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講解メッセージ
Title
黙示録講解(92)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 21:25-22:2
Date
2009-03-06
都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
愛する聖徒の皆さん、新しいエルサレムには、十二の大きい真珠門があって、どの門にも威厳ある御使いのかしらが守っています。
神様は、アダムが罪を犯してから、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置いて、エデンの園の東を守るようにされました。これは悪い霊どもの侵入を防ぐためでした。ところが、新しいエルサレムは、御使いのかしらが守らないからといって、誰かが攻めて来たり、秩序を破ったりするのではありません。ただ、その都とその中に生きる人々の威厳と栄光を表すために守るのです。
それで、本文[25節]に「 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」とあるのです。「夜がない」とは、「闇がない」という意味です。天国には神の栄光の光が満ちていて、いつも明るいのです。また、霊的な意味の闇もありません。すなわち、闇を支配していた敵である悪魔・サタンが底知れぬ所に閉じ込められて、出てくることができなくて、罪と悪も死もないからです。したがって、悪い者が攻めてくるので、新しいエルサレムの門を急いで守ったり、いつも攻撃に備えて閉めておくことはないのです。「都の門は一日中決して閉じることがない。」とは、まさにこのような意味です。
実際、いつもはこの真珠門は閉められています。誰かがその門を通ろうとその前に立つと、自動的に両側に開かれます。
天国に夜が全くないならば、実は「昼」という単語そのものもいらないのです。仮にこの世に女がいなくて皆が男ならば、あえて「女」と反対になる「男」という言葉を使う必要がありません。ただ「人」と言えばよいのです。そのように、夜が全くないならば、「夜」と反対になる概念も要らないので、あえて「昼」と言う必要もありません。しかし、この肉の世界には光と闇が共存しているので、私たちが理解しやすく、天国についても「昼」と表現しているのです。
本文[26節]に「こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」とあります。この前に調べた[24節]には「地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」とありました。ここで新しいエルサレムに入ってくる「地の王たち」とは、霊的な序列が高い人々です。新しいエルサレムで、主と共にいて太陽のように輝く栄光を受ける人々です。
一方、きょうの本文[26節]の「人々」とは、新しいエルサレムに生きる人々だけではありません。アダム以後、人間耕作の歴史で、諸国、つまり、すべての国から救われた人々のことのです。新しいエルサレムでなく、三天層や二天層、一天層にいる人も、時に応じて新しいエルサレムにある神の御座の前に進めます。
この時は、彼らも自分なりにこの地上で神様に栄光を帰したことを携えて来ます。まるで、家族の集まりで、子どもたちがよくやったことがあれば、親の前で自慢するようなものです。「わたし、1番になりました。100点取りました」あるいは「先生にいい子だとほめられました」「美術大会で賞ももらいました。」と言うのです。こういう自慢話をするとき、その子どももうれしいけれど、それを聞く親も満足です。
このように、この地上で耕された時、神様に栄光を帰した内容を携えて、御前に進むので、神様に喜ばれるのです。信仰によって義を行なって、キリストの香りを放ち、神に栄光をもっと帰した人なら、天国でももっと尊い座に入ったでしょう。ひとりひとりがこのような栄光と誉れを携えて、神の御前に進んで行くのです。
[27節]に「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」とあります。
ここで「汚れた者」とは何でしょうか? 汚れた者とは、「聖なる者」と反対です。汚れた者は、尊く価値ある目標のために犠牲になって献身するより、快楽的なこと、情欲的なこと、すぐに自分に利益になることを求めます。また、すぐ人をさばいて推測し、恨みとつぶやきを吐き出します。自分の思いに合わなかったり、自分の利益に合わないと思うと、直ちにさばいて罪に定めます。相手の立場から理解しようとするのではなく、自己中心に考えるので、相手をさばいて罪に定めるのです。
次に「憎むべきこと」とは、辞書では、「本来あってはいけないこととして許しがたく思って嫌う」ことです。
聖書をみると、神様が憎んで、忌み嫌われることがいろいろ記されています。
たとえば、鳥や動物、魚の中にも「忌むべきもの」と言われたものがあります。神様はイスラエルの民に、そのようなものを「食べてはならない」と言われました。(これらは、そのもともとの性質に、神様が嫌う悪い属性があるから禁じられたのです。)
また、偶像や偶像礼拝に使われた物、偶像礼拝者の風習や悪行なども「忌みきらうべきこと」と言われます。そのほかに、淫らで汚れた罪についても「忌みきらうべきわざ」と表現されています。
それだけでなく、二心、すなわち、ずるがしこくて移り変わる心も、神の御前に憎むべき心です。このような心があれば、善がどんなものなのか学んで知っていても、その善を追って行なえないのです。自分に損になりそうだったら、善なるものが守れなくて、心が変わってしまうのです。そうしてはいけない、と知っていながら、悪いほうを選ぶのです。
悪くて汚れたことを「正しい」と言ったり、正しいことを「間違っている」と言ったりして、中傷謀略をする場合もあります。このように神様が嫌われる憎むべきことを行っては、天国に入れないのです。
次に「偽りを行なう者」があります。
今日、世に闇があまりにもはびこっているので、人々が大小の偽りを言っていても、自らは悟れもしない場合が多いのです。自分の過ちや恥ずかしいことを隠すために、事実と違うことを言ったりします。また、自分がほしいものを得るために、相手に害を与える偽りも簡単に言います。
[コロサイ3:9-10]に「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」とあります。
もちろん、初心の者の中には、まだ捨てられなかった古い人の習慣があるので、たびたび偽りを言うこともあります。このような場合は、悟って悔い改めて立ち返るなら、赦されます。しかし、信仰が成長するほど自分を新しくして、偽りをすべて脱ぎ捨てて、偽りの属性そのものを脱ぎ捨てなければなりません。
信仰歴が長くて「信仰がある」と言いながら、相変わらず偽りを言っているなら、これはなまぬるい信仰にとどまっているのであり、ますます真理から遠ざかることになります。その程度がひどくなると、救いさえ受けられなくなります。
聖書には「神を愛すると言いながら、兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者だ」とあります。
神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、偽りを言っている、と書いてあります。
イエスがキリストであることを否定する者も、偽り者です。神の子どもたちは、汚れたこと、憎むべきこと、偽りをすみやかに捨てなければなりません。そのような罪の性質の根の根まで全部引き抜いて 毎日よりすばらしい天国を攻めて行かなければなりません。
本文[22:1-2]には、いのちの水の川と、いのち木について記されています。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」とあります。
いのちの水の川は、新しいエルサレムにある神と小羊の御座から出て、流れているかいないかのように穏やかに流れます。新しいエルサレムから三天層に、二天層、一天層、パラダイスまで、天国のすべての場所に流れて、また新しいエルサレムへ戻ります。
[ヨハネ4:14]で、イエス様が「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われました。
すべての生命体は、水があってこそ命が維持できます。そのように、イエス様が下さる水は、私たちに永遠のいのちを与えます。この水とは、霊的に「神のみことば」のことです。天国に入ったすべての者も、みことばによって、神様が下さった永遠のいのちを得ました。
このような意味から、神の御座から流れ出る天国の川を「いのちの水の川」と名づけられたのです。このいのちの水の川が天国をあまねく流れていることは、天国にいるすべての者が、神様の恵みで満たされて生きられることを表します。
このいのちの水の川が「水晶のように光る」、とあります。水晶に光を照らせば、きらめいて反射するように、いのちの水の川の水面はまぶしく光ります。この地上の海や湖に日差しが反射して光るのを見ても、とても美しいです。まして天国のいのちの水の川は、どれほど美しいでしょうか?
この川の水を飲むと、とても甘くて、全身が満たされるのが感じられます。神様が地球を造られた時に下さった水も、初めはこのいのちの水でした。ところが、アダムの不従順によって、この地上のすべてが呪われたとき、水も呪われて変わってしまいました。それで、この地上では、これ以上いのちの水を味わうことができなくなりました。初めに神様が下さったいのちの水の味は、皆さんが将来、天国で直接飲んでみてこそわかります。
ところで、天国のいのちの水も、場所によって味が違います。成分そのものは同じですが、それぞれの場所で感じる満足感と幸せが違うからです。たとえば、全く同じ水を飲んでも、山に登る前と、山の頂上では、味が違います。また、真夏に冷蔵庫から出した冷たい水と、外に置いたなまぬるい水とは、その味が全然違います。このように、同じいのちの水の川なのに、天国の場所によって、これを飲む時に感じる満足感が違うのです。
このいのちの水の川の両岸には、純金の道があり、それに沿っていのちの木が美しく植えられています。川と道がすぐ隣り合っているのではなく、その間に金の砂、銀の砂が光っている砂浜が広がっています。
それでは、このいのちの水の川の両岸に、道を造られた理由は何でしょうか?
第一に、天国のどこからでも神の御座がある所を簡単に見つけて来るようにされたのです。いのちの水の川は、神の御座から出ています。ですから、広大な天国のどこからでも、いのちの水の川の両岸の道を遡ると、結局、神の御座に至るのです。
第二に、この地上で永遠のいのちの水であるみことばに従って生きたので、天国に至ったことを表すことです。完全にみことばに従って生きると、結局、天国でも最も美しい新しいエルサレム、神の御座の前にまで至ります。
[ヨハネ14:6]に「わたし(イエス様)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあります。このようにイエス・キリストを信じることで、私たちは神の子どもとされ、同時に天国の国籍を得ました。
しかし、神の子どもとされたことで終わるのでなく、この地上の人生が尽きるまで、イエス様のみことばに従って生きなければなりません。このようにみことばどおり生きていくことが、すなわち、天国へ行く道を歩むことです。
私たちが交通標識にそのまま従って行けば、正確に目的地まで着けます。このように、天国の新しいエルサレムまでまっすぐに行ける明らかな標識が、聖書のみことばの中に入っています。「何々をしなさい、してはならない、捨てなさい、守りなさい」というみことばが、まさに最短時間で新しいエルサレムまで導く標識です。その標識に従って行けば、すぐに新しいエルサレムに着くのです。
このような霊的な意味を表すために、神様はいのちの水の川の両岸に純金の道を置かれました。その道に沿っていのちの水の川を遡ると、神の御座がある新しいエルサレムに至るように設計されたのです。
いのちの水の川と道との間には、砂浜があると言いました。ここに敷かれた金の砂、銀の砂は、とてもやわらかくて、その上で転がり回っても、ホコリが立ったり、服が汚くなったりすることはありません。砂が目に入って痛かったり、害になることもないのです。
「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。」とあります。街路樹のように立ち並んだいのち木は、とても立派で大きいです。いのちの木の種類は十二です。一本の木に十二種類の実が一度になるのではなく、一本の木に一つの種類の実がなるのです。こういう木が十二種類があるということです。
これに「毎月、実ができた」とは、毎月、違う実がなるということでなく、その実がいつもなっているという意味です。天国の木は、花が咲いて葉が枯れ、実がなって落ちる、このようではありません。いつも葉が青いし、いつも花を咲かせることも、いつも実を結ぶこともできます。いのちの木にも実がいつもなっていて、誰かがいのち木の実を取ると、その場でまた実がなります。十二種類の実は、それぞれ色と大きさ、形と味が違います。
前に「創世記講解」の説教で、エデンの園にあるいのちの木の実と、善悪の知識の木の実について説明したことがあります。二つともメロンほどの大きさですが、善悪の知識の木の実は桃色です。一方、いのちの木の実は、りんごのような形で、真っ赤でなく、少し赤みを帯びた美しい果物です。
ところが、天国にあるいのちの木は、赤だけでなく十二色で、形と大きさもそれぞれ違います。同じ赤であっても、エデンの園のものと天国のものとは、違います。天国の場所によっていのちの水の味が違うように、いのちの木の実の色や美しさも、空間によって違うのです。
それでは、いのちの木が表すものは何でしょうか? また、神様はなぜ、いのちの木の実を十二種類に造られたでしょうか? これについては、次の時間に説明します。
結論
愛する聖徒の皆さん、いのちの水の川の両岸は、この世のどこよりも美しいです。宝石で飾られた黄金のベンチも、無数にあります。皆さんが望むなら、いのちの水の川の中で、魚のように自由に泳ぐこともできます。すると、川の中で泳いでいた五色に輝く魚が、歓迎するように皆さんについてきたりします。きらびやかに輝くいのちの水の川の波を、愛する主の隣に座ってながめるだけでも、どれほど幸せでしょうか? あるいは、純金の道を歩きながら、御使いと賛美をささげたり、この地上でできなかった話を分かち合うこともできます。皆さんは、その川岸を誰と歩きたいでしょうか?
この時間、ある御使いのかしらが新しいエルサレムに入った聖徒の幸せな姿を見て、神様にささげる賛美の一部をお伝えします。
「澄んだいのちの水の川には、父なる神様の愛と栄光が満ちていて、父の涙と慰めが込められています。この美しいいのちの水の川のおかげで、父の守りと暖かい御手が、ここをあまねく流れ、父の栄光がすべての民にあふれています。父なる神様の恵みで、ここにいる魂それぞれに、父の栄光が満ちていて、その顔にはみな父の恵みの光があふれています。
皆が喜んで感謝して、父なる神様の御名をほめたたえ、その栄光を賛美しています。ひとりひとりの魂が、父の恵み、その力と愛を受け、このように純金のような者として出て来て、父の御前に美しい賛美をささげる者にされ、感謝いたします。
父よ! 父よ! 神よ! 神よ! その御名は輝かしく、とこしえに栄光を受けるにふさわしいお方です。主の御名を輝かせて、聖霊の働きを完全に遂げられました。ここにいる魂がここに入るまでなさった、その忍耐が今日、このように多くの実を結びました。父なる神様、感謝いたします。
父なる神様、ほめたたえます。このように口を開いて、賛美をささげます。多くの魂の口元に笑いが、多くの魂の顔に平安が、多くの魂に父の栄光が満ちていることに感謝いたします。
神の御名と、主の御名と聖霊の御名が、その上にありますので、三位一体の神様をほめたたえます。すべてにこの上なく完全なので、このように美しい実を結ばれた父を賛美いたします。ほめたたえます。ほめたたえます。」
将来、天国では、御使いだけでなく、皆さんもいつも賛美をささげて、三位一体の神様に栄光を帰すでしょう。天国でささげる賛美は、この地上の賛美とは全く違います。荒々しく激しい音やリズムでなく、とてもやわらかくてきれいだし、神様の声を聞いているような感動がこもっています。
この地上でも、賛美を作る人がその心にどれほど天国が臨んだかによって、聖霊に感じて天国の賛美に似た賛美が作れます。神様に似せられた心で作った賛美なら、神様がもっと喜んで受けられます。
賛美をささげる人も同じです。世のテクニクを誇って、自分の才能を見せる心でなく、神様を愛するので、聖められた心の香りが込められなければなりません。そのような香りがないと、神様と関わりがありません。いくら声の限りに美しい声を出しても、空を打つ祈りのように、価値がありません。
愛する聖徒の皆さんは、この地上で生きる間にも、尊い天国を下さった神様に、心の賛美を絶えずささげられますように。そして将来、皆さんすべてが、新しいエルサレムのいのちの水の川岸を歩きながら、天の軍勢と天使とともに声を揃えて、とこしえに神様をほめたたえますよう、主の御名によって祝福して祈ります。"
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