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講解メッセージ
Title
黙示録講解(28)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:14-22
Date
2007-06-08
黙示録3:14-22
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
きょうからは七つの教会のうち、最後のラオデキヤ教会について調べます。
ラオデキヤ教会はサルデス教会のように、主から非難ばかりされた教会です。サルデス教会は、それでも「その衣を汚さなかった者が幾人かいる。」と言われましたが、ラオデキヤ教会はそういう言葉さえもなく、ただ非難だけを聞きました。
この時間、ラオデキヤ教会が聞いた非難のみことばを通して、皆さんも自分の姿を一度顧みて、神様の喜びになり、称賛だけされる幸いな聖徒になられますように。
まず<14節>に、主について、「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」と言われています。
イエス様は父なる神様の前で、ただ「はい」と「アーメン」だけがありました。「いいえ」という不順従が一度もありませんでした。
<ピリピ2:8>に、イエス様は自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた、とあります。イエス様は神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、この地上に被造物の形で来られました。その栄光ある神の御子が被造物にあざけられてさげすまれ、十字架につけられて死なれるまで、ただ従順だけがあったのです。
それで<第二コリント1:19>に、「あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり。』と同時に『否。』であるような方ではありません。この方には『しかり。』だけがあるのです。」とあるのです。
主を信じて神様の子どもとされた私たちは、神様の前でただ「はい」と「アーメン」だけがあるべきです。自分の思いと理論など、自分が正しいと主張するすべてのことを無にして、神様のみことばに聞き従わなければなりません。
「信じます」という多くの人々が、神様のみことばが自分の思いに合わなければ信じられず、従わないのです。また、初めは従うようですが、難しい状況に置かれるなら、結局、肉の思いによって変わるのを見ます。ですから、神様のみわざを体験することも、神様に栄光を帰することもできなくなるのです。
<第二コリント1:20>に、「 神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。」とあるように、ただ「アーメン」だけ言われた主のように、私たちも「はい」と「アーメン」で従う時でこそ、その結果を神様が確かなものにしてくださるのです。それで、必ず父なる神様に栄光を帰する人生になるようにされるのです。
次に、主は「忠実で、真実な証人」であられます。
忠実な人は自分の主張を打ち出すことも、自分の利益を求めることもなく、ただ「アーメン」だけがあります。
たとえば、忠実な戦士は、王が「行け」と命じると、たとえ死地であっても、聞き従って行きます。私たちのイエス様も忠実な方だったので、死にまで「アーメン」で従い、ついにメシヤに関する旧約のすべての預言を、御父の前に完全に成就されました。
このように主は、忠実をもって神様のみことばを成就されたので、神様の約束されたすべてのみことばが信実に成就された事実に対する、真実な証人になられるのです。
また、主は「神に造られたものの根源である方」です。
<コロサイ1:15- 17>に、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」とあります。
もともと宇宙万物はみことばで創造されました。<ヨハネ1:1>に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。もともと神様と一つであられ、また、このことばが肉を着てこの地上に来られた方が、まさにイエス様だということです。したがって主は、つまり、神に造られたものの根源である方なのです。
それなら主は、なぜラオデキヤ教会について言われる前に、まず主についてこのように、「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」と、説明されたのでしょうか?
これは、神様のすべてのみことばは必ず成就されることと、神様の審判は正確であることとを告げられるためです。また、神に造られたものの根源でありながら、ただ「アーメン」と忠実で、神様のすべてのみことばを完全に成就された主が、この時間、ラオデキヤ教会に下さるみことばもやはり、必ずそのまま成就される真のみことばであることを、思い出させるためなのです。
次の<15節>からは、ラオデキヤ教会が非難される内容です。<15-16節>に、「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあります。
愛する聖徒の皆さん、人のすべての思いと心、行ないをご存じの主は、ラオデキヤ教会の聖徒たちの信仰について、「冷たくもなく、熱くもない、なまぬるい信仰」と言われます。それでは、はたして信仰にあって「冷たい」と「熱い」、そして「なまぬるい」とは、どういう意味でしょうか?
冷たい水に火で熱を加えれば熱くなって、また、熱を加えるのをやめれば、徐々になまぬるくなり、結局、完全に冷めてしまいます。ここで「水」とは神様のみことば、火は聖霊を意味します。したがって、まず「冷たい」とは、その心に聖霊の働きがなく、全く救いと関係のない状態を言います。
時々、教会に来る人の中にも、聖霊を受けていなくて、「まことの信仰が何か、救いが何か」も知らない場合があります。神様のみことばに従って生きようと努力もしません。これがまさに、冷たい信仰です。
また、一時は聖霊を受けて信仰生活をしていた人の中でも、世を愛する心を捨てないので、再び世に陥って、結局聖霊が消えてしまう場合もあります。このように、全く救いと遠ざかってしまった人を「冷たい」と言われるのです。
一方、「熱い」とは、「聖霊を受けた人が毎日霊的な新しい力を供給されて、信仰が育っている状態」を言います。
人が心の扉を開いて聖霊を受けると、聖霊に助けられ、だんだん神様のみことばを悟るようになります。神様についてもますます深く知っていき、一つ一つ真理を行なおうと努力する中で、聖霊に満たされて上から恵みと力を受けるようになり、だんだんすべてのことに霊を追い求めて行くようになります。神様のみことばに従って、血を流すまで罪と戦ってこれを捨てるので、毎日肉は死んでいき、霊は育っていきます。そして、神の国を実現するために、熱心に働き、自分を犠牲にするのです。また、<マルコ12:30>にあるように、心と思いと知性と力を尽くして、神様を愛するようになります。これがまさに「熱い」と表現する信仰なのです。
聖徒の皆さん、冷たい信仰、熱い信仰とは、信仰の大小を意味するのではありません。初心の者だからといって冷たい信仰だと言えないし、教会に長く通って務めがあるからといって熱い信仰だとも言えないのです。
たとえまだ信仰が少なくて、真理を完全に行なえないとしても、自分の信仰の中で最善を尽くし、神様のみこころを追い求めていく人ならば、それで、時間が経つほど信仰が成長して神様のみこころをさらに完全に追い求める人ならば、その人は熱い信仰を持った人と言えます。
もちろん信仰が少ない時は、まだ肉のことだけでなく、以前の生活に従う肉の行ないがたびたび出て来る場合もあります。ですが、その場合にも直ちに間違ったことを悔い改めて立ち返って、結局は変えられていくならば、これを指して冷たい信仰だとは言わないのです。
自分をいつも顧みて、何としてでも神様のみことばに従うために、祈って断食しながら努力していく人ならば、神様に熱い信仰だと称賛されます。しかし、信仰生活が長くても全く変えられようとしない人や、何が神様のみこころなのか明らかにわかっていても、誤った道に行く人ならば、その人は「冷たい信仰」を持ったのです。
ところで、一気に冷たい信仰になるのではなく、自分もよく知らないうちに、だんだんなまぬるい信仰になって、結局冷たい信仰になってしまうのが問題です。それなら、冷たくもなく、熱くもない、「なまぬるい信仰」とは、何でしょうか?
なまぬるい信仰とは「聖霊を受けて、神様が生きておられること、天国と地獄があることを知っていながら、熱くならないで停滞している状態」です。こういうまなぬるい信仰は、「信仰がある」と言って教会は行き来するけれど、聖霊との交わりがないので、聖霊の御声を聞いてつかさどられ、導かれないので、神様のみことばを聞いても「自分の姿」が悟れないのです。
冷たい信仰になれば地獄に行くことがわかるので、教会には出席しますが、主のために自分を犠牲にしようともせず、さらに多くをささげようともせず、熱くなろうともしないのです。
また、心の割礼をしないから、生き方もやはり変わりません。表では熱心で忠実に働くようですが、心に割礼をしないから、いくら信仰生活が長かったとしても、1年前、5年前、10年前と今の姿を比べて見ると、全く変えられずに世の人ともほとんど差がありません。
このようにまなぬるい状態にとどまっていて立ち返らない人は、結局、冷たい信仰になってしまいます。なまぬるい水を長い間置いておけば、なまぬるいままではなく、完全に冷めてしまうのと同じです。
それで、なまぬるい信仰も長く続くなら、結局救いと関係なく、死に向かうようになります。これを、主は「わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われたのです。
愛する聖徒の皆さん、冷たい信仰は当然神様と関係がなく、救われない信仰です。したがって、冷たい信仰になってはならないし、決してなまぬるい信仰になってもなりません。
ところで本文では、なまぬるい信仰について警告しながら、ただ「熱くなってほしい。」ではなく、「冷たいか、熱いかであってほしい。」と言われたのでしょうか? ここには、なまぬるい信仰がどれほど警戒しなければならないのかを悟らせるための、主のもどかしい心が込められています。
たとえば、いっそ冷たい信仰なら、懲らしめられても悔い改めて立ち返る機会があるかもしれません。たとえば、罪を犯して神様に顔を背けられると、病気や事故、いろいろな災いにあう場合があります。このように懲らしめを通しても、気を取り直して徹底的に魂を砕いて罪を告白するなら、また信仰を回復する可能性があるかもしれませんが、なまぬるい信仰の時は、その機会さえ得にくいからです。
だからといって、いっそ冷たい信仰になりなさい、という意味では決してないのです。実際、冷たい信仰の状態では、懲らしめられたとき、悔い改めて立ち返ることがやさしいだけではありません。神様の愛を感じるよりは、恐れと落胆が先んじるからです。
また、仮に悔い改めて立ち返っても、災いにあってから悔い改めることが、どれほど愚かでつらいことでしょうか。悔い改めて父なる神様の前に赦されても、一度破られた神様との信頼関係をまた回復するのも、やさしいことではありません。
ですから、愛する聖徒の皆さんは、決して冷たくもなくなまぬるくもなく、ただ熱い信仰でいつも充満に走って行かれますように。
聖徒の皆さん、なまぬるい信仰をちょっと違う角度で説明するなら、信仰の停滞がひどくなった状態と言えます。特に信仰の三段階にいる方々も、さらに自分を顧みなければなりません。
聖霊を受けて、恵みを受けて、一生懸命に信仰生活をしていくと、信仰の三段階の入り口までは比較的簡単に至ります。特に、真理を明らかに教えて、いつも聖霊に満たされた集いと祈りがある教会で信仰生活をしていく方ならば、短い間でも信仰がすくすく育ちます。その上、目に見える御力のしるしがあるならば、よりいっそう信仰の成長が速いこともあります。
ところが、信仰の三段階に入れば、その時からは目に見える行ないの変化でなく、見えない心を変えていく信仰生活が本格的に始まるために、その時からは以前よりさらに、心と思いと力を尽くす努力が必要です。同じ時間に礼拝に参加しても、前よりさらに心を込めて、さらに思いを尽くしてささげて、霊とまことによって礼拝をささげなければならないし、祈る時もさらに心を尽くし、美しい香りで全力を尽くした祈りを積み上げていかなければなりません。
忠実に働く時も、初心の者だった時と信仰のある人との忠実は、次元が違ってこなければなりません。たとえば、同じ使命を果たして忠実に働いても、信仰がさらに成長するほど、さらに濃い愛の心で、さらに善良で美しい心の香りをささげなければならない、ということです。
もう少し理解しやすくたとえてみましょう。同じ名前の香水でも、濃度によって価格の差が大きいそうです。すなわち、香水の原液は量が少なくてもとても高いのですが、大量に薄められた香水は、量が多くてもより安いのです。
このように、信仰の段階が上がるほど、父なる神様の前にささげるすべての行ないが、量的には同じように見えるかもしれませんが、質的には心の香りがさらに濃くなって、霊的な愛と善が増し加えられなければなりません。
皆さんがたとえ理論的にはこうすべきだと良くわかっていたとしても、実際には、まかり間違えば見逃しやすいみことばであります。表に現れる行ないの面では、以前と同じように行なっているために、見えない心をさらにささげなければならないということが、自ら悟れない場合が多いのです。
そのうち、恵みのうちに一生懸命に信仰生活をした人も、いつからか自分も知らずに聖霊の充満がなくなり、習慣的に信仰生活する場合があります。熱心に参加していたいろいろな礼拝や祈祷会も一度、二度と休んだり、参加はしても、惰性で礼拝や祈りをしたりするようになります。上から与えられる喜びや聖霊の感動がなく、体だけが座っているのです。
以前は神様の前に喜びでささげたのが、だんだん義務感でささげるようになり、つらくて負担に感じたりします。聖霊の充満が消えるほど、心が何となくさびしくて悩むようになり、結局、世を見つめて、肉的なことで慰めを得て、心を満たそうとします。そのうち、まかり間違えば、肉の行ないにまで発展して、神様の前に大きい壁を作る場合もあります
こういう状態にまで至ると、自ら自分の状態を悟っても、再び熱さを取り戻すことが簡単ではありません。神様の恵みが心にないから、以前のように熱く走って行く意欲が湧かなくて、ただ肉で楽な状態にとどまりたくなります。ですから、新しいエルサレムを見つめていた心をやめて、「こうしていても一天層は行けないのでは?」と言ったり、「救われるだけでもいいや」と言ったりするのです。
しかし、なまぬるい信仰が危ないというのは、その状態で維持できるのではなく、結局は冷たい信仰になってしまうからです。川に浮いている船が櫓を漕ぐのをやめれば、その場にとどまっているのではなく、流されるのと同じです。
ユダのアサ王がそうでした。アサは、王となって35年までは神様に頼って、主の目にかなうことを行なった王でした。しかし晩年には、その信仰が変わってしまいました。前はいくら大軍と立ち向かって戦う時も、神様に頼って勝利できましたが、今は敵が攻めてくると人に頼り、それも異国の王に助けを求めます。
このように、前は信仰で行った人が、今は人の方法を使っているのを見れば、すでにその信仰の熱さが冷めて、神様と距離が遠くなったことがわかります。このことでアサ王は「ハナニ」という預言者を通して、神様に責められました。この時、王は悔い改めて立ち返ったのではなく、むしろ預言者に足かせをかけました。
それで、アサ王は懲らしめられて、足が重い病にかかってしまいました。その時でも悔い改められたら、どんなによかったでしょうか? 愛と憐れみの神様であることを信じるなら、その懲らしめが自分を愛するゆえに 立ち返る機会を下さったものだと悟れます。
しかし、アサ王はこのように懲らしめられても、神様の愛をつかむことができなくて、むしろ恐れで神様の顔を避けるようになります。結局、世の医者を求め、ついに治療できなくなり、死を迎えるようになります。なまぬるい信仰の結果がよくわかる出来事です。
愛する聖徒の皆さん<第一ペテロ5:8>に、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるように、いつも聖霊に満たされて目を覚ましていなければ、敵である悪魔・サタンが食い尽くすべきものを捜し求めて飛びかかってくるとき、勝ち抜く力がないので、ともすると死の道に引きずられて行きます。
これをとてもよくご存じの神様は、子どもたちが熱い信仰を持つことを願われます。まして皆さんは、天国の中でも最も良い新しいエルサレムを目指して走っているのではありませんか? ですからさらに、主が来られる時まで変わらずに熱い信仰を守って行かなければなりません。また、皆さんのそのような熱さを周りにも伝えられますように。
なまぬるかった水も、熱い湯を注ぎ続けるなら、だんだん熱くなり、冷たかった水も、熱い湯を注ぎ続けるなら、結局は熱くなります。このように、熱情と熱い信仰を持った人はだんだん周りまでも熱くさせることができます。霊の人ひとりによって、その周りの人々までも共に霊に変えられるのが、まさにこのようなわけです。
したがって、まずは自分自身から熱い信仰を持った人になるべきです。 ひょっとして熱さがちょっと冷めているようなら、熱い人に近づかなければなりません。それでこそ相手の姿を通して挑戦も受け、相手の充満が伝わって自分も再び熱くなることができます。
ひょっとしてなまぬるかったり冷たかったりした信仰によって訓練や懲らしめが来ても、それは本当に皆さんをより良い天国に導こうとされる神様の愛であることを信じて、感謝できますように。それで、毎日さらに熱い信仰を持ち、天国にある皆さんの家々に、熱い心を表す赤めのうがまぶしく輝きますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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