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講解メッセージ
Title
黙示録講解(22)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:1-6
Date
2007-04-20
<黙示録3:1-6>
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
サルデス教会は主から「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言われました。表から見ると生きているようですが、つまり、教会にも熱心に来て信仰生活をしているように見えますが、実は死んだ者と変わらない、という意味です。神様は人の心をご覧になるので、いくら表ではもっともらしく見えても、内なる心が変わらず教会を行ったり来たりだけする信仰は、生きている信仰だと言えないのです。
主は七つの御霊の測りでそれぞれの信仰をきめ細かく測られるので、一寸の誤差もなく正確にさばかれるのです。また、七つの御霊の測りで「答えるか、答えないか」を決定されます。したがって、七つの御霊が測る分野は、信仰の全般的な分野を含んだものであり、皆さんがいつも自分を顧みながら自らチェックすべき分野なのです。
きょうはこの間に続き、七つの御霊について伝えます。
ところで、皆さんは、七つの御霊というから「霊が七つがあるんだな」と思ったらいけません。七つの御霊と言うから、一番目の霊、二番目の霊...七番目の霊、このように霊が七つ、という意味ではありません。
七は完全数として霊であられる神様の完全性を表していて、七つの御霊は、すなわち、神様の心を意味します。すべてを探ることにおいて、神様の心を持って少しの間違いや錯誤もなく、正確で完ぺきに探るという意味で、七つの御霊と言うのです。
そして、この七つの御霊は、ちょうど答えの秤のようだと説明しました。それで、七つの御霊は答えの可否を決定するために、大きく七つの分野を測ります。もちろん七つの御霊は、人の思いと心と行いなど、すべてを測りますが、それは大きく七つに分けられます。その七つの分野は、信仰、祈り、喜び、感謝、戒めを守ること、忠実、愛です。そのうち、信仰と祈りについて説明しました。きょうは残りの五つについて伝えます。
第三に、七つの御霊は喜びを測ります。
聖徒の皆さん、喜びは救われた神様の子どもの代表的な証拠です。永遠の死、地獄から救い出されて、永遠のいのちを得て天国に行くのですから、その喜びを何に比べられるでしょうか? また、主を信じる前は、世のあらゆる問題で涙、悲しみ、痛み、苦しみ、死などに囲まれて、喜びのない人生でしたが、救われた神様の子どもになり、父なる神様の愛と恵みの中で、天国の望みの中で生きていくので、当然喜びがあふれます。
もちろん、ある方々は「私は神様を信じる前も喜びながら生きてきました」と言うかもしれませんが、本当にそれがまことの喜びだったのか、考えてみられますように。喜ぶことがある時だけ喜び、状況が変わればいつでも消える喜びでした。何か試練や苦しみが来ると、すぐ消えてしまう喜びでした。自分の利益に合い、自分の心に合って、自分の目に良い時でこそ喜ぶ、条件的な喜びであり、いつかは変わってしまう喜びでした。
しかし、主にあって得る霊的な喜びは、状況と条件に関わらず、いつも喜ぶのです。何をもっても変えられない永遠のいのちを得て、後の世への希望があふれているので、心の底からいつもわき出る喜びです。もちろん、時によって、霊的に魂たちへの悲しみや神の国と義のための悲しみはありますが、心の喜びは絶えずわき出ます。初代教会の聖徒たちが獅子の餌食になっても、喜んで殉教に至れたように、喜びこそ救われた神様の子どもとされたしるしであり、クリスチャンを見分ける香りになります。
また、喜びは信仰があるという証拠です。神様への確実な信仰と、祈りと求めに答えてくださることを信じるので、現実のどんな状況にもかかわらず喜びが出てくるのです。
それで、答えられる信仰のある方々は、私のところに祈りを受けに来る姿から違います。いくら難しい問題を持って来ても、憂いと心配の暗い顔ではなく、喜びを失わない明るい顔で出て来るのです。信仰で祈りを受ければ問題が解決されることを信じるので、心からわき出る喜びがあるのです。こういう方々は祈りを受けた後に、さほど経たないうちに、答えられたあかしをします。
ところが、時々、信仰があると言い、務めを持っている方々の中にも、霊的な喜びを失った方々がいます。表の姿は笑顔をしていますが、心からわき出る喜びが感じられないのです。神様への熱い愛と熱心が消えて、なまぬるい信仰に冷めてしまったり、御霊の願いに従わずに世を追い求めて、神様との間に壁を作るなら、霊的な喜びも心から消えるためです。
それで、そういう方々は信仰もあって、務めもあって、それほどかしらになっていても、何か答えられるために祈るとき、長い間答えが遅くなるのが見られます。信仰の量りに応じた喜びの実がないから、七つの御霊が喜びを測るとき、合格できなかったためです。
聖徒の皆さん、喜びは、まさに平安から出てきます。皆さんが父なる神様と平和をつくり、周りの人々と平和をつくって、皆さん自身とも平和を作っているなら、皆さんの中に住まわれる聖霊が平安を下さるので、当然喜びが泉がわくようにわき出るのです。そして、少なくとも父なる神様とだけ平和をつくっていても、すなわち、何か罪の壁を作らないでいるなら、心の底から喜びが離れないのです。
したがって、この時間、皆さん自身を顧みて、心に喜びがない方がいるならば、あるいは喜びが消えていく方がいるならば、皆さんが「今、父なる神様との間にひょっとして罪の壁を作っておいたのではないか?」顧みられますように。そして、罪の壁があるならば、すみやかに打ち砕いて、失った喜びを回復する皆さんになられますように。今回の特別徹夜祈祷会を通して、このような喜びを回復された方々なら、必ず祈りと求めに答えられるでしょう。
第四に、七つの御霊が測るのは感謝です。
喜びとともに感謝もやはり、神様の子どもとされた証拠として現れる実です。少しの信仰でもある人は、どんな状況と条件があっても、心から感謝の告白が出て来ます。救いの恵みだけを考えても、感謝が出るしかありません。地獄で永遠に苦しみを受ける魂が、何の代価もなしに下さった主の贖いの恵みで永遠のいのちを得て、天国で永遠に生きるようになったのですから、どうして感謝が出てこないでしょうか? しかも愛の神様が父になられて、私たちの人生を一歩一歩導かれるのですから、これを信じるなら、すべてのことに感謝するようになります。
救われた神様の子どもなら、たとえ感謝の条件がなくても感謝すべきなのに、信仰生活をしながら信仰もより大きくなり、それで感謝の条件もますます多くなるなら、当然日が経つにつれて、さらに感謝するのです。
ところが、感謝することがある時だけ感謝して、苦しいことやつらい状況になった時は、口から恨みとつぶやきが出るなら、これは信仰のある人の姿にはほど遠いのです。すぐ目の前には困難があっても、ただ神様を信じるので感謝の祈りをささげるとき、その祈りをお聞きになった神様は、すべてを働かせて益としてくださって、結局は良い実を刈り取るようにされます。
私は34年前、主を受け入れてから、一度も心から感謝が消えたことがありません。肉的な環境だけを見ると、相変わらず貧しくてつらい生活を送っていた時も、また、教会を開拓してから今に至るまで、人としては耐え難い、いろいろな訓練を通過してきた時も、むしろ感謝の心は毎日増し加えられました。このように感謝の心を香りとしてささげるとき、神様も喜ばれて、私が祈るすべてに、すみやかに答えてくださいました。
したがって、皆さんは<ピリピ4:6>に、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と言われたみことばに頼り、いつも感謝の人生になられますように。環境と条件に関わらず、すべてのことに感謝するので、まず神様に喜ばれる人でこそ、感謝の条件が引き下ろせる賢くて幸いな人なのです。
第五に、七つの御霊は、戒め、すなわち十戒を測ります。
聖書を見ると、何をしなさい、してはならない、守りなさい、捨てなさい、と命じられたみことばがたくさんあります。その中でも十戒は、聖書のすべての戒めを含んでいます。まさにこの十戒を私たちが守っているのか、七つの御霊の測りに合格点をもらうとき、答えもすみやかに与えられるのです。
神様の子どもと言いながら、みことばを守り行わずに、世の人と変わらずに罪を犯しながら、みこころと反対に行う人に、神様が答ることはおできになりません。ところが、戒めを守るということは、私たちが神様を愛するという証拠です。
<第一ヨハネ5:3>に、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。肉的にも、本当に愛する人には、相手が願うことはみな聞いてあげたいと思うでしょう。霊的にも、神様を信じて愛する人ならば、神様の戒めを喜びで守るのであって、その中でも最も代表的な十戒をいつも心に置いて守っていくでしょう。
ところが、重要なのは、このような戒めを同じように守っても、はたしてどんな心で守るかということです。もちろん、初心者や新しい信者は戒めを守ること自体が信仰と認められますが、仮に、信仰生活も長くて信仰もあるという人が、無理にいやいやながらやむを得ず戒めを守ったり、人の目を意識して守ったりするなら、これはまことの愛でもなく、まことに戒めを守ることでもないのです。
「その命令は重荷とはなりません。」とあるように、神様を愛するなら、その戒めを守りますが、決してそれが重かったり、負担に思って無理に守ったりするのではありません。うれしくて軽い心で喜んで行うのがまことです。
<第二コリント9:7>にも、ささげ物に関しても、「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。神様の前にいくら多くの物をささげても、仮に惜しむ心や、やむを得ずささげる心が少しでもあるなら、どうしてそれが神様の受けられる香ばしいささげ物になれるでしょうか?
<第一テサロニケ2:8>の、「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」というみことばのように、愛する人のためには、いのちまでも喜んで与えるのです。まして、父なる神様を愛して、その戒めを守ることにおいて、どうして喜んでしないでいられるでしょうか?
したがって、皆さんは神様をまことに愛して、神様のみことばと戒めを守って行き、必ず喜んで行えるように、主の御名で願います。そして、このように戒めを守るとき、神様を信頼して愛する子どもだという証拠になり、七つの御霊の測りを通し、すみやかに答えられるのです。
第六に、七つの御霊は忠実を測ります。
主のしもべは主のしもべとして、長老は長老として、勧士は勧士として、執事は執事として、どれほどその務めにふさわしく忠実なのかを測ります。また、機関長として、区域長として、このほかのすべての使命を受けた者として、ゆだねられ使命をどれほど大切にして忠実であるのかを測ります。
ところで、必ずしも神様の働きにだけ忠実だったからといって、それを完全な忠実とは言わないのです。教会でゆだねられた使命だけでなく、家庭での、職場での忠実を含めて、全家を通じて忠実であることが完全な忠実です。夫として、妻として、子どもとして、親として、このようにそれぞれ与えられたすべての立場で真理をもって忠実でなければなりません。
もちろん、主の働きと世の働きのうち、一つだけを選ばなければならないとき、信仰があるなら、当然主の働きを選ぶでしょうが、だからと言って、世の働きは疎かにしてもかまわないという意味ではありません。究極的にはどちらにも偏らないで、あれもこれもみな神様の栄光のために、真理の中でふさわしく忠実でなければなりません。
時々、祈りを受けに来る方々のうち、信仰歴が長く、務めもある働き人なのに、事業に大きい問題があったり、重い病気にかかったりする場合があります。この方々が告白するには、以前は熱く使命を果たして忠実だったけれど、ある瞬間から使命を手放したと言うのです。事業を拡張するのに心を奪われたり、家庭の迫害によってだんだん妥協したり、その他のいろいろな状況で使命に対する忠実が冷めてしまったとのことです。
したがって、完全な忠実とは、変わらない忠実であることも必ず覚えなければなりません。充満な時だけ熱心に忠実であって、充満ではない時は忠実に仕えないとか、初めの熱心と熱さがだんだん冷めていくならば、このような人は七つの御霊が測る忠実の分野で合格できないのです。
ところで、忠実の分野でも、何よりも重要なのは、まさに霊的な忠実です。表から見える行いだけではなく、必ず心の割礼を一緒にしていく霊的な忠実になるべきです。信仰がより大きくなって、信仰歴がさらに長くなるほど、当然近ごろの行ないが初めの行ないにまさるべきですが、父なる神様は忠実の行いだけを願われるのではありません。本当に父なる神様に似せられた、聖められた聖なる子どもたちが、心からわき出てささげる、霊的な忠実を願われるのです。
仮に行いだけの忠実を願われたなら、神様のそばにはいくらでも忠実になれる数多くの天の軍勢と天使がいるのではありませんか? たとえば、代価を与えて雇った人に仕えられるのと、皆さんが生んだ子どもにまことに愛する心で仕えられるのとは、全然違うのではありませんか?
このように、皆さんも神様の前で完全に忠実になるためには、皆さんの心が主の心に似せられていき、父なる神様を愛する心でいのちをささげるまで忠実にならなければならないのです。
最後の第七として、七つの御霊は愛を測ります。
愛は、先に調べた六つの全体を完全に結ぶ帯の役割をして、私たちがこの地上で耕作される究極的な目的です。神様が最初の人アダムを造られて、この地上に人を耕作される理由は、まさに神様と永遠に愛を分かち合うまことの子どもを得るためでした。したがって、いくら祈って、忠実であって、神様の働きをよくしても、神様を愛して兄弟を愛する心でしてこそ、すべてのものに真の意味があります。
<第一コリント13:1-3>にも、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とあります。
主も愛をもって律法を全うされましたし、信仰、希望、愛の中で一番すぐれているのは愛です、と言われました。したがって、結局、信仰をもって祈り、喜んで感謝して戒めを守り、神様の前に忠実であるすべてのことも、結局は愛をもってしなければならないのです。
<マタイ22:37>に、「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」とあるように、心と思いと知力を尽くして神様を愛するなら、十分に七つの御霊が測るあらゆる分野で合格点が受けられるのです。
愛する聖徒の皆さん、私たちの信仰生活は信仰から始まります。信仰がある時だけ喜んで、感謝ができて、祈りも、戒めも守ることもでき、忠実になれるからです。このように信仰の中で行なっていくことによって、毎日神様の子どもらしく変えられていくのです。それで、最も早く七つの御霊が測るのも信仰です。
ところが、信仰をはじめ、他のすべてのものがあっても、愛がなければ、結果的に何の役にも立たないので、一番終わりに愛を測るのです。
たとえば、使命を受けて、熱心に忠実に働いているようですが、気に入らないことがあったからといって休んでしまったら、これは愛をもって行なったことにはなりません。また、神の国のために熱心に祈っていると言っても、兄弟を愛することができなくて、憎んでそねみ、ねたむなら、この祈りもまた、愛をもってしたとは言えません。信仰のある職分者であり、働き人として使命を果しているといっても、他の人の過ちを口にしてさばき、罪に定めるなら、これもまた愛があるのではありません。
したがって、私たちが愛を成し遂げる時でこそ、すべてを完全に成し遂げたと言えて、神様の心に似せられて神様に喜ばれるので、すみやかに答えられるのです。
愛する聖徒の皆さん、七つの御霊を電気製品にたとえると、七つの御霊が測るそれぞれの分野は、電気製品の部品にあたります。もし部品のうち一つでも抜けたら、スイッチを入れても動かないように、七つの御霊が測る分野のうち、何か一つでも足りないなら、答えが与えられないのです。
それなら、皆さんは七つの御霊のみことばを通して、自分の信仰をチェックしてみられたでしょうか? 今回の特別徹夜を通して、祈って求めたものが答えられるという確信が来るでしょうか?
ある人は初心者なのに、「私は祈ったら、すぐ答えられます」とあかしする場合があります。一方、働き人で教える立場にいても、答えが遅い場合があります。初心者より信仰が少ないのでもなく、忠実も、祈りも、もっと多くするのに、実際に答えが遅いのです。
これは、神様がそれぞれの信仰の量りに応じて、七つの御霊で測られるからです。初心者が初めの愛が熱くて聖霊に満たされて、自分の信仰よりさらに熱心に祈って忠実に、喜びと感謝に満たされて走って行く時は、七つの御霊の基準が簡単に超えられます。自分の信仰の段階でできること以上に行なっているために、祈ることにすぐ答えられるのです。
たとえば、六歳ぐらいの幼い子が、お母さんを助けたいので、家を掃除したり、後片付けをしたりすると、親がどれほどけなげと思うでしょうか? そして「母さん、だーいすき、」とかわいく抱かれに来るなら、母親がどれほど喜ぶでしょうか? たとえ大人のようにきれいにはできなかったとしても、その心と行いがとてもけなげなので、親のほうでも子どもが喜びそうなことをしてあげようとするでしょう。
しかし、二十歳を越えて大人になった子どもが、親を助けて何かの仕事をした時は、六歳の子どもがすることとは違います。たとえ六歳の子どもよりはよくできたとしても、親の立場では、子どもの年齢に合う水準で働きの実を見るのであり、子どもが本当に心からにじみでて、最善を尽くしてしたのかを見るでしょう。
同じように、信仰が大きくて務めと使命が大きいほど、神様の前に当然、さらに多くをささげなければなりません。七つの御霊が測るあらゆる分野でも、自分の信仰の量りに応じた信仰生活をしなければなりません。そうする時は、信仰が大きいほど、神様のみわざもより大きく体験して、栄光が返せるのです。
ところで、同じ信仰でも、どんな問題をもって祈るかによって答えの基準が変わります。たとえば、大きい問題で祈る時は、その分、大きい信仰と高い基準を通過しなければなりません。ですから、普段よりさらに大きい信仰を見せなければならなくて、喜びと感謝と祈りなどの分野でも、普段よりさらに勝らなければなりません。
このような事実を悟って、皆さんが求めて祈ることに答えられるためには、どうすべきなのか、自ら答えを探してみられますように。七つの御霊が測る分野で足りないものがあるならば、すみやかにそれを満たして、七つの御霊の測りに合格できる皆さんになられますように。そして、毎日さらに完全な基準に至って、今からは心にいだくだけでも答えられる、祝福された段階にまで至る聖徒の皆さんが続いて出て来ますように、主の御名で祝福して祈ります。
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