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Title
黙示録講解(78)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 18:21-19:8
Date
2008-10-03
黙示録18:21-19:8
また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。立て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
愛する聖徒の皆さん、この前に続いて、七年患難の終わりに、連合政府と彼らに従っていた勢力がどのように滅びていくのか、説明します。
[21節]に「また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。『大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。」とあります。
大きいひき臼のような石を海に投げ入れると、深く沈みます。使徒ヨハネが生きていた当時は、このように海の深いところに何かが沈むと、それを引き上げる方法がなかったのです。このように、大きな都バビロン、すなわち、反キリストの勢力も崩れてしまったら、再び回復することができないという意味です。また、反キリストが支配していたこの世も終わってしまうのです。
反キリストの勢力を、ひき臼のような石にたとえましたが、ひき臼は穀物を粉にする道具です。神様は人の子らを穀物にたとえられます。
[マタイ13:30]に「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」とあります。
信仰で救われた聖徒は麦に、信じない者や、信じていると言っても心で信じられない人々を毒麦にたとえておられます。ひき臼の中の穀物がひかれるように、七年患難の間、この地上に残されていた人々も、反キリスト勢力によって多くの試練にあいます。麦となって七年婚宴に入れなかったので、この地上であらゆる苦しみと迫害にあいます。その苦しみの道具に使われた反キリストの勢力を、ひき臼のような石にたとえたのです。
[22-23節]に「立て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」とあります。
立て琴、笛、ラッパの音などは、浮き浮きした祭りで聞かれる音です。ところが、反キリスト勢力、すなわち、連合政府が崩れたので、これ以上彼らのうちには、そのような音が聞かれなくなるのです。反キリストと結びついたすべての者が滅びるので、この世は荒れ廃れて苦しみだけが残ります。
「あらゆる技術を持った職人たちも、もう見られなくなる」とありますが、これは人が手で直接作る物さえも求めにくいということです。まして工場で生産した物や、大量に供給されていた物は、どうでしょうか? ほとんどの生産施設が破壊されて、まるで原始時代に帰ったようになります。
「ひき臼の音も、聞かれなくなる」とありますが、ここでは本当のひき臼の音のことです。食糧を得るためにはひき臼を回すべきなのに、このようなひき臼の音も聞かれなくなる、ということは、人の子らが生きていくのに必要な最小限のものも得られなくなったことを意味します。
また、「ともしびの光は、輝かなくなる」とあるように、文明の発達で作り上げてきたすべてが破壊されてしまうことを表しています。このような状況で、人々がこれ以上何の希望を持って結婚するでしょうか? 歴史上、いくら苦しい時であっても、男女は絶えず結婚してきましたが、この時は結婚さえもやめてしまったのです。
ですから、その時、どんな状況なのか、考えられるでしょう。廃墟と絶望だけで、もう本当に世の終わりだと感じるしかありません。このように、七年患難の終わりは反キリスト勢力が徹底して崩れるので、この世も回復不可能になります。肉的には、何も望めない最後に至ったのです。
「地上の力ある者ども」とは、反キリストと結びついて、神様に立ち向かって聖徒を迫害した人々です。「すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」とありますが、これには三つの意味があります。
第一は、真理に逆らう、偽りの霊で人々を惑わした、という意味です。偽りの霊が働いて、人々を真理に逆らうもので惑わしていったのです。人々は自分の欲と私心と情欲に引きずられて、このように惑わされるのです。
第二に、良心に逆らう不義な方法で富を得てきた、という意味です。物質に対する欲に目がくらんだ人々は、手段・方法を問いません。賄賂を使ったり、権勢を後ろ盾にして不法を行なったりします。心の目がくらんでしまうと、良心も、人の道理も、全部売ってしまうのです。
第三は、行ないに現れる、あらゆる偽りで惑わしたことを意味します。表では自分を良い者のように、正しい者のように装いながら、中ではあらゆる偽りの行ないをしてきました。「人類のために、世界平和と安定のために」とい言って行ないましたが、実は人々をだます行ないでした。その偽りの行ないにだまされて、数多くの人々が惑わされて、結局、神様に立ち向かう道に行ってしまったのです。
[24節]に「また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」とあります。
反キリスト勢力は、七年患難の間、多くの人々の血を注ぎ出させました。この時、血を注ぎ出して殉教したので救われた人もいて、三天層以上の栄光に入った人もいます。
神様は公義に従って、血を注ぎ出したことに対して報いてくださいます。世の初め以来今まで、ルシファーと悪い霊どもは、神の人々の数え切れない血を注ぎ出させました。イエス様も、尊い血を注ぎ出してくださったことによって、人類に救いの門を開いてくださいました。その後にも、数多くの人々が血を注ぎ出したので、今日、このように福音が伝えられてきたのです。
したがって、私たちも、神の国と魂のために血を注ぎ出さなければなりません。だからといって、必ず迫害と苦しみの中で血を注ぎ出して殉教すべきだ、という意味ではありません。もちろん、その道を歩まなければならない方もいますが、ほとんどは 生きて殉教しなければなりません。すなわち、罪と血を流すまで戦って捨てなければなりません。
使徒パウロが「私にとって、毎日が死の連續です。」と告白したように、自分の肉を徹底的に捨てて、霊でだけ満たさなければならないのです。それと共に、死に至るまで忠実でなければなりません。このように流した皆さんの汗と涙と血は、一適残らず天に報いとして積まれます。一方、神の国を妨げて神の人を迫害して殺した人々も、彼らの行ないに応じて報いられるのです。
これから、主との婚宴と、主の地上再臨が出て来る[19章]に入ります。
[1-2節]に「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。』」とあります。
「この後」とは、七年患難の終わりに反キリスト勢力が徹底的に滅びて、この地上も完全に破壊されて荒れ廃れてしまった後です。「大群衆」とは、復活にあずかるすべての聖徒です。世の初め以来、救われたすべての者を言います。
彼らが叫び歌います。イエス・キリストによる救いと神の栄光、そして、すべての摂理を成し遂げられた神の力をほめたたえています。救われた大群衆が一緒にささげるこの賛美に、どれほど濃く感動的な心の香が含まれているでしょうか? その感謝と喜びと感動は、言葉で表現できないものであり、とこしえに変わることなく続くのです。
「神のさばきは真実で、正しいからである」とありますが、これはイエス・キリストによるさばきの完全性を表します。さばきの基準はイエス・キリストであります。イエス様は、ことばが人となってこの地上に来られた方なので、ことばがすなわち、さばきの基準になるのです。
ところで、イエス様が十字架を負って死なれることによって、律法が全うされました。罪人たちのためにご自分を完全に渡してくださった主の愛によって、律法が全うされたのです。このような主を信じることが救いの基準であり、どれほど主に完全に似せられたのかが、まさに主をどれほど完全に信じたのかの基準であります。
「不品行によって地を汚した大淫婦」とは、ルシファーです。主は、ルシファーをはじめ、彼女と結びついた輩をさばくことで、世の初めから迫害と苦しみにあって殉教した神の人々、神のしもべたちの血に報われます。
[3節]に「彼らは再び言った。『ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。』」とあるのは、さばかれた輩が地獄の火に落ちて、とこしえに苦しみを受けることを表しています。
[4節]に「すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、『アーメン。ハレルヤ。』と言った。」とあります。
昔、王の近くで仕える臣下は、王の顔と声がわかりました。ですが、一般の民は近くで顔も思うように見ることができなかったのです。将来、天国でも同じです。新しいエルサレムに、それも御座の近くにいる二十四人の長老は、このように神様の近くでお目にかかります。
ところで、彼ら二十四人の長老は、神様の前で「アーメン。ハレルヤ。」と言っています。その前に、救われた群衆は「ハレルヤ」とだけ言いました。これにも差があります。
私たちが祈りを終えれば「アーメン」と言います。この時、「アーメン」には「神様、そのとおりです。」「祈り求めたとおりに答えられると信じます。」このような肯定と希望の意味が含まれています。
今、二十四人の長老が「アーメン」と言ったのも、このような意味で、今までさばかれたすべてが、当然そうなるしかなかったと、肯定するのです。主のさばきがまことに正しくてふさわしい、という意味です。そして、付け加えて「ハレルヤ」と言って、「神様、栄光をお受けになりますように」と言ったのです。
将来、天国で使う表現には、決して俗っぽい単語や醜くて汚い単語はありません。悪がないからです。ですが、どれほど霊に耕した心を持って天国に入ってきたかによって、使う表現が変わることはあります。同じ表現をしても、もっと恵みあふれる感動的な表現が出て来るでしょう。
これは、この地上でも同じです。同じ内容を伝えても、どれほど心を霊に耕した人が伝えるかによって、表現や感じが変わります。霊に耕した人であるほど、さらに善なる感動的な表現が出て来て、さらにふさわしく美しい単語を使います。
ですから、霊に、全き霊に入って来た人は、相手と少し話をしただけでも、相手の霊的な水準がわかります。もちろん、教育や学識、教養によって、表現方法や使う単語に差があるかもしれません。ですが、霊に入ると、いくら教育を受けなくて学識や教養が足りなくても、決して相手に対して礼儀に反する表現や単語は使いません。世の表現や卑しい言葉などは、うっかりしても出て来ません。
続く[5節]に「また、御座から声が出て言った。『すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。』」とあります。
この時、御座から出る声は、神の御声ではありません。御座の周りにいる者たちが、復活にあずかった聖徒に向かって言う言葉です。神様の御座の周りには、序列が高い預言者と二十四人の長老をはじめ、天国のかしらがいます。それなら、なぜその人たちが復活にあずかった聖徒に向かって「神を賛美せよ」と言っているのでしょうか? これは、父なる神様の心を思うからです。
救われて復活にあずかった多くの聖徒がいるけれど、一方、救われなくて永遠の死に落ちる人もたくさんいます。父なる神様は、この地上で人間を耕作して、皆が麦になることを願われましたが、実際はそうなりません。ですから、麦と殻が分かれるこのとき、父なる神様の心はいかがでしょうか? 麦になったまことの子どもを得た喜びもありますが、一方では、殻になってしまった多くの魂に対するもどかしさと悲しみもあります。
今、神様の御座の周りの人たちは、このような父なる神様の心を思っています。それで、救われた聖徒たちがこのような父なる神様の心をお慰めするように「神を賛美せよ」と言っているのです。このように、救われてまことの子どもになったこの群衆の賛美をお聞きになって、心が慰められることを願っているのです。
聖徒の皆さん、子どもが何人もいるなら、その中にはいろいろな子がいます。親の心を思って慰め、時に応じて力になる子がいるかと思えば、むしろ親の心に痛みだけ与える子もいます。問題は起こさないけれど、親には関心がなくて、ただ自分のことだけをする子もいます。
将来、天国で神様の御座の近くに座る人たちは、まさに親思いの子だと言えます。父なる神様と主、聖霊様の心にそっくり似せられたので、神様の心を感じて推し量るのです。もちろん、神様の心はすべてわかりません。しかし、時にはその心を思って、神様に慰めと喜びになることはできるのです。
それなら、聖徒の皆さんは、父なる神様の前にどんな子どもになるべきでしょうか? ひと言を言っても、一つ行なっても、神様の心に喜びと感動がささげられる皆さんになられますように。神様の心を痛めて、憂いになる子どもになってはいけません。
神様の心に喜びと感動をささげるためには、神様の心を深く推し量らなければなりません。神様の善の深さを感じなければなりません。今、何を心にいだいて、何を望んでおられるのか、悟らなければなりません。それは、皆さんの心が霊に、全き霊に入ってくるほどできるようになります。
世の中に「互いにまなざしだけ見ても、相手が何がほしいのかわかる」という言葉があります。皆さんも、父なる神様とこのような関係になるなら、どれほど良いでしょうか? このように、皆さんが神様と一つの心、一つの思いになって、皆さんが何をしようが、それがいつも父なる神様の喜びだけになれるように、主の御名で祈ります。
[6-8節]に「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」とあります。
救われた魂は、これからはこの地上の人生を終えて、全能の方が治められる永遠の国に入って生きるようになります。この世に生きる間、自制と忍耐をしながら、主の歩まれた道に従ったので、 今やこのような栄光の座についたのです。
その時の喜びと感激は、皆さんが今想像しているより、はるかに大きくて感動的です。結婚した女性聖徒の皆さんは、結婚式の前夜の期待とときめきを体験したでしょう。ところで、救われた私たちはみな、主の前に立つ花嫁と同じです。「小羊の婚姻の時が来」たと表現しています。
[第二コリント11:2]にも、使徒パウロが「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」とあります。
イエス様も、この地上で働かれる間、ご自身を花婿にたとえられたことがあります。それなら、花婿なる主の前に立つ花嫁として、皆さんはどれほど花嫁の用意ができているでしょうか? ひょっとして、花嫁の用意をどうするべきなのか、いまだに知らない方はおられないでしょう?
花嫁の用意をする方法が、すぐ出て来ます。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」とあるのです。
花婿を迎える花嫁ならば、当然礼服を着なければなりません。花嫁が真っ白いドレスを着て、花婿を迎えに行くとき、どれほどドキドキして胸ふくらむでしょうか? この時、花嫁はできるなら、より白くてきれいな服、もっと華麗で美しい服を着たいと思うでしょう。自分が用意できる、最高のドレスを着るはずでしょう。
まさに花嫁が着るドレスのようなものが、将来救われた聖徒が着る麻布の衣です。ところで、花嫁のドレスもそれぞれ違うように、麻布の衣も千差万別です。そして、その麻布の衣を決めるのは、まさに皆さんがこの地上でどれほど神様を愛して、みことばの中に生きて聖められたかにかかっています。それによって、麻布の衣の輝きと華麗さ、美しさなどが変わります。これに、どれほど多くの魂を伝道して、忠実であって、奉仕して祈って献身したのかなどが、全部反映されます。それが、麻布の衣の模様と飾り、そして髪飾りなどとして与えられます。
しかし、麻布の衣を決める最も大切なものは、何よりも心の聖潔です。一歩進んで、どれほどさらに深く霊に耕されたのかによって、衣の輝きと色などが決められます。
ところで、皆さんが心に耕した霊は、必ず行ないにも現れます。神様がご覧になるとき、正しい行ないとして出てきます。また、その正しい行ないによって将来、天国では報いが与えられます。
皆さんはすでに「どうすれば麻布の衣がもっと光り輝く、きよくなるのか、どんな行ないをすれば、宝石の飾りが与えられるのか」などをよく知っておられます。したがって、正しい言葉と行ない一つ一つで、将来、天国で永遠に着る皆さんの麻布の衣をあらかじめ用意する、賢い聖徒の皆さんになられますように。
結論
愛する聖徒の皆さん、花嫁は結婚式で一度着るウェディングドレスのためにも、どれほど多く投資して心を尽くすでしょうか? どうすればもっときれいに見えるだろう? どうすればもっと華麗で美しく見えるだろう? どうすれば花婿の心にぴったり添えるだろう? このようなことを考えます。
まして、最高の花婿である主を迎える礼服は、どんな心と思いで用意しなければならないでしょうか? その上、この麻布の衣は、将来天国でとこしえに着る服です。もちろん、だからと言って、一着だけを着るという意味ではありません。ですが、何着もの服が与えられようが、それぞれに与えられるすべて服の基本的な輝きは同じに決められます。皆さんがこの地上で心を霊に耕した程度に応じて、基本的な服の輝きが決められるのです。その基本の上に、皆さんが神の国のために蒔いて労苦して献身した程度に応じて、報いとして与えられる模様と飾りなどがあります。
天国では、他の人の服が自分の服より華麗で美しいからといって、そねんだりほしがったりはしません。むしろ、自分よりさらに輝く美しい麻布の衣を着た人を見ると、心を込めて敬意を表して、ともに喜んで感謝します。
この時間、皆さんが将来着る麻布の衣を、一度想像してみられますように。皆さんの想像以上に輝いて美しい麻布の衣を必ず着て、花婿なる主との婚宴に入られますよう、私たちの主イエス・キリストの御名で祝福して祈ります。
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