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講解メッセージ
Title
ヨハネの手紙第一講解 (20)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 3:4
Date
2011-05-08
[本文]
[ヨハネの手紙第一3:4]
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」
愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」二十回目です。
前回に続いて、本文[4節]について説明します。「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とあります。罪を犯すとは、神の律法に逆らうことで、つまり、不法を行なうことです。不法を行なえば、霊の世界の法則に従って必ずさばかれますが、その時期と方法はとても多様です。公義の法則が複雑で、ケースバイケースで適用されるからです。
たとえば、先祖が罪と悪をひどく行なったとき、その子孫が影響を受けることがあると言いました。自分が犯した罪だけでなく、先祖が犯した罪まで含めて代価を払うのです。しかし、先祖が多くの不法を行なったとしても、その子孫が光の中を歩んで、真理どおりに生きれば、神が守ってくださると言いました。
一方、先祖が神によく仕えれば、その子孫は自分の行ない以上に祝福されます。子孫が罪を犯して神の御怒りを買うとしても、その先祖が積んだ善によって子孫に臨む懲らしめが減らされることもあります。懲らしめの時期が遅くなることもあります。
ユダの王たちが偶像を拝んで罪を犯した時も、神は彼らの先祖のダビデを思われて、耐え忍ばれました。罪を犯した王と民から直ちに御顔を背けられたなら、たちまち国が滅びたかもしれません。しかし、神はそうされないで、絶えず預言者を遣わして諭し、時には、異国の侵略を通してへりくだるようにもされました。罪から離れて立ち返るように、何度も何度も悔い改めの機会を与えられたのです。このように長い間、多くの機会を下さったのに、王と民は立ち返らないで罪を犯し続け、その罪と悪が積まれた結果、結局、ユダ王国は滅びてしまいました。自分が行なったとおりにさばかれたのです。
これと反対に、先祖が多くの悪を積んでも、自分が善を行なった場合は、神の憐れみを受けたこともよくあります。このように子孫が先祖の影響を受けるには受けても、その影響が絶対的なのではありません。救いと祝福、答えのために一番大切なのは、自分自身の行ないです。ただ、このような公義の法則を説明している理由は、多様なケースを知っていれば、皆さんがもっとすみやかに答えられて祝福されるのに参考になるからです。働き人なら、聖徒を顧みる時も役に立つでしょう。
この時間は、先祖が罪と悪を積んだゆえに子孫に及ぼす影響について、補って説明します。聖徒の皆さん、先祖が神に立ち向かったり、偶像をひどく拝んでまじないをするなど、神の御前に多くの罪と悪を積んだとき、子孫の世代にまで報いが臨むことは、前回、説明しました。
今から説明するのは、人に対して大きい悪を積んだ場合です。先祖が神に直接立ち向かったのでなくても、人に度を越した悪を行なったとき、その子孫にも影響を与えるのです。からだの病気や災いとして現れることもあり、精神的な分野、つまり、性格や情緒の障害、思考力の欠乏などとして現れることもあります。善悪をわきまえる力が欠けていたり、罪の意識や罪責感が欠けていることも、その一つです。
世で、監獄に入れられた囚人の中でも、ある人は自分の罪のため苦しんで、過去のことを恥ずかしく思います。一方、ある人は「世のせいで、貧しかったせいで、自分はこうなった」と言いながら、人のせいにしているばかりです。自分のために他の人が被害を受けて苦しんだのに、罪の意識がなくて、人の苦しみに共感もできないのです。
このような人の中には、子どもの時から動物や人が苦しみを受けても、「痛そう。悲しそう。かわいそうだ」と感じられない人がいます。善なること、感動的なことを見ても、その心が動きません。善悪をわきまえる力や道徳的に考える力が極めて欠乏しているのです。思考と知覚能力が劣っている一種の障害です。
ちなみに、精神科の症状の中で「サイコパス」、つまり「反社会的人格障害」という症状があります。簡単に説明すれば、頭脳のある部分が活性化しなくて、普通の感情が感じられないのです。その結果、相手の立場が思いやれなくて、非常に利己的で衝動的で即興的です。顔色一つ変えずに嘘をついて、嘘がばれても慌てないですぐ別の嘘を作り出します。
しかし、このような症状は日常生活の中では表にあまり現れません。巧みに一般の人たちの中に混ざって生きていて、さらに博識で有能で魅力的な人に見えることもあります。人によって、症状が現われる程度に差があるし、会社に通ったり、人と交わったりするのに必要な、他の知的能力は正常だからです。
ところが、このような人が極端的な状況に置かれれば、普通の人が理解できない残忍なこともためらわずに行ないます。社会に大きい物議をかもして、つまはじきされる凶悪犯になることもあります。このような症状も、霊的には結局、先祖から影響を受けて、闇のしわざを受けたので現われるのです。
神は人を造られたとき、基本的な思考力とわきまえる力を持つように創造されました。もちろん、人によって感じと考え方は違います。人によって豊富な感性を持っている人がいれば、乾いた感性を持っている人もいます。割合、感情をよくコントロールする人もいれば、即興的で衝動的な人もいます。自分や他人の間違いに対して敏感で、気の小さい人もいれば、おおざっぱで大胆な人もいます。このような違いはあっても、それでもある程度は他人と同じように感じて考えてこそ、正常だと言えるでしょう。
また、正常の思考と認知をする人は善悪がわきまえられるし、すべきこととしてはいけないことがわかります。すべきことをしなかった時や、してはいけないことをした時は、「良心の呵責」を感じます。もしそのようなところがひどく欠けているなら、これは精神的な障害です。「私は計算も上手で、記憶力もいいし、社会生活も円満なのに、なぜ障害と言うのだろうか」と思うかもしれませんが、確かに正常からはずれているのであり、霊的に一種の呪いです。罪を犯して、からだの病気や他の災いがやって来なくても、すでに呪われている状態です。
ところが、程度の違いはありますが、教会の中でもこのようなことが度々あります。善悪をわきまえて正しいほうが選べる力と、罪を犯せば恥ずかしいと感じる認知能力が極めて欠如しているのです。真理をたくさん聞いても、心にあまり響かないし、善と悪について学んでも、耳に入ってきません。他の人が害を受けて苦しんでも、悪いことであれ良いことであれ、自分がしたいことがあれば、そのまましてしまうのです。それは大きい悪だと知っていても、心で同感できないし、地獄に行く罪だと教えられても、あまり実感できません。ですから、当然、心からの悔い改めもできないのです。
去年、ある人が多くの肉の行ないをして、私のところに来て悔い改めました。口では悔い改めると言っても、私はずいぶん心配しました。悔い改める表情でもないし、心からの涙さえ流れていない、無感覚な様子でした。
もちろん、死に至る罪を犯して、悔い改めの霊が臨まなければ、いくら悔い改めたくても、魂を砕くような悔い改めはできません。しかし、この場合は罪によって心が苦しいけれど悔い改められないのとは違いました。犯した罪を悟りさえするなら、恥ずかしくて申し訳なくて、顔が上げられないでしょうが、そんな様子でなく、自分がどんな過ちをしたかも知らないように見えました。
人が聖霊を受けて真理を知るようになれば、罪を犯したとき、心がどんなに苦しいでしょうか。「神様の御前にあまりに申し訳なくて、牧者の前にも本当にすまない。私はどうしてこんなに恥ずかしいことをしたんだろう。どうして、こんなに悪いことをしたんだろう」と、罪を意識します。また「私はあの人に本当に大きい害を与えたんだ。これをどう償ったらいいのか」と自分を責めるようになるのです。
ところが、おかしいことに、この人にはこの罪の意識そのものがありませんでした。自分の罪と悪が現われて、責められても大したことでないかのように聞いているのです。「人は生きているうちに間違いを犯すこともあるし、こういうこともあり、ああいうこともあるもんだろう」としか感じていないのです。
このような場合、わきまえる力や思考力が欠如しているからといって、神が放っておかれたのではありません。もともとそのからだにわずらいがありますが、それを通して、神の御前で自分自身を顧みるように機会を与えられたこともあります。すると、当時は苦しいから怖くなって、自分を顧みるとはいっても、それも一時だけでした。「これは本当に大きい罪なんだ。私は本当に過ちを犯したんだ」と悟れないから、心から悔い改めようと思わなかったのです。
そのようにずっと悔い改めないまま生きていて、結局、罪と悪を持ったまま主を迎えれば、どうなるでしょうか。さばかれて地獄に行くしかないでしょう。あまりにも恐ろしいことではありませんか。
それでは、この人がこのように罪の意識や恥が感じられない理由は何でしょうか? これは、先祖から積んできた罪の隔ての壁が子孫の心に影響を及ぼしたからです。もちろん、子どもの時から劣悪で非正常的な環境で、愛されないで育った人は、情緒や思考の障害が起こることもあります。しかし、先天的に善悪をわきまえる力や罪責感、罪の意識などが欠けている場合は、先祖の影響が大きいということです。
世の人々も、先祖が代々善を積んできた家はその子孫が成功するとよく言います。これは霊的な公義の法則にも合います。ふつう心の良い人は、福音を知らなかった時も、自分なりに天を敬って、良い行ないをします。するとその子孫も祝福されて、割合性分が良くて、平安に生きることが多いです。心が良いだけでなく、知恵もあって、周りの人に益を与えて、世に必要な存在として生きていきます。
一方、ある人は、自分の欲にしたがって、悪に悪を積みながら生きます。自分の益を求めるために、策略をめぐらすこともためらいません。人を中傷して破滅させたり、恨みを買うようなことをするのです。国を裏切って売り、数多くの人を大いに苦しめることもあります。はなはだしくは、人を殺すこともためらいません。権勢を持っている人が、自分の富と権力を保つために、大量虐殺をすることもあります。
ねたみ、そねみのゆえ、目障りだからといって、相手に大きい悪を行なって、命まで奪う人もいます。カインがアベルを殺したとき、アベルが何か過ちをしたとか、自分に害を与えたから殺したのではないのです。
そのような悪が積み重なって、ある瞬間、限界を超えれば、自分自身が闇に捕らえられて、心の苦しみに悩んだあげく自殺することもあります。その子どもや子孫も、先祖の影響で闇に捕らえられて自殺することもあります。また、今、説明している例のように、精神的な障害が起きることもあります。知的、情緒的な障害が起きて、善悪をわきまえる力と思考力がひどく欠乏するのです。うつ病で、精神障害で、自殺衝動などに悩むこともあり、まかり間違えば犯罪者になって、人にうしろ指を指されながら生きることもあります。
愛する聖徒の皆さん、皆さんは良いことにどのくらい感動しているでしょうか? 悪いことはどのぐらい嫌っているでしょうか? 心に善があれば、良いことを聞いて話すのが楽しいです。感動的な話を聞けばすぐ涙を流して喜んで、かわいそうなことを見たら、冷淡になるのではなく、何としてでも助けてあげたいと思うでしょう。悪いことは見るのも聞くのもいやです。誰かが人の背きの罪を伝えれば聞きたくないし、自分の益のために悪を行なうのを見れば、心痛んで悲しみます。残忍で暴力的なもの、情欲をいだかせるようなものは、当然、避けたいでしょう。
しかし、時代が悪くなるほど、人々は悪いものを見て聞きたがります。マスコミも、ますます情欲的なものと強烈な刺激になるものを流します。感情や思考に欠如がある人でなくても、このような悪いものに接し続ければ、心に悪を植えつけて、良心が麻痺します。罪に対する警戒心がゆるんで、良いものを見れば感動する心もなくなるのです。
[マタイ11:16-17]に「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、他の子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』」とあります。
「私は先祖の影響で罪の意識や罪責感がないような人じゃないから、私とは関係ない」と思うのでなく、もっと善を慕う皆さんになりますように。良いことに接するとき、もっと深く感動して、悪いことはもっと嫌って遠ざけて、子どものようにきよく純粋な心に変えられるようお願いします。
そして、メッセージを聞きながら、自分に当たることがあっても、挫折したり気を落としませんように。最善を尽くして、自分の悪を悔い改めて、神の御前に善を積んでいけばよいのです。心で善があまり悟れなかったり、罪に対する感覚があまり感じられないとしても、神のみことばを基準にすれば、善と悪がはっきりとわきまえられるでしょう。そのみことばを握って、すべてのことに善を選んでいきますように。恵みの教会にとどまって、神の恵みを慕いながら、変えられるために努力すれば、必ず憐れみを受けられるでしょう。
この続きは次の時間に伝えます。
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