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黙示録講解
Title
黙示録講解(8)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:1-7
Date
2006-12-01
<黙2:1-7>
エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
男女が出会い、互いに熱く愛し合うと、結局、結婚して、子どもまで生んで生きていくようになります。ところで、時間が経つと、そのように愛していると言っていた夫婦の間がだんだんと変わってしまうのが見られます。まさに、初めの愛から離れてしまったからです。初めに愛していたその心だけ、変わらずに大切に持って生きていくなら、夫婦の間が変わるはずもなく、どんな問題も生じるはずがありません。しかし、人が肉を持っている以上は、ほとんど初めの愛が変わるのです。
これは、神様と主への愛も同じです。初めて主を受け入れて聖霊を受けたとき、この世のどんなものとも比べられないほど胸がいっぱいになった、初めの愛の感激を皆さんは覚えていらっしゃいますか?
それなら、その時に持っていた心と今の皆さんの心を比べると、「私は愛の心がその時よりもっと大きくなるしかなく、決して変わったり落ちたりしませんでした。」と、このように自信を持って言える方がいらっしゃいますか? そうでなく、ひょっとして「それは、初めだからそうなんだ。初めの愛を変わらずに持ちながら、信仰生活をする人がどれだけいるでしょうか?」と言って、初めの愛を失ってしまったことをまるで当然なことのように思われる方はいらっしゃらないでしょうね?
わが主は初めの愛から離れてしまったことについて、「非難すべきことがある」と言われているのです。そして、本文<黙示録2:5>の前半節に、「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」と言われています。
初めの愛を持って熱心であった姿が、いつ、どこから落ちるようになったのかを顧みて、その原因を見つけなければなりません。そして、その原因について悔い改めて立ち返り、初めの行い、すなわち、初めに持っていた熱心と充満を再び回復しなければならないのです。
それでは、なぜ初めは満たされて熱心に走っていったのに、途中でつい初めの愛が冷めて落ちるようになるのでしょうか? ある人は「ある聖徒とひっかかって試みに落ちた」と言ったり、ある人は主日にお金を稼ぐために、礼拝に一、二回休んだら、今は主日を守ることさえ難しくなった、という話をしたりもします。また、ある人は、主のしもべとひっかかったり、講壇から宣べ伝えられるみことばが自分の考えと理論に合わないので、疑うことによって試みにあったと言ったりする場合もあります。
しかし、初めの愛が冷めて落ちるようになる最も大きな原因は、まさに再びこの世を見つめたからです。信仰生活を始めながら熱心に捨てていった世の肉を、再び取ったからなのです。たとえ霊へと充満に走っていっていた人であっても、一瞬、この世の欲を見つめて取っていくと、いつの間にか肉に落ちることもあります。まさに<第一ヨハネ2:15-16>に、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」と言われたとおりなのです。
さて、初めはこの世を再び取ろうという意図が全くないと思ったのですが、自分も知らないうちに世に落ちる場合もあります。
たとえば、ある方々は初めの愛の充満の中で、熱心に心に割礼をしていきます。ところで、そのように一年、二年、数年していくと、自ら考えてそれ以上霊的な進展がなく、足踏みをしているように感じられる時があります。よく似た種類の訓練が続いて来たりもして、捨てたかのようだった悪の形がまた出てきたりもします。そうなると、ちょっと間違えば心がつらくなって疲れて、「休みたい」という心がしのび込むのです。
また、世の肉的なものを通して慰めを受けようとしたり、休みを得ようとしたりする場合もあります。本人の考えでは、この世を取るのではなく、しばらくの間、慰めと休みを得ようとするだけだと言うでしょうが、このように一回、二回取っていくと、後には自分も知らないうちに落ちるようになるのです。
霊的なものは決して肉で解いて解決できるのではありません。霊的に停滞していたり、何か一段階をもっと霊で貫かねばならなかったりしているなら、それならかえって、もっと霊的に解決できる方法を探さなければなりません。神様の御前にもっとすがり、上から恵みと力を引き下ろして、聖霊の助けを受けなければならないのです。
ところで、そうするためには、必ずどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて立ち返らなければなりません。初めの愛から離れてしまって、初めの行いを失ってしまうことによって、神様との間に生じた隔ての壁を打ちこわしてこそ、再び充満に走っていける力と恵みが来るからです。
ただおおまかに悔い改めるのではなく、心を引き裂く悔い改めがなければなりません。父なる神様は自分のためにひとり子まで下さり、主は自分のために代わりに十字架を負われて、あらゆる苦難を受けてさげすまれ、軽んじられました。そして、変わらない愛を下さったのに、自分はどうしてその愛と恵みに背いたのか? 初めの行いが落ちたのか? どうして神様と敵となるこの世を愛したのか? まさに、このような悔い改めが心の底から出てこなければならないし、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。それで、初めに恵みと真理と聖霊に満たされて、一生懸命信仰生活をしたように、再びそのような熱い信仰を回復しなければなりません。
聖徒の皆さん、子どもたちが生まれた後、おとなになるまでは日ごとに成長していくように、皆さんの信仰もそうでなければなりません。足踏みをしたり、かえって退歩したりするなら、エペソ教会のように叱責を聞くようになります。
ところで、今日も、初めは満たされて熱く神様のみこころを行なって、神の国のために忠実なので成長していたのに、ある瞬間から成長が止まった諸教会があります。たとえ外から見ると少しずつ成長しているかのように見えても、実際、内的な面を調べてみると、以前の熱心と忠実と熱さが消えたのです。初めは真理を行うために、迫害の中でも集まることに努めて祈り、ただ神様のみこころだけを成し遂げるために努力していたのに、今はある程度教会が成長して安定を成し遂げると、初めの熱心と熱さが消えたのです。そうなったので、自負心が高ぶりに発展するようになり、今はこれ以上真理のために労苦しようとせず、忍耐しようという努力もしないようになります。現在の状況を慰めとして、安住しようという心に染まるようになります。ですから、もっと大きく用いられることもできず、今の水準で満足するしかないのです。
<黙示録2:5の後半節>の「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」というみことばのようになるしかない、ということです。
それでは、「燭台を取りはずす」とは、どんな意味でしょうか? 燭台は教会を意味していると申しましたが、このような燭台を取りはずす、ということには、大きく二つの意味があります。
第一に、個人的に私たちの心から聖霊を取り去られるという意味です。<第一コリント3:16>には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあり、私たちのからだが聖なる神の神殿だと言われています。神様が燭台を取りはずされるということは、教会、すなわち、主のからだなる聖殿を取りはずされるということなので、皆さんの中から聖霊を取り去られるという意味になります。
<第一テサロニケ3:17>に「御霊を消してはなりません。」とあり、<第一コリント3:17>には「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」とあります。
神の神殿であるからだをこわすなら、神様がその人を滅ぼされます、とありますが、これは、すなわち、聖霊を取り去られることによって、それ以上、聖なる神の神殿になれないということを言われているのです。たとえ聖霊を受けたとしても、初めの愛を失ってしまい、再び罪と悪の中で世の友となり生きていくので、それ以上聖なる聖霊が皆さんのからだを神殿としていることがおできにならない場合を言います。
もちろん、御霊が消される前に、つまり、神様が聖霊を取り去っていかれる前に、悔い改めて立ち返った時は、再び機会を下さり、恵みを下さいますが、続いて悔い改めず立ち返らずに、結局、公義の限界を超える時は、聖霊が取り去られるようになるのです。
もちろん、このような状況に至るまで、聖霊は何としてでも悟らせようとしてくださいます。心がつらくて苦しくなるようにして、数多くのみことばで立ち返れる機会を下さいます。しかし、それでもずっと立ち返らないと、ついに聖霊を取り去られるので、その時はいくら熱心になろうとしてもなれないのです。頭で知っている知識があるので、恐ろしさのためにでも何としてでも立ち返ろうと努力しても、聖霊がそれ以上助けてくださることができないので、どうすることもできない状況にまで至るようになります。
それと同時に、相変わらずこの世の罪と悪を追い求めるようになり、世の肉的なものを通して心の慰めを得てみようと、結局、世にもっと深く落ちるようになります。すでにこのような状態になると、それ以上立ち返れる機会さえ得ることが難しく、まことに公義を乗り越える愛の犠牲がなくては、結局、永遠の死に行くしかないのです。
ですから、聖霊を受けた神様の子どもとして、このように燭台が取りはずさせるしかないこのような状況にまで行っては決していけないのです。皆さんの中に宿っておられる聖霊の充満がいつも絶えずあふれることによって、聖霊の明らかな導きと働きかけの中で、天の都の門に向かって力強く走っていかれますよう、主の御名で祝福して祈ります。
「燭台を取りはずす」というみことばには、第二に、教会の中から聖霊を取り去られるという意味があります。
教会的にも、初めの愛が冷めるようになると、教会の中で聖霊のみわざが消え、リバイバルも止まるようになるのが見られます。多くの教会が開拓した当時は、神様の御前に叫んで祈るよう努めて満たされていても、ある程度リバイバルをすると、熱心が冷めてしまうのが見られます。それで、熱く祈っていた姿はなくなり、集まることに努めていた集まりがなくなってしまい、熱心に伝道した姿が消えてしまうなど、初めの愛が冷めてしまった教会が多くあります。
このような場合、教会で聖霊のみわざが断たれるようになるので、霊的に眠っている教会になるしかないし、このように一度、聖霊のみわざが断たれるようになると、いくら再び祈りの火を付けて、聖霊充満を回復しようとしても、それはやさしくないのがわかります。教会全体が初めの愛を失ってしまうことによって、神様が燭台を取りはずされたので、それ以上、聖霊のみわざが起こらず、聖霊が行き巡られないのです。
そして、このように聖霊が行き巡らないようになると、すぐサタンが働き始めて、教会内に分裂と争いを起こし、結局、教会が破壊されるという状況にまで至ったりもします。たとえそこまで至らないとしても、それ以上、聖霊が働かれない教会なら、すでに教会が果たすべき使命を失ってしまったと言えます。
したがって、この終わりの時を生きているすべての教会と聖徒たちなら、さらに<第一ペテロ4:7>の「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」というみことばを心に留めて、目覚めている信仰生活をしなければなりません。そして、もし初めの愛を失ってしまったなら、すみやかに悔い改めて立ち返り、決して神様が燭台を取りはずされることがないようにしなければなりません。
愛する聖徒の皆さん。主はエペソ教会を厳しく責められた後、また称賛をなさいます。すなわち、エペソ教会は、主から最初には称賛を、そして、その後、叱責を、そして、最後にまた称賛を受けています。
ところで、今後、伝えられる残りの諸教会に下さるみことばを調べてみると、主が各教会にみことばで治められる方法がそれぞれ違うのがわかります。ある教会は称賛とともに叱責をされたり、ある教会は称賛がなく叱責だけをされたり、称賛も叱責もなく勧めだけをされた教会もあったり、称賛だけをされた教会もあります。
まさに皆さんも、教会で神様の働きをしたり、家庭で子どもたちを養育したりするとき、あるいは、夫婦の間に互いに勧めたりする時にも、主が「七つの教会」を治められた方法を活用すると、良い効果が得られます。
その代表的なモデルがまさにエペソ教会です。主は、エペソ教会を責める前に、まず称賛をなさいました。このように、まず良い点を挙げて称賛された後に、間違っている点を責められたのです。
皆さんがある人の間違いを悟らせてあげようとする時も、まずそれを叱責からしてしまうなら、その後にはたとえ称賛をしてもあまり効果がないのです。すでに叱責を聞いて、心が閉ざされてしまった状態なので、その後、称賛を聞いても、心から喜びで受け入れられないのです。
したがって、ある間違いを指摘する時も、まず相手の良い点を称賛してあげることによって、相手が心の門をぱあっと開いて満たされるようにするのがよいのです。そして、その後、相手の間違っている点を指摘すると、それでも相手がもっと肯定的に受け入れるようになります。
ところで、相手が称賛されるに値することが全くない場合には、なるべく叱責をしないほうがよいのです。称賛されることがないのに、それに叱責まで聞くと、さらにがっかりしたり萎縮してしまったりして、試みにあうかもしれません。このような場合には、叱責をせず、代わりに愛で勧めながら、よく諭して教えていくのが知恵ある方法です。
きょうの本文に、主はエペソ教会について、称賛と叱責をされた後、再び称賛される内容を少し残しておかれました。これが神様の知恵です。主は、初めの愛を失ってしまったエペソ教会の牧者と聖徒たちを厳しく責められましたが、事実、その叱責は小さな叱責ではありません。燭台を取りはずしてしまおうということは、個人的には天の御国のいのちの書に記されている名が消されて救われないようになる、という意味です。また、教会的には聖霊のみわざが止まることによって、それ以上、主のからだなる教会としての使命を果たせない状況に至ったという意味なのです。
ですから、このような話を聞いたとき、当事者たちはどんなに衝撃が大きかったでしょうか?仮に私が相談しに来た聖徒に、「神様が聖徒さんから聖霊を取り去ろうとなさるので、そうなると救われないでしょう」と言ったなら、たぶんその聖徒はあまりにも衝撃を受けて力を失い、その場に座り込んでしまうかもしれません。
主から叱責を聞いたエペソ教会も同じかもしれないのです。そのため、主はエペソ教会の牧者と聖徒たちを厳しく責められた後に、それでも彼らが力を失わず、何としてでも悔い改めて立ち返っていけるようにするために、一つの称賛を残しておかれたのです。
その内容が本文<6節>に「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」と言われたことなのです。それでは、ニコライ派とは何でしょうか?
<使徒の働き6章>には、初代教会で神のしもべたちが、もっぱら祈りとみことばの奉仕だけに励むことができるようにするために、聖徒たちの中で教会の仕事を治めるにふさわしい人を選んで、執事を立てる場面が出てきます。
<使徒の働き6:2-4>には、「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』」と書かれています。このみことばどおり、今日も、主のしもべはもっぱら祈りとみことばの奉仕にだけ励まなければなりません。
初代教会がこのようにしたとき、続く<7節>には「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」とあるのです。このように、初代教会で御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人の中で選ばれ、執事として立てられた人のひとりがまさにアンテオケのニコラオでした。
ところが、このように称賛を聞いていた執事ニコラオが、後には真理から離れている行いをして、群衆を集めて派をつくるようになります。イエス様の十二人の弟子たちのうちにも、イエス様を裏切ったイスカリオテ·ユダがいたように、初代教会から選んだ七人の執事の中でも、ニコラオは神様を裏切ったのです。
今日もいくら教会から務めを多く受けて、聖霊に満たされて称賛された人であっても、完全に霊に入ってくる前までは、サタンのしわざを受けて、真理から離れるかもしれないことを心に留めなければなりません。したがって、誘惑に陥らないように、いつも目を覚まして祈らなければならないのです。
また、聖徒の皆さんも、ある人がいくら多くの務めと使命を受けて充満に走っていっているかのようでも、神様が完全に認めてくださる前までは、「あの人は信じられるから」と、ともすると惑わされて、真理に逆らうものに一緒に陥らないように注意をしなければならないのです。
それでは、ニコライ派はどのように神様を裏切ったのでしょうか? ニコラオは次のように主張しました。「霊とは、きよくて罪がなく聖められたものだ。人が罪を犯すのは、目に見えるこのからだに罪があって罪を犯すのである。人の中にある霊は罪とは無関係だ。人が死んで神様がその霊と魂を召されるとき、からだは腐って一握りの土に戻っていくので、肉体はいくら罪を犯しても救いとは関係がない。いったん主を信じさえすれば、霊と魂がきよめられるので、肉体はどんな罪を犯しても関係がない、」簡単に言って、人がからだでいくら罪を犯しても、イエス・キリストだけ信じれば救われる、ということなのです。
愛する聖徒の皆さん。私たちが神様のみことばの中に生きるためには、祈って労苦する行いと忍耐が伴わなければなりません。ただ教会だけ来たり行ったりしながら、たとえ罪を犯して生きていても救われると教えるなら、まだこの世を愛して暗やみにとどまっている人々には、これはどんなに誘惑されやすい言葉でしょうか? たとえ一生懸命罪と戦って捨てていっても、ちょっと間違えばこの言葉に惑わされて、再び世に落ちるかもしれないのです。ですから、教会の中にもしこのような主張をする人がいて、このような人に同調する勢力が生じるようになると、その教会はすぐに罪と悪に染まっていくようになります。
しかし、エペソ教会は、このように神様にふさわしくないニコライ派を憎みました。主は、この点を称賛されて、最後に勧めのみことばを言われています。<黙示録2:7>に、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と書かれています。
私たちはみことばを聞いて知ったなら、単に知識としてだけ入れておいてはいけません。聖霊の助けによって心に蒔いて、行いで芽を出し、実を刈り入れなければなりません。このようにする時だけ勝利を得る者になれます。ここで、「勝利を得る」とは、神様のみことばを聞いて、聖霊の助けを受けて心に刻んで、そのとおりに行う人は、結局、この世に勝つようになるという意味です。失ってしまった初めの愛を回復して、再び一生懸命真理の中に生きていくようになる、ということなのです。
このように、勝利を得る人に主は、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と約束されました。いのちの木の実とは、パラダイスから新しいエルサレムまで、天国のあちこちにどこでもある果物であり、このような実を食べさせるとは、つまり救いに至るようにしてくださるという約束なのです。
それなら、なぜ「パラダイスにあるいのちの木の実」と言われたのでしょうか? ここで、パラダイスには二つの意味があります。
第一の意味は、天国の場所のうち、最も低い所であるパラダイスを意味しています。かろうじて救われる信仰の持っている人、まるで赤ちゃんのような信仰を持つ人が、将来、救われて入っていくようになる場所です。
神様は行いに応じて報いてくださるお方なので、天国も信仰の量りによって、それぞれ入っていく場所が区分されていますが、エペソのクリスチャンたちは初めの愛を失ってしまったので、これから立ち返る時はかろうじて救われるようになる状態でした。
しかし、たとえ初めの愛を失ったとしても、どこから落ちたかを見つけて、悔い改めて立ち返り、再び熱く走っていくなら、単にパラダイスにだけ行けるのではなく、もっと良い天国も激しく攻めて入っていくことができます。しかし、単に初めの愛を失ったことを悔い改めて立ち返る次元にとどまるなら、かろうじて恥ずかしい救いを受けて、パラダイスに行くようになるというみことばです。
パラダイスの二番目の意味は、天国全体を表現して言われたのです。この地上にあるすべての教会の上に宣べ伝えられるみことばであり、だれでも初めの愛を回復するなら、天国に入るようになり、そこでいのちの木の実を食べるようになるという約束です。
愛する聖徒の皆さん。エペソにある教会は、たとえ初めの愛を失ったことについて、主から非常に厳しい叱責を聞きましたが、一方、それでも彼らは称賛を聞くに値する姿がありました。そのように称賛される姿があったので、非常に厳しい叱責にもかかわらず、悔い改めて立ち返れる機会を得るようになります。
しかし、このような叱責にもかかわらず、「私たちはこんなに熱心にやってきた、自分なりによくやってきたのに」という高くなった心を持つなら、決して霊的な眠りから目覚められないでしょう。
自分がよくやったことがあっても、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と告白できる、まことに役に立たないしもべの心にならなければなりません。そうであってこそ、たとえ初めの愛を失ったとしても、聖霊が悟らせて勧めてくださるとき、ただちに悔い改めて立ち返り、初めの愛を回復し、初めの行いを持つことができるのです。
したがって、皆さんはエペソ教会に下さったみことばを通して、自分自身はもちろん、皆さんの属している宣教会や教区に至るまで、主の御前に称賛されるにふさわしい姿は何か、勧めや叱責を受けるに値する姿は何かを顧みる尊い機会になるようお願いします。特に、主と父なる神様への初めの愛を失ったのではないかを顧みることによって、これからはまことに変わらない愛と充満で熱心に信仰生活をしていくよう願います。それで、日増しに初めの愛よりさらに熱く神様を愛して、神様に喜ばれる幸いな聖徒の皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。"
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