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講解メッセージ
Title
黙示録講解(13)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:11-17
Date
2007-01-12
<黙示録2:11-17>
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
主が七つの教会に下さるみことばはすべての時代、すべての教会に適用されます。スミルナにある教会に下さったみことばの中の「ユダヤ人だと自称している」人々も、主の働き以後、どの時代にもいたし、こういう人々によるサタンの会衆もいつもいました。悪魔が主を信じる人々をためすために牢に投げ入れて、苦しめることも絶えず起こりました。
そして、このようなことは主が私たちを連れに再び来られるその日までも続くでしょう。主の御名で福音を伝えるところ、さらに御力の働きが現れるところには、どこでも「ユダヤ人だと自称している」人々もいて、その人たちによって福音伝播が妨げられ、御力を現す人々が迫害されるのです。
主がスミルナにある教会に下さったみことばを、将来本教会が果たすべき北朝鮮宣教の使命と関連して説明したのも、このような理由からです。スミルナにある教会に下さったみことばが必ずしも本教会の使命である北朝鮮宣教にだけ限られるのではなく、主の福音を伝えて御力を現す所なら、どこでも起こりうる状況を説明したのです。
したがって重要なのは、主の御名で福音が伝えられて、その上大きい御力の働きが共に現れると、必ず敵である悪魔・サタンの妨害も大きいということを悟り、いつも目を覚まして祈り、信仰で勝利しなければならない、ということです。
スミルナにある教会は、まさにこのような状況のすべての教会のモデルになるのです。スミルナにある教会には、イエス・キリストを信じるために受けなければならない、いろいろな苦しみと迫害がありました。ユダヤ人だと自称している人々に妨げられ、悪魔がもたらす試みと苦しみもありました。
ところが、このスミルナにある教会に、主は「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」という、勧めのみことばを下さいます。主の御名で苦しみを受け、また今後も悪魔によって試みと苦しみを受ける彼らに、「私があなたがたの労苦を知っている、少しだけ我慢して耐え忍びなさい。」と慰められたのではありません。むしろさらに忠実であり、しかも死に至るまで忠実でありなさい、と言われたのです。
それは、スミルナにある教会がより大きい祝福と報いを受けるためでした。スミルナにある教会が主の御名で受けたすべての試みと苦しみと迫害は、必ず彼らにとって祝福と報いになります。しかし、ただ試み、苦しみと迫害によく耐えて勝利を得るだけでは、神様の御前で完全にほめられるのではありません。私たちは、当然すべきことをしたからといって、ほめられるのではありません。自分がすべきこと以上に、充分に果たした時に初めてほめられる資格があるのです。
ところで、神様の子どもとして主の御名で迫害と苦しみを受けるのは、ある面では当然のことです。それで主は、スミルナにある教会がより大きい祝福と報いを受けるように、慰めのみことばよりは「死に至るまで忠実でありなさい。」という勧めのみことばを下さったのです
ところで、ここで死に至るまで忠実であるということが、ただ目に見える肉の忠実だけを意味するのではない、と言いました。血を流すまで罪と戦って、悪はどんな悪でも避けることによって、「自分」というものがなく、ただ、真理であられる神様のみことばだけがあって、みことばを完全に守り行うこと、これがまさに「死に至るまで忠実でありなさい。」というみことばに含まれた霊的な意味です。それと共に、肉的にも忠実である時でこそ、それがまことの霊的な忠実であり、完全な報いにもなります。肉的にいくら忠実であっても、それだけでは完全な報いになれないのです。
霊的に死に至るまで忠実であった人々に、いのちの冠が与えられ、三天層以上の天国にも入れるのです。しかし、いくらこのような約束のみことばがあっても、それを聞く人が耳を傾けないならば、何の効果もありません。
<ヨハネ10:3-4>に、「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」とあるように、ただ主に属した羊だけが、牧者となられた主の御声を知っていて、その御声について行くのです。このように聖霊を受けて神様の子どもとされ、自分の中に聖霊が宿っている人は、御聖の声を聞いてそれに従います。
<11節前半節>に、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とあります。ここで耳とは、肉の耳ではなく、聖霊を受けた神様の子どもとして、当然御霊の声が聞ける、霊の耳を言います。
皆さんもまさに、この霊の耳を持たなければなりません。真実が聞けて、まことを聞き分けることのできる耳を持たなければなりません。私たちをすべての真理に導かれ、神様の御心と御旨について教えてくださる、御霊の声が聞ける耳が必要です。それでこそ神様のみことばも聞けるし、それを聞いたとき、その霊的な意味も悟ることができるのです。
ところで、このように神様のみことばを聞いて悟り、また、御霊の声が聞ける霊の耳は、心に悪がないほどさらに明らかに聞けます。言いかえれば、悪がないほどさらに明らかに聞ける霊の耳を持つようになるのです。
一方、悪があるほど、霊の耳は遠くなって、神様のみことばを聞いても悟れないし、御霊の声も聞けないのです。代わりにサタンの声を聞くようになります。
しかし、まだ、たとえ心に悪があって御霊の声が明らかに聞けなくても、講壇で宣言される神様のみことばにだけ「はい」と「アーメン」で聞き従っていくなら、すみやかに御霊の声も明らかに聞く段階に至れます。そうなると、すべての事を神様のみことばに照らして見分けられる力が与えられ、どんな苦しみ、苦しみと惑わしにも勝利が得られるのです。また、世の闇を退けて、真理に逆らう罪と悪と戦って勝つことができます。
このように神様のみことばに従って世の罪と悪と戦って捨て、真理の中を歩む人を、「勝利を得る者」と言っています。そして、このように「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」と言われたのです。
それでは、「第二の死によってそこなわれる」とはどんな意味でしょうか? 第二の死があるなら、第一の死もあるということですが、第一の死とは、人の肉のいのちが絶える肉の死をいいます。そして、第二の死とはまさに、人の主人である霊と魂が永遠に消えない地獄の火に落ちることを言います。
<黙示録20:12-15>に、「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とあります。
真理に逆らう罪と悪の中を歩み、みことばの中を歩まない者、つまり、「勝利を得る者」にならなかった人は、とこしえに消えることもなく、うじも尽きることがない、地獄の火で永遠に苦しむようになります。これが第二の死によってそこなわれることです。
一方、神様のみことばを聞いて守り行う人々、それで試みや苦しみが来ても揺れずに、光の中に屈せず立って祈って勝利した人々は、第二の死によってそこなわれることがなく、永遠のいのちの道を歩むようになります。
私はこのメッセージを聞かれる皆さんすべてが、決して第二の死によってそこなわれることがなく、天国に至るように、切に願っています。神様が一度ゆだねられた魂をひとりも失わずに、みな天国に導くように切に願っています。
したがって、皆さんすべてが、将来主が私たちを連れに来られて、麦と殻とを分けられるとき、よく実った麦になられ、主と共にする婚宴に喜びで参加されますよう、私たちの主イエス・キリストの御名で祈ります。
愛する聖徒の皆さん、今からは七つの教会のうち、三番目のペルガモにある教会について伝えます。
ペルガモにある教会は、主から称賛と非難とを受けた教会です。いろいろな迫害と苦しみの中でも信仰を守ったことはほめられましたが、彼らの中にはサタンに惑わされて、世と友になり、誤った異端思想の影響で死の道を行く人々もいたので、これは厳しく非難されました。
まず本文<12節>に、「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。」とあります。ここで「鋭い、両刃の剣」とは、神様のみことばをたとえたのです。
<ヘブル4:12>に、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。そして、このように「鋭い、両刃の剣」のような神様のみことばを持たれたお方は、まさにイエス・キリスト、私たちの主であられます。
<ヨハネ1:14>と見ると、イエス様はことばが人となって、この地上に来られたお方で、ことばそのものであられる神様と、もともとお一つです。ですから、主は当然、神のことばを完全に持っておられるお方です。
では、このように両刃の剣よりも鋭い神のことばが、どのように働かれるのでしょうか? 神のことばは生きていて、力があり、そのうちにいのちがあります。世のどんな本の中にも、生きていて働く本はなく、その中にいのちがある本はないのですが、神のことばだけは、私たちが信じて行うとき、ことばどおり生きて働かれて、霊と魂を生き返らせるいのちの働きが現れます。
たとえば<詩篇37:4>に、「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。皆さんがこのみことばを本当に心から信じるなら、このみことばに従って「神に喜ばれることが何か?」を探してみるよう、お願いします。
<ヘブル11:6>に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあり、<箴言11:20>には「まっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。」とあります。<箴言12:22>では「真実を行なう者は主に喜ばれる。」と言われ、<箴言15:8>では「正しい者の祈りは主に喜ばれる。」と言われました。
まさに皆さんがこのように行うとき、皆さんは神様に喜ばれ、必ず皆さんの心の願いをかなえてくださいます。こうして、神のことばが生きているということを体験するようになります。
ところで、このように生きている神のことばがたましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す、と言われました。
私たち人間は、アダムが罪を犯してから、霊が死んでたましいの中に閉じ込められていました。しかし、主を受け入れて聖霊を受ければ、死んだ霊がよみがえるのです。そして一生懸命、神様のみことばでたましいを砕いていくほど、だんだん霊がもっとよみがえるようになります。神様のみことばがたましいを砕いて、霊をよりいっそう盛んに活動するようにされるからです。そうしながら、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのですが、関節とは、肉的に、骨と骨とがつながっている部分です。
それなら、神のことばがどのようしてこの関節を刺し通すのでしょうか? ここで関節とは、霊的に「皆さんが自ら作っておいた枠」を意味します。この「枠」とは、皆さんが今まで育ちながら見聞きして習ったすべてのものによって 作り上げられたもので、結局数多くの真理に逆らうものが入力されて作られました。
ところで、皆さんはここで「自分の義」と「自分の枠」とを見分けることができなければなりません。
「自分の義」とは、「自分が正しい」ということです。人が完全に真理に変えられる前は、このように自分が見て正しいという「自分の義」というものがあります。
しかし、このような「自分の義」も結局は世から入力された、真理に逆らうものによって作られました。世の真理に逆らうものをまるで真理のように間違えて知り、教わって入力したので、「自分が見て正しい」という「自分の義」ができたのです。
ところが、真理の神様のみことばを聞き始めると、その時からまことの真理が何かがわかって、真理に外れる「自分の義」を一つ一つ発見して捨てていきます。
ところで、このように「自分の義」を発見して捨てようとしても、それがうまくいかない場合があります。それは、すでに「自分の義」が固まって、「自分の枠」を作っておいたからです。言いかえれば、「自分の枠」とは、自分が正しいという自分の義がそれなりに体系を持って固まったものと言えます。
それで、ある人は性格そのものが枠になったり、ある人は自分が知っている知識そのものが一つの枠になってしまったりします。ある人は教養が、ある人は好みが、ある人は行いが枠になったりするなど、さまざまな形の枠が作られます。
たとえで説明すると、ある人は「霊の人とはこういうものだ」と、自分なりの枠を持っています。ところがで、この枠が作られるまでは、自分が見て正しいと思う多くのこと、つまり、「自分の義」が積み重ねられてきました。このような自分の義が積み重なると、それを土台に「霊の人」についての自分の枠ができます。ですから、こういう人は、他の人に自分の義を強いて苦しめたり、自分の枠にぶつかる人に対してはさばいて罪に定めたりします。
時々、ある人は自分の中には枠が強く固まっているのに、うわべでは他の人に自分の義を言い張らず、あまりぶつかっていないように見える場合があります。こういう人は代わりに、他の人の話や勧めに対しても、自分の枠で強く防いでいるために、結局自分の姿が発見できないし、変えられにくいのです。
ですから、このような自分の枠は、何としてでも砕かなければなりません。それはただ、神様のみことばだけで可能です。時には自分の枠があまりに強くて、神様のみことばがなかなか入るすきまがない人もいます。しかし、神様は強制的に心の扉を開かせて、みことばが入るようにされるのではありません。それは公義に外れるからです。
だれでもすべて神様が強制的に心の扉を開き、みことばが入るようにされるなら、敵である悪魔・サタンが「それは公義に合わない」と、当然、訴えるのではありませんか? 自分から少しでも心の扉を開いて、みことばを受け入れる時でこそ、みことばが入れるのであり、これがまさに公義です。
したがって、自分に枠があることを認めて、へりくだった姿で心の扉を開き、神様のみことばを受け入れる姿勢になっているならば、いくら固い枠であっても、結局はみことばで砕いていけるのです。
次に、神のことばは骨髄を刺し通す、とありますが、骨髄とは、肉的に骨の内部の組織で、霊的には細かくて根深く刻み込まれている罪と悪を意味します。骨の奥深いところにある骨髄のように、罪と悪の根も、人の心の深いところにまで根を下ろしています。したがって骨髄とは、他の言葉で表現するなら、心の深いところに内在している悪であり、「本性の中の悪」または「気質の中の悪」もこれにあたります。
ただみことばの剣でだけ、このような深い悪の形までも刺し通して、取り除くことができます。だからと言って、無条件に神様のみことばだけあれば、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通せるのではありません。充分に関節と骨髄までも影響が与えられる深い霊のみことばであるべきであり、そのみことばを伝える人に、みことばの権威が伴わなければなりません。
このように驚くべき神様のみことば、すなわち、鋭い、両刃の剣を持つ方がペルガモにある教会に言われます。
<13節前半>に、「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」とあります。
先に、スミルナにある教会の説明で、「サタンの会衆」についてはお話しました。ところが、きょうの本文の「サタンの王座」とは、「サタンの会衆」とは違います。
サタンの王座とは、「サタンが臨んでいる状態」を言います。これは肉的に見るとき、当時、ペルガモが偶像で満ちていた状況を言われたのです。ペルガモは、当時、小アジアで最も重要な都市の一つで、政治と学問の中心地でした。同時に、贅沢しすぎて多くの偶像を拝む都市でした。
ローマの支配の下では、皇帝崇拝もひどかったのです。
ペルガモには、ゼウス神殿をはじめ、ディオニソス、アテナ、アスクレピオス神殿、ローマ皇帝のための三つの巨大な宮などさまざまな偶像を拝む神殿がたくさんありました。そのうち、特に「アスクレピオス神殿」は蛇を拝む神殿でした。
<黙示録12:9前半節>に、「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」とあるように、蛇は、つまり、サタンを象徴します。
このようにペルガモは、サタンの王座がある所だったので、主はこのような環境で信仰生活をしているペルガモにある教会に向かい「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」と言われたのです。
ですから、こういうところで信仰生活をする聖徒たちがどんなに、ひどく迫害されたでしょうか? それで、主の忠実な証人アンテパスもそこで殉教したのです。
<13節後半節>に、「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」とあります。
それならアンテパスとはどんな人物であり、はたしてどのようして殉教に至ったでしょうか? これについては、次に時間に続いて伝えます。
愛する聖徒の皆さん、<詩篇19:7-9>で詩篇の記者は、「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」と歌いました。
ここで、主のみおしえ、主のあかし、主の戒め、主の仰せ、主への恐れ、主のさばきとは、一言で言うと、主である神のみことばです。
続く<10節>を見ると、記者はこのような神のみことばについて、「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」と歌っています。神のみことばがつらくて苦しいものではなく、多くの純金よりも好ましく、食べれば食べるほどさらに食べたくなる蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い、と告白しています。
皆さんもこういう心でしょうか? 皆さんが神のみことばをこのように慕い求めて、心から甘く受けるなら、聖められることは決して難しくなく、長く時間がかかるものでもないでしょう。
もちろん、神のことばは両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す時は、時には痛みと苦しみとが伴うこともあります。しかし、皆さんの霊と魂が罪と悪のために苦しんで、そして関節と骨髄が腐っていきながら受ける苦しみと辛さを思うなら、神のことばの剣に刺し通されると、むしろすがすがしくてうれしくなります。
ですから、神様のみことばを純金のように慕い求めて、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘く思うなら、何としてでもみことばをさらに聞き、熱心に受けようとするでしょう。このように神様のみことばを聞き受けて、心に糧としていくとき、ついに主に似せられた完全な真理の人に変えられるのです。
したがって、皆さんは<詩篇119:103>のように、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」と告白できるよう、願います。そして、このようにみことばを愛して慕う人ならば、 ことばは神であると言われたので、当然神様を心の底から愛するようになります。
このような皆さんになられて、生きていて働かれる神様のみことばが、皆さんの人生に豊かな実と結ばれますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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