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講解メッセージ
Title
黙示録講解(14)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:12-17
Date
2007-01-26
<黙示録2:12-17>
また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
ペルガモにある教会は当時偶像礼拝が盛んで、「サタンの王座」がある所に建てられた教会です。「サタンの王座」とは、「サタンが臨んでいる状態」を言う、と説明しました。偶像を拝むいろいろな神殿と、皇帝を崇拝するために建てられた神殿など、ペルガモは本当にサタンがつかさどる都市でした。
ペルガモにある教会はこういう所に建てられたので、信仰を守るということがやさしくなかったけれど、それでも主を信じる信仰を捨てませんでした。主の御名を堅く保って、勝利したのです。その先に立った人物が、きょうの本文にある「アンテパス」です。
本文を見ると、主はアンテパスに対して「私の忠実な証人」すなわち、主の忠実な証人だと言われます。主からこのような言葉を聞いたなら、アンテパスの信仰がどうだったのかが、よくわかります。主の御前で「忠実された証人」と認められたなら、彼の忠実が決して表面に見える肉的な忠実でない、霊的な忠実だったことがわかります。悪を捨てて自分を明け渡すことで、主の心に熱心に似せられていき、同時に信仰生活に容易でない環境でも、主を証しする「証人」としての使命を、いのちを尽くして果たしたことを語っているのです。
それも、偶像礼拝が盛んで、あらゆる罪と悪で満ちているサタンの巣窟のような所で、いのちを尽くして忠実に主の福音を伝えました。そして結局、殉教するようになりました。アンテパスの殉教に関して伝えられる話の中に、こういう内容があるそうです。
ローマの役人がアンテパスをつかんで神像の前に立たせて、「アンテパスよ、ローマ皇帝の神像にお辞儀をしなさい」と強い始めました。するとアンテパスは、「王の王、主の主はイエス・キリストしかいないから、その方のほかには私はお辞儀をしない、」と答えたそうです。ローマの役人は大変憤り、「アンテパスよ、この世のすべての人々があなたに立ち向かっているが、ことを知らないのか?」と言いました。するとアンテパスは、「それなら、私、アンテパスは、この世に立ち向かって、イエスを主の主と認めます」と叫びました。ついに怒りに燃えたローマの役人は、真鍮のカマを熱して、その中にアンテパスを入れて殺したとのことです。
このようにぞっとする迫害と殉教する状況でも、ペルガモにある教会の信者たちは信仰を捨てなかったのです。このように信仰がある人々は、むしろ試みと苦しみと迫害が来るほど、さらに固く主の御名を保つのです。
一方、教会に通っていると言っても、真理をよく知らない人々の中には、こういうことがよく理解できない人がいます。「なぜ神様をよく信じて忠実だったのに、このように迫害されて殉教しなければならないのか? 神様が生きておられるなら、どうしてこういうことがあるのか?」と言い、気を落として教会から離れることもあります。
しかし、神様の深いみこころと摂理を悟るなら、このような疑問は解けます。アンテパスが殉教したペルガモの教会を始め、初代教会だけでなくどこの国でも、キリスト教が初めて入って定着するためには、多くの殉教の歴史がありました。韓国でも、フンソン大院君の時にキリスト教が入って来て、多くの迫害があり、この過程で数多くの殉教者が出ました。
ところで、世の人々はクリスチャンのこのような殉教の姿を見て、初めは彼らをあざけってさげすみ、はなはだしきは殉教する姿を楽しむことまでしました。ローマ市民も、コロセウムで多くのクリスチャンが死んでいく姿を見守りましたが、初めはローマ人の目にそのような人々がとても愚かに見えました。
しかし、時間が経つにつれて、ローマの人々はだんだん不思議に思うようになりました。「彼らはどうして死んでいきながらも、あんなに喜んで笑えるのだろうか?」「はたして彼らをあのようにさせたのは何か?」「彼らが信じているイエスという人はいったい誰なのか?」と思い始めました。
これがだんだんキリスト教への好奇心に発展して、ついにはキリスト教について知りたがる人々が増えるようになりました。そして結局、多くの人々が主を信じるようになり、コンスタンチヌス皇帝の時に至ると、キリスト教を公認するようになり、さほど経たないうちに、ローマの国教にまで定められました。
まさにここに、人の頭では理解できない神様の摂理があります。このような方法でなくては、あの短い時間にキリスト教が急速にローマを通してヨーロッパと全世界に伝えられなかったでしょう。韓国も、先立った信仰の人々の殉教があったので、100年という短いキリスト教の歴史の中でも、このように大きい成長を成し遂げたのです。
愛する聖徒の皆さん、もし、信仰生活を適当にしてきた人が死の恐れの前に立つなら、はたして堂々と信仰が守れるでしょうか? もちろんその瞬間でも、聖霊に助けられて最後まで信仰を守って殉教するならよいのですが、いつもは信仰生活を適当にした人ならば、死の脅威の前でそのような信仰を持つことは、決してやさしくありません。また、心から悪を捨てなかっただけに、極限状況や死の脅威の前で、恐れのため信仰が変わってしまう可能性も大きくなります。
したがって、いつも変わらない心で神様の御前にいのちを尽くして忠実だった人でこそ、死の前でも信仰が守れ、悪を捨てて聖められたほど、聖霊に満たされて助けられて殉教することができます。アンテパスがまさにそのような人でした。
そして彼の殉教は、ペルガモにある教会の聖徒たちがさらに主の御名を固く保ち、信仰をもって走って行ける原動力になりました。アンテパスの殉教を見て、ペルガモにある教会の聖徒たちは、死が怖くて隠れたり避けたりしたのでなく、むしろさらに主の御名を固く保ち、信仰で勝利していけたのです。主は、ペルガモにある教会と聖徒たちのこのような姿をほめておられます。
したがって、皆さんもアンテパスとペルガモ教会の信仰のある聖徒たちのように、どんな試みと苦しみが来ても、右にも左にもそれずに固く教会を守る、忠実な主の証人になられるよう願います。
ところで、このようにほめられたペルガモにある教会が、この後、主から厳しく非難されます。<14節>に、「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」とあります。
殉教までしたアンテパスと彼の殉教を見習い、信仰を固く守った聖徒たちのいるペルガモ教会でしたが、その中にはそうではない人々もいたのです。彼らに向かい主は「バラムの教えを奉じている人々」と言われ、彼らの行いを非難されました。また、「ニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」と言われ、これも厳しい警戒のみことばを下さいました。
それなら、バラムの教えを奉じている人々とニコライ派の教えを奉じている人々とは、どんな人々のことでしょうか?
まず、バラムの教えが何かから調べましょう。<民数記22章- 24章>に出て来る一つの事件について知らなければなりません。バラムはメソポタミアのペトルに住んでいるベオルの子で、神様と交ることのできる人でした。もう少し正確に言えば、神様と交わる道を知っていた人です。
こういうバラムに、ある日、モアブの王バラクが助けを求めてきます。それはまさに、イスラエルの民を呪ってくれ、ということでした。神様が共におられるイスラエルの民について十分に聞いて知っていたモアブの王バラクは、イスラエルの民が自分たちの地に来るという知らせに恐れて、このようにバラムに助けを求めたのです。
それで、バラムが神様のみこころがどこにあるのか伺うと、神様は「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」と答えてくださいます。このように答えを受けたバラムは、バラク王が遣わした人々の頼みを断ります。
しかし、モアブの王バラクは、再び金、銀、宝と良いものをたくさん準備して、前の者より位の高いつかさたちをバラムのところに遣わします。そして<民数記22:17>に、「私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。」と言います。すると預言者バラムの心が惑わされて、揺れ始めます。物質と名誉への欲と私心があるので、このようにサタンに試みられると、心が揺れ始めたのです。
このような姿は皆さんの信仰生活にもいくらでも現れます。つまり、ある試みが来たとき、一気にみことばで退けるなら二度とそのような試みが来ないはずでしょうが、仮にその心がもう少し誘惑が来れば揺れるかもしれない心ならば、サタンは必ずもう一度試みるのです。したがって、試みを通過できなかった時は、いつかその試みがまた来ることもあるのです。
木を抜こうとするとき、一度揺さぶってみた時にびくともしなければあきらめるですが、「できそう」だったら揺さぶり続けるようにです。エバも、蛇が惑わしたとき、結局その心のすき間を見せたので、蛇はそのすき間をねらい、惑わし続け、ついにエバが倒れるようにしたのです。
また、うわべでは通過したように見えても、心で完全に通過したのでなければ、サタンはまた試みることがあります。バラムも最初の試みを通過したように見えたけれど、その心に物質と名誉への欲と私心があったので、二番目のより大きい誘惑に負けてしまいました。
バラムが口ではバラクの家臣たちに、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません、」と言いましたが、その心はすでに揺れていました。すでに神様のみこころを知っていても、「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」と余地を残したのです。
このようなバラムに、その夜、神様が来られて、「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」とおっしゃいます。
この場面を皆さんがよく理解しなければなりません。この過程を肉的にだけ理解するなら、「バラムがバラクに行ったのはあくまでも神様のみこころによるものだった」と思うこともできます。だが、神様のみこころはすでにバラムが初めて神様に伺ったとき、神様が明らかに教えてくださいました。それでも神様が二回目に伺ったバラムに、バラクのところに行くように許されたのは、神様がバラムの心をご存じだったからです。
バラムがきよい心を持っている人だったら、いくら多くの物質と名誉を与えても、決してバラクのところに行こうとする心がなかったはずであり、神様に再び伺おうともしなかったでしょう。さらに、イスラエルの民は神様が共におられる民族だと知っているので、イスラエルの民を呪ってくれという頼みを聞いてあげるはずがありません。
それでもバラムはすでに心が揺れていて、このような心をご存じの神様は、結局彼の自由意志に任せられます。神様がその時にバラムを防がれても、後でバラクの使いたちがをより多くの財物と名誉を持って来て、バラムを惑わすなら、彼はまた心が揺れるはずだからです。したがって、無理に防ぐことは公義に外れることになります。これはちょうど、神様はこの世のすべての人々が罪を犯さないように無理にでも防げるけれど、そうされると公義に合わないのと同じことです。
こうしてバラムは結局、バラクのところに行きました。この時、神様はもう一度使いを遣わしてバラムの道を防がれ、はなはだしきはろばの口を開かれて話すようにされ、バラムの正しくない行いを悟らせてくださいます。主の使いが、「あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。」と言ったのです。そして「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」と、警戒のみことばを下さいます。
そして、その以後の状況は、モアブの王バラクの願いとは正反対になって、むしろ神様はバラムの口を通してイスラエル民族を祝福されるみことばを下さいます。このようにして、この事件は終わったように見えます。
ところが、新約時代になると、この事件を書きしるした<第二ペテロ2:15-16>に、「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」とあり、また<ユダ1:11>には、「忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。」とあるのです。
それなら、はたしてバラムがどうしたので、彼にこのようなみことばが与えられたでしょうか?
きょうの本文に、「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」とありますが、これについては<民数記25:1-2>に記されています。「イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。」とあります。
まさに、バラムがバラクにイスラエルの人々の前につまずきの石を置く方法を教えて、このように途方もないことを企むようにしたのです。バラムはイスラエルの民をどう誘えば神様の前に怒りを買うのかを知っていて、それを利用してこのように悪い策略を使ったのです。
偶像を拝んでいたモアブの人々は、祭事を行うとき、祭壇の前にささげ物を華麗に備えて女たちがみだらに踊ります。バラムに操られたモアブの王バラクは、このようなところにイスラエルの民を招きました。
イスラエルの民は長い間の荒野生活に疲れていただけでなく、単調な生活に慣れていました。こういう彼らが異国の神を拝む祭事に招かれて、その光景を見ると、突然世のものが押し寄せてきました。今日のように、聖霊の恵みのうちに心を割礼して、罪と悪を脱ぎ捨てる時でもなく、ただ行いとして抑えて罪を行わないようにしていた時だったので、彼らは世のものにすみやかに陥るしかありませんでした。それで結局、偶像の神にささげたものを食べて、異邦の女たちとみだらなことをしてしまったのです。
モアブの王バラクは、バラムの教えに従って、このようにイスラエルの民を罪と悪の中に導くことができました。結局、イスラエルの民はこのような罪によって神様から大いに懲らしめられたのです。<民数記25:9>を見ると、神罰が広がり、死んだ者は二万四千人もいました。
ところで<第一コリント10:8>には、この時に死んだ人の数を二万三千人と書いてあります。それならなぜ<民数記>と<第一コリント>では、このように千人の差があるのでしょうか? ひょっとして間違いや錯覚があったのでしょうか?
聖書は決してそうではありません。<民数記>に二万四千人と書かれたのは、罪を犯したイスラエルの民と一緒に死んだモアブの女たちまで含んだ数字であり、<第一コリント>に二万三千人と書かれたのは、神罰で死んだイスラエルの民だけを数えたからです。このように、聖書を聖霊に感じて解き明かすと、聖書がどれほど正確なのかよりいっそう悟ることができます。
愛する聖徒の皆さん、それでは私たちがバラムの教訓を通して、霊的に悟らなければならないことは何でしょうか?
一番目に、真理から離れて世と妥協する適当主義信仰に対する警戒です。
バラムが神様の御心をはっきり知っていながら、不義の報いを愛して、結局死の道に行ったように、今日も世と適当に妥協しながら信仰生活していこうとする傾向がますますひどくなっています。結局、神様より、世と世にあるものをさらに愛するからです。
特に今日では<第一テモテ6:10>に、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあるように、金を愛して世の友となり、神様の御前に罪を犯す場合が多いのです。物質への欲のために主日を破ったり、神様のものである十分の一献金を盗んだりすることです。また、主のしもべとしてもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むべきなのにもかかわらず、物質と名誉をむさぼって、あるいは世の権勢の友になる場合もあります。
しかし<マタイ6:24>に、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあるように、牧会者はもちろん、神様の子どもなら、当然、神様おひとりだけを愛して、その方のみこころだけを追っていくべきでしょう。決してバラムのように、この世と妥協する適当主義信仰があってはいけません。
それなら、皆さんの姿も一度顧みるよう願います。ひょっとしてバラムのように、世の誘惑に勝てなくて、惑わされて真理を離れているのではありませんか? 神様よりさらに愛するものを持っているのでしょうか? でなければ、心を尽くして、命を尽くして、思いを尽くして、ただ父なる神様だけを愛しているのでしょうか?
皆さんがあまり考えずに始めたささいなことでも、それが真理を離れて、世の友になって妥協することならば、ますますそこに心を奪われるようになり、結局はわなにかかり、サタンに訴えられるようになります。小さいパン種がパン全体に広がるように、小さいことでもサタンの惑わしを一つ受け入れると、その次は二つが入ってきて、二つを受け入れると、三つ、四つが訪ねて来て、ついにすべての思いと心を奪っていくのです。それで、一時期は神様に用いられた人々が、肉に染まり、世の中に堕落していき、結局、捨てられることも見られます。
まさにペルガモにある教会の信者の中にも、このような人々がいたのです。アンテパスが殉教するのを見ても、信仰から離れず守った人もいましたが、一方では、バラムの行いを追って世と妥協していく人々もいたのです。
主は、ペルガモにある教会のこのような人々だけでなく、今日でも信じると言いながら、バラムの行いを追う人々に向かい、厳しく非難されて、悔い改めるように言っておられます。
バラムの教えを通して悟らなければならないことについては、次に時間に続けましょう。
愛する聖徒の皆さん、<第二テモテ3:1-5>で、終わりの時について、このように警告しています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」とあります。
このように聖書は、終わりの時になればどんな現象が現れるのかを警告してくださったのに、結局、世の多くの人々はこのみことばどおりになっているのです。
ところで残念なことは、主を信じるという人々の中にも、このような姿が増えているということです。神様のみことばを聞いても、それが一つの知識として入れられるだけで、みことばどおり生きようとする努力はしないのです。見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になることです。
聖徒の皆さん、ペルガモにある教会には、主の御名のために殉教までする忠実な証人アンテパスのような人がいたかと思えば、一方、バラムの行いを追って世と妥協して世を愛していく人もいました。同じ環境で同じみことばを聞いて信仰生活していたペルガモにある教会の信者だったのに、彼らの中ではこのように肉と霊がはっきりと分かれていたのです。
これは現在でも同じです。終わりの時が近づけば近づくほど、霊は霊に、肉は肉に、ますます明らかに分けられる現象が現れます。
したがって、皆さんの中には、バラムの行いを追ったペルガモ教会の一部の信者のように、終わりが近づいていることを見ながらも、世の友になって世を愛する方が決してひとりもいないよう、お願いします。サタンの王座がある中でも、主の御名を堅く保って、殉教までした忠実な証人アンテパスのような皆さんになられますよう、それで、勝利を得た者に下さる、主の称賛と報いと栄光を頂いて味わう幸いな皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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