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Title
黙示録講解(91)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 21:21-24
Date
2009-02-27
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
愛する聖徒の皆さん、この前は、新しいエルサレムの十二の土台石と十二の真珠門について調べました。天国を飾っている宝石や真珠、純金などの材料は、それぞれ霊的な意味を持っている、と言いました。
たとえば、誰かの家が「赤めのう」で飾られているなら、これは、単にその光と色が美しいからではありません。その天国の家の主人が、この地上で耕作を受ける間に作り上げた、赤めのうのような心を表すためです。それで、この宝石が飾られていること自体が、すでにその家の主人にとって大きい慰めと栄光になるのです。
宝石だけに意味が込められているのではありません。天国の小さい花びら一つ、草の葉一枚にも、神様はそれなりの意味を細やかに込められました。私たちがこの地上で息をして生きてきた一日一日と、その中で父なる神様の前にささげられたすべての思いと心、言葉と行ないの結果として、天国が作られているのです。
それで、新しいエルサレムは、人間耕作を通して神様が願われた全き実を得たことの証拠になります。すなわち、その都の土台石である十二の宝石は、都に入った神の子どもたちの心が、宝石のように美しいという証しです。真珠からできている門は、その門をくぐる子どもたちが、真珠のような忍耐の心を耕した証しになります。
それぞれの人が入る家の規模と飾りは、その人が神様をどのように愛して、どんな信仰で栄光を帰したのかを見せてくれます。このように天国が公義に従って作られているので、その中で生きていく一日一日にもっと意味があって、感動的なのです。
続く[21節の後半節]に「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。
この地上の道にもさまざまな種類があります。アスファルトの道もあって、ブロックや芝が敷かれた道もあって、ただの土でできている道もあります。
新しいエルサレムの道もさまざまです。宝石がブロックのように敷かれた道もあって、かぐわしい花がまるでじゅうたんのように、ふんわりと敷かれた道もあります。
しかし、新しいエルサレムで道の最も基本的な材料は純金です。その純金の道が「透き通ったガラスのようだ」とは、新しいエルサレムに入った人々の心を表しています。心がきよい人、すなわち、聖められた人が、その道を歩くようになるのです。聖徒が澄んだきよい心になるほど、ますます高い次元の天国を攻めて行くことができます。
また、この道を作っている「純金」は、霊的に「望み」を表します。聖徒はこの地上で生きる毎瞬、信仰の勇敢な戦いをしています。新しいエルサレムだけに望みを置いた人は、どんな信仰の挑戦にあっても、その望みがあるので、すべての戦いに勝ち抜きます。
このように、ただ天国の望みを持って、しみもない、澄んだきよい心を耕してこそ、新しいエルサレムに入れます。この地上でいのちの道を歩んできた人でこそ、新しいエルサレムの純金の道を歩むことができるのです。
[ヨハネ14:6]に「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」とあります。
真理そのものであり、ことばが人となってこの地上に来られたイエス様は、私たちにとっていのちの道になってくださいました。イエス・キリストを救い主として受け入れて、みことばどおり変えられてはじめて、その人はいのちの道を歩むのです。そして、将来天国に行って純金の道を歩くと、過ぎ去った人生の旅程を思い出すのです。「私がまことのものに望みを持って、正しい道に従ったので、ついにこの道を歩くようになったんだなあ」と、純金の道を歩くたびに感動するのです。
[22節]に「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」とあります。
使徒ヨハネが新しいエルサレムに入ったとき、最も知りたいのは神殿でした。「城壁だけでもこのように華麗で美しいのに、都の神殿はどれほど美しいだろうか」と期待して、探してみたのです。
ところが、意外にも神殿はどこにも見えませんでした。人の思いではよく理解できないかもしれません。肉の世で人が耕作を受ける時は、神様に会うために神の宮、すなわち、聖殿に行きます。もちろん、霊である神様は聖殿の中にだけおられるのではなく、この世のどこにでもおられます。
また、[第一コリント3:16]には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあります。主を受け入れた神の子どもたちには、聖霊様が臨まれるので、私たちの心が神殿になるということです。
このように、私たちの心にも聖霊様がおられて、神様は世のどこにでもおられるといっても、どうしても肉の世界にいる人には、目に見えて感じられる神殿が必要です。見えない神様に会うために、ある場所を神様が臨む神殿として聖別したいと願うのです。
それで、神様は旧約時代には、幕屋や神殿に主の箱を置いて、神様を拝んでいけにえをささげるようにされました。ところが、イエス様が来られて、愛で律法を全うされた後に、旧約の神殿は異邦人により破壊されました。
主の箱を置かれた神殿は影で、ことばそのものであるイエス様は本体であります。[ヨハネ2:21]に「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」とあり、イエス様のからだを「神殿」と言っています。ことばそのもの、神の御姿であるイエス様が来られたので、影である神殿は破壊されることを、神様が許されたのです。こういう事実が悟れないために、いまだにイスラエルの民は、旧約の神殿をまた建てるために嘆きの壁で祈っています。
ところが、イエス様が律法を全うされた後も、相変わらず目に見える神殿は必要です。人は神殿、すなわち、教会に出て来て、みことばを聞いて神様に会って、神のみわざを体験します。
しかし、天国では私たちが神様に会うために、どこか場所を決めておく必要がありません。新しいエルサレムでは、神様に直接お目にかかれるし、小羊であるイエス・キリストにも直接お目にかかれます。
また、天国では、どこに行っても神の栄光が満ちています。父なる神様と主の心は、天国という空間全体をいだいておられます。ですから、別の神殿がいらないし、神様が、また小羊が、神殿になられるのです。
新しいエルサレムに神殿がないもう一つの理由は、これ以上贖いのいけにえがいらないからです。旧約時代には、神殿に行って、贖いのいけにえをささげることがとても大切でした。しかし、新しいエルサレムに入った人は、すでに父なる神様の心に似せられて、全き善を耕した人です。これ以上律法の形式に縛られる必要がなくて、贖いのいけにえもいりません。すなわち、新しいエルサレムに神殿がいらない、ということは、この都に入って生きる人の心が、罪の赦しが必要な心でなく、真理だけで満たされている心だと、知らせてくれるのです。
新しいエルサレムでなく、他の天国の場所の聖徒も同じです。この地上で完全に聖められなかったとしても、天国に来る時は真理の心だけを持ってきたので、彼らもこれ以上罪の赦しを受ける必要がないのです。
ところで、きょうのメッセージを聞かれる方のうち、以前の大聖殿についての説教を思い出して、ひょっとしておかしいと思う方がいるでしょうか? この地上で大聖殿を建築して、神様に大いに栄光を帰したら、その聖殿は将来、天国にも建てられてあると言いました。「新しいエルサレムには神殿がない」と言いました。それなら、どのようにして大聖殿があるかということです。
しかし、誤解されることはありません。新しいエルサレムに大聖殿がある理由は、礼拝するために神殿がどうしても必要だからではありません。もちろん、天国の大聖殿の中でも、皆さんが集まって礼拝をささげることはできます。しかし、その中で礼拝をささげることがおもな目的でなくて、天国の大聖殿は、一種の記念碑的なものです。この地上で、この大聖殿によって神様に栄光を帰したことを記念するために、そのまま再現した建物です。イエス様がこの地上で働かれた時のガリラヤ湖やゴルゴタの丘が、天国に再現されているのと同じです。
ところで、参考までに、私たちが礼拝をささげるこの教会は、単に一つの建物でなく、神様が臨在される所です。主の御名によって聖別された場所です。したがって、信仰がある方ならば、教会に来る時は最もきよい姿で、敬虔な心で来るでしょう。神様の前に進み出る心で聖殿に来るのです。
したがって、聖殿の中ではただみことばと祈り、賛美と証しなど、神に栄光を帰すことだけをしなければなりません。教会で世の冗談や雑談、下品な行ないをしてはいけません。世の事業や取り引きをしてもなりません。
また、親の皆さんは、小さい子どもがひょっとしてでも聖殿の中で悪い言葉を使ったり、悪い行ないをしたりしないように注意して、見守らなければなりません。礼拝室の中ではさらに言動を注意しなければなりませんが、教会の庭や食堂のような場所も、聖殿であることを覚えられますように。聖殿を大切に思わないで、その中でふさわしくないことを行なえば、これはすなわち、神様の前に礼儀に反することを行なうことであり、敵である悪魔・サタンに訴えられることがあるのです。
[23節]に「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」とあります。
聖徒の皆さん、神様がこの地上に太陽と月を置かれたのは、人間耕作のために必要だからです。この地上には昼と夜があって、光と闇が交代に現われます。こういうことによって、神様は人が善悪を知って、霊と肉を悟るようにされるのです。
神様は創造主であるので、善と悪、肉と霊のすべてを明らかにご存じです。悪は少しもない善そのものであるけれど、悪の属性についてもとても明らかに知っておられ、完全な霊でありながら、朽ちて変わってしまう肉の属性もみな知っておられます。
しかし、被造物である人は、悪と肉について、直接体験しなければわかりません。病気になってはじめて健康の大切さがわかります。貧しさの苦しみを味わってはじめて、豊かであることを心から感謝するようになります。同じように、肉を体験してこそ霊がどれほど良いのかわかります。悪を体験してこそ、善がどれほど良いのかわかります。
悪を全く体験しなかった、エデンの園でのアダムの人生は不完全なものでした。苦しみや不幸を知らないために、いくら良い環境でも、幸せが感じられなかったのです。それで、神様はアダムが相対性を体験するように、善悪の知識の木を置かれました。
霊の生きていたアダムが善悪の知識の木の実を取って食べたので、肉の人に変わってしまい、耕作を受けるようになったのです。この地上で罪による苦しみと、朽ちる肉のことを体験するようになりました。それで、神様の中にとどまることがどれほど良くて、神様が施された愛と恵みがどれほど尊いものなのか、切々と感じられました。
ところが、このように肉を体験するだけで終わるなら、何の役にも立ちません。肉がどれほどむなしいか悟ったら、その次は、罪と悪から抜け出て、霊へと帰らなければなりません。そうしないなら、ずっと肉にとどまっていて、結局は永遠の死、すなわち、地獄の火へと向かうしかありません。
しかし、人は自分の力では闇から抜け出ることができなかったのです。神様はこれを知っておられたので、すでに救いの道を備えておられました。すなわち、ひとり子イエス・キリストを備えて、時になると、世に遣わされたのです。
主を信じて受け入れて、光の中を歩む人は、将来、光の空間である天国で永遠に生きます。天国には闇そのものがないので、太陽、月、星のようなものがいりません。神の栄光の光が天国全体を満ちているからです。
[23節後半節]に「というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」とあります。「小羊」とは、イエス・キリストのことです。これは、イエス・キリストによって神の栄光が現れる、という意味です。
人にできないこと、不可能だと思われたことが、神の力でできたとき、これが神様にとって栄光になります。神様は初めに、何もない無からことばで天地万物を造られました。ところで、この時も、[ヨハネ1:3]を見ると「すべてのものは、この方(つまり、イエス・キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。神様が「イエス・キリストによって」天地創造をなされた、という意味です。
人間を創造される時も、主とともに創造されて、人間耕作と救いの摂理も、主とともに成し遂げられました。何よりも、人となってこの地上に来られて、私たちに救いの道を開いてくださったのも、まさにイエス様だったのです。
このように、主によって私たちが造られて、主によって救いの道が開かれて、天国に入れるようになりました。また、神と私たちの間を隔てていた罪の壁を壊してくださるので、信仰のとおり答えられるようにされたのも、イエス・キリスト、私たちの主です。それで、神様に感謝と栄光を帰す時も、私たちは主の御名によってするのです。
このように、イエス・キリストなしでは私たちには救いも、答えも、祝福もないし、神様にどんな栄光も帰せないのです。それで、都のあかりが、小羊イエス・キリストなのです。
[24節]に「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」とあります。ここで「諸国」とは、天国のことではなく、この地上のことです。天国では、国や民族、人種にこだわりません。イエス・キリストによって救われたなら、どこの国、どの民族であろうが、黒人や白人であろうが、みなが神の子どもです。このように世界の諸国から救われたすべての魂が天国に入れば、神の栄光の光によって歩みます。
その中でも「地の王たち」とは、この地上で耕されている間、霊的に聖徒のかしらだった人のことです。聖徒のかしらならば、牧師、長老、勧士、このように重要な務めを受けた方でしょうか? 必ずしもそうではありません。肉の務めが重要なのでなく、霊の資格を備えなければなりません。
[マタイ18:18]に「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」とあります。
それで、人はこの地上で教会の重要な務めを引き受けたら、将来天国でも偉い者になるだろうと思います。もちろん、この地上でも重要な務めを受けて、それにふさわしく忠実に働いて天国に行けば、天国でも偉い者になれます。しかし、この地上で高い務めを受けたからといって、神の前にも全部認められるのではありません。地上でつなぐと言っても、真理にふさわしくつないでこそ、天国においてもつながれるのです。
たとえば、ある人が長老として按手を受けるとき、本当に長老にふさわしければ、主もその時にともに按手されます。霊の目が開かれて見ると、彼が按手を受けて長老として印を押される瞬間、主の御手がともに按手されるのが見られます。しかし、ふさわしくなければ、主がともに按手されません。
ですから、いくら重要な務めを受けても、その心が聖潔とはかけ離れて、務めにふさわしい資格を備えなかったなら、天国ではかしらの栄光を受けることはできません。かえって、務めが高かったのに霊の序列が低いので、もっと恥をかくようになります。それで、[ヤコブ3:1]には「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」とあるのです。
しかし、十二の土台石のように美しい心を耕した人は、自らなろうとしなくても、ほかの人々にかしらとして認められます。神の前でも尊い者、地の王たちと認められるのです。このような尊い人々が神の前に出て行く時は、何も持たずに行くのではなく、心を込めてささげ物を用意して行きます。
昔、大帝国の皇帝が誕生日を迎えると、諸国の王たちが珍しいささげ物を用意して、皇帝の前に進んで行きました。自分の国で最も良い産物や珍しい宝を精一杯用意して、王に喜ばれようとするのです。
ところが、地の王たちが神様に喜ばれようとささげる物は、まさに「栄光」です。本文に「地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」とあります。彼らがこの地上で耕されている間、信仰で神様に栄光を帰したことがあります。このように栄光を帰した行跡が全部、各自が神様にささげる物なのです。
たとえばダニエルは、祈りを休む罪を犯さないようと、飢えた獅子の穴に投げ込まれるほうを選びました。しかし、神様が守ってくださったので、何の傷もなく、獅子の穴から救い出されました。一方、ダニエルを謀略して殺そうとした人々を獅子の穴に投げ込むと、飢えた獅子が彼らの骨をことごとくかみ砕いてしまったのです。これを見た王は、全土に命令して、神様に栄光を帰すようになったのです。
このように大いに栄光を帰した出来事が、まさにダニエルが神様にささげる物になります。もちろんこれ以外にも、ダニエルの人生で神様に栄光を帰したことがもっとあったでしょう。このように栄光を帰したことを携えていくと、神様は喜んで楽しまれ、天国の民の前でもその人をほめて認められるのです。すると、天国の民もみんなともに喜んで、それほど栄光を帰した人をほめたたえます。
結論
愛する聖徒の皆さん、天国では永遠に生きますが、いくら永い歳月が流れても、この地上で耕された日々を忘れるのではありません。天国を作っているすべての要素が結局、各自が耕された歳月から出た結晶体であり、記念物のようだからです。真珠門をくぐる時は「私がどんな忍耐の歳月を経て、この尊い天国に入ってきたのだろうか。」純金の道を歩く時は「私がどんな信仰の道を歩んできたのか」を思い出すのです。皆さんの家にある一本一本の草と木と花、家を作る材料と飾り、家具、すべてが同じです。家の中には、壁画のような絵、彫刻などで、その主人の行跡を記すこともあります。
このように天国のあちこちに過ぎ去った信仰の旅程が込められているのですから、どうして耕作の歳月が忘れられるでしょうか? むしろ年月が経つほど、耕作の日々によく勝ち抜いて天国に入って来たという感動と感謝がもっと濃くなります。そして、時に応じて神様の前に出て行く時は、それぞれが神様に栄光を帰したことによって賞賛と誉れを得るので、もっと幸せを感じるのです。
愛する聖徒の皆さんは、将来どんな栄光を持って神様の前に進み出るのでしょうか? 「私はこのように信仰を守って、神様の前に栄光を帰しながら生きました」と、神様にささげる物がよく備えられているでしょうか?
皆さんすべてが、大規模なハンカチ集会の講師になってはじめて、栄光が帰せるのではありません。あるいは、大聖殿の建築委員長にならなければならないのでもありません。神様は、大きいことは大きいこととして、小さいことは小さいこととして、それぞれの人が栄光を帰すことを喜ばれます。
皆さんに与えられた時間を無駄にせずに、毎日最善を尽くして生きていかれますように。すみやかに聖められて、ゆだねられた使命に完全に忠実な者となり、皆さんの毎瞬が尊いささげ物のように、神様に受け入れられますように。それで「良い忠実な息子、娘だ」とほめられて、将来、神様の御座の近くにとどまられますよう、主の御名によって祝福して祈ります。"
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