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Title
創世記講解(95)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
創 5:21-24
Date
2013-02-15
[本文]
[創世記5:21-24]
「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
愛する聖徒の皆さん、GCN放送視聴者の皆さん、「創世記講解」九十五回です。
きょうはまず前回の内容をもう一度説明いたします。人間の寿命が900歳以上の時代の人間の発達段階について説明しました。当時は人間発達の各段階、すなわち、幼児期、児童期、少年期が今よりもう少し長かったです。特に青年期ははるかに長かったのです。それで子どもを生める期間も、今よりはるかに長かったのです。
[創世記5:32節]を読むと、ノアは五百歳になったとき、息子たちを生んだことが書いてあります。したがって、当時は数百年にかけて多くの子どもを生んだことがわかります。これは、その当時の人々が健康なからだで永い歳月を生きていたことを証明しています。言いかえれば、人が生まれれば、健康に成長して成人になります。するとその時からとても長い間、その姿を維持しました。老化する時点が非常に遅かったし、その速度も非常に遅かったのです。
人類歴史の初期の人々は、老化するとしても今日のようにはなりませんでした。気力がなくなって、みすぼらしくてかわいそうな姿になったり、骨が硬くなって曲がることもなかったのです。肌もしわくちゃになりませんでした。
もちろん、老年期に入るある時点になれば、これ以上子どもを持つことはできなくなります。年をとって老人であることはわかっていても、今日の病弱な老人のような姿にはならなかったのです。寿命が尽きて死ぬ時も、からだが衰えて、やっと生きてから死んだのではありません。たいていは健康なからだで老年を過ごし、寿命が尽きる頃には自然に息絶えて死にました。
大洪水のさばきの後も、信仰の人は平安に息を引き取ったことがわかります。たとえば、アブラハムは、[創世記25:7-8]で「以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。アブラハムの息子イサクも同じです。[創世記35:28-29]に「イサクの一生は百八十年であった。イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」とあります。[申命記34:7]には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」とあります。
アブラハムは175歳、イサクは180歳まで生きました。大洪水の後なのに長生きしました。モーセは120歳だったのに、目はかすまず、気力も衰えていなかったと書いてあります。神がモーセを召されなかったなら、この地上でもっと長く生きられるほど、十分健康なからだだったのです。
今日も、心を御霊に属するものに耕すほど健康になります。[第三ヨハネ2節]のように、たましいに幸いを得ているように健康であるのです。前に「いのちの種」の説教で説明したように、御霊の歩みに入るなら老化が止まり、全く聖なるものとされれば若返りします。身体のすべての機能が最上の状態に回復するのです。
愛する聖徒の皆さん、前回に続き、人類歴史の初期に人々はどのように生きていたのかを説明しました。平均寿命900歳以上だった時の時間の流れのスピード感と身体発達を分ける区間が、今日と違うことを説明しました。漠然と「その時はほとんど900歳以上長く生きた」とだけ言うなら、聖書を疑う人もいるかもしれません。ところが、きょうの内容を理解すれば、疑いの余地がなくなります。聖書がまことの記録であることが完全に信じられるのです。
このように、神が私たちに聖書を解き明かしてくださる理由がまさにこれです。私たちが聖書が神のことばであることを信じて、すべての記録が歴史的な事実であることを信じ、みことばどおり生きるようにするためです。
きょう伝えた創世記のみことばがまことであるように、大審判についての他のみことばもまことです。私たちの主イエス様も、[マタイ5:18]で「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と言われました。父なる神はみことばどおり成就して行い、さばきをなさいます。
したがって、聖徒の皆さんは父なる神のことばを「いのちの糧」としますように。毎日みことばを喜んで口ずさみ、また守り行うようお願いします。それで、「みことば」すなわち「神」と一つになった幸いな人生を歩みますよう、主の御名によって祈ります。
愛する聖徒の皆さん、今からはアダムの七代目のエノクについて伝えます。エノクについての聖書の記述は短いけれど、私たちに与える教訓は非常に大きいです。第一は、エノクがこの地上でも神とともに歩む生き方をしたこと、第二は、死を見ることのないように天に移されたということです。私たちはこの二つだけても、エノクが偉大な昔の信仰の人だったことがわかります。
[第二テモテ3:16]にあるように「聖書はすべて、神の霊感によるもの」です。ところで、神が、記した人たちにご自身の霊感を与えられたとき、昔の信仰の人ごとに強調する点が違いました。たとえば、アブラハムを通しては信仰について、モーセを通しては指導者として神に認められる生き方について、ダニエルを通しては妥協しない信仰、ダビデを通しては訓練を受けても神を愛するがゆえに見事に通り抜けて美しい器になったこと、またエリヤ、使徒パウロなど、それぞれ代表的な人物を通して、彼らが神のお心をどのように理解して、どれほど愛したかを表してくださいました。
それでは、神がエノクを通して、私たちに教えようと思われるみこころは何でしょうか? それは、神は悪がなくて心の良い人をまことに愛して、みもとに置きたいと思われるということです。
本文を読むと「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ、エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」とあります。そして、三百六十五歳で「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とあります。
当時は平均寿命が900歳を超えていました。したがって、エノクは当時の人々の3分の1程度だけこの地上で生きたのです。そして、死を見ることのないように天に移されました。[ヘブル11:5]にも「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」とあります。エノクはこのように、この地上で生きる間「神に喜ばれていること」があかしされていました。ですから、この地上でも神とともに歩むことができたのです。
それでは、まず「神がともに歩まれる」ということが、どういう意味なのか調べましょう。神がエノクとともに歩まれたとは、はたしてどんな意味でしょうか? 神ご自身がこの地上に降りてきて、エノクとともにいてくださったのでしょうか? エノクの手を握って歩いたり、直接話をしたりしながらです。そうではありません。
神がエノクとともに歩まれたという意味は「神がエノクといつも交わって、エノクの人生をご自身で導かれた」という意味です。その時、神はエノクに霊の知識をたくさん教えてくださいました。三位一体の神について、人間耕作の摂理について、霊の世界の奥義と天国についても明らかに教えてくださいました。やがて起ころうとしている事についても教えてくださったのです。
たとえば、[ユダ14-15]に、エノクが人間耕作の終わりに起こることを預言した内容があります。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』」と記されています。エノクはその時すでに、主が世の終わりの日に、空中に降りて来られることを知っていたのです。これらの事実は、神とともに歩む間、神と明らかに交わっていたので知ることができました。
これとともに、エノクは時に応じて神の姿を拝することもできました。これにも二つの意味が込められています。
まずは、アダムがエデンの園で生きていた時のように、神が分かれた霊としてエノクのところに来られた場合がありました。エノクの心に感動を与えて、神がともにおられるような感じを与えられました。それとともに、他の誰にも知らせなかった父なる神の姿について、唯一エノクには教えてくださいました。エノクが父なる神を描こうとするなら、十分に描けるほど、神ご自身についてすべてを明らかにしてくださったのです。
エノクが神の姿を拝したということには、第二、モーセのように神の御姿のかたちを見たという意味が含まれています。[出エジプト33:18節以下]に、神がモーセにご自身をどのように現すのか、説明された内容があります。[18節]で、モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と言うと、神は[20-23節]で「また仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』また【主】は仰せられた。『見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。』」と答えてくださいます。
モーセも神と明らかに交わっていたが、神の御顔は直接拝することはできなくて、「うしろ」だけが見られました。これはエジプトから出てきて満2年にならなかった時です。モーセが完全になる前のことでした。モーセも荒野で40年を送りながら、さらに謙遜で忠実に仕える者になりました。数百万人の民を導きながら、父なる神の心をもっと深く悟り、完全に似せられていきました。
それで、彼がすべての使命を全うして120歳で一生を終える時はどうなったでしょうか? [申命記34:10]に「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と評価されていたことがわかります。
このようなモーセのように、エノクも神と顔と顔とを合わせることができました。もちろん、初めから神の御顔を直接拝することができたのではありません。モーセに比べてはるかに長い歳月をこの地上で神とともに歩む間、ますます父なる神と親密になりました。そうなった時に初めて神がエノクに御顔を現してくださいました。
ところが、エノクがそのように神を拝した時と、その後、死を見ることのないように移されて、父のふところにいだかれた時とでは、その感動の差は比べられないほど大きいです。私たちも同じです。この地上で御霊に感じて父の愛をたっぷり感じることはできるけれど、将来、天国に入って父に直接拝する時は、その感動がどれほど大きいでしょうか。
これについて[第一コリント13:12]に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあります。
私たちが天国の三天層以上に入れば、父の御顔も主の御顔も、直接拝することができます。[黙示録21:3-4]にも、神が直接私たちとともにおられ、私たちの神になられ、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるとあります。ただし心のきよい者、すなわち、聖められたまことの子どもになった時に、父なる神の御顔を拝することができるのです。また、すべての人と平和を追い求めた人が主を見ることができます。
エノクはこれらの条件をあふれるまで備えました。それで、この地上でも神とともに歩めて、時には神の姿を見ることができたのです。
聖徒の皆さん、新約時代、すなわち、聖霊時代には、神が私たちとどのようにともに歩んでくださるでしょうか? 三位一体の神のうち、聖霊と主が分かれた霊としてともに歩んでくださることができます。
[ヨハネ14:17後半節]に「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」とあります。聖霊は私たちとともに住み、また私たちのうちにもおられます。[マルコ16:20]には「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。主の復活、昇天後、弟子たちが福音を伝える時に、主が霊でともにおられたということです。すると、みことばがまことであることを確かにするしるしが現れました。このように主がともにおられるなら、その証拠が確かに現れるのです。
ところで「主がともに歩んでくださる」時と、主がともにおられる時とでは、また違う次元のみわざが現れます。理解を助けるために、たとえで説明いたします。
警察の基本任務は国民を安全に守ることです。警察官はそれぞれ任されたとおり勤務をすることによって犯罪が予防できて、その結果、不法が盛んに行われなくなります。警察が存在すること自体で、国民は知らないうちに恵みを受けているのです。
これを「主がともにおられる人生」にたとえるなら、「主がともに歩まれる人生」とは、警察がいつも自分についていて、守ってくれることにたとえられます。この場合は、単に国民のひとりとして警察に守られる次元とは違って、特別に守られて助けられることができます。
ところで、一介の警察でない主がともに歩んでくださるなら、どうでしょうか? 悪い者が触れることもできません。すべてのことに栄える道に導かれることもできます。私たちの主は、主の御名を信じて、御霊によって新しく生まれた神の子どもとともにおられます。心にまだ真理に逆らうものがあっても、何としてでもみことばを守り行おうとする聖徒とは、ともにいてくださいます。また、恵みと愛を与えてくださるのです。
ただし、神のみこころを知っていながら、努力しないでみこころに任意に逆らって罪を犯す時は、ともにいてくださることができません。それは闇に属することだからです。神は光であり、主も光であるので、闇と光とは共存できないからです。闇のわざを打ち捨てて、悔い改めて光へと出てきてこそ、光である神と「ともに」いることができます。
また、罪を完全に捨てて聖められるなら、この時からは主とともに歩むようになります。御霊の歩みに深く入ってきた程度によって差はありますが、聖霊の声を聞いて働きかけられて、いつも聖霊に導かれて生きられるのです。ですから、すべてのことに栄える祝福をいただけるのです。
悪い者は触れることもできないだけでなく、何かの病気、病原菌も入ることができません。ひょっとして入ってきても、耐えられず離れてしまいます。罪を犯さないから、敵である悪魔・サタンは試練や患難をもたらすことができないのです。もし何かの試練がやって来ても、信仰をもって打ち勝つので、かえって神に栄光を帰すようになります。
御霊の歩みに深く入ってくるほど、祝福や栄える程度は変わってきます。全く聖なるものとされれば、また違う次元の祝福をいただき、神の大いなる栄光を現すことができます。したがって、皆さんもすみやかに御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされ、主とともに歩む人生になりますよう、主の御名によって祈ります。
愛する聖徒の皆さん、エノクも初めから神とともに歩める資格を持っていたのではありません。彼も他の人と同じように耕作の過程を経ました。本性にある罪の性質まで引き抜く訓練を受けたことを知らなければなりません。今からはエノクがどのように御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされたのか、大きく二つ説明します。
第一、エノクは善を積むことを楽しみました。
エノクには多くの兄弟がいました。本文[19節]に「エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。」とあります。その間エレデはエノクの他にも、息子と娘たちをたくさん生みました。
エノクは多くの兄弟の中で成長しましたが、その誰とも引っかかることがありませんでした。兄弟にいつも譲ったからです。他の兄弟よりもっと持とうとしなかったのです。他の人より認められよう、もっと愛されようとしませんでした。ただ自分のすることに最善を尽くしただけです。親にもっと愛されようとする心がないので、他の兄弟が愛されるのを見ても、おもしろくないと思わなかったのです。むしろ喜びました。
また、自分がもっと認められるために、他の兄弟を牽制することもなかったのです。欲や私的な感情もなかったので、すべての人との平和を追い求めていたのです。それで、主なる神を拝する資格を備えたのです。[ヘブル12:14]に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。
エノクは神のことばはもちろん、両親にも、真理にあっていつも聞き従いました。親が何か言うと、逆らう心自体がなかったのです。それで、自分の意見を振りかざしたり、主張したりしませんでした。親に言われたとおりに従いました。エノクはこのように善を追い求めて行い、善を積むことを楽しみしました。その結果、65歳から神とともに歩めるようになりました。
聖徒の皆さん、エノクが他の人より良い心を持って生まれたのは事実です。だからといって、エノクが善を積み続けなかったなら、神とともに歩む資格を得ることができなかったでしょう。ところが、エノクは他の誰よりも熱心に善を追い求めました。
人はそれぞれ生まれた時から心に持っている善の量が違います。また、それぞれの環境も、善の影響を受けやすい場合があるかと思えば、悪の影響を受けやすい場合もあります。それでも人には自由意志があります。善と悪をわきまえられる基本的な認知能力も持っています。
したがって、善を追い求めるのか、悪を追い求めるのかは、自分の意志にかかっているのです。比較的良い心が少なく生まれたとしても、善を追い求めて生きるなら、心に善が積まれるのです。反対に、もっと良い心を持って生まれたとしても、悪を追い求めて生きるなら、悪が心に積まれるのです。[マタイ12:35]に「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」とあるとおりです。「善」と「悪」は物質ではないけれど、積めば確かに積まれるのです。
霊の世界での計算はとても正確です。各人が積んだだけ積まれます。エノクが65歳から神とともに歩めるようになったのは、エノクが積んだ「全き善」の量が、その時ちょうど満たされたからです。
ヨセフが30歳でエジプトの統治者になったのも同じです。その前に奴隷として、また囚人として13年生きる間、着実に善を積んだ結果です。ヨセフはその時、善よりは悪を行いやすい環境に置かれていました。自分を奴隷に売ってしまった兄たちを恨んで、自分の身の上を嘆くこともできました。濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時も、捨て鉢になる状況でした。
どうしても囚人は、一般の人よりは対するのが難しいです。死にもの狂いになった人、恨みが骨にしみている人、荒々しい性質のとおり言葉を吐き出して、ズケズケと行動する人が多いです。ヨセフはこのような劣悪な環境でも、神を信じたので善を積んだのです。
すると[創世記39:21]に「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」とあります。その結果、監獄の長はヨセフに監獄にいるすべて囚人をゆだねました。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになったのです。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しませんでした。それは【主】がヨセフとともにおられることを、彼も感じたからです。
【主】はヨセフが何をしても、それを成功させてくださいました。ヨセフが置かれた環境は監獄であり、相手にする人は囚人でしたが、誠実に善を積み続けました。ついにヨセフの善が公義の基準を満たすと、神はエジプトのパロに夢で働かれました。その結果、ヨセフはエジプトの統治者になり、王の次になる権力を得ました。[ガラテヤ6:9]に「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあるとおりです。
したがって、聖徒の皆さんも、どんな状況でも悪に負けず、善をもって打ち勝ちますように。「良い倉から良い物を取り出し」とあります。一度善をもって悪に打ち勝つと、それだけ善が積まれて、善が積まれただけ霊的な力が強くなります。次には、悪に打ち勝ちやすくなるのです。それで結局、神が認められる善、さらに全き善を実践できる皆さんになりますように。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、きょうは「エノクが神とともに歩んだ。」というみことばの意味と、エノクが御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされた理由を説明しました。第一の理由は、善を積むことを楽しんだということでした。次の時間には、第二の理由とエノクが死を見ることのないように移された時の状況を伝えます。
神がエノクを用いて、私たちに与えられる教訓は何だと言いましたか? 「悪がなくて心の良い人を、神はまことに愛して、みもとに置きたいと思われる。」ということでした。聖徒の皆さんも、悪い人よりは良い人に会うとき、良いのではありませんか? また、思いが多くて頑固な人よりは、純粋でな柔和な人に会うほうが楽に思われるでしょう。まして聖なるお方、善と愛そのものである父なる神はどうでしょうか? エノクについてのメッセージを聞いて、聖徒の皆さんがさらに善なる美しい心を持ちますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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