペソ1:23の前半節>で「教会はキリストのからだであり、」と言われたように、教会は主が血の代価を払って買い取ってくださった主のからだです。そして、<第一コリント12:27>に「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあるように、主のからだなる教会に属したすべての務めと使命をゆだねられた人々、そして聖徒たちは主のからだを形成するそれぞれの器官です。
ところで、もしこのようなからだの各器官同士、互いにねたんでそねんで争うなら、そのからだはちゃんと立てないでしょう。同じように、愛で一つにならなければならない教会の中で、かりに器官の間に争いが起きて、互いに悪口を言い、憎んでそしるようになるなら、そこには聖霊が働かれないだけでなく、かえって敵である悪魔のあざけりの種になってしまいます。そのため、このような教会はだんだんと愛が冷めて、祈りの火も消されるようになり、結局、リバイバルが止まり、神様の働きも成し遂げられないようになります。
まさに、諸教会をこのようにさせる最も大きな原因の一つが、サタンの会衆なのです。「サタンの会衆」とは、簡単に言って、「サタンのしわざを受ける人々が二人以上集まったもの」を言います。
本文で言われているように、ユダヤ人だと自称している人々が集まったものなのです。このような人々は、自ら自分をユダヤ人、すなわち、神様の子どもであり主を信じている者と言いますが、実際はサタンのしわざを受けて、教会の中にねたみ、そねみ、さばき、罪に定めること、憎しみ、争いなどを引き起こして、争いを作り出します。これを通して、結局、神様の働きをそしって、教会が破壊されるようにしていきます。ですから、教会の中にこのようなサタンの会衆が、最初から足がかりを作らないようにしなければならないのです。
ところで、「サタンの会衆」とは、皆さんも知らないうちに、皆さんがその中に含まれるかもしれないことを知らなければなりません。
たとえば、皆さんが思わず、ある人の真理に逆らう言葉とひそひそ話を聞いて、それに一言、二言同調したとしましょう。もちろん、皆さんは悪い心からそうしたのではないと言うかもしれませんが、皆さんが大したことと思わずに同調した言葉が、結局、教会の中にあれこれの偽りのうわさを作り出して、あまねく広がるようにさせるのです。
皆さんがまだ完全に霊に耕していない状態では、自分も知らない悪が心の中にあるので、どんな相手に会って、どんな状況に置かれるのかによって、その悪がいくらでも働くこともあることを知らなければなりません。
また、ある人々は習慣的に口から不平を言ったりつぶやいたり、単に自分が嫌って自分が見て好ましくないので、みなが一緒に心を集めるべき瞬間もいつも反対の言葉を出す場合があります。なのに、いつもそのようにしてきたので、自らは自分の姿を悟れないのです。さて、このような人は密かに周りからも自分の立場に同調する勢力を探します。
まさにこのような人に同調するようになると、それも結局、サタンの会衆になるのです。この時は、皆さんが相手の言葉に一緒に口を合わせなければよいし、その上、皆さんのほうから続けて真理の言葉で対応してあげればよいのです。皆さんが光で対応するようになると、自然に暗やみは退くからです。
したがって、皆さんは真理の教えにしたがって、いつも善良なものだけを見て、善良なことだけを聞いて、善良なことだけを言って、善良なことだけを思うよう願います。そうしていくとき、サタンの会衆が教会の中に足がかりを作れず、たとえだれか悪意をもって偽りのうわさを言いふらそうとしても、そのような話が伝えられるはずがありません。伝えられる前に自然になくなってしまい、そのようなうわさを言いふらしていた人も静まったり、自ら離れていったりするしかないのです。
このような点を心に留めて、皆さんみなはもう一度自分と自分の周りを顧みるよう願います。 家の中で、機関や宣教会、あるいは、教区や近くに暮らしている聖徒たちの間で、教会を困難にするサタンの会衆になってはいけません。
皆さんの思いと心と口を守ることによって、サタンの誘惑を充分退けることができるべきだし、どんなサタンの策略でも打ち砕くべきでしょう。そのためには、誘惑に陥らないようにいつも目を覚まして祈っていなければなりません。
聖徒の皆さん。ユダヤ人だと自称している人々によるサタンの会衆は、神の国を成し遂げることにおいても、大きな妨害になるのが見られます。
使徒パウロが福音を伝える時も、最もひどく彼を妨げた人々がまさにユダヤ人たちでした。神様を信じていると言うユダヤ人たちが、神の子イエス様が信じられず、主の福音が宣べ伝えられることを一番先頭に立って妨げたのです。このような人々を指して主は、「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」と言われているのです。
ところで、このような姿は今日も同じです。本教会も今まで世界宣教を果たす過程で、ユダヤ人だと自称している人々によって、多くののしりを受けたり、妨げられたりしなければなりませんでした。おひとりの主に仕えている人々同士、それも主の福音を宣べ伝えるために、遠い異国の地にまで来て献身しているという宣教師たち、その中でも同じ韓国人である宣教師たちが、単に伝えて聞いた間違ったうわさだけを聞いて、それに惑わされて神様の働きを妨げたのです。
ところで、将来、本教会が北朝鮮宣教を成し遂げる時も、これと似た現象が現われるのです。一緒に協力して、命をかけて福音を伝えてもまだ足りない状況のはずなのに、それでもマンミンの名で成し遂げられる働きを妨げるユダヤ人だと自称している人々がいるようになります。「どうしてそんなことがあり得るのだろうか」と思われる方がいるかもしれませんが、イエス様を、当時、自分たちの支配国であるローマ人たちの手に渡して、十字架につけるようにさせたのも、まさにイエス様の同族であるユダヤ人だったのです。
当時、ユダヤ人たちの指導者と言える大祭司長と祭司長、律法学者たちは、イエス様が人としてできない御力を行われ、天国の福音を宣べ伝えることについて、ねたんでそねむ心が起こりました。しかも、自分たちの持っていた律法の枠と義に合わせて、イエス様をさばいて罪に定めました。それで、結局、イエス様を殺すようになりました。
これと同じように、将来、本教会から北朝鮮に入って働きをする時は、いのちのみことばと共に、数多くの御力のみわざが伴うようになります。北朝鮮にいる聖徒たちも確かな天国の望みの中で走っていけるように、霊の世界についても明らかに解き明かしてあげるようになります。
これによって本教会が経験したものと同じ迫害が、マンミンの名で北朝鮮宣教を成し遂げる方々にも与えられるようになるのです。その時、私たちと同じ目的で北朝鮮宣教の働きをすると言う人々が、私たちの働きを妨げて難しくさせるということです。
北朝鮮宣教に備えている方々はこのような状況が前もってわかったので、実際、働きを成し遂げる時もよく対処していかれますよう願います。「よく対処しなさい」という言葉は、結局、善をもって悪に打ち勝ちなさいという意味であり、神様のみこころの中ですべてのことが成し遂げられるようにと、さらに目を覚まして祈りで備えなさい、という意味なのです。
そして、このようにユダヤ人だと自称している人々による妨害が大きいほど、それを善と信仰と愛でよく勝利したとき、それだけ御力のみわざも大きく現われるということも、皆さんがよく心に留めておかれますよう願います。
肉的には、そのような妨害が福音を伝えるための障害物のように見えますが、実際はそれによって、もっと大きな御力のみわざの中でこの聖潔の福音が宣べ伝えられるのです。今まで本教会が日増しにもっと大きな御力で、神の国を成し遂げてくることができたのも、まさにこのような妨害を神様のみこころの中でよく勝ち抜いたからでした。
これから本文<10節>を見ると、「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と書かれています。
聖徒の皆さん。皆さんが聖められる前までは、いろいろな試練と患難と苦難が来るかもしれませんが、このすべては結局、皆さんに霊肉の豊かさをもたらすためであり、永遠のいのちの道に導く過程なのです。
主の御名で受ける迫害や患難であれば、当然、喜んで感謝すべきであり、皆さんがまだ真理の中に生きられないので受けなければならない試練や患難も、やはりもっと喜んで感謝しなければなりません。その試練と患難の訓練をよく通過して、肉を脱いで霊の人になることですから、まことに信仰があるなら、そのようなものを少しも恐れる理由がなく、かえって喜んで感謝しなければならないのです。
<ヤコブ1:2-4>で「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と言われたように、試練を通して何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となれるからです。ですから、霊に入っていくために、また、全き霊に入っていくために受けなければならない、どんな苦しみがあるとしても恐れないのです。
ところで、「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。」というこのみことばの中には、前に申し上げた北朝鮮宣教への内容も込められています。北朝鮮宣教を成し遂げるとき、どんな迫害があるようになるかを言ってくださったのです。ユダヤ人だと自称している人々による妨害もありますが、結局は、自分たちの体制を守るための北朝鮮当局の迫害があるだろうと言われているのです。
今まで何度か説教で、今後の世界情勢をはじめとして、北朝鮮の情勢がどうなるかを申し上げました。今後、時になると、北朝鮮の門が開かれ、そこに入って福音を宣べ伝えられる環境と条件がつくられるようになります。ところが、そのような雰囲気が続くのではないと申しました。北朝鮮も必要によって、しばらくの間、開放の門を開きますが、体制維持のために再び開放の門を閉じるようになる時が来ます。自分たちの体制への脅威を感じるからです。
ところで、このような脅威を感じさせる大きな要因となるものの一つが、まさにマンミンの名で成し遂げられる働きです。私たちの働きは、単にみことばを宣べ伝えるだけで終わらず、人の力と能力でできない神様の御力を現わして見せます。そのため、このような御力を恐れるようになり、これを制止するための迫害が加えられるようになります。その具体的な内容が「悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」と言われたみことばなのです。
北朝鮮は、韓国にあるマンミンの祭壇と北朝鮮で活動しているマンミンの働きについて、だんだんと警戒をするようになります。御力があまりにも大きく現われるので、これをただ放っておいてはいけないと判断するのです。
それで、数ヶ月前から準備をして、適当な時を定め、北朝鮮にマンミンの名で立てられた教会を廃して、一緒に働いていた人々を捕らえていくようになります。彼らを牢に監禁した後、自分たち同士、名分を立てていくようになります。すなわち、捕らえて監禁しておいた人々を殺すための名分なのです。無条件に宗教的な理由だけで殺すと、世界が注目して反発するかもしれないので、適当な名分を立てていくのです。そして、彼らの願う名分に合うさばきの基準が作られるまで、牢に監禁された人々は苦しみを受けるようになります。
まさにこの期間を「十日」と言われています。かと言って、このみことばのとおり、ぴたっと「十日の間」だけ苦しみを受けるという意味ではなく、彼らが適当な名分の下でさばきの基準を作り、ついに何人かを殺すようになるまでの期間を「十日」だと言われているのです。
このようにして、結局、主の御名で、マンミンの名と牧者の名で殉教のわざが起こるようになるのです。神様は、私にその時になると、だれが、どんなふうに殉教するようになるのかまで詳しく教えてくださいましたが、その内容は申し上げないことにいたします。
愛する聖徒の皆さん、そして、特別に北朝鮮宣教会の会員の皆さん。このようなみことばを聞いたので恐ろしいでしょうか? 信仰があるなら、天国への望みと将来下さる栄光と報いへの確信があれば、このようなみことばが恐ろしくありません。何よりも主への愛があるなら、決して恐ろしくありません。
主は私たちのために、今、申し上げたことよりもはるかにひどく迫害され、さげすまれ、軽んじられ、ののしられて、ついに十字架の苦しみを受けられました。それなのに、そのような苦しみを受けることによって、悲しんで苦しんだのではなく、ただこのような主の愛を知らないで死んでいく数多くの魂たちへの悲しみで心を痛められました。このような主を思うなら、私たちに与えられるどんな患難も決して恐れたり避けたりしてはいけないでしょう。
しかし、はっきり申し上げる点は、すべてのことは自分の自由意志の中で選んで行わなければならないということです。皆さんの選択のいかんによって、主の御名で来る迫害や患難を受けることも、受けないこともできます。
しかも主の御名で殉教することは、その報いと栄光がとても大きいのです。それも心を霊に、全き霊に耕して、この上なく主を愛する心の中で自分のいのちを主のためにささげたなら、その報いと栄光は実に素晴らしいのです。
かと言って、このようなみことばは必ずしも殉教の状況に置かれるようになる方々にだけ該当するのではありません。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」というみことばのように、皆さんもそれぞれ自分の立場で、このような殉教の信仰で行っていかなければなりません。
そのためには、「悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」と言われたこのみことばに込められている一般的な意味を知らなければなりません。
聖徒の皆さん、信じていると言う人々の中でも、「サタンと悪魔」について正確に見分けて知っている人は多くありません。多くの人々が、長い間、信仰生活をしながらも、「サタンと悪魔とは何であり、それぞれどう違うのか」を知らない場合がほとんどなのです。
ところで、聖書は明らかに、サタンと悪魔について区別しています。サタンとは、簡単に言って、悪い霊の一番かしらであるルシファーの心であり、悪魔はその下で操る霊です。そして、サタンと悪魔はそれぞれすることが違います。「サタン」は人の思いを通して働いて、人々が悪い思いを抱くようにして、真理に逆らう心が揺れ動くようにさせます。すると「悪魔」はこのようなサタンのしわざを受けた人が、そのような思いや心を実際に行いとして移すようにさせるのです。すなわち、思いの中でサタンにそそのかかれたことが、行いとして現われたとき、これを指して「悪魔のしわざ」だと言うのです。
一つの例を挙げて説明すると、もしだれかが皆さんの悪口を言ってののしるとき、これを不快に思って気分が悪くなり、その上、憎むなどの悪い思いが入るようにするのが、サタンがすることなのです。サタンは思いを通して、「腹が立ってしかたがない。悔しい」「我慢できないから、悪口を言うとか、殴ったりしなくちゃ」というこのような思いを吹き込むのです。
この時、ある人はその思いにあったものを、実際、行いとして移したりもします。相手に問いただして悪口を言ったり、その上、殴ったりもします。このように悪い行いとして現われるように、心をとらえて働いていくのが悪魔です。
聖書には、このようなサタンと悪魔のしわざについて正確に分けてあります。
<マタイ16:21-23>にはイエス様が、ご自身が多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに言われると、ペテロはイエス様を引き寄せて、いさめ始めました。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言いました。すると、イエス様は、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。ペテロが人のことを思うことによって、自分の思いの中でイエス様がすべきことをいさめ始めると、イエス様はこれについて「下がれ。サタン。」と責められたのです。
また、<ルカ22:3>には「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。」とありますが、「サタンが入った」とは、サタンが彼の思いをとらえたという意味です。今、イスカリオテ・ユダに「イエス様をお金をもらって売ろう」という、このような思いが入ったということです。
ところで、<ヨハネ13:2>には「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ·ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、」とあります。これは、悪魔が思いを通して働いたという意味ではなく、悪魔がすでにユダの心を完全にとらえたという意味なのです。このように、悪魔が心をとらえることによって、結局、ユダからはイエス様を売るという悪魔の行いが出てきました。
<第一ヨハネ3:8>には「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。」とありますが、ここで「罪のうちを歩む」ということは、行いで現わすことを言います。そのため<ヨハネ6:70>でイエス様も、「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」と言われて、結局、ご自身を売り渡すイスカリオテ・ユダを悪魔だと表現しておられるのです。したがって、行いで罪を犯すことは、悪魔のしわざであり、罪を行う人は悪魔から出た者として悪魔の子どもになることを知らなければなりません。
ところで、まさにこのような悪魔が「あなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている」と書かれています。それでは、牢とは何を意味しているものであり、どんな人にこのような試練が来るのでしょうか? これに対しては、次の時間に続けて調べてみます。
愛する聖徒の皆さん。<ローマ2:28-29の前半節>には、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、心の割礼こそ割礼です。」とあります。
肉的な血統や生まれがユダヤ人だからといって、みながユダヤ人なのではなく、神様がお認めになる人がユダヤ人です。心に割礼をして神様のかたちを取り戻した子ども、主の心に似た人、このような人こそ、神様のお認めになるまことのユダヤ人なのです。まことに主を信じている人であり、神様の選ばれた天国の民なのです。
ところで、このようにまことのユダヤ人になろうとすると、あれこれの迫害や患難を経験する場合が生じます。この時、<第一ヨハネ4:18>で「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」と言われたように、全き愛を成し遂げた人はどんな状況でも恐れません。
イエス様は全き愛があったので、私たち、そして、すべての人類のために喜んで十字架を負うことがおできになりました。愛の力はこのようにまことに偉大なのです。父なる神様がひとり子を渡してくださったことも、イエス様が十字架を負われたことも、信仰の昔の人々があれほど命を尽くして主の福音を伝えたのも、すべてが「愛の力」でした。皆さんもこのような愛の力を現わす、美しいクリスチャンになられますよう願います。
敵である罪人たちのためにひとり子さえ渡してくださった父なる神様の愛と、彼らのために代わりに十字架を負って亡くなられた主の愛をまことに心から感じるなら、だれが理解できず、だれが愛せないでしょうか? 愛で律法を全うされた主に似て、皆さんも完全な愛を成し遂げる神様のまことの子どもたちにみななられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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