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Title
黙示録講解(80)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 20:1-6
Date
2008-10-31
黙示録20:1-6
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
愛する聖徒の皆さん、主が空中に現れると、空中では七年婚宴が始まり、この地上では七年患難という悪夢のような時間が始まります。戦争と飢謹、深刻な自然災害と環境汚染などで、人が生きられないほどの環境になります。
そのような状況でも、反キリストの勢力は懐柔と迫害で世を掌握しますが、その権勢も時が来るとついに終わります。王の王である主が空中からこの地上に下って来られて、反キリストの勢力をさばかれるのです。かしらだった獣とにせ預言者は、生きたままで硫黄の池に投げ込まれて、彼らに従った者たちは、互いに殺し合うようになります。
これからこの地上には、千年間、主が聖徒とともに治められる平和の国が始まるのです。これがまさに千年王国です。
「ヨハネの黙示録講解」を始めてから、この千年王国のメッセージを期待していた方がたくさんおられるでしょう。実際、[19章]までは、とても重くて、新しいエルサレムを慕い求めて走って行く聖徒とは、直接関わりのない内容です。信じられない人々、信じていると言いながら世と友になる人々を戒めるための、恐ろしいみことばです。
しかし[20章]から出て来る千年王国と、白い御座の大審判、そして天国、新しいエルサレムのみことばは、神の子どもたちと直接関わる内容です。光と希望があふれるみことばでもあり、特に千年王国に関する内容は、まるで映画を見ているように興味津々です。
しかし、これは決して作り出した話ではありません。必ず私たちの目の前でそのままなされる事実を記しているみことばです。この時間、語られるすべてのメッセージが、皆さんの心に刻まれて、天国の望みがより加わりますように。
本論
愛する聖徒の皆さん、七年間、空中で婚宴が行なわれた後、主は数え切れない天の軍勢と御使い、そして、聖徒とともに、この地上に下って来られます。この地上で千年間、主ご自身が治められる平和の王国が始まるのです。これに先立ち、反キリストの中心勢力である獣やにせ預言者、そして、それにつき従った者たちは、この前語ったように、みな滅びるようになります。
そして、きょうの本文[20:1-3]に、御使いが竜を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込む場面が出て来ます。これは、この地上の闇を支配していたすべての悪い霊の勢力が縛られて、それ以上働くことができなくなる、という意味です。
底知れぬ所については、前に「地獄」や「創世記講解」の説教で説明しましたが、もう一度簡単に説明します。「底知れぬ所」とは、 霊の世界の中でも最も深い闇の場所のことです。主日の「地獄」の説教の時、天国と地獄の構造を向かい合った二つの三角形として説明したことを覚えておられるでしょう。上の三角形は一番下の「上のよみ」から一天層、二天層、三天層、新しいエルサレムの順です。上に行くほど、神様の御座に近い天国の空間を表しています。これと対称になる下の三角形は、霊的に闇に属する空間です。一番上の「下のよみ」から、火の池、硫黄の池の順に降りて来て、一番の下の空間が「底知れぬ所」です。下へ行けば行くほど、闇がだんだん深くて恐ろしい空間なのです。(もちろん、前にも言いましたが、この二つの三角形が天国と地獄の実際の形ではありません。単に、皆さんが理解しやすいように、このように絵で説明しています。)
下のよみと火の池、硫黄の池は、アダムの子孫のうち、救われなかった人々が、それぞれの罪に従って刑罰を受ける場所です。しかし、底知れぬ所は人のためではなく、ルシファーをはじめ、悪い霊どもの監獄です。ここではルシファーや悪い霊どもに何かの拷問が加えられるのではありません。それでも、その空間にいること自体が息の詰まるような圧迫感を与え、どんな地獄の刑罰よりも深刻な苦しみを感じます。その圧迫感は、何かで縛られていなくても、指先さえ動かすことができないほどです。
この世でも、高山地帯に行くと、気圧がとても低いので、からだがよじれるように苦しいそうです。この地上の気圧とは違うけれど、霊の世界では、それぞれ空間の密度が違います。地獄では、その密度が苦しみと感じられて、底知れぬ所ではその苦しみが最高潮に達します。ただ底知れぬ所に閉じ込められていることだけでも、地獄の火の池と硫黄の池の熱さより、さらに苦しむようになります。
この底知れぬ所に御使いが竜を縛って投げ込みます。この竜とは「悪魔」とか、「サタン」「古い蛇」と書いてあります。
竜は、世の人々が言っているように、想像の動物ではないことを、聖徒の皆さんはよく知っておられます。霊の世界に実際いる動物であり、ルシファーが神様に立ち向かう前、創造主の神様の御座を囲んでいた動物です。もともとは極めて美しい形で、長くてやわらかくて輝く毛を持っていて、黄金と宝石で装った華麗な動物でした。
ところが、ルシファーが裏切ったとき、竜もともに裏切って、ルシファーと底知れぬ所に閉じ込められてしまいました。それで、この底知れぬ所の中には、ルシファーとその配下の堕落した御使い、竜とその配下の動物が閉じ込められていました。
その後永い歳月が過ぎて、時になり、神様は人間耕作を始められました。人間耕作のためには悪い霊どもが必要だったので、第二の天の中に空中を造られて、そこに悪い霊どものうち、一部を解き放されました。すなわち、ルシファーと悪魔、竜、そして竜の配下の動物を解き放されたのです。
このように解き放された竜と動物を、聖書では「空中の権威を持つ支配者たち」、また、「天にいるもろもろの悪霊」と表現しています。彼らが空中の権威を持って、第一の天にいる肉の人々を操って、罪に導いていきます。それで、[エペソ6:12]に「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあるのです。
空中に解き放された竜は、ルシファーと一つになって、その使いたちを働かせて、闇のわざを支配していきます。サタンは、ルシファーの考えと心をそのまま悪い人々に伝えて、悪い考えと心を抱くようにさせていきます。聖霊は、私たちの心の善をつかさどって、神の御心を行なうように力を与えられます。反対に、サタンは人の心にある悪を刺激して、悪い考えと思いをいだくようにさせます。
この悪い考えが行ないにまで現れるようにするのは、悪魔の働きです。悪魔は、ルシファーの配下にいた、堕落した御使いの一部のことです。堕落した御使いのうち、ほとんどは底知れぬ所に閉じ込められていて、永遠に解き放されることはありません。しかし、悪魔や地獄の使いなどの役割を果たすために、きわめて一部だけが人間耕作のために解き放されました。
[第一ペテロ5:8]に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。悪魔は虎視耽々、食い尽くすべきものを捜し求めていて、サタンのしわざを心に受け入れた人を見ると、行ないで罪を犯すように仕向けていきます。
たとえば、「あの人はなぜ私を無視するの?」とサタンに働きかけられると、すぐ気を悪くしてむっとして、心が揺れ動きます。それに悪魔のしわざを受けると、目つきと表情が変わります。にらむような冷たいまなざしと硬い表情になります。やわらかい言葉が無愛想な言葉に変わります。必ずしも手で叩いたり足で蹴ったりしなくても、すでに悪魔のしわざを受けているのです。
皆さんの中で、万が一にも悪魔のしわざを受けたい方は、いないでしょう? ですから、いつも善で見て聞いて考えて、サタンの働きをさえぎらなければなりません。あるいは真理に逆らう思いが入って来ても、直ちに立ち返って、悪魔のしわざにまで発展しないようにしなければなりません。
それでは、「古い蛇」とは、何でしょうか? これは昔、エデンの園でエバを惑わして、堕落するようにさせた蛇のことです。狡猾な蛇がエバを惑わして罪を犯すようにしましたが、これは蛇がサタンに操られたからです。ですから、蛇がアダムを惑わしたのですが、結果的にアダムはサタンに惑わされたのです。
このように、ルシファーも竜も、古い蛇やサタン、悪魔も、結局、皆が一つの心で悪の世界をつかさどるのです。ルシファーが願うとおりに、同じ目標を持って一つのように動くのです。
[黙示録12:9]には「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」とあります。
人間耕作の期間に空中の権威を持っていた悪い霊どもは、七年患難のある時期になると、この地上にみな投げ落とされます。悪い霊どもが空中で支配していた時とは違って、彼らがこの世に降りて来て悪を支配する時は、それだけ人々がすみやかに悪に染まります。悪い霊どもに直接、影響を受けるので、この地上の人々は以前よりさらに悪くて毒々しくなっていきます。
そのうち、ついに千年王国の時になると、神様は闇の権勢をすべて取り上げられます。底知れぬ所の鍵を持った御使いが下って来て、大きな鎖で彼らを縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じるのです。
「鎖で縛った」とは、霊的な意味です。すべての悪い霊どもと、かしらの竜まで捕えて閉じ込めるなら、この御使いの権威はものすごく大きいはずでしょう。
神の子どもたちも、霊的な権威が違います。神の子どもたちなら、当然闇の権勢を打ち砕くべきですが、これは肉的な力でできるのではありません。たとえば、悪霊につかれた人を鎖で縛ったり殴ったりしても、悪霊をおとなしくさせるのではありません。悪霊につかれた人を鎖に縛っておいても、時にはものすごい力で鎖を切ったりする場合もあります。しかし、主に似せられて聖められ、霊的な権威がある人が命じる時は、悪霊が恐ろしく震えて退きます。もちろん、完全に悪霊を退けるためには、本人が完全に悔い改めなければならないし、悪霊が入った根本の原因を解決しなければなりません。それでも、権威のある者が悪霊に命じる時は、一時的でもその人から出て行くしかありません。
本文の鎖を持った御使いも、神様からは大変大きい権威を受けて来たので、悪い霊どもが縛られるしかありません。ところが、まだ完全に終わりではありません。
[3節]に「底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」とあります。
千年王国が終わると、彼らはしばらくの間、解き放されて、最後にすべきことが残っているのです。そのことについては、後でまた説明いたします。
聖徒の皆さん、悪い霊どもがみな底知れぬ所に閉じ込められると、この地上の人々は、それ以上悪は行ないません。心に罪と悪の属性は残っていても、それに働きかける悪い霊どもが全くいないので、静かにおおわれているのです。
いくら悪くて憤りの多い人であっても、自分の好きな人と良いことを話し合う時は、憤らないでしょう? 悪をおおっておいて、柔和な人のようにやんわりと笑って、優しく振舞うことができます。このように、千年王国の間は、心に悪が残っている肉の人々でも、その悪が働きません。皆が光の中だけで生きていくのです。
それでは、この千年王国には、誰が入るでしょうか? ここには救われた霊の人々もいて、七年患難中に生き残った肉の人々もいます。(ここで「霊の人々」とは、霊に入った聖められた人を意味するのではありません。救われて空中の婚宴に参加した人々、すなわち霊の世界に属する人のことです。)
霊の人々のうち、一番目のグループは、良心さばきによって救われた人です。旧約時代の人々や、主を知らなくて死んだ人々の中でも、救われる人がいます。彼らはこの地上に生きていたとき、福音が聞けなくて、主を受け入れる機会がなかったのです。しかし、正しい良心と良い心根を持っていたので、仮に生きている間に福音を聞いたなら信じただろうと、神様に認められた人々です。このような人々は、主を知らなかったとしても、良心さばきによって救われます。彼らは主が来られる時まで上のよみにいて、後で主を受け入れてから、その時からパラダイスに移ってとどまります。
千年王国に入る霊の人々のうち、二番目のグループは、新約時代以後、主を知って受け入れて死んだ人です。
三番目は、主を受け入れて、生きて主を迎え、主の空中降臨の時、携挙された聖徒です。
四番目は、七年患難中に信仰で殉教して救われた人々のうち、千年王国に入る人です。
七年患難中に殉教して救われても、皆が千年王国に入るのではありません。「ヨハネの黙示録講解」の前半部で、七年患難の間、殉教した人々にも二つのグループがあると言いました。
一つは、七年患難の前は主を知らなかったが、七年患難中に主を受け入れた人々です。たとえば、十四万四千人の伝道者と、この伝道者たちによって主を受け入れた人々です。十四万四千人の伝道者は、その心が正しいので、特別に神様に選ばれた人々だと言いました。彼らは携挙の前は、主をよく知らずに、漠然とキリスト教について聞いたことがあるくらいでした。それから、携挙の後の流れを見て、イエス・キリストについて知るようになって、聖書がまことだと悟ります。そして、彼らは七年患難の間にも、命をかけて福音を伝えるために忠実にはたらき、結局殉教します。その殉教の信仰を認められて、彼らも天国では三天層に入ると言いました。
ですが、十四万四千人に伝道されて、主を受け入れた人々は違います。彼らの中でも迫害に勝ち抜いて殉教する場合もありますが、その中の多くの人が戦争や自然災害などで死を迎える、と言いました。彼らは将来、パラダイスに入るのです。
一方、七年患難以前は主を知らなかったが、後で主を受け入れた人々とは違って、それ以前から主を知っていた人々がいます。すでに福音を聞いていながらも、まことの信仰を持たずに、殻のような信仰生活をした人々です。彼らは携挙を見て、骨身にしみるほど後悔しながら、遅まきながら救われなければならないので、あらゆる迫害と拷問の中で殉教します。
しかし、このように殉教して救われる数は、きわめて少ないのです。その迫害があまりにも残酷で、最後まで勝ち抜くことがとても難しいからです。かろうじて殉教しても、彼らは三天層に入るのではなく、パラダイスでも一番端にとどまるようになります。殉教しても、空中の婚宴に参加することができなくて、第二の天に用意された別の空間にいるのです。
[黙示録6:9]に、殉教した人々が「祭壇の下にいる」と表現したのが、まさにこういう意味だと説明しました。この別の空間に入った人々は、七年患難の後にも千年王国に入ることができなく、さばきの時までずっと待機するようになります。
この事実をもう一度思い出しながら、きょうの本文[4節]をご覧ください。「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」とあります。
ここで「首をはねられた人たちや獣の刻印を押されなかった人たち」とは、誰のことでしょうか? 七年患難の前は、主を知らなかった人々、すなわち十四万四千人の伝道者と彼らに伝道されて救われた人々です。殻の信者だったが殉教した人々とは違って、彼らはそれ以前に携挙された聖徒とともに千年王国に入ります。
次に、千年王国に入った人々の中には、肉の人々もいます。
一番目のグループは、携挙されずに地上に残されたけれど、以前に福音を聞いたことがあって、それで獣の刻印を押されなかった人々です。しかし、とても殉教する勇気はなかったので、七年患難の間、隠れて迫害を避けます。このように獣の刻印を押されなくても、隠れて生き残った人はきわめて少ないです。いくら上手に隠れても、反キリストの最先端の捜索網を避けることはやさしくないからです。人の足がほとんど入らない深い山の中などに隠れた一部の人だけが、刻印を押されなくても生き残ったのです。
二番目に、神様が備えられた避け所に隠れたイスラエルの民は、相当数が生き残って千年王国に入ります。
三番目は、666の刻印を押された人々の中でも、死なないで生き残った場合です。彼らは刻印を押されてから七年患難中に死んだなら、直ちに下のよみに落ちたでしょう。しかし、途方もない災いの中でも生き残ったので、千年王国に入って命を延ばします。しかし、千年経って、しばらくの間サタンが解き放されるとき、彼らはサタンに惑わされて、結局、神様に立ち向かいます。これについては、後ほどまた説明します。
[5- 6節]に「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」とあります。
七年患難の前や七年患難中に救われずに死んだ人は、この第一の復活にあずかることができません。下のよみで刑罰を受けて待機していて、大審判の後は地獄に落ちるようになります。審判の時までは、千年王国の間もずっと下のよみで待機しています。
それでは、「第二の死」とは何でしょうか? 人がこの地上で生きて、肉の寿命が尽きて死ぬことは「第一の死」です。第一の死にあった後、救われた聖徒は復活にあずかりますが、救われなかった人は、第二の死を迎えます。すなわち、永遠の地獄の火に投げ込まれるのです。
救われた人々は、この第二の死と関係がなくて、「神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」と書いてあります。
このみことばは、皆さん、よく理解しなければなりません。救われた子どもだからといって、天国に行って皆が王となるのではありません。天国で王となるためには、新しいエルサレムに入らなければなりません。新しいエルサレムの聖徒たちには、それぞれ大きい城のような邸宅があって、その中に華麗な施設が備えられています。数多くの御使いが付き添っていて、天国の民に愛されて尊敬されます。
しかし、パラダイスには家もなくて、個人所有の報いもないし、個人的に御使いが付き添っているのでもありません。平安で幸せに生きるけれど、王となるとは言えません。ところが、天国の場所と関係なく、千年王国では救われた霊の子どもたちがみな主とともに王となります。これは相対的な表現です。つまり、千年王国の間一緒に暮らしていく肉の人々に比べて、霊の人々は、王のように生きていくという意味です。
千年王国に入った霊の人々は、肉の人々と比べると、姿も栄光も全然違います。霊の人々が肉の人々を教えて、管理して、彼らから尊敬されます。ですから、「王となる」と言っているのです。このように千年王国の間は、霊の人々と肉の人々がこの地上で一緒に生きていきます。
はたして千年王国の暮らしはどうでしょうか? どんなところで、何をしながら生きていくでしょうか? これは次の時間に語ります。
結論
愛する聖徒の皆さん、世の初めからアダムが罪を犯すことと人間耕作、今後起こる七年患難と千年王国、大審判、そして、永遠の天国まで、これらのすべては神様の摂理に入っています。人としては悟れないその深い奥義を、神様がこのように明らかに説き明かしてくださるとき、皆さんはどのように生きるべきでしょうか? まことに価値のある人生が何か見分けて、毎日、永遠でまことのものに皆さんの時間と心を投資されますように。私が今、これをするのが、この話をするのが、このように思うのが、霊的に私にとって益になるのか、でなければ害になるのか? これをいつも見分けて選ぶ、賢い皆さんにならなければなりません。それで、機会を十分に生かして用い、毎瞬、永遠のいのちの道を選ぶ幸いな皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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