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Title
黙示録講解(83)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 20:7-11
Date
2008-11-21
黙示録20:7-11
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
愛する聖徒の皆さん、千年王国の間、この地上ではまるで絵のような暮らしが続きます。初めはいくらにもならない数でしたが、美しい環境で平安に生きながら、悲惨な七年患難のこともだんだん忘れるようになります。
人口が増えて地に満ちているけれど、争ったり苦しみを与えたりすることはなく、生活が苦しくて悩むこともありません。獅子と小羊がともに走り遊ぶ世で、乏しいこともなく平安に生きるのです。
ところが、このように平安に暮らしていた人々が、千年が過ぎてサタンが底知れぬ所からしばらく解き放されれば、一瞬にして惑わされるようになります。その前までは与えられた人生に不満がなかったのに、今は高ぶりとそねみ、嫉妬、憎しみ、憤りなどの悪い思いと感情が揺れ動きます。これ以上霊の人々に仕えたくなくなり、自分たちも仕えられたいと願うのです。霊の人々が輝く都で尊敬されて生きているように、自分も良いものを味わいたくなるのです。
このように先に惑わされた人々は、まず自分の周りの人々につぶやいて、さらに惑わしていきます。家族と友だち、隣人に悪い思いを伝えて、その勢力を集め、彼らはあっという間に大きい群れを作ります。まるで伝染力の強い病気に感染するように、人々は急速に悪い思いに染まっていきます。電話や電波を使って連絡することはできないけれど、馬と馬車を使って連絡するだけでも、世界の不満勢力が瞬く間に連合するのです。
このようにして多くの人々が連合した組織を、本文<8節>で「ゴグとマゴグ」と表現しました。「ゴグ」と「マゴグ」という言葉は、<エゼキエル38章>にもありますが、きょうの本文では、それとは違う意味です。
<エゼキエル書>の内容は、これから具体的に説明する時があるでしょう。本文では霊的な意味だと、理解されればよろしいです。すなわち、肉の人々が連合して作った組織、団体だと覚えるくらいでよいのです。
千年王国が進み、人口が多くなれば、この人たちもそれなりに組織を作ります。七年患難中に生き残った肉の人々は、すでに文明と組織社会を経験した人です。彼らが子孫に組織に関して教えるので、千年王国の間も、この地上の人々は簡単に秩序と組織を立てます。
もちろん主と霊の人々が治めているので、かしらの肉の人々が何かの独裁体制を作ったりするのではありません。肉の人々の中でも規律と秩序によって統制される組織ができて、その中でもかしらがいるだけです。同じ環境でも、肉の人々にはそれぞれ気質の差があります。体力や知恵、才能、性分などが違います。その中でも飛び抜けた人々がかしらに立てられるのです。
敵である悪魔・サタンが解き放されると、このかしらから惑わします。彼らをまず惑わしたほうが、影響力も大きくて、その波及効果も確かだからです。このように悪い思いを受け入れた人々は、家族に、民族に、大陸に、結局全世界にと広がります。「彼らの数は海べの砂のようである。」と書いてあるので、結果的に非常に多くの人々が惑わされたことがわかります。
もちろん、肉の人々みなが惑わされたのではありません。肉の人々の中でも、霊の人々の教えを覚えて、悪い人々に同調しない人もいます。しかし、思ったより多くの人々、すなわち半数以上の人々が惑わされて、結局神様に立ち向かうようになります。
<9節>に「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ」とあるとおりです。「愛された都」とは、霊の人々が住むところです。「聖徒たちの陣営」の「聖徒たち」とは、肉の人々の中で惑わされずに、信仰を守る人々のことです。サタンに惑わされた肉の人々は、霊の人々をはじめ、自分たちに同調しない肉の人々まで攻撃しようとするのです。
彼らが都を攻撃するからといって、霊の人々が彼らに立ち向かって戦うのではありません。数多くの肉の人々が上って来て、都を取り囲んで攻撃しようとする危機の瞬間、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くしてしまいます。直ちに神様のさばきが臨むのです。
火でさばかれた肉の人々は、地獄に落ちて、彼らを惑わした敵である悪魔・サタンも、再び底知れぬ所に閉じ込められるようになります。敵である悪魔・サタンは、二度と出て来ることができなくて、永遠に底知れぬ所に閉じ込められるのです。
この中でも、裏切らずに信仰を守った肉の人々は救われます。ただし、ふつうの人間耕作を受けたのではないので、すばらしい天国には入れなくて、パラダイスの端にとどまるのです。
ところで、<10節>に、ちょっとおかしいところがあります。「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」とあります。
火の池、硫黄の池とは、救われなかった罪人が行く所です。悪魔は人ではなく悪い霊なので、火と硫黄の池でなく底知れぬ所に落ちる、と説明しました。ところが、なぜ本文には「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」とあるのでしょうか?
ここで「悪魔」とは、実際の悪魔を指すのではなく、惑わされた肉の人々の中でも、悪魔のしわざを直接受けて、主導して裏切るように仕向けた人々のことです。悪魔に完全に捕われて、悪魔のわざを行なった人々なのです。
人がサタンのしわざを受け入れると、悪い思いをするようになり、悪魔のしわざを受け入れると、その悪い思いが悪い行ないにまで現れる、と言いました。ところで、単に悪魔のしわざを受けることと、悪魔に完全に支配されてしまうことには、程度の差があります。
たびたび、世では「人間にどうしてあんな悪いことができるだろうか?」というほど、理解できないことがあります。人の道理にもはずれて、良心が少しでもあるならば行えない罪を犯すのです。このようなことを見ると、世の人々も「悪魔のしわざ」という表現を使ったりします。
このような悪は、まさに悪魔が彼らを引きつけて、自分の思いのままに操るから起こることです。悪を行なう人は、自分の意志で行なっている、と思うでしょうが、実際は、悪魔が完全に支配しているのです。それで、悪魔が直接行なっているかのように、醜悪な罪を犯すのです。
千年王国の時も、先立って裏切るように主導する肉の人々が、まさにこのように悪魔のしわざを直接受けるのです。このように、悪魔に直接操られた人々が火でさばかれて、火と硫黄の池に投げ込まれたことを、本文では「悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」と表現しているのです。こうして千年王国が終わったら、大きくて白い御座の前で本格的な最後の大審判が始まります。
聖徒の皆さん、霊の人々は、千年王国が始まる時から、肉の人々に幾度も教えて頼みます。「千年間は平和に生きるけれど、時になると、敵である悪魔・サタンが解き放される。その時、絶対に惑わされたらいけない。敵である悪魔・サタンに惑わされるなら、恐ろしい地獄に落ちる。最後まで神様を崇めて、主に仕えなければならない。」このように何度も教えます。
また、肉の人々の中でも、一部は以前に人間耕作と七年患難の惨状を体験して、千年王国がどれほど良いのか、よく知っています。主が治める国、悪のない世界がどれほど幸せなのかわかります。また、直接、七年患難を体験しなかった子孫も、主と霊の人々を見て、千年王国の平安を味わいました。神様のみことばがすべてまことであることも知っています。ですから、霊の人から教わる時は、心に留めようと、惑わされないようにと、決心します。
それにもかかわらず、どうして半分を超える人々が惑わされて、裏切るのでしょうか? まるで、正解をあらかじめ教えてもらって試験を受けたのに、落第するようなものです。
皆さんの中には「本当に理解できない。私なら絶対惑わされないだろうに」と思う方もいるでしょう。また「神様がこれで耕作を終えればいいのに、あえてさばきの前に千年王国を作って、多くの人々が滅びに向くようにされるのだろうか」と疑問を持つこともありえます。
しかし、神様が何かを成し遂げられる時は、意味もなく行なわれることはありません。必ず公義と愛をもって、みこころと摂理を、一つ一つ織り上げていかれます。
それでは、一番目の質問からお答えしましょう。肉の人々は、あれほど真理を見聞きしたのに、なぜサタンに惑わされたでしょうか?
これを理解するために、アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べる過程を、一度考えてみられますように。多くの人々は、アダムが善悪の知識の木の実を取って食べたことがよく理解できません。「あんなに良い環境で幸せに生きながら、どうして善悪の知識の木の実を取って食べたのだろうか? 私なら、絶対そうしなかっただろうに」と言います。
何も乏しいことがなかったのに、サタンに操られた蛇が惑わすと、アダムとエバはそれを受け入れます。蛇は、善悪の知識の木の実を取って食べれば、死ぬのではなく、神様のようになるだろうと惑わしました。これに心が引かれると、神様の警告を無視するようになり、善悪の知識の木の実がまことに食べるのに良く見えたのです。
アダムとエバの息子カインも同じです。アダムが子どもたちに、自分が知っていることをどれほど詳しく教えたでしょうか? 「私が神様のみこころに聞き従わなかったので、このように肉の人になってしまった。悲しみと苦しみ、死がある人生になった。あなたたちは必ず神様のみこころに聞き従わなければならない。」このように頼みます。また「神様が受けられるいけにえは、血のいけにえなので、必ず動物をほふって、血のいけにえをささげなさい」と教えたでしょう。
それでもカインは聞かないで、自分の思いのままに地の作物をささげました。そのいけにえに神様が目を留められないと、立ち返ったのではなく、むしろ不満を抱きます。神様はこの時も憐れんでくださり、その心が悪いと悟らせて、みこころのとおり行なうように勧められます。それでもカインは、相変わらずそこから立ち返らなく、かえって神様に愛される弟をそねんで、殺してしまいます。
今日、神様を信じているという聖徒の中にも、このカインのように行なう人がたくさんいます。肉のいけにえをささげながら、つまり、真理をいくら聞いても行なわないで、「どうして神様が答えてくださらないんだろうか? どうして私にはこんなに祝福がないんだろうか?」と恨みます。神様のみわざを体験して、自分なりに熱心に信仰生活をしているといっていた人々も、決定的な瞬間には真理から外れたりします。
たとえば、職場で試みがやって来ます。職場でたった一度だけ偶像の前にお辞儀をするなら、昇進もできるし、たくさんボーナスももらえるのに、お辞儀をしなくて、社長に嫌われて、職場から追い出されることもあります。
その時、「私はいくらつらくても、神様の前で罪を犯すことはできない」と言われるでしょうか? そのような方もいるけれど「神様、首になれば、この歳で就職する所もなくて、家族はどうなるでしょうか? 私が偶像を拝むのではなくて、お辞儀をたった一回だけします。その代わり、ボーナスをもらえば献金もたくさんして、施しもしますので、わかってください。」こういう場合もあります。結局、カインのように肉のいけにえをささげるのです。
また、イスカリオテ・ユダはどうだったでしょうか? ユダはイエス様の弟子に召されて、いつも真理を聞いて学びました。イエス様が死んだ者を生き返らせることも見て、水の上を歩かれるのも見ました。それでも結局、サタンの誘惑を受け入れると、イエス様を裏切って売り渡したのです。
千年王国の時も同じです。いくら真理を聞いても聞いても、自ら心を守らないでサタンの誘惑を受け入れるなら、こうなります。その前まではおとなしい羊のように生きていた人々も、あっという間に神様に立ち向かって悪を行なうのです。
次は、千年王国についての二番目の質問です。なぜ神様は、あえてこの終わりの地点に千年王国をつくられたのでしょうか? 人間耕作が終わったから直ちにさばきをなさればよいのに、千年王国が間にある理由は何でしょうか?
それは、耕作を終える時点で、神様が人間を耕作されるしかなかった理由を、もう一度確認させてくださるためです。もちろん、六日間創造して一日を安息されたように、六千年の耕作を終えて、千年間安息されるという意味もあります。また、私たちが耕作を受けた地球に未練が残らないように、隈なく回るようにさせる意味もあります。これとともに、この千年王国に含まれた重要な摂理は、まことの子どもを得るためには、相対性を体験する人間耕作がどうしても必要だということを悟らせるためでもあります。
人があることが良いと本当に感じて、自発的にそれを選ぶためには、相対的に良くないことを体験しなければなりません。すなわち、罪と悪がもたらす苦しみを体験してこそ、本当に善と真理が良いと悟って、自ら真理が選べるのです。
アダムはエデンの園で乏しいことがありませんでした。しかし、自分が受けているすべてが、どれほど幸せで感謝なのかわかりませんでした。自分が学んだ真理の知識がどれほど価値あるものなのかも、悟れなかったのです。苦しみや悲しみ、罪と死を体験することがなく、不幸を感じたことがなかったからです。もちろん、知識としては聞いて知っているけれど、心深く悟れなかったのです。良いものだけを下さった神様に、心から愛と感謝をささげることもできませんでした。それで、乏しいことがなくても、自由意志によって神様のみことばから外れて、善悪の知識の木の実を取って食べたのです。
千年王国の肉の人々も同じです。千年間、数えきれないほど教わってきても、実際にサタンが惑わすと、自由意志によってそれを受け入れる人々が出て来るのです。これは千年間、どんな苦しみも体験しなかったし、死の恐ろしさも心に届かなかったからです。
自由意志とは、まさにこのようなものです。善を選ぶことも、悪を選ぶこともできます。心から本当に善が良いと悟ったなら、絶対に悪を選ぶはずがありません。しかし、悪がどれほど苦痛をもたらすものなのかわからないなら、蛇に惑わされたエバのように、もっともらしい誘惑を受ける時に揺れて、悪を選ぶこともあるのです。
ですから、心から善を選んで神様を愛するまことの子どもになるためには、必ず相対性を経験しなければなりません。それで人間耕作が必要だったし、人間耕作のためには、敵である悪魔・サタンも、地獄も必要なのです。
それでは、ここから三番目の質問が出て来ます。「同じように自由意志を与えても、ある人は善を選んで信仰を守るけれど、ある人は悪を選んで滅びに向かいます。それなら、全知全能の神様、愛の神様が、良い人だけを造られたらよかったのに、どうして裏切る殻のような人を造られたのですか?」このような質問をする人がいます。悪い人を造らないで、良い人だけを造ればよかったのでは・・・ということです。
しかし、良い人になるのも、悪い人になるのも、神様がそのように造られたのではなく、徹底的にその人自身の選択です。
たとえてみましょう。農夫が耕作をする時は、良い種を蒔きます。すべての種に精一杯肥料と水をやって、雑草を抜いてやります。ところが、同じ種から育った実の中には、中身がぎっしり詰まった実だけでなく、空っぽの殻も出て来ます。これは、農夫が殻を作ったのでなく、耕作の結果として出て来たものです。殻を一つも作らないためには、耕作をしなければよいのです。しかし、耕作をしなければ、実も得ることができません。
同じように、神様はまことの子どもを得るために人間耕作を行ない、人に相対性を体験させられます。そして、人に自由意志を下さっただけでなく、数え切れない証拠を見せて、善と悪のうち、どちらを選ぶべきかを教えてくださいます。宇宙と天下万物を見ても、創造主が悟れるようにされます。私たちに聖書を下さり、預言者と神のしもべを遣わし、不思議としるしによって神様の生きておられることを現しておられます。
しかし、神様がいくら多くの証拠を見せて、いくら切に願われても、結局、選択はそれぞれの人にかかっています。自由意志によって真理を選んだ人は、救われて永遠のいのちと天国を得るようになります。しかし、その自由意志によって悪を選ぶなら、「罪から来る報酬は死」という公義の法によって地獄に行かなければならないのです。
仮に神様が人の自由意志を調整して、無条件に善を選ぶように造られるなら、悪を選んで地獄に行く人はいないでしょう。それでは神様が願われるまことの子どももいなかったでしょう。また、善だけを選ぶようにするなら、すでにすべてに聞き従う天使が無数にいるのですから、あえて人間耕作をする必要もなかったでしょう。
しかし、子を生んで育てる親なら、いつもよく言うことを聞くロボットがいるからといって、自分の子はいらない、とは言えないはずです。ロボットがいくら精巧に人の形に作られて、人のように行なっても、本当の子とは違います。
また、幼い子がああしても「はい」、こうしても「はい」このように、自分の意志はなくて親に「はい」ばかり言うなら、何かおかしいでしょう。いい子だとほめられるのではなく、むしろ何かちょっと足りないように見えるかもしれません。
子どもには自由意志があるので、ロボットのように言うことを聞くだけではなく、時々問題も起こします。自分の思いに合わないと、聞き従わない時もあります。しかし、物心がついて、親の恵みを悟って心より愛するようになれば、ロボットと比べられない慰めと喜びを親に与えます。もちろん、親に苦しみだけを与える子もいるけれど、親が子を生んで育てる時は、優しくよく育ってほしいと望んで育てるのです。
神様も、このように愛を分かち合うためにまことの子どもを願われたのです。それで、自由意志を与えてくださいました。自由意志があれば、善と悪が選べるので、やむを得ずその中からは、悪を選ぶ殻も出て来るしかありません。
神様は、千年王国で、私たちにこのように人間耕作に含まれたさまざまな意味を悟らせてくださいます。皆さんが本当にこのような摂理を理解するなら、<ローマ11:33>のように、自ずから感嘆が出るでしょう。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
まことの子どもを得るために、すべてを世界の始まる前から備えられて、人間を耕作され、最後の瞬間まですべてを完ぺきに配置して成し遂げていかれる神様なのです。
結論
愛する聖徒の皆さん、本教会が開拓してから26年間、皆さんは数え切れない神の力を見聞きして体験してきました。また、耕作を受けた時間を通して、肉がどれほど無益なものであり、悪がどれほど人を苦しめるのか、それなりにわかっています。それで、神様を信じるだけでなく、聖められたいと願って、天国、新しいエルサレムに向かって熱心に走っているのです。このようなことがわかって信仰生活をしている皆さんは、どれほど幸いでしょうか?
しかし、その信仰の実を完全に結ぶためには、皆さんが本当に決断しなければなりません。罪の性質をおおって隠しておくのではなく、発見して心から脱ぎ捨てなければなりません。千年王国の間、平和に暮らしてきた人々も、心の罪の性質を捨てたのではなかったので、敵である悪魔サタンに働きかけられると、悪が現れます。このように、ある人は神様のみわざを体験して信仰生活に熱心だったのに、ある瞬間、惑わされると、つまずくのです。心の根の根から罪の性質を脱ぎ捨ててこそ、どんな状況でも神様の前に信実になり、悪の道に陥らないのです。
主が私たちを連れに来られる前、まだ機会がある時に、こまめに心を聖められますように。それで、主を迎えるその瞬間、皆さんは「私は本当に悔いのない耕作の時間を過ごしました」と告白できるよう、お願いします。それで将来、七年婚宴と千年王国、そして永遠の天国を迎えるとき、最も栄えある座に至られますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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