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講解メッセージ
Title
黙示録講解(94)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 22:4-7
Date
2009-04-03
"神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
愛する聖徒の皆さん、本文[4節]に「神の御顔を仰ぎ見る。」とあるように、まことの神のしもべは、新しいエルサレムに入って神様に仕え、御顔を仰ぎ見ることができます。皆さんも神様の御顔を仰ぎ見たいでしょう? ところが、そのためには、ふさわしい資格を備えなければなりません。主を仰ぎ見るためにも同じです。罪人が神の御顔を仰ぎ見ると、その霊の光のゆえ生きられません。
[出エジプト記19-20章]を見ると、神様がイスラエルの民に十戒を与えようと、シナイ山に降りて来られる場面があります。「山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いた。......シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。」とあります。
神様は民が滅びることを心配して、山に登ってこないように戒められました。イスラエルの民も恐ろしくてたじろぎ、 あえて神様に近づけなくて、御声さえ直接聞こうともしません。それで遠く離れて立って、モーセに言いました。「神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」 光である神様の威厳のゆえに、神様が山に臨まれたしるしだけを見ても、あえてその前に立てなかったのです。
それでは、どんな人が神の御顔を仰ぎ見ることができるでしょうか? [マタイ5:8]に「心のきよい者」でこそ神を見る、とあります。[ヘブル12:14]には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。
もちろん、まだ完全に聖められなくても、恵みによって霊の目が開かれて、神のかたちを見る場合はあります。しかし、こういう場合は、直接神の御顔を仰ぎ見るのとは違います。神様のほうから、その光を遮ってくださるので、一時的にそのかたちが見られるのです。神様が遮ってくださらないで、人がその光に向かい合うと、生きられません。この地上で聖められなかった人は、天国でも、神の御顔も主の御顔も永遠に見られないのです。そのふところに直接いだかれることもできません。
たとえば、一天層に入った人なら、主が目の前におられても、きらびやかな栄光の光のため、あえて頭が上げられないのです。また、皆さんが聖められなかったなら、主に向かう時だけでなく、新しいエルサレムに入った聖徒に対する時も、彼らの光がまともに見られないのです。自分が住んでいる一天層より高い場所に、思いのままに入ることもできません。他の場所に特別に招かれて入る時は、そこにふさわしい衣を借りて着替えてこそ、その場所の光に耐えられます。
しかし、新しいエルサレムに入った人、その中でも神のまことのしもべは、闇をすべて脱ぎ捨てて、光に属する人です。天国のどこへにも行けるし、神様も、主も、慕わしく仰ぎ見ることができます。
また、本文に「また、彼らの額には神の名がついている。」とあります。[黙示録3:12]に、フィラデルフィヤ教会への祝福のみことばにも、これと似た内容があります。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」とあり、すべての霊の戦いで勝利を得る聖徒に、新しいエルサレムの名と小羊である主の新しい名とを書き記す、と言いました。
ところが、この新しい名は、私たちがこの地上で知っている「イエス・キリスト」ではありません。主はもちろん、私たちも天国に行けば、今使っている名でなく、新しい名を受けます。フィラデルフィヤ教会の上に書き記される主の新しい名は「王の王、主の主」です。もちろんこの名は、この地上の言語でない天国の言語で呼ばれます。
私たちの主の新しい名を書き記すとは、実際に聖徒のからだに入れ墨のように、字を書き込むという意味ではありません。霊的に、主の御名によって彼らに印を押して認められるという意味です。
きょうの本文も同じです。額は、人を見る時、最も目に立つ部分です。たとえば、皆さんが新しい本を見るなら、どこを最も先に見るでしょうか? 一番前の表紙とそこにあるタイトルでしょう。そのように、人のからだでも、字を書いたり、しるしを付けたりするとき、最も目につく部分が額です。
そして、額に何かがついているなら、その人についてすぐわかるでしょう。もし、皆さんの額に神の名がついているなら、他の人が見ると、皆さんの栄光が一目でわかるのです。すなわち、「彼らの額には神の名がついている。」とは、それほど神様が神のしもべを輝かせてくださる、という意味です。
本文[5節]に「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」とあります。
天国にはこれ以上呪いもなくて、夜の闇もありません。ただ光である神の栄光だけが、永遠に天国全体を照らします。そして、その栄光の中で新しいエルサレムの聖徒は、とこしえに王となって生きていきます。
ところが、[黙示録20:4]には、千年王国の時にも聖徒が王となる、とあります。この千年王国で王となる人と、天国に入って王となる人とは、その範囲が違います。
千年王国の時に王となるとは、救われたすべての聖徒に当たります。千年王国の時は、救われた御霊の人と、救われなかったけれど、七年患難の時に生き残った肉の人が共存します。この時、肉の人に比べると、すでに救われた御霊の人の暮らしは、王のように輝いている、という意味です。これは、千年王国を説明する時、詳しく調べました。霊に入った聖徒だけでなく、信仰の一、二段階で救われた聖徒であっても、肉の人の暮らしに比べると、王のように尊く生きるのです。
一方、天国に入って王となるのは、新しいエルサレムに入ってきた子どもたちです。彼らはこの世の王とは比べられない栄光を受けるだけでなく、他の場所に住んでいる聖徒に比べても、はるかに栄華に輝きながら生きます。
もちろん、王は、王の王、主の主である私たちの主であります。しかし、王に愛される王子も、王のように栄華を味わいます。そのように、神のしもべには、神の栄光がとどまって、十分に王となれるのです。彼らは天国の他の場所をあまねく回って、各場所の聖徒に恵みを与えたりします。三位一体の神様の代わりに、あまねく回って、各場所に幸せを加えるのです。
[本文6節]に「御使いはまた私に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。」とあります。
ここで「これらのことば」とは、新しいエルサレムに関することばだけでなく、ヨハネが記した黙示録全部を含みます。七つの教会への主の手紙、空中婚宴と七年大患難、最後の大審判、そして天国と地獄に至るまで、すべてのみことばを含みます。
このような黙示録の内容は、ヨハネが見聞きしたことをそのまま記した、まことのみことばです。ヨハネの黙示録だけでなく、神様が預言者たちを用いて記されたすべての聖書が、偽りのないまことのみことばです。
神様は、将来のことを預言者たちを用いて宣べ伝えるようにされました。聞く人を悟らせて、価値ある人生を歩ませようとされるのです。創造主の神がおられること、すべての人は死んだ後に必ずさばかれること、天国と地獄があることを知らせてくださいます。天国に行くためには、神を恐れて光の中を歩まなければならないことを悟らせてくださいます。
また、みことばを聞くだけでは信じない人の子らに、神は証拠を現してくださいました。天地万物を見ても、生きておられる神の証拠がよく現れていますが、それだけでは悟れない人が多いのです。それで、神は力を現して、人としては決して出来ないことを見せてくださいます。このようなことを見てでも、神を信じて、みことばどおり、価値のある生き方をするようにされるのです。
エリヤの祈りで、天から火が降りてくるのを見て、イスラエルの民は偶像を捨てて神のもとに帰ってきました。モーセが神の命令で十の災いを現して、力あるわざを行なうとき、イスラエルの民は、モーセが証しする神のみことばが信じられました。イエス様も多くの病人をいやして、不思議なみわざとしるしを行なわれました。これらのことを見たので、多くの人がイエス様のことばを信じて、悔い改めました。
皆さんも、こういうみわざを無数に体験して、いつも目撃してきた証人です。人の知恵と力でできないことが、主の御名によってできたことを、今までとてもたくさん見てきました。それで、目に見えない神様が確かに信じられて、みことばがまことだと、信じられます。本当にみことばを信じる人は、必ずそのみことばに従って生きます。
きょうは、ここで終わらせていただきます。続きは次の時間に語ります。
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