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講解メッセージ
Title
黙示録講解(7)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:1-7
Date
2006-11-24
<黙2:1-7>
エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
愛する聖徒の皆さん、また、アメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニヤ、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインタ-ネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、そして、視聴者の皆さん。
エペソにある教会は、主からいくつかの称賛のみことばを聞きます。そのうちの二つを先週お話しましたが、第一は、真理を行うために労苦して忍耐したことでした。第二に、悪い者たちを我慢することができなかったことでした。
ところで、主がエペソ教会を称賛された内容は、事実、教会と聖徒たちが当然行うべきことなのです。教会は、聖徒たちが神様のみことばの中に生きるよう努力して、真理に背くものは果敢に捨てながら、神様のみことばどおり生きていくように教えなければなりません。また、神の国と義のために忠実であり、ゆだねられた使命を果たすことも、教会と聖徒たちが当然すべきことなのです。そして、このように行ってみると、労苦と忍耐が伴うものです。
しかし、今日、はたしてこのような称賛を受けられる諸教会がどれくらいになるでしょうか? <ヘブル10:25>には「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」と言われましたが、今日、いっしょに集まることをやめたりする諸教会がだんだんと増えていくだけです。みことばどおりに行って労苦して忍耐するよりは、だんだんと簡単で楽にだけ信仰生活をしようとします。
教会の中で、悪い者たちを我慢することができなかったことについても同じです。<第一コリント5:11-13>には、「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」と書かれています。
神様を信じていると言う人々や信仰の兄弟姉妹がこのように不法を行い、真理の中に生きられないので罪を犯すなら、そのような者とは付き合ってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、というみことばなのです。その上、悪い人をあなたがたの中から除きなさい、とまで言われました。
もちろん、このみことばを誤解して、今まで罪と悪の中に生きてきて、たった今、主を受け入れて、教会に入ってきたばかりの初心者にまでそうしなさい、という意味ではありません。初心者の段階を過ぎて、信仰があると認められた人、つまり執事や長老などの務めを持っていて、いわゆる信仰があると言う人々がそのような悪を犯すなら、そのような者とは付き合ってはいけないし、いっしょに食事をしてもいけない、その人を教会から除きなさい、ということなのです。
それでは、「七度を七十倍するまで赦しなさい」と言われたイエス様が、なぜこのような人々は赦さず除きなさい、と命じられたのでしょうか?
聖徒の皆さん、たとえ罪を犯したとしても、悔い改めて立ち返ると、神様は憐れんで赦してくださいます。ところが、罪を指摘されても、相変わらず悔い改めて立ち返らない人々は、心がかたくななので、サタンのしわざを受けてだんだんともっと多くの悪を行うようになり、結局、教会にも大きな害を被らせるようになります。
教会とは、神様のみこころにしたがって多くの魂たちを救って神の国を広げていかなければならないところですが、かえってこのような人々によって神様の働きがそしられるようになるのです。そのため、仮にこのような人々をただそのままにしておくなら、パン種がふくらむように教会の中にだんだんともっと悪の種を蒔いていくことなので、主は除きなさいと命じられたのです。
かと言って、一度、二度勧めてみて聞かなければ、ただちに除きなさいという意味ではありません。先週も申し上げましたが、<マタイ18:15>の前半節を見ると、「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。」と書かれています。すなわち、信仰の兄弟に何かの過ちがあるなら、それを他の人に伝えず、愛する心でまずその人のところに行って勧めてあげなさい、ということです。自分が勧めたとき、その兄弟が悔い改めて立ち返れば、死の道へ行かないようになるので、その兄弟を救ったことになります。
そして、こうして聞き入れないとき、続く<16節>には「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」と言われています。自分より秩序上もっと高い地位にいるひとりかふたりだけに知らせて、彼らを通して勧めるようにしなければなりません。
しかし、このようにしても聞き入れないなら、その時は教会、すなわち、主のしもべに知らせるべきですが、この時も必要であれば、秩序にしたがってだんだんともっと目上の方に知らせなければなりません。それで、神様のみことばで勧めて、時には責めてでも立ち返るようにしなければなりません。
それでも聞こうとしないなら、その時は「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」と言われました。そのような人をこれ以上放置しておいた時は、もっと多くの人々が罪の中に染まっていくようにさせるので、結局、教会をだんだんとさらに困難にするからです。
したがって神様が、悪を行う人を教会で我慢してはいけないと言われたのは、愛がないからではなく、もっと多くの魂たちのために、主が血の代価で買い取ってくださった主のからだなる教会を聖なるものとするためだと悟らなければなりません。
そして、このような神様のみこころにしたがって、教会の中では決して悪を我慢することができなかったことによって、神様から称賛される諸教会になられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
次に、続く本文には、主はエペソにある教会に向かって、第三に、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことを称賛されました。ここで「使徒」とは、イエス様の十二人の弟子やパウロのような使徒を言うのではなく、教会の中で信仰があって、務めを受けた人々を意味しています。
今日、教会の中には主のしもべを始めとして、長老、勧士、執事などの務めがあります。時には信仰と関係なく、信仰歴によって務めが与えられて、かしらになっていく場合もあります。しかし、いくら務めが与えられ、多くの使命をゆだねられたかしらになったとしても、神様が認めてくださらなければ、その人はきょうの本文に出てきたように、「使徒と自称している」だけなのです。
教会の中のすべての務めと使命は、神様が与えるものなので、神様から認められなければなりません。しかし、まことに神様から認められるに値する資格を備えられなかった状態で、信仰歴や外的な条件によって務めを受けて使命をゆだねられるようになったなら、これがまさに使徒と自称していることになってしまうのです。
それでは、このように、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いた、というみことばの意味は何でしょうか?
たとえば、教会を治めている牧者が羊の群れに、罪と悪を捨てて神様のみことばの中に生きるように教えるとき、信仰がある聖徒であれば、神様のみことばに「アーメン」と言って聞き従います。神のことばは生きていて力があり、両刃の剣のように、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目を刺し通すとき、自分の中に発見されるふさわしくない姿を悔い改めて立ち返っていきます。
しかし、心がかたくなな人々は、神様のみことばを聞いても立ち返りません。しかも、自分の不義が表に現われそうなら、かえって人々を惑わして勢力を集めて、ついに自分の正体がばれるようになると、教会に背を向けてののしって離れる姿まで見られます。使徒と自称していた人々の偽りの姿が、結局、表に現われるようになるのです。
ところで、主のしもべたちのうちにも、使徒と自称していますが、実はそうでない場合があります。神様のみことばを教えるべき主のしもべとして、かえって神様のみことばをもって、他の主のしもべや教会をさばいたり罪に定めたり、自分が盲人になっていたりしながら、羊の群れを間違って導いていく場合です。
イエス様の当時の大祭司長、祭司長たち、パリサイ人と律法学者たちがまさにこのような場合に当たります。<マタイ23章>を見ると、イエス様は彼らに向かって「目の見えぬ手引きども」と呼ばれ、「外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」と責められる内容が出てきます。
このように、使徒と自称している人々は、外側は聖なる神の人であるかのようなふりをしますが、実際、神様が試みを与えると、すぐその偽ったものが現われるようになります。そのため、神様は教会の中で、このような偽ったものが表に現われるようにするために、試みをお許しになる時があります。そして、このような試みの中には、教会的にも多くの迫害と困難が伴うこともあります。
たとえば、ステパノ執事が悪い者たちを指摘して、彼らの悪さを表に現わしたとき、悪い群れははらわたが煮え返る思いで、彼を石で打ち殺しました。このように、悪い者たちは罪を指摘されたり、自分たちの本来の正体が現われるようになったりすると、さらに悪くなり、露骨に悪を現わすのです。
それで、仮に教会の中に使徒と自称している偽った人々を現わそうとためしてみると、信仰が弱くて心の定まらない人々のうちでも、一緒に離れていく場合が時に生じます。
そうなると、牧者はまるで自分の体の一部が取れていくような痛みを耐え忍ばなければならないこともあります。このような痛みを甘んじて受けながらも、偽ったものを表に現わそうとするのは、主を愛さなければできないことなのです。
本祭壇も開拓以来今までに何度か、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜く過程を経験してきました。父なる神様が親しく毒麦を間引いて、麦を岩の上に立てるための試みをお許しになったのです。そのような過程の中では、骨を削るような痛みも伴いますが、神様が本祭壇にそのような試みを許された理由は、そのような過程を完全に通過してこそ、神様が受けられる聖なる聖徒たちが集まって、世界宣教と大聖殿を成し遂げられるからです。私はこのような神様の摂理を知っているので、そのすべての試みを感謝で受けながら、労苦と忍耐を甘んじて受けてきました。
ところで、そのような試みの過程の中で、本当に信仰のある聖徒であれば、どんな状況の中でも信仰が揺れ動かず、その試みを通してさらに堅い信仰と善に出てきたことがわかります。また、そのような試みを通過した後には、神様が公義の中でもっと大きな祝福を授けてくださることができたのです。そのため、父なる神様も偽った者たちを現わすための試みをお許しになるとき、愛する子どもたちにも共に苦しみが伴うことを知りながらも、試みを許されるのです。
したがって、このような試みが許された時は、うわべを見ると心が痛むこともたくさんありますが、結局は、これを通して神の国と義がもっと堅固にできるので、ただ父なる神様の御前に感謝しなければならないのです。
次に、第四に、主はエペソにある教会について、「よく忍耐して、主の名のために耐え忍び、疲れたことがなかったこと」を称賛されました。
聖徒の皆さん。神様のみことばを聞くとき、自分の姿で罪に当たるものがあれば、悔い改めて立ち返ろうと努力して、神様のみことばどおりに生きようと努力しなければなりません。ところが、時々、神様のみことばの中で罪を指摘されると、反発したり試みの種をつくったりする人がいます。牧者はこのような人々も、死の道に行かないように、涙を蒔いて祈り、忍耐して耐え忍びながら、いのちのみことばで変わらずに教えなければなりません。
預言者モーセが神様から十戒を受けるために、ひとりで山に登って四十日の断食の祈りをしている間、民はかえって偶像を造って仕えるという、非常に大きな罪と悪を犯しました。これに、神様は怒られて、罪を犯したイスラエルの民をみな滅ぼしてしまうと言われると、モーセは神様の御前に涙を蒔きながら、民の罪をお赦しください、と切に祈ります。
使徒パウロも福音を宣べ伝えるために、むちにも打たれて牢にも監禁されなければならず、様々な苦難を受けなければなりませんでしたが、イエス・キリストによって感謝しながら、忍耐して耐え忍び、勝利したことがわかります。
まさに、エペソにある教会の牧者も、このようによく忍耐して主のために耐え忍び、疲れたことがなかったので称賛されたのです。牧者が疲れて怠けるなら祈れないし、祈らないので敵である悪魔・サタンとの霊的な戦いで羊の群れを守ることもできず、失ってしまった羊の群れを捜してくることもできないのです。怠けずに勤勉であってこそ、羊の群れのために祈ることができて、一生懸命羊の群れを顧みながら、ゆだねられた使命も忠実に果たせるのです。
今日も、称賛される教会と牧者になるためには、このような姿にならなければなりません。罪が増大しているこの終わりの時に、まことに羊の群れを天国に導くためには、多くの忍耐と寛容が必要です。
真理を教えて、また、教え、信じられる証拠を数え切れなく見せてあげても、相変わらず世と友となり、暗やみの中にとどまる魂たちを見るとき、牧者の心は血が枯れるかのようです。赦して、また、赦してあげても、再び罪を犯して出てくる魂たちを見るとき、牧者は忍耐して、また、忍耐しながら、その魂のために言いようもない悲しみの涙を流して祈らなければなりません。一瞬も魂たちへの気遣いをやめることができず、自分自身に関するものはすべて諦めながらも、魂たちのためには怠けず勤勉に、関心と愛でいつも顧みなければならないのです。
また、今日は、「信じている」と言う人々でさえ、日増しにだんだんと真理の福音をわい曲して、世と妥協していく世代なので、主の御名のために耐え忍ばなければならないこともとても多いのです。ただ聖書のみことばどおりに教えて、神様のみことばがまことであると伝えているのに、かえってそのような教会と主のしもべたちを「間違っている」「異端だ」と言って、罪に定めます。使徒パウロが神様を信じていると言うユダヤ人たちから、「ナザレ人という一派の首領」という言葉を聞いたように、ということです。
神様を信じて、主を信じていると言えば、当然、主の福音が広く宣べ伝えられることを共に喜んで力になるべきでしょうが、それとは正反対に、妨害して迫害して罪に定め、ひどい悪を行う人々がいるのですから、これはどんなに心が痛く残念なことなのでしょうか?
しかし、私たちは主を信じるので、どんな試みや迫害が来るとしても、喜びと感謝で耐え忍んで勝ち抜くべきであり、怠けず勤勉に祈り、ゆだねられた使命を果たさなければなりません。これがすなわち、主を信じているまことの信仰なのです。
聖徒の皆さん。エペソにある教会は、このように主から真理を行うために労苦して忍耐したこと、悪い者たちをがまんすることができなかったこと、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたこと、そして、よく忍耐して、主の御名のために耐え忍び、疲れたことがなかったことについて、称賛を聞きました。
さて、エペソにある教会が、このように称賛される姿が続いたならよかったでしょうが、そうでなかったことがわかります。
それで、本文<4-5節>には、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」と言われた主の叱責が出ています。
たとえ称賛を聞いたエペソにある教会だったとしても、初めの愛から離れてしまい、初めの行いを失うと、「もし悔い改めることをしないならば、あなたの燭台を取りはずしてしまおう」という、このように恐ろしいみことばまで聞くようになったことが見られます。
したがって、皆さんも初めの愛から離れてしまって、初めの行いを失ってしまうことが決してあってはいけないでしょう。それでは、エペソにある教会が初めの愛から離れてしまったと、非難された理由は何でしょうか?
<ヨハネ14:21>には、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」とあり、<第一ヨハネ5:3>には、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。
このようなみことばのように、エペソにある教会の牧者と聖徒たちは、初めは神様を愛して、罪と悪を戦って捨てながら、真理の中に生きていこうと努力しました。熱心に集まることを努力して、いつも祈り、真理のみことばを聞くことを慕い求め、伝道することに努力しました。主の御名のために一生懸命労苦して忍耐し、喜びと感謝で勝利していきました。
ところが、時間が流れながら、だんだんとこのような真理から遠くなってしまったのです。ある瞬間、その初めの愛から離れ、もうだんだんと集まることに努力せず、この世の中に落ちていったのです。
このような姿がひょっとして皆さんの姿ではないか、この時間を通して徹底的に顧みて、該当する内容があれば、きょう、この時間にただちに立ち返れる皆さんになられますよう、主の御名でお願いいたします。発見して悟った時に立ち返らなければなりません。そうでなく、放っておくと、後にはわかっていても立ち返る力が来ないのです。
聖徒の皆さん。たいていは神様に初めて出会い、聖霊を受けると、聖霊に満たされて喜びがあふれます。それで、だれがさせなくても、一生懸命いろいろな礼拝と集まりに参加し、祈ることに努めるようになります。また、天国と地獄があるということが信じられるので、熱心に自分の兄弟と親類と親戚、隣人たちにも福音を伝えるのが見られます。信仰の兄弟たちと共にする時間が幸せで、教会に来るのが幸せであり、主日が待ち遠しく、みことばが慕わしくなります。
ところで、ある瞬間、そのような初めの愛の充満さが冷めてしまいます。その最も大きな原因は祈りを休んだからであり、祈りを休んだので聖霊の充満が落ちたからなのです。そして、このように聖霊充満が落ちて、初めの愛が冷めてしまうようになると、再びこの世が目に入ってき始めます。
礼拝をささげても、霊とまことによってささげられず、義務感の中で形式的にささげるようになり、礼拝の時間はもちろん、祈ろうとしてもすぐ居眠りしてしまうようになります。罪と戦って捨てる力も来ないので、再び世と妥協しながら罪に陥っていきます。
それでは、主を熱く愛していた初めの愛を回復して、初めの行いを捜すためには、どうすべきでしょうか? これについては、次の時間に続いて調べてみます。
愛する聖徒の皆さん。父なる神様のみこころは、神様の子どもたちが、時間が流れるほどもっと熱心になることであり、世の罪を脱ぎ捨て真理の中に生きて、だんだんと信仰が成長してもっと聖なるようになることです。
しかし、私たちが完全に聖められる前までは、いつもサタンの誘惑と試みを受けるようになるので、目覚めていなければ、いつでも誘惑に陥って初めの愛を失ってしまうこともあることを、いつも念頭に置かなければなりません。これは、教会と個人みなに当たるみことばです。
主はエペソ教会について説明されながら、今日もこのような教会があると言われました。その教会は初めは、きょうの本文にエペソ教会が称賛されたように、真理の中に生きるために努力して、主の御名によって不当な苦しみを受けながらも、すべてのことを忍耐していきました。初めの愛の熱さがあったので、迫害の中でもかえってもっと一つになり、祈ることに努め、何としてでも神様のみこころを成し遂げるために努力しました。また、たとえ深い段階までは入っていけなかったとしても、それでも霊の世界を窮めようと努力し、神様の真理のみことばを宣べ伝えました。怠けず勤勉で、みなが一つとなって、神の国を広げるために努力しました。
このように行なったので、神様も喜ばれて、その教会を祝福してくださいました。教会は日増しにリバイバルして、聖徒たちは祝福を受けていき、いやしのみわざも現われるようになりました。ところが、そんな教会がある瞬間から少しずつ変わっていき始めました。そして、その影響は波状的に広がっていきました。初めの愛を失って変わり始めたとき、ただちに立ち返れば回復できたでしょうが、すでに彼らには「ある程度成し遂げた」という高慢が入っていました。
初めの愛を失い始めた時は、それでも苦しみを感じ、「こうしてはいけない」という危機意識もありましたが、時間が経つと、それさえも感じられないようになりました。自分たちが成し遂げたことについて、人々から認められることを慰めとして、それは結局「神様も認めておられる」という高ぶりに発展していったのです。それで、祈りを休むようになり、神様のみこころに従うよりは、自分たちが成し遂げたことを守り味わおうとする心が大きくなっていきました。
聖徒の皆さん。このみことばを聞きながら「ああ、このみことばはどの教会を指しておっしゃっているみことばだな」とさばかないようお願いします。ひょっとして、このみことばがまさに皆さんの教会に当たるみことばではないかを顧みて、皆さん自身に当たるみことばではないのかを自ら顧みるよう願います。
特に、きょうのいやしの集会に祈りを受けるために参加された方々は、なぜ皆さんにそのような病気と諸問題が訪れて来たのか、きょうのみことばで答えを見つけるよう願います。
もちろん、すべての聖徒の皆さんが「私は初めの愛を失っていないのか」を顧みる大切な機会になるよう願います。皆さんの祈りの生活と礼拝をささげる態度と心、使命をゆだねられて果たしている姿勢と、霊を慕い求める心と行いなど、皆さん個人の信仰を顧みてください、ということです。それで、初めの愛のその充満が皆さんの中に完全に回復してあふれますよう、主の御名で祝福して祈ります。"
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