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講解メッセージ メッセージ > 講解メッセージ
講解メッセージ
Title
   黙示録講解(26)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 3:7-13
Date
   2007-05-25


<黙示録3:7-13>
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』


この間は「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、」というみことばは、からし種のように小さい信仰の時から、その信仰を持って世に勝って、熱心にみことばを守り行なったという意味だと説明しました。
ところで、このみことばには、また違う意味が含まれています。それは、実際にはとても大きい力を持ったにもかかわらず、まるで本当に少しばかりの力を持ったような姿で、神様のみこころを行なったという意味です。
どういう意味なのか、イエス様の姿を通して調べてみましょう。イエス様は、もともとは神の御姿であられ、権威も力も同じように持たれた神のひとり子でした。ですから、イエス様の力は測れないほど大きくて、何でもおできになる方です。
ところが、このようなイエス様がこの地上に来られた時は、低く卑しい人間のからだを着て、人の子らと同じ姿で生きられました。ひもじさ、寒さ、肉の疲れ、肉の苦しみなども、普通の人々と同じように感じなければならなかったのです。そのひどい十字架の苦しみも、そのまま感じられて、いと高き大いなる神の御子としてではなく、本当に少しばかりの力を持った平凡な人の姿で、救い主としての使命を全うされたのです。
「私は無限の権威と力を持った神の御子だから」と、公義を飛び越えることを無条件に行われたのでなく、いつもへりくだった心と姿勢で父に祈られて、いつも父なる神様に頼り、すべてをみこころに従って成し遂げられました。
そして、ついには水と血をすべて注ぎ出して死なれるまで、父なる神様のみこころに従って、救い主としての使命を全うされました。まことに大きな力を持たれた方なのにもかかわらず、本当に少しばかりの力を持った人の立場で、すべてを公義に合わせて行われたのです。
このように、皆さんの中にも心根が良くて、心の畑が良い人がいても、神様が無条件にその方に初めから大きい力を与えて用いられるのではありません。公義に合わせて、一段階、一段階導かれて、少しばかりの力から、ついには大きい力へと働いて行かれるのです。
ところで、本教会と私もこのような道を歩んできました。事実、本教会には開拓の時すでに、人としては想像できない創造の御力のわざが数えきれないほど現れました。だからといって、神様は私と本教会を初めから一気に高めたり、今のような御力で働くようにされたりしたのではありませんでした。
もちろんその時も、決して少しばかりの力ではなかったのですが、今と比べてみると、あまりにも小さい力から始まって、いろいろな過程を経て、今日に至るように導かれました。公義に照らして、まことに神様の前にふさわしいしもべとして、終わりの時、この驚くべき摂理を実現するための資格を完全に備えたことを明らかにするために、父なる神様は厳しい訓練の過程も許されました。そのすべて過程を、他の人と同じ条件で、信仰と愛を持って勝利してきたのです。まさにこれを指して「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、」と言われるのです。
次に、主はフィラデルフィヤ教会に、「わたしの名を否まなかったからである。」と言われました。ここで「主の御名を否む」ということが、必ずしも主を知らないと否定する、主を捨てて離れるという意味だけではないのです。主のみこころが何か知っていながら、そのとおり行わないことが、広い意味では主の御名を否むことになります。
もちろん力が足りない場合はどうしようもないですが、努力もしないで、口では信仰があると言いながら、いざ試練が来ると、あっちこっちに揺れて疑い、再び世に陥ってしまう場合もあります。以前に受けた恵みや体験も忘れたままにです。
このように、ささいな事だとして、主のみこころを知っていながら行わないことが積み重なるなら、何かの試練と患難が来たとき、勝てずにつぶやいたり、神様を恨んだり、全く教会を離れてしまったりもするのです。「これくらいは」と思い、真理を破ったことが、結局は言ったとおり、主を完全に否んでしまうところにまで至るのです。
しかし、フィラデルフィヤ教会は、小さい信仰から始まって、信仰が成長していく過程でも、その行いが主に称賛されるほどでした。どんな状況でもみことばを守って行い、試練と患難が来ても神様を否まずに、最後まで信仰を守り、信仰の岩の上に立って進みました。
本教会も、今まで歩んできた歳月を振り返ると、このような道を歩んできました。世と妥協しなかったし、ただ神様のみこころを追い求めるために、どんな迫害や試練も忍耐してきました。もちろん、開拓してから今まで、途中で主の御名を否んで、ついに教会を離れた人々もいました。しかし、これは箕をふるって麦と殻を分けるための、父なる神様の摂理のうちに許された訓練でした。むしろそのような訓練の中でも、主の御名を否まず、教会と牧者のために走ってこられた方々は、すみやかに大きい力に成長することができました。
ところで、皆さんがこのように少しばかりの力でも主のみことばを守り、主の御名を否まないためには、何よりも祈りを休んではいけません。人の力と能力で真理に逆らうものを脱ぎ捨てて、暗やみと戦って勝てるのではなく、上から神様が下さる恵みと力を受けなければならないからです。ですから、祈りを通してこのような恵みと力を引き下ろさなければならないのです。
また、主のみこころが何か、正確に悟らなければなりません。罪とは何か、闇とは、肉とは何かを悟り、これらはすみやかに脱ぎ捨てて、善と義、光など真理について明らかに悟って、行なっていかなければなりません。それで、まことに主のみこころを悟りたいと願う人は、指摘されて非難されるとき、むしろ感謝して喜ぶのです。それを通してみこころをさらに明らかに悟り、そのとおり生きていけるためです。
聖徒の皆さん、「わたしは、あなたの行ないを知っている。」とあるように、主は皆さんが少しばかりの力でも、みことばを守ってその名を否まないように、努めに努めてきたすべてのことを知っておられます。そして、神さまはこれを喜ばれ、時に従って愛する証拠をいろいろな形で表してくださるのです。
続く<9節>に、「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」とあります。
「サタンの会衆」とは、「ふたり以上が集まって、真理に逆らうことを言って、教会に問題を起こす群れ」を言います。また、「ユダヤ人だと自称する。」とは、神様を信じている、神様の子どもだと言いながら、サタンの会衆に属して、真理のみことばどおり行わずに世と友になって、むしろ神の国を妨げる人のことです。
もともと「ユダヤ人」は、神様に選ばれた民族として、霊的には神様の子どもを意味する言葉ですが、「ユダヤ人だと自称する」とは、自らは神様の子どもと言うけれど、実際、神様は認められない場合です。口では神様の子どもだと言いながら、真理の中を歩まずに、他の人々をさばいて罪に定め、こそこそすることで教会の中に争いを起こして、試練の種を作ります。自分の思いと枠に合わなければ、はなはだしくは不思議としるしで神様の栄光を現している所に対しても、「間違っている」と言ったり、「異端だ」と罪に定めたりします。
このように、信じていると言いながら、むしろ神様が直接建てられた教会としもべを試み、神の国を妨げるのが、ユダヤ人だと自称する姿です。「うそを言っている者たち」とは、まさにこういう人々のことです。
聖書は何を「うそ」だというのか、明らかに語っています。最も大きい嘘は<第一ヨハネ2:22>に、「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」とあるように、イエス・キリストを否定する人がうそを言っている者であり、反キリストがすなわち、偽り者なのです。
ところで、「主を信じます」と言いながら、うそを言っている場合があります。<第一ヨハネ1:6>に、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」とあり、<第一ヨハネ2:4>には、「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」とあります。つまり、ユダヤ人だと自称しながら、本当は神様のみことばを守り行わない人々、彼らがまさにうそを言っている者たちなのです。
主はまさに、このような人々に対して「彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させる。」と言われます。そのような人々も結局は、神様の御力の前に、自分たちの過ちを悟り、悔い改めて立ち返るようになる、ということです。これを通して、神様が愛する教会としもべであることを、さらに確実に証ししてくださるのです。
フィラデルフィヤ教会もこのようにユダヤ人だと自称する人々によって、迫害と苦しみにあいましたが、神様は試みた者たちが、その前に出て来て悔い改めるようにされることによって、神様がフィラデルフィヤ教会を愛されるしるしにされたのです。
しかし、「うそを言っている者たち」と言われましたが、すべての人々がみな悔い改めて立ち返るのではありません。すでに彼らの罪が聖霊を汚すこと、冒とく、逆うことに当たるので、悔い改めて立ち返り、赦されるのがやさしくはありません。ただし、彼らの中で真理がよくわからなくてユダヤ人だと自称していたが、まことの真理のみことばと御力のわざを見て、少しでも善良な心で悟り、悔い改めて立ち返る場合があるのです。
このような事は本教会にもありました。開拓してから今まで、数回、ユダヤ人だと自称する人々によって、本教会と私に対する試練と迫害がありましたが、神様は結局、まことが何なのかを明らかにされて、これを通して悔い改める人々が出てきました。しかし、最後まで悔い改めない人々については、神様が直接、彼らに働かれるのも見ました。
神様は悔い改める人には恵みを施されましたが、そうでない人々には、公義の中で働かれて、この教会が、神様が直接建てられて、摂理のうちに愛される祭壇であることが明確にわかるように働かれました。
愛する聖徒の皆さん、神様が時には訓練の過程で、愛する子どもたちに迫害や試練を許される場合があります。しかし、結果的にはそれが祝福であり、必ず証拠として現れるのです。一方、迫害したり試みたりした人々には、公義の中でさばきが臨みます。まさに、神様に愛されて、認められて守られる人や教会に立ち向かうことは、つまり、神様に立ち向かうことになるからです。
それで、聖書を見ると、神の人に立ち向かった人々の結果は、みな悲劇的だったことがわかります。神様に愛されて、認められて守られる教会や人には、これがまさに「神様がともにおられて愛される」という明らかなしるしになるのです。
人のほうで「神様、愛します」と言うとき、そこには言葉だけでなく、伴う行いとして愛のしるしを表さなければならないように、神様のほうでも、愛して、認めて守られる子どもに、「愛している」と言われるだけではなく、必ず愛のしるしを表して保証してくださるのです。
たとえば、不思議としるしと奇跡など、御力のわざがその代表的な例です。人としてはとうていできない、驚くべき御力のわざを現すようにされることによって、「これは明らかに神様が共におられる証拠」という事実を誰も否定できないようにされるのです。
聖書を調べてみると、神様に愛された人々は、必ず神様が共におられるしるしが現れました。皆さんも、父なる神様とこのような関係にならなければなりません。神様に愛される証拠が毎日、皆さんの暮らしの中で現れなければなりません。
本教会もやはり、神様は愛の証拠をいろいろな面で現してくださいました。まずは、神様の生きておられるみわざを無数に現してくださいました。また、人としては解けない霊の世界の深い隠された奥義を、御霊に感じて解き明かしてくださいました。
そして、敵である悪魔・サタンが何回かにわたって、本教会を押し倒そうとしましたが、そのたびに神様は、決してこの教会と私に何かをすることはできない、という事実を見せられたのです。このように、神様は本教会と私を愛されて、その愛の証拠を現されることで、神様を信じる善良な良心を持った人ならば誰でも共に感じて認められるようにされたのです。
また、ユダヤ人だと自称する人々に妨げられて、私はむしろ、より大きい御力が行える踏み台を備えて行くことができました。敵である悪魔・サタンは、私を殺すために悪い人々をつかさどり、試練と迫害を加えましたが、私はそれをきっかけに、公義の法則によって、さらに大きい御力が受けられる道を開いてきたのです。それで、善と愛と信仰で試練の過程を通過していくほど、ついには今のような驚くべき御力の次元にまで至ったのです。
このような、神様が愛して、認めて守られる証拠は、単に私個人だけではなく、教会にも、また聖徒の皆さん個人にも、これからは今と比べられないほど大きく現れるでしょう。
<10節>に、「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」とあります。
まず「わたしの忍耐について言ったことばを守ったから」とありますが、なぜ「忍耐について言ったことば」と言われたのでしょうか?
聖徒の皆さん、神様のみことばを守るためには、時にはかなりの忍耐が必要です。特に、少しばかりの力を持った時は、すなわち、まだ信仰が弱い時はさらにそうです。この時は、心の中に真理に逆らうものを追おうとする属性がより強いために、これに勝ち抜いて真理を追うためには、罪と戦っていかなければなりません。そのために、祈って断食して、熱心に忍耐していかなければならないからです。
しかし、だんだん真理の心が育ち、それでこの真理の心が真理に逆らう心よりさらに強くなれば、この時からは真理を追うことがますますやさしくなります。以前のように、無理に忍耐して肉の願いを押さえつけて耐えるよりは、真理を追おうとする心が大きくなるので、自然に真理の行いが出てきます。
ですが、このように真理の心が真理に逆らう心より大きくなったからといって、「もう大丈夫」と油断してはいけません。真理に逆らう肉の心、すなわち、悪はどんな悪でも避けるまでには、いつも忍耐して、自分を守っていかなければなりません。心の中に小さい悪の姿でも残っているなら、いつか適当な環境になったとき、それがいくらでも表に出ることがあるためです。
しかし、まだ捨てられなかった悪の姿があっても、それを発見して一生懸命に捨てようと努力して行く時は、神様は、「忍耐について言ったことばを守っている」と認めてくださいます。各自の信仰に応じて、忍耐して最善を尽くしてみことばを守り行おうとする努力を、信仰の行いとして認められるのです。それで、このような神様の子どもたちを、試練の時には守ってくださるのです。
聖徒の皆さん、神様は子どもたちをいつも守ってくださるのですが、そこには必ず但し書きがあります。多くの人々が、教会にだけ通えば無条件に「神様が守ってくださるだろう」と間違った考えをして、何か事故や災いにでもあうなら、「私は教会にも行って、神様を信じているのに、なぜ私にこんなことが起きたのか」と、神様を恨んだりします。
しかし、これは真理をよく知らないからです。神様は、子どもたちがみことばに従って生きるために忍耐して、信仰を守っていくとき、守ってくださるのです。もちろん、完全に守られるためには、完全に光の中、すなわち、真理のみことばの中を歩むべきですが、自分の信仰に応じて、最善を尽くして忍耐して、みことばに従って生きるために努力していく時は、神様もその信仰に応じて守ってくださいます。また、試練も退けてくださって、避ける道も与え、すべてを働かせて益としてくださるのです。
それでは、「試練の時には、あなたを守ろう。」とはどういう意味でしょうか? 必ず行なったとおり報いてくださる神様は、子どもたちがみことばの中にとどまって、光の中を歩むほど、彼らを暗やみからも守ってくださいます。
たとえば、完全に主日を守って、十分の一献金だけをささげても、神様が基本的な分野は守ってくださいます。ここで基本的な分野というのは、信仰の段階によっては、完全に主日を守って、十分の一献金をするからといって、すべてが守られるのではない場合もあるからです。ですが、基本的に主日を守って、十分の一献金だけを完全にしても、神様は事故を予め防いでくださり、たとえうっかりして事故が起きても、からだは全く怪我しないように守ってくださるのを、数えきれないほど見てきました。また、物質的にも守られます。
まして、忍耐について言ったことばを守って、真理の中を歩んでいる人ならばどうでしょうか? 当然、神様がいろいろな分野で守ってくださるのです。
ですから、何としてでもみことばに従って生きようとしている本教会の多くの聖徒は、一年中、薬一つ飲まずに、病院にも一度も行かないのです。数年から十年以上、または二十年以上、薬一つ飲まず、病院にも一度行かなかった方々も多いのです。事故や災いにもあわないのです。皆さんがまさに証人ではありませんか?
ところで、時にはみことばに従って生きている人にも、試練が来る場合があります。こういう場合に「神様を愛してみことばに従って生きている人々も試練にあうんだ」という人がいるかもしれませんが、これは真理をよく知らないからです。こういう場合は、次に時間に続いて調べます。

愛する聖徒の皆さん、42.195キロのマラソンコースを走ってきた選手たちに聞くと、ほとんどが、途中に何回か苦しい危機の瞬間があったと言います。時には あきらめたくなったり、少し座り込んでしまいそうな時もあったりしたと言います。優勝をした選手であっても、ほとんどこういう危機の瞬間があったそうです。しかし、このように苦しい危機の瞬間を勝ち抜き、マラソンコースを完走したとき、その喜びは体験してみた人だけがわかると言います。
天国で味わう喜びと感激もそうです。人によっては比較的楽に、安定して天国の門に至る人もいますが、いずれにしても人間耕作を受けていくこの地上の人生は、いろいろな訓練の過程を経るものです。家庭の問題、健康の問題、物質の問題など、この地上に生きながらぶつかる様々 な問題によって苦しんだりします。
ですが、その訓練の過程を通して、自分の姿を発見して変えられて、父なる神様のみこころどおり生きていくようになると、以前の訓練が結局は祝福への過程だったことを悟るようになります。まさに私たちも将来、天国に至って、そこで永遠な喜びと幸せを味わい、人間耕作の過程が大変な祝福だったことを心の底から感じて、感謝の告白をするようになります。しかし、これはあくまでもこの地上で忍耐して、神様のみことばどおり守り行って、時にはつらく感じられた訓練の瞬間も、信仰で勝ち抜いた人にだけ与えられる特権なのです。
したがって、皆さんは<第一ペテロ5:10>に、「 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあるように、皆さんがこの地上で受ける苦しみが、将来永遠の天国での栄光のため、しばらくの過程にすぎないことを信じられますように。
しばらくの苦しみを通して、むしろさらに完全になり、堅く立ち、強くなった皆さんを、神様は、神の国を成し遂げるための大事な道具として用いられるでしょう。これは将来、天国の新しいエルサレムで私たちマンミンの聖徒に、より大きい栄光と報いを下さるためです。
したがって私たちは、私たちに向けられた父なる神様のみこころを必ず実現しなければなりません。このために、きょうも完全な聖潔に向かって力強く進み、本教会とすべてのマンミンの聖徒、そしてこのメッセージを聞かれるすべての方々の上に、神様が愛されるしるしが毎日あふれますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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