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講解メッセージ
Title
ヨハネの手紙第一講解 (8)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 2:12-14
Date
2010-08-15
[本文]
[第一ヨハネ2:12-14]
「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」八回目の時間です。
まことの光であるイエス・キリストを受け入れた人は、新しいいのちを得ます。ところが、人が生まれれば、すぐ成人になるのではありません。子どもから若い者に、また、おとなに、このように成長するようになります。
霊的にも同じです。ひとりの人が聖霊を受けて新しいいのちを得て、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するまでは、成長する過程があります。それで、きょうの本文では、聖徒をいろいろな名で呼んでいます。信仰の量りに応じて、子どもたち、小さい者たち、若い者たち、父たち、このように違う呼び名を使っているのです。
[本論]
まず[12節]に「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。「子どもたち」とは、信仰の量りに応じて見ると、信仰の一段階、すなわち、救われた信仰に当たります。
[ヨハネ1:12]に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。闇の中に生きながら悪魔の奴隷だった人が、イエス・キリストを救い主と信じて受け入れれば、それからは神の子どもとされます。神の子どもたちはイエス・キリストの御名によって罪が赦され、聖霊を賜物として受けます。本文に「主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあるとおり、私たちはただイエス・キリストの御名によってだけ、罪が赦されるのです。
世の人々はたびたびキリスト教が排他的な宗教だと非難したりします。他の宗教も多いのに、どうして必ずキリスト教にだけ救いがあるのかと言うのです。これは、クリスチャンが排他的だからそうなのではありません。霊の世界の法則に従って、救い主の条件を備えた方がイエス様のほかには誰もいないからそうなのです。
「救い主」とは、アダムが罪を犯した後、罪によって地獄に行くしかない人類を救ってくださる方のことです。「十字架のことば」を聞いた聖徒の皆さんは、救い主の資格をみな知っているでしょう? では、簡単に整理してみます。
第一は、人でなければなりません。人の罪は動物や御使いでなく、ただ人だけが贖うことができます。第二、アダムの子孫であってはなりません。アダムの子孫はみな罪人の子孫なので、原罪を持って生まれるからです。本人が原罪を持って生まれた罪人なのに、他人の罪を贖うことはできません。
第三に、力がなければなりません。霊の世界で、力は罪がないことにより与えられます。罪がないからこそ死の力を打ち砕くことができ、敵である悪魔に縛られた罪人を救うこともできます。自分に力があってこそ、敵軍の捕虜になった味方を救い出せるのと同じです。それで、原罪だけでなく、自分で犯した罪も全くなくてこそ、救い主になれるのです。
第四に、救い主になるためには、愛がなければなりません。罪人を救うためには、罪人が受けるべき刑罰を代わりに受けなければなりません。すなわち、木の十字架にかけられて、いのちそのものである血を注ぎ出して死に、「死」という罪の代価を払わなければなりません。このような刑罰を代わりに受けるには、まことに大いなる愛がなければならないのです。
[この四つ条件について、もっと詳しい内容は「十字架のことば」の説教を参考にされますように。]
世の中に数多くの偉人がいて、尊敬される人々も多いけれど、このような救い主の条件を全部備えた人は、イエス様のほかには誰もいません。皆がアダムの子孫であり、原罪と自分で犯した罪を持っている罪人なので、自分自身の罪の問題さえ解決できないのです。
ただおひとり、イエス・キリストだけが、人として生まれていても、聖霊によって宿られたので原罪がありません。生まれてから神の戒めのとおり生きられて、ご自分で犯した罪も全くありません。また、大いなる愛があったので、罪人たちのために残酷な十字架の刑罰をすべて受けられて、水と血を注ぎ出して死なれました。愛をもって死の刑罰を代わりに受けられましたが、何の罪もなかったので、死の力を打ち砕いてよみがえられました。
[使徒の働き4:12]に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあります。
このように、救い主イエス・キリストの御名を信じて聖霊を受けた聖徒を霊的に「子どもたちよ」と呼んでいるのです。子どもたちの信仰を持っている段階では、聖霊を受けて救われる信仰はあるけれど、まだ神のみことばがよくわかりません。それで、真理のとおり生きようとする努力もあまりなく、みことばどおり生きる力もありません。神を信じているとはいえ、世を愛する心もたくさん残っています。それで、熱く信仰生活をしているようでも、試練がやって来れば、直ちに気を落としてつまずいたりします。
救われて神の子どもとされたとしても、このように乳飲み子のような信仰にとどまり続けてはいけません。日々すくすく育つ赤ちゃんのように、すみやかにみことばを糧として、信仰を成長させなければなりません。
子どもたちの次の段階は「小さい者たち」です。
本文[14節前半節]に「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあります。[本文の順序では「父たち」が先にありますが、ここでは信仰の段階別に説明します。]
子どもが生まれて、乳飲み子の時期を過ぎれば、小さい者になります。乳離れしてヨチヨチ歩き、赤ちゃんよりは知覚があります。ですが、まだひとりで生きていく力はなく、やっと世についての知識を一つ一つ学んでいく段階です。親を知ってはいるが、親の故郷、学歴、趣味のようなものは知らず、その深い心も悟りません。
霊的に「小さい者たち」は、初心の者の信仰であり、信仰の二段階くらいに思えばよいでしょう。赤ちゃんが少し育てば、お父さん、お母さんを知るように、小さい者たちの信仰になれば、創造主の神について、すなわち、私たちの父がどういう方なのか知るようになります。イエスがどのように私たちを救われたのか、救われた子どもたちはどう生きるべきなのか、すなわち、罪を捨ててみことばの中に生きなければならないことを知ります。言いかえれば、信仰の基礎を知るのです。それで、自分なりには神のみことばに従おうとはするけれど、完全には行なえないのです。真理のとおり従う時もあって、従えない時もあります。
ところで、時々伝道をしてみると、主を信じない世の人々の中にも「神を知っている」という人がいます。以前教会に通ったことがあるとか、聖書を何度か読んだとか、知識的に神について聞いて知っている、ということです。
しかし、主を受け入れていない人が神を知っているというのは偽りです。本当に神を知っているなら、神が天地万物を創造された私たちの霊と魂の父であることを知っているでしょう。天国と地獄があることも、それで、地獄に行く魂たちを救うためにひとり子をこの地上に遣わされたことも知っています。このような事実を知って、神を本当に知っているなら、どうしてイエス・キリストを受け入れないでいるでしょうか?
[ヨハネ8:19後半節]で、イエス様は「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」と言われました。
このみことばのとおり、父なる神を知っているということは、すなわち、御子であるイエス・キリストを知っているということです。また、イエス・キリストを知っているとは、知識として知っているのでなく、心に信じて救い主として受け入れて、そのみことばどおり行ないながら生きることです。主を受け入れてもいないし、神のみことばどおり生きてもいない人は、神を知らないし、神と何のかかわりもないことを悟らなければなりません。
聖徒たちが神が父であることを知って、みことばどおり生き始めれば、神がだんだん親しく感じられます。それで、祈る時の呼び名も、初めは「神さま」と呼んで、徐々に「父なる神様」、あるいは「お父さま」と変えて呼ぶようになります。神も、このように子どもたちが「お父さま」と呼ぶのを喜ばれます。私たちがみことばどおり従うほど、神とますます親密な親子関係が作れるのです。
ただし、公式礼拝の代表祈祷の時には、ただ「お父さま」とだけは呼ばないのです。その場には、初心の者や教会に来たばかりの人のように、神を父と呼ぶほどの信仰でない人もいます。このような人まで全部代表するので、ただ「神様」と呼んだり「父なる神様」と呼んだりします。
小さい者たちの次は、「若い者たち」の信仰です。
本文[13節後半節]に「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。また、[14節後半節]に「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 」とあります。
世でも、若い者は成長しながら得た知識を土台に自分の人生を開拓していく時期です。血気旺盛で意欲的であり、何でもやり遂げるという自信があります。霊的にも、若い者は神のみことばが心に耕されたほど、自信ある信仰生活をします。信仰があって、天国の望みがあるので、罪と悪と戦って捨てていき、試練がやって来ても大胆に勝ち抜けます。神の子どもとされた特権を持って、敵である悪魔・サタンと立ち向かって戦えるのです。
信仰の段階では三段階に当たり、もう少し正確に言えば、その中でも60パーセント以上になって、信仰の岩の上に立った人々です。小さい者たちの信仰だった時は、頭で真理を知ってはいるけれど、そのまま全部は行なえないと言いました。
しかし、信仰生活をし続けて、神のみことばをこまめに聞いて学び、そのみことばを自分の心に耕していくなら、だんだん完全に守り行なえる力が与えられます。神のみことばによって心を変えさせて、みことばどおり行なうほど、霊的に強くて大胆になります。それで、「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり」とあるのです。
このように若い者の段階に至った人は、神のみことばを心から悟り従います。悪を行なうことを喜ばないで、熱心に善を積み上げていきます。心の罪の性質までもすべて捨てるために、絶えず努力していきます。このように若い者の信仰にいる人は、世の誘惑に惑わされず、闇と友になりません。「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 」とあるとおり、敵である悪魔・サタンが惑わしても、十分にみことばで退けるのです。ひょっとして試練にあっても、絶えず祈り、神のみことばどおり喜んで感謝して、打ち勝つことができます。
聖徒の皆さんは多くの方が信仰の三段階に入って、すでに岩の上に立っている方も多いです。しかし、ここで満足して止まったり、「少し休もう」という心になったりしてはいけません。次の段階に向かって、もっと熱く進まなければなりません。強い者であり、悪い者に打ち勝つ若い者の信仰であっても、神がまことに皆さんに望まれるのは、若い者の信仰ではありません。この段階をすみやかに越えてこそ、神が望まれるまことの子どもの信仰に入れるのです。
愛する聖徒の皆さん、若い者の次は、「父」の段階です。
本文[13節]に「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とあります。血気旺盛な若い者の時を過ぎれば、おとなの時期を迎えます。自分の義をもって良し悪しを問い詰めるよりは、人生の年輪が重なって、事をわきまえて受け入れ、心にいだくこともできます。自分の思いが正しいからといって最後まで言い張るのではなく、頭を下げなければならないときは下げるのです。
霊的にも、父の信仰は円熟した信仰であり、四段階以上、御霊の歩みに入った段階、全く聖なる者とされた段階に当たります。父たちは「初めからおられる方を、知ったからです。」とありますが、ここで「初めからおられた方」とは、「神」のことです。
この前に、小さい者の信仰も「御父を知ったからです。」とありますが、父たちと小さい者たちの「知った」という言葉は意味が違います。小さい者たちも、お父さんとお母さんを知っています。あの人がうちの父さんで母さんだ、自分を生んで育てて愛してくれると知っています。しかし、両親がどんな人生を歩んできたか、また、その愛と心がどうなのか、深く悟るのではありません。もちろん、それなりに両親の愛を感じて、両親を愛すると告白もしますが、ただ小さい者の水準にすぎません。そのうち、おとなになれば、両親についてよくわかるようになります。両親がどんな人生を歩んできたのか、どんな心と性分を持っていたのかよく知って、両親の愛がどんなものなのかも深く感じます。
霊的にも、小さい者たちが御父を知ったとは、単に信仰の基礎を知ったということです。創造主の神が私たちの父であることと、イエス・キリストが救い主であることを、知識的に悟ったということです。一方、父たちが神を知ったということは、神の根本についてその深さを悟って、心から神の愛を悟ったという意味です。
[エペソ3:18-19]に「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とあります。
その愛の広さと長さ、高さと深さを悟って、自分の中にも愛が満たされるなら、すべてのことに愛をもって行ないます。それで、ただ「神」と言わないで、「初めからおられた方」という表現を使ったのです。
モーセは神の根本を明らかに知っていたので、天地創造をはじめ、数え切れない霊の世界の奥義について啓示を受けて、モーセ五書を記すことができました。アブラハムは神の深い心を知っていたので、普通の人が推し量れないことも推し量って、とうてい従えないことまで従いました。ですから、神が彼を認めて、神の友とまで呼んでくださったのです。このように、父の信仰を持っている人は神について深く知っていて、神と深く交わることができます。
父の信仰について、もう少し調べましょう。若い者の信仰では、御霊の実を結び始めたが、まだ熟してはいないのです。それで、真理のとおり生きようと努力はするけれど、自分の義と枠にこだわったり、相手とぶつかったりすることもあります。しかし、父の信仰に至った人は霊的な実がよく熟しているのです。右にも左にもそれることなく、完全に真理のとおり行なえます。弟子たちの足を洗われたイエス様のように、へりくだって心から人に仕えます。すべての人と平和を追い求めて、どんな人でも理解して受け入れることができます。世の何よりも神を愛するので、神のみこころのとおり従うだけです。
さらに全く聖なる者とされた人は、当然従うこと以上に行ない、神に喜ばれることができます。このように神を愛して喜ばれるほど、はいるときも、出て行くときにも祝福され、何をしても栄えるようになります。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、きょうは子どもたちと小さい者たち、若い者たちと父たちまで、信仰の量りに応じて概略的に伝えました。ほとんどの聖徒の皆さんは信仰の量りについて詳しい説教を聞いたので、その内容をよく知っていると思うかもしれません。
ところが、いざ自分の信仰についてはというと、正確に見分けられないことが意外によくあります。真理についてたくさん聞いて知っているので、また、リーダーの働き人として忠実に仕えているので、「私は三段階の岩くらいにはなっているだろう」と思います。
しかし、実は肉的なことをすべて捨てていないのはもちろん、たびたび肉の行ないまですることがあります。また、特別なきっかけがなくて、罪の性質がはっきりと現れることがなければ、「私が御霊の歩みに近づいているのでは」と錯覚することもあります。
さばいて罪に定めたり、高ぶり、姦淫、自尊心、移り変わる心、自分の益を求める心など、罪の性質がまだたくさん残っているのに、うわべでは悪が現れないように自分を装ってきたからです。
自分の義と枠の中で、人を困らせてまことの平和を保っていないのに、自分は正しい、真理の中にとどまっていると思うこともあります。また、以前よりは自分がずいぶん変えられたからといって、その程度で満足して停滞している人もいます。罪を捨てるために血を流すまで戦うべきなのに、自分の中に何かの罪と悪が発見されても、こっそりおおってやり過ごしてしまうのです。「私も自分なりに努力しているから、祈って忠実に仕えて熱心なので」「私はそれでも変えられているから、時間が過ぎればもっと変えられるだろう」と、何となく信仰生活することもあります。
2010年、教会の祈祷課題のうち、第二が「信仰の量り」です。それぞれ信仰を正確に診断して見分け、今後どのように行なうべきか私たちが決断していけるように、神がこのような祈祷課題を与えてくださったのです。
それでは、はたして皆さんの信仰はどの程度になっているでしょうか? 第三の跳躍期の祝福が宣言された2010年も、すでに後半期になっています。きょうのメッセージをきっかけに、もう一度皆さん自分の信仰をチェックして、その信仰の段階からすみやかに次の段階に跳躍されますように。聖潔へ向けての聖徒の皆さんの心が真夏の太陽よりもっと熱く燃え上がりますように。それで、カナン時代を迎えて、世界をいだいて終わりの時、神のみこころをともに実現していく御霊の人にすみやかに変えられますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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