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講解メッセージ
Title
黙示録講解(31)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙4:1-3
Date
2007-07-13
黙示録4:1-3
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
<ヨハネの黙示録4章>からは、今後起こることについての預言の内容です。もう少し正確に言うと、将来主が救われた神様の子どもたちを連れに来られて、救われた神様の子どもたちが主との七年婚宴のために空中に挙げられてから後のことです。したがって、実際、この後の内容は、救われて天国に入る人々には直接必要でない内容かもしれません。
もちろん、黙示録の後半に出てくる空中の婚宴と千年王国、そして天国、新しいエルサレムについての内容などは、救われた神様の子どもたちのためです。ですが、黙示録の残りのほとんどは、将来この地上で起きる惨たらしい七年患難についてのことです。
それなら、救われた神様の子どもたちにはあえて必要でないようなこれらの内容まで、神様が御霊に感じて書かせて、このように聖書66巻のみことばの最後に置かせた理由は何でしょうか? それは、たとえ救われた神様の子どもであっても、最後の瞬間まではいつも目を覚まして信仰生活しなければならないことを警告してくださるためです。
また、この地上の七年患難に落ちる人々には、最後の救いのひものような役割のためなのです。その時でも悟って、立ち返って悔い改めて、神様が下さった最後の救いの機会である落ち穂拾いの救いにでも至れる道を提示しておられるのです。
ところで、ヨハネの黙示録が聖書66巻の最後に置かれた最も重要な意味は、まさに聖書全体の結論だということです。ある本を読むとき、結論まで全部読んでこそ、その本の内容が完全にわかるように、聖書もやはりヨハネの黙示録まで全部読んで知ってこそ、神様の人間耕作の摂理が完全に悟れます。
ところが、ある主のしもべたちは「ヨハネの黙示録の内容を間違って解き明かすとむしろ害になる」と言い、まったくヨハネの黙示録は知らなくてもかまわないと、教えている場合もあります。しかし、これはヨハネの黙示録に含まれた霊的な意味が正確に解き明かせないからです。
<黙示録22:18-19>に「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。
この本に記された預言のみことばを決して取り除いてはいけない、と言われたのです。したがって、ヨハネの黙示録に記された内容は、決して必要でないのではなく、私たちがいのちの木と聖なる都に入るために必ず必要なみことばなのです。
しかも、<出エジプト12:9後半節-10>に「その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」とあるように、私たちは子羊、つまり、神様のみことばである聖書66巻全体を全部食べなければなりません。それも朝になる前に、言いかえれば、主が私たちを連れにまた来られる前に全部食べて、糧としなければなりません。
先にも申し上げましたが、このヨハネの黙示録は終わりの時に目を覚ましている信仰生活のために、必ず知って、食べて糧とすべき内容です。したがって、これから語られるヨハネの黙示録講解をよく聞いて、必ず目を覚ましている信仰生活をして、将来主が私たちを連れに空中に降臨されるとき、皆が一緒に挙げられて、主のふところに抱かれますように、主の御名で祈ります。
聖徒の皆さん、今から調べる<黙示録4章>には、将来、神様の御座の周りで繰り広げられる光景が記されています。使徒ヨハネは、ヨハネの黙示録を書いた当時、すでに約2000年後にある、天国でのことについてこのように書きました。
それなら、使徒ヨハネはどうしてこのように時間と空間を超えて、今後起こることについてまで詳しく見て、記すことができたのでしょうか? これは、使徒ヨハネの霊が見たことを記したもので、霊はこのように時間と空間を超えて、今後起こることについても、反対に過去のことについても知ることができるからです。これについての詳しい説明は<2節>でします。
まず、<1節>に「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』」とあります。
ここで「その後」とありますが、「その」とは、「ヨハネが啓示を受け始めた時から七つの教会に対するみことばを与えられたこと」を意味します。
ヨハネは啓示を受けるとき、一気に受けたのでなく、多くの時間をかけて祈って啓示を受けて、また祈って啓示を受けることを繰り返しました。そうしながら、今までは七つの教会への内容を受けて、これからは今後起こることについて預言の内容を受けていきます。
聖徒の皆さん、啓示を受けるためには、御霊に感じて完全に御霊に捕らえられなければなりません。そのためには、数え切れない祈りを積んで、深い祈りに入らなければならなくて、心は何の傷もわずかなしみもなく、きよくなければなりません。
また、周りの肉的な環境もやはり、世とは遮られたところであるほど良いので、神様はヨハネが静かなパトモス島でみことばが受けられるように、摂理のうちに計画されたのです。
そして、ヨハネは啓示を受ける時に、主の御声を聞いたり、幻を見たりしたし、彼の霊が直接霊の世界に導かれて行って、見てきたりしました。
これから繰り広げられる内容は、ヨハネの霊が直接霊の世界に導かれて行って、そこで見聞きしたことを記したものですが、ヨハネの霊がこのように霊の世界に行くためには、霊の世界に行く通路を通らなければなりません。本文に「天に一つの開いた門があった。」とあるのが、まさに霊の世界へ行くために通らなければならない、霊の世界の門が開かれたことを見せられたのです。
創世記講解を通してすでに説明したように、私たちが住んでいるこの第一の天以外にも、第二の天、第三の天、第四の天の空間があります。聖書にも、神様と明らかに交わった人々は、天が正確にいくつかの空間に分けられているのかまでは知らなくても、天が一つではなく、いくつかあるということがわかりました。
それで、<ネヘミヤ9:6>に、「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」とあり、天がいくつかあるだけでなく、より高い次元の天もあることを言っているのです。
また、<詩篇68:33>にも「 昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。聞け。神は御声を発せられる。力強い声を」とあり、<エレミヤ10:12>には「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」とあり、それぞれの天のことを言っています。
ところで、このようにいくつかの天の中から、ほかの天に行き来するためには、その天に通じる門を通らなければなりません。特に、肉の世界から霊の世界に行く時は、この肉のからだまで霊の世界に行くことはできないために、この時はからだから分離された霊だけが行けます。このように、肉の世界にあるからだと分離された霊が霊の世界に入って、そこを見回ることができるのです。
もちろん、あえて霊が分離されて行かなくても霊の世界が見られる方法があります。それがまさに「幻」を通した方法です。「幻」とは、神様が下さった賜物として、御霊に感じて霊の目が開かれて、霊の世界を見る場合です。
<使徒の働き7:55-56>に「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』」とあるのが、霊の目が開かれて霊の世界を見た場合です。
ところで、このように霊の目が開かれて見る場合は、霊が直接霊の世界に行くのではなく、必要によって霊の空間を開いて見せてくださるので、見て悟れる分野が制限されます。言いかえれば、その瞬間に、必要によってある特定の場面を見せられる場合です。したがって、幻で天国を見たなら、それは天国の全体よりは、部分を見た場合です。
このように「幻」とは、霊が直接霊の世界に行って見聞きして体験するのではなく、霊の空間を開き、何かの必要によって部分を見て悟るように、神様が働かれることだと言えるのです。
ところが、このように部分的に霊の世界を見聞きして体験するのとは違って、まったく霊が分離されて霊の世界に行って、全体を見聞きして体験する場合があります。
この時「霊が分離される」とは、三位の神様のように霊そのものがいくつかに分離される現象を言うのではなく、人のからだから霊が分離される現象を言います。したがって、三位の神様は、同時に数多くの霊を分離することができますが、人は、からだから一つの霊が分離されて1ケ所にだけ行けます。使徒ヨハネの場合がこのように霊が分離されて、霊の世界を見てきた場合です。
ですが、このように霊を分離して、霊の世界に行ってくる場合も、「その人が霊の人か、肉の人か」によって方法が変わります。
真理のみことばを悟って心が善良であり、それだけ聖められた人、すなわち、神様が認められるほどの霊の人は、御霊に感じて自然に霊を分離します。この時は、からだから霊が分離されても、この地上のからだは魂の働きを続けますので、周りの状況に対して感じて認識します。そうしながら、霊では同時に霊の世界を見聞きして、感じて、体験するのです。
使徒パウロもまさにこのような霊の分離を通して、第三の天にあるパラダイスを見てきました。<第二コリント12:1-4>に「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・・第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」とあります。
使徒パウロは自分が肉体のままであったか、肉体を離れてであったか、知らないけれど、神様はご存じだと言いました。この時、使徒パウロは、彼の霊が分離されてパラダイスに行き、そこの美しいものを見聞きして、感じていました。自分がパラダイスに直接行っているようでした。
ところが、同時にこの地上にある自分の肉体も相変わらず呼吸して、周りの状況を感じていました。ですから、自分がパラダイスに行っているようでもあり、一方ではこの地上にいるようでもあったのです。
ところで、使徒パウロがここで、自分が肉体のままであったか、肉体を離れてであったか、知らないけれど、神様はご存じだと言ったのには、それなりの理由がありました。霊の世界について全く知らずに誤解して迫害する人々に、あえて妨害の種を与えないために、わざわざこのように慎重に表現したのです。
ですが、霊的な体験のない人が、前もって何の知識もない状態で、突然このような状況を体験すると、当然戸惑うしかありません。しかし、何回かこういう経験をすると、その時からは「今がどんな状態なのか」を把握するので、混乱したり戸惑ったりせずに、霊がさらに自由に霊の世界を行き巡るのです。
神様のほうから、ある人に霊の世界を見せられるために、その人の霊を分離させる時は、まさにこのような方法が最も望ましくて正しいのです。しかし、この方法は、それほど心を霊に耕して、神様のほうからご覧になるとき、みこころにかなう人の場合に許される方法です。ですから、こういう方法の場合は簡単ではありません。幻を通してある部分を見せられる場合は、賜物によって可能ですが、このように御霊に感じているうちに霊を分離させることは、賜物の次元を越えて、聖潔とも直接つながっているためです。
ですが、先にも申し上げたように、幻を通してはある部分だけが見られるために、神様のほうから全体を見せられようとされる時は、霊の分離を通して働かれるのです。
ところで、このように霊の分離をするとき、その人がまだ神様の前に認められるほどふさわしくない場合には、御霊に感じて霊を分離する方法でなく、ただ、霊が抜け出て天国にいく方法を使います。
天国を見てきたとあかしする人々の中にも、このように「霊が抜け出て天国に行ってきた」という場合がありますが、これは実際、神様が強いて働かれる場合です。この場合は、肉体は呼吸をしているだけで、全く意識がない状態になります。
そして、この方法を通して霊が抜け出る場合は、時々間違いが起こることがあります。もちろん、神様が何か特別な摂理の中で強いて働かれるので霊が抜け出る場合は、神様が当然守ってくださいますが、それでもこのような方法には、危険な要素があります。聖められて真理で武装した霊の人ではないので、まかり間違えば抜け出た霊が悪い霊と接して、誤った道に行く場合もあり、霊の世界の道に誤って入る場合もあります。または、自らは霊が抜け出たというけれど、実際はそうではなく、人が自分の思いの中で話す場合もあります。
したがって、神様がこの方法を使って神様の働きを成し遂げる場合は、きわめてめずらしいのです。神様がある人を通して必ず働こうとされるとき、その対象になる人がまだ真理がよくわからなくて、善とも距離が遠い場合に、神様は摂理を成し遂げるために、強いてこのような方法を通して働かれる場合が、たまにあるのです。
ですが、神様が望まれるのは、このような方法を通したものではありません。公義にふさわしい人がいるなら、当然、御霊に感じて霊を分離する正常であり、ふさわしい方法を通していくらでも働くことがおできになります。
そして、このようにふさわしい資格を備えた人が、霊の分離を通して霊の世界を見る場合でこそ、神様の摂理の中で新しいエルサレムのような深い霊の次元までも見られるのです。今、使徒ヨハネも、御霊に感じて自然に「霊の分離」という方法を通し、神様の御座がある所までも深く見ているのです。
このように使徒ヨハネの霊を神様の御座のある所に導くために、主は天に一つの門を開かれて、使徒ヨハネに「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と言っておられるのです。「この後、必ず起こる事」、つまり、これからある七年患難と七年婚宴、千年王国と白い御座の大審判までのすべてのことを見せられるという意味です。
この時、聞こえてきた主の声は、<黙示録1:10>で聞いたように、ラッパのような大きい声でした。そして、このように主が使徒ヨハネの霊が霊の世界に入ってくるように命じられると、使徒ヨハネは<2節>に「 たちまち私は御霊に感じた。」とあるように、直ちに御霊に感じて、彼の霊が神様の御座の前に行きます。
ところが、この時、使徒ヨハネが見る場面は、その当時、天国で起きている現在でなく、今後起こる未来でした。使徒ヨハネは2000年余りの時間を飛び越えて、このように未来に天国で起こることまでも見ているのです。
それでは、これがどのように可能でしょうか? それは、霊は時間と空間を超えるからです。もちろん、時間と空間が超えられるのは、三位の神様の霊だけです。しかし、神様が許されると、人の霊もやはり時間と空間を超えて、過去と未来のどこでも行くことができます。ですから、創世記講解を通して、初めの以前にあったことまでも皆さんにあれほどすべて説明することができたのです。
悪い霊どもも、霊で造られた霊的な存在なので、時間と空間を超えることまでもわかります。 ただし、彼らは過去と現在のことだけがわかります。未来に属したことはあくまでも万物の支配者である神様が予知予定されて、摂理のうちに定めておかれたので、ただ神様だけがご存じなのです。それで、悪い霊どもには、未来のことまで知ることが決して許されないのです。
ただし、悪い霊どもには、悪い者たちを操って自分たちの使いのように働かせる権威があるために、彼らに属する未来の事については、若干知ることができます。たとえば、悪い人を操って、他の人をだまして嘘をつかせることができるので、その人が関連したことについては、ある程度未来の結果がわかるということです。ですから、悪い霊どもと接して人の運勢を見て占う人々は、悪い霊どもが教えてくれる過去と現在、そして各人の心の悪の程度によって、まるで未来の事に対して予測するように言うのです。
しかし、時間と空間を超えて、過去も現在も未来もすべてをご存じの方は、ただ三位の神様だけであり、このような神様が働かれるとき、ふさわしい人を通して未来のことも明らかに解き明かされます。
聖徒の皆さん、本文<2節>に「見よ」とあり、その時から分離された霊が見聞きしたことを語っています。その始めの場所がまさに神様の御座がある所でした。
ところが、実は霊が分離されて行っても、このように神様の御座の前に行くことは、神様の特別な摂理の中で許されないと、やさしいことではありません。しかも使徒ヨハネは今、神様の御座と一緒に「その御座に着いている方」まで見ています。もちろん、父なる神様の顔までも詳しく見られたのではないのですが、<3節>で使徒ヨハネは、「その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言うほど、神様の御座とその御座に着いている方、そして、その周りまでも正確に見ています。
神様は当時、最もふさわしい人である使徒ヨハネを通して、終わりの時について明らかに教えられるために、このように特別な摂理の中で霊の深いことまでも見せておられるのです。父なる神様は、ふさわしい人がいるなら、何としてでもその人を通じて今後起こることについて教えられて、さらに多くの人々が目を覚まして花嫁の備えをして主の再臨を待つように望まれます。
ですが、このように今後の事についてまで教えられるほど、父なる神様の前にふさわしい人が珍しいのです。かといって、だれにでも教えることもできません。未来のことについて教えられるのは、神様も任意にされるのではありません。徹底した公義の中でなされることですから、ふさわしい資格を備えた人が出てき来てこそ、その人を通して教えられるのです。
そうでなく、だれにでも教えられるなら、それは公義に合わないことです。仮に未来のことについて知った人が、まだ悪があってそれを私的に利用する時は、むしろ公義によって敵である悪魔・サタンに妨害の種を与えることがあるからです。
したがって、私が皆さんに教えている今後の世界史の流れや預言なども、公義にしたがってそれほどの代価を払ったので、神様が教えてくださることができたのです。使徒ヨハネも、公義にふさわしい器を作って、公義にふさわしい祈りを積み上げたので、このように霊の世界の門をあけて、天の秘密を引きおろすことができました。
次の時間は、使徒ヨハネが見た神様の御座とその御座に着いている方、すなわち、神様のかたちと周りの状況について調べていきます。
愛する聖徒の皆さん、私たちが今後の事について知ることは、いろいろな面で益になります。しかし、それがわかった時、その人の心がどうなのかによって、結果は全く変わります。いつ試練があるとわかっても、それを全然準備しなければ、前もって知っていたことが何の役にも立たないように、いくら今後の事について教えて、それに備える方法まで教えても、いざ自らそれを心で悟って準備していかなければ、何の役にも立ちません。
ヨハネの黙示録のみことばも同じです。いくらヨハネの黙示録を明らかに解き明かしても、準備しない人は相変わらずそのまま行きます。
<黙示録22:10-12>に「また、彼は私に言った。『この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。』『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」というみことばどおりです。
しかし、それでもまだ機会があるので、父なる神様はもう一度このヨハネの黙示録のみことばを宣べ伝えるようにされ、耳のある人々は心の扉を開いて、御霊が言われるみことばを聞くように働いておられるのです。
このような父なる神様の切実な心を悟って、マンミンのすべての聖徒の皆さんと、またこのみことばを聞く全世界のすべての方々は、完全に目を覚まして花嫁の備えをする、幸いな信仰生活をしていかれますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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