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講解メッセージ
Title
黙示録講解(23)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:1-6
Date
2007-04-27
<黙示録3:1-6>
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
今まで二時間にかけて、七つの御霊に関して調べました。神様がこの地上のすべての人の子らをあまねく探られて、彼らの信仰を測るために送られた神様の心を、七つの御霊と言いました。七つの御霊は人のすべての行いと心までも一寸の誤差もなく正確に測り、祈りと求めの答えの可否を決定します。
ところで、このような七つの御霊は、父なる神様と、もともと一つであられる主の心でもあるので、主も七つの御霊を通して探られます。したがって、すべてをご存じの主は、表から見ると生きているようでも、実は死んでいたサルデス教会に、厳しい非難のお言葉を下さいました。
また、本文<1節>に、主は七つの星を持つ方とありますが、ここで七つの星とは、「新・旧約を合わせて、神様が選んで立てられたすべての主のしもべ」を意味します。主が力強い御手でささえられ、直接働きかけて用いられる主のしもべのことです。
主はまさに、このようなしもべの口を通して、父なる神様の心と御旨を伝えるようにされ、生きておられる神様のみわざを現されることによって、神様の子どもたちが真理の道に行けるように導かれます。
ところが、サルデス教会は、このように七つの御霊を通してすべてを探られて、七つの星を通して主の子どもたちを導かれる主のみこころとは違う道を歩んでいました。当時、「サルデス」という所は、染織工業などが発達して、物質的には豊かでしたが、贅沢と不道徳がはびこり、巨大な神殿がある異教崇拝の中心地でした。このような環境に置かれていたサルデス教会は、全き信仰が持てずに、主から「生きているとされているが、実は死んでいる。」と非難されるようになりました。
私たちが生け花を見ると、生きているようですが、実はすでにいのちの元である根を離れたので、死んでいるのと変らないように、サルデス教会の聖徒たちの信仰もやはり、人の目には生きているように見えても、主の正確な測りざおで測られる時は、死んでいたのでした。
それでは、「生きているとされているが、実は死んでいる。」というみことばの具体的な意味は何でしょうか? これは一言で、サルデス教会の聖徒たちの信仰が「行いのない死んだ信仰」だという意味です。
アダムが罪を犯してから、霊が死んで、その子孫はみな霊が死んでいましたが、イエス様を救い主として受け入れ、聖霊を受けた人は死んだ霊がよみがえるのです。それで、霊がよみがえった人は、たとえ肉体から霊と魂が離れる肉の死を迎えても、「死んだ」と言わず、「眠った」と言います。
ところが、サルデス教会は「死んでいる」と言われたのですから、これはすなわち、救われないことを言われているのです。たとえ自らは「信仰がある」と言っても、その信仰は死んだ信仰であり、このような死んだ信仰では救われることさえできないのです。
<ヤコブ2:14>に、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」とあり、<ヤコブ2:17>には、「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」とあります。
このように、本当に信仰があるなら、神様のみことばを守り行うようになりますが、このような行いはなく、口だけで信じているというのは、知識的な信仰、すなわち死んだ信仰にすぎないのです。
聖徒の皆さん、<伝道者の書12:14>に、「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」とあり、<第二コリント5:10>には、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。
したがって、神様を信じて、主を信じている人々は、善であれ悪であれ、必ずさばかれることも信じるために、神様のみことばを守り行うのです。しかし、信じない人は知っていながらも行いません。皆さんは、神様を知っていることと信じていることとは明らかに違う、ということを悟らなければなりません。
<ヤコブ2:19>に、「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」とあります。ここで「悪霊どももそう信じて、身震いしています。」とは、悪霊どもも、神様がどういう方なのか知っていて、イエス・キリストも知っているので、その権威の前で恐れるという意味です。
また、聖書の所々には、悪霊につかれた人々がイエス様を見て大声を上げる場面が出てきます。<ルカ8:27-28>を見ると、悪霊につかれた者がイエス様に出会って、御前にひれ伏して大声で、「いと高き神の子、イエスさま。」と叫んだことが見られます。
しかし、このように悪霊どもが神の御子であるイエス様がわかって、御前で身震いして、イエス様が救い主であることを知っているからといって、「悪霊もイエス様を信じている」と言えるでしょうか? 決してそうではありません。悪霊がイエス様を信じるからといって、彼らがイエス様のみことばどおり行うはずもなく、優しく善良に生きるのでもありません。
ですから、これは信じているのではなく、ただ知っていることであり、知っていることで救われるのではありません。このように、聖書の知識をいくらたくさん知っていても、その知っているみことばを守り行わなければ、これは「まことに信じている」とは言えないのです。
まことの信仰には、必ずみことばを守り行う行いが伴います。仮に神様のみことばをたくさん知っていても、実際行いが伴わないなら、これは知っていても行わないことなので、いっそ知らなくて行わない人より、むしろその罪がさらに大きいのです。
それで、<ルカ12:47-48>にも、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」とあるのです。また、<ヤコブ3:1>には、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」とあります。
ところが、このように頭ではみことばを知っていても、実際行いは伴わない殻の信者が今日、だんだん多くなっています。「今どき、世の中でどうしてみことばを守りながら生きられるのか」と、世と妥協してしまいます。また、表では信仰生活しているようですが、その姿は世の人と変らない人もいます。
たとえば、主日ならば聖書、賛美歌を持って教会に行き、礼拝をささげます。十一献金と感謝献金もささげて、賛美して祈ります。ところが、教会から出て世の暮らしに戻れば、誰かが悪口を言うと一緒に悪口を言って、誰かが憤ると一緒に憤り、世の人々と一緒に世の娯楽を楽しんで、世の友になります。みことばを守り行わないだけでなく、守り行おうと努力もしないのです。世の中に陥り、自分の好きなだけ世を追い求めていきます。こういう人がたとえ教会に通うとしても、どうしてその人に信仰があると言えるでしょうか?
<ヤコブ2:20>に、「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」とあるように、その信仰というのが結局、むなしいことなのです。「イエス・キリストを知っている、信じている」と言ったのが、すべてむなしいことになってしまいます。
しかし、このように行いのある信仰を強調するからと言って、無条件に行いだけを信仰の基準としなさい、という意味ではありません。「行いのある信仰」で言う「行い」とは、「心が込められた行い」を言います。神様のみことばに従って、真理で耕された心から出る行いを意味します。まことの信仰を持った人ならば、神様のみことばで心を一生懸命霊に耕すはずだし、このように霊に耕された心から行いが出るべきだという意味です。
このように、心の割礼を通して霊に耕された心が込められた行いこそ、まことの信仰の行いになるのです。したがって、本当に重要なのは、行い自体ではなく、行いに含まれた心であり、心を霊に耕すなら、自然に行いも伴うようになります。
しかし、行いのない死んだ信仰を持った人は、心を霊に耕そうともしないだけでなく、心を霊に耕さなかったので、結局みことばを守り行わないし、仮に行なっても、それは心はない形式的な行い、すなわち、偽善になります。「行い」自体は、いくらでも人に見せるために偽善をすることも、聞いて知っている知識をもってまねすることもできるからです。
<マタイ6:1>に、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」とあるように、人に見せるための偽善の行いがあります。
また、<イザヤ29:13>には、「そこで主は仰せられた。『この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。』」とあります。口先では神様を愛すると言えて、賛美をささげることもできますが、それが神様を愛する心と恐れ敬うことではなく、人の命令として教え込まれて行う場合もあるという意味です。
ですから、このような行いは何の役にも立ちません。したがって、心が霊に耕されず、聞いて知っている知識だけで行うことや、他の人々に見せるための偽善は、結局、時になると明らかにされるし、何の実も結べないのです。
心のない行いをたとえで説明します。皆さんがご両親を愛するなら、どんな形ででも、親孝行の行いが現れます。しかし、物質をたくさん持ったとして、もっと親孝行をするのではなく、たとえ物質は少なくても、その中で最善を尽くして親孝行する場合があります。ところが、時には行いは大きく表すけれど、いざその中に込められるべき心はというと、ない場合もあります。義務で、または、ある目的を持ってする形式的な親孝行ならば、この時はいくら大きい行いを見せても、それをまことの親孝行とは言えないでしょう。仮にご両親の立場でその心がのぞけるなら、表とはあまりにも違う心に驚くでしょう。
まして、私たちすべて人の子らの心までご存じの神様のほうでご覧になる時は、どうでしょうか? 神様は行いとともに、必ずその中に含まれた心をご覧になります。したがって、私たちが神様を愛して信仰があると言う時は、必ず心が込められた行いで、その愛と信仰を表さなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、私たちは七つの御霊を通して測られ、燃える炎のような御眼で探られる神様の前で何も隠すことができません。「私があなたの行いを知っている」と言われたように、私たちの行いだけでなく、深い心の中の細やかなことまでも、みなご存じです。
ですから、皆さんのあるがままを神様の前に真実に下ろされますように。今まで「信じている」と言いながら、みことばを守り行わなかったものがあるなら、きょう、いやしの集会を通して、行える力を求められますように。また、自分なりに行ったといっても、心を込めてしなかったなら、神様の前に真実の心を求められますように。
きょう、いやされて問題が解決されるために来られた方々は、きょうのメッセージを通して、自分を照らしてみて、「私の信仰がはたしてまことだったのか?」「私は、真実の行いで神様への愛と信仰を示したのか?」と顧みられますように。それで、神様の前で皆さんの姿と心を一つ一つ告白して悔い改め、父なる神様が下さる答えと祝福の機会を必ずとらえるよう、主の御名で祈ります。
次に<2節>に、「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」とあります。まず「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」とは、口先では信じていると言っても、死んだ信仰では救われないことを悟り、今からは真理の中を歩みなさい、というみことばです。結局、今まで知識でだけ知っていた死んだ信仰から抜け出し、今からはまことの信仰、生きている信仰を持ちなさい、ということです。
次に「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」とは、信じていると言いながら、世に陥り、世を追い求めて世の人々と同じように生きているというみことばです。ですから、これは逆に言えば、行いが神の御前に全うされるようにしなさい、という意味です。
それで、続く<3節の前半節>に、どうすれば行いが御前に全うされるのか、その答えが出ているのです。「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」とあります。
聖徒の皆さん、皆さんがこれまでこの祭壇を通してどのように教えられて、どんなメッセージを聞いたのか、この時間、一度考えてみられますように。皆さんが本教会を通して聞いて教わった みことばは、悪はどんな悪でも避けて、父なる神様に似せられなさい、という聖潔のみことばでした。
<レビ記11:45>に、「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」とあるように、また、新約の<第一ペテロ1:16>に、「 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」とあるように、父なる神様に似せられて、聖でならなければならない、と教えに教えました。
神様の心を悟らせるために、聖書66巻のみことばに含まれた霊的な意味を解き明かして、いろいろな礼拝のメッセージだけでなく、数多くの教育と出会いの時間を通して、霊的に教えに教えてきました。また、善だけを、真理だけを教えました。
ところが、皆さんは自分のことを考えてみるとき、はたして教えられて聞いたみことばをどれほど守り行っているでしょうか? 「してはならない」と言われたことは、しなかったでしょうか?
「しなさい」と言われたことは、したでしょうか? また、「捨てなさい」と言われたことは捨てて、「守りなさい」と言われたことは、守ったでしょうか?
<ピリピ4:9>に、「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」とあります。このみことばのように、皆さんが学び、受け、聞き、見たことを、行なっていきさえすれば、平和の神様がいつも皆さんとともにいてくださるのです。
しかし、これまでそうできなかったなら、「それを堅く守り、また悔い改めなさい。」というみことばのように、今からでも悔い改めて立ち返り、みことばを守り行わなければなりません。「悔い改める」とは、ただ、口先だけで「過ちを犯しました。今後そうしません」というのではありません。誤って行なったことをやめて、完全に立ち返り、正しい道に行くことです。そして、まことに悔い改めて立ち返ったなら、その心が変わらずに守っていかなければなりません。
聖徒の皆さん、ところで、皆さんが悔い改めるとき、必ず考えるべきことは、初めにどのように神様に出会って、イエス・キリストを信じるようになり、聖霊を受けた初めの熱さはどうだったのか、ということです。その大きい恵みを受けて、初めの愛で満たされたのに、はたしてその初めの愛の美しさを大切に守って保ってきたのか、ということです。
多くの人々がその初めの心と行いが守れず、再び世に陥ったり、信仰生活をしていると言いながら、世の人と見分けのつかない姿で生きたりしている場合があるのではありませんか? 今はそのすべてを悔い改めて、以前の充満と熱さを回復して、神様のみことばを完全に守り行なって、花婿である主を迎える準備をしなければならない時です。
<3節の後半節>に、悔い改めず最後まで立ち返らなかった人の結果と主の再臨について、こう言われています。「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」とあります。
愛する聖徒の皆さん、皆さんはみことばを通して自分の足りなさを指摘されて、自分の姿が悟れることに感謝しなければなりません。仮に主が突然来られたとき、まだ罪から立ち返っていなかったならば、それで主を迎える準備ができていなかったならば、どんな結果になるでしょうか? 花婿である主を迎える準備ができていなかったとき、主が盗人のように臨まれると、その時はもう遅いのです。
盗人はどんな所に入るでしょうか? 戸締まりもきちんとしなくて寝ている人の所に入ります。しかし、目を覚まして戸締まりを堅くしている所には、盗人はこっそりと入って来ることができないのです。
同じように、花婿を迎える用意をしなかった人には、主が盗人のように臨まれますが、油を用意して、花婿を迎える準備をした人には、切に慕って待っていた花婿として来られます。
<第一テサロニケ5:4-5>にも、「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」とあります。暗やみの中にいないで、光の中を歩む人には、主が盗人のように臨まれないと、明らかに言っておられるのです。
もちろん<マタイ24:36>に、「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」とあるように、主がまた来られるその日とその時は、ただ父なる神様だけがご存じです。しかし、聖書は、主がまた来られる日が「いつ頃なのか」くらいはわかるように記してあります。「その日とその時」を知らないと言われたのであり、「いつ頃になる」ということも知らない、とは言われなかったのです。
ちょうど、女性が子どもを産むとき、いつ、何時ごろ赤ちゃんが生まれるのかは正確にわからないが、何月、その中でも上旬なのか中旬なのか下旬なのかは予測できるようです。そうするうちに産婦に陣痛が始まれば、「もう生まれる時が近づいた」とわかるのではありませんか? このように主が来られる時も、私たちは聖書に記された終わりの時の兆しを通してわかります。
ですから、皆さんは<第一ペテロ4:7>に、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあるように、本当に心を整え身を慎んで祈り、花婿である主を迎える用意をしなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、サルデス教会に下さるみことばは、終わりの時を生きていく教会とほとんどの聖徒たちが、もう一度自分を顧みて悟るべき重要な内容です。この地上に主の御名によって建てられた多くの教会がありますが、本当に重要なのは主の御名で建てられたという事実でなく、主が「生きている」と認められる教会になるべきだということです。
数多くの信者がいて、自ら聖徒と呼ぶ人々が多くいるけれど、その中にはたして神様のみことばを守り行なって、神様への自分の信仰を表す人がどれほどいるでしょうか? 「私は神様のみことばを守って行なっています。主日には教会にも行って、十一献金もして、こういう務めも果たしています。」という人々もいるでしょうが、父なる神様が願われる行いは、ただ表に見える形式的なものではありません。本当に主に似せられた聖なる心で、世の人々と見分けられる完全な行いで、神様のみことばを守り行うこと、これが神様の望まれるまことの子どもの姿です。
したがって皆さんは、皆さんの人生の中で一瞬一瞬、神様のみことばに従って、真実の行いで最善を尽くして再臨の主を迎えるのに足りないことのない、賢い花嫁として用意していかれますように、主の御名で祈ります。
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