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Title
黙示録講解(68)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 14:17-15:4
Date
2008-07-11
黙示録14:17-15:4
また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
愛する聖徒の皆さん、きょうの本文には、鋭いかまが登場します。かまは何かを刈るのに使う道具です。したがって、かまは霊的に何かを締めくくるという意味を持ちます。きょうの本文の鋭いかまは、イエス・キリストによる真理のさばきで、最後のけりをつける、という意味を含んでいます。七年患難が終りに近づいていて、ついに最後のさばきの時がきたことを意味します。そして、そのさばきの基準はイエス・キリストなのです。
<ヨハネ3:17-18>に「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあるとおりです。
しかし、無条件に「イエス・キリストを信じます」と口で告白したからといって、救われるのではありません。まことに主を信じたなら、証拠がなければなりません。その証拠とは、神のみことばどおり行なったかということです。<ヤコブ2:17>に「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」とあるとおりです。
したがって、イエス・キリストがさばきの基準になるとは、「どれほど主のみことばどおり行なって生きたのか」が基準になるという意味です。この基準によって、麦と殻の信者が分けられます。
かまを持つ御使いがそれを入れて、地のぶどうを刈り集める、とあります。収穫をしたら、その中には、よく実ったものもあって、そうではないものもあります。このように、さばきの基準であるイエス・キリストによって、麦と殻の信者が分けられる、という意味です。
ところで、「地のぶどうのふさ」という言葉には、肉の実という意味があります。この地で、肉に従って真理に逆らうものを追い求めた実、という意味です。このように肉の実を結んだ魂たちの結果が、本文<19節-20節>にあります。
「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」とあります。
「神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた」とは、さばきに投げ入れるという意味です。神のみこころと反対になる、神の激しい怒りをかうことを行なった人々に、その行なったとおり報いるのです。
ところで、さばきにも種類があります。
一番目に、聖霊のさばきです。
皆さんがイエス様を救い主として受け入れると、聖霊を賜物として受けます。<ヨハネ16:8>に「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とあります。聖霊を受けた人は、神のことばを聞くとき、聖霊が罪と義とさばきについて悟らせてくださいます。光である神のことばで、自分の悪と不義を発見するのです。
この時、心の深いところにあった悪まで明らかにされると、その瞬間は本当につらくて苦しいです。ですが、この時発見された悪を直ちに捨てれば、むしろ聖霊に満たされて、喜びと感謝があふれます。また、聖霊に助けられてみことばどおり生きるときは、いつも聖霊に満たされて生きることができます。
しかし、発見された悪を捨てようとせず、罪だと知っていながら、相変わらず罪の中に生きているなら、心が苦しくて悩みます。自分の中で二つの心、すなわち、真理を追おうとする心と真理に逆らおうとする心が戦うので、苦しくて悩むのです。
このように真理から離れたとき、心が苦しくて悩むことを、聖霊のさばきと言います。心の苦しみとして現れるさばきです。このような状態でも、悪を捨てないで闇の罪と悪の中に生き続けるなら、だんだん聖霊が消えていきます。そうなる前に、すみやかに悔い改めて立ち返り、聖霊に満たされなければなりません。
二番目に、真理のさばきです。
皆さんが神のことばを聞くと、聖霊に助けられて悟れる、と言いました。しかし、すべての人が真理を悟って、そのまま行なうのではありません。悟ったことを100%行なう人もいるかもしれませんが、ほとんどがそうではありません。人によって、悟ったことを行なう程度が違います。
この時、どれほど真理の中に生きているかによって、真理のさばきが臨みます。真理である神のことばの中に生きている時は、神様に守られて導かれます。すべてに栄える祝福が臨みます。健康になり、物質の祝福も受けます。一方、悟った真理のとおり生きられないとサタンに訴えられるのです。それで、試練、患難がやって来ます。物質の苦しさ、病気、家庭の問題などを、その代価として払うのです。
このように真理のみことばを聞いて悟ったことを、どれほど行なうかによって、栄えるのか、そうでないのか、祝福か苦しみかが決められるのです。これを、真理のさばきと言います。
ところで、真理を行なわないので、何かの問題が明らかになり、その結果が実と現れる段階までになると、これが肉体のさばきです。三番目が、この肉体のさばきです。
真理を聞いて悟ったのに、その中に生きないので、家庭の不和と体の病気などがやって来ます。事業の場に問題が起こって、事がもつれて、物質の苦しみにあいます。このように、真理のさばきが明らかに結果として現れると、これを肉体のさばきと言います。
結局、聖霊のさばきの次の段階が真理のさばきで、真理のさばきの次の段階が、肉体のさばきと言えます。聖霊のさばきで悔い改めて立ち返らないので、真理のさばきへ渡されて、真理のさばきでも悔い改めて立ち返らないから、肉体のさばきへ渡されるのです。
聖徒の皆さん、今まで調べたこの聖霊のさばき、真理のさばき、肉体のさばきをまとめると、それぞれの信仰の水準がわかります。どれほど実った麦なのか、でなければ殻なのかが見分けられるのです。
終わりの日に、このすべてをまとめてさばかれます。その結果によって、最後の火のさばきがあります。聖霊の御声をさげすみ、真理の中に生きないで、肉の願うことに従って生きた人々は、結局、神様から顔を背けられます。それで、最後の火のさばきを受けるのです。
したがって、最後の火のさばきを受けないためには、その以前のさばきの段階で、すみやかに悔い改めて立ち返らなければなりません。聖霊が嘆かれるなら、その時、早く悟って悔い改めるならよいではありませんか? 仮に肉体のさばきにまでなっても、その時でも悟り、悔い改めて立ち返ればよいのです。それでこそ、永遠の火のさばきだけは免れるのです。
聖徒の皆さん、神様は六千年間、人間を耕して、数えきれないほど耐え忍んでこられました。神の人々を用いて、神のことばどおり生きることを教えて、神様の生きておられることを証しされました。
今日も同じです。主のしもべと神を愛する人々を用いて神のみこころを伝えて、摂理を成し遂げていかれます。それでも、人々はますます科学文明に頼って、自分の知識と知恵に頼っていきます。そして、神を否認して、罪と悪にもっと深く染まっています。結局、神様の定められた時になると、このような人々は、激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられるしかありません。
神様はわずかな傷もしみもない、きよくて完全な方であられます。このような神様の心と比べると、人間の心はあまりにも汚くて醜いのです。まさに神のことばに照らして、このような自分の心を悟って発見して、すみやかに変えさせていかなければなりません。
ですから、神様はさばきをお許しになるのです。真理の中にとどまって、神の心に似せられていくように、聖霊によって、真理によってさばかれ、時には肉体のさばきをお許しになるのです。それをとおして、自分の姿を悟って変えられるように練っていかれます。このような神の愛を最後まで捨てるなら、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられて、最後の火のさばきを受けるのです。
<20節>に「その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」とあります。
「都の外」とは、救われなかったことを意味します。「その酒ぶねは踏まれて、血が流れ出る」とは、さばきによって受ける苦しみを意味します。この地上に臨む七年患難のため、流れ出る血は途方もない量です。この地に落ちた人々は、この七年患難の間、火のさばきを受けます。第三次世界大戦と自然災害などをはじめ、さまざまな災いをすべて「火のさばき」と表現するのです。そして、このさばきは全世界をおおいます。このように地球全体に臨む途方もない火のさばきによって、たくさんの血が流れ出ます。これを指して、血が馬のくつわに届くほどになり、と表現したのです。
次に、千六百スタディオンは約300キロメートルです。流れ出た血が300キロメートルに広がったとは、この火のさばきがどれほどむごいのかを表します。神様は最後まで機会を与えられましたが、結局その機会をつかまなかった人々は、このようにものすごいさばきに落ちます。
ところが、問題は、この地で受けるさばきの苦しみと比べられないほどの火のさばきが待っているということです。肉の火のさばきで終わるのではなく、永遠に消えない霊の火のさばき、つまり、地獄が待っているのです。
たとえ携挙されずこの地に落ちて、肉の火のさばきを受けるようになっても、何としてでも主の御名を握って勝利してこそ、霊の火のさばきだけは免れます。それで、神様はヨハネの黙示録に、携挙後のことまでも詳しく書き記すようになさったのです。
しかし、このみことばは、耳があって、御霊の言われることを聞く人だけが悟れるのです。いくら終わりの時について詳しく説き明かしても、結局、耳のある人だけが聞いて、悔い改めて最後の救いの機会をつかむという意味です。
次は、<黙示録15章>です。<1節>に「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。」とあります。
七年患難が始まってから、きょうの本文の時点まで、多くの災いがありました。第三次世界大戦という前にも後にもない災いがあって、自然災害をはじめ、数多くの災いが起きました。前の七つの封印と七つのラッパが、まさにこのような災いを意味すると言いました。
ところで、きょうの本文には最後の災いが出て来ます。これは七年患難を終わらせる災いであり、今までとは比べられないほど大きくて、途方もない災いです。
しかし、七年患難の時に起きる災いを見て、ひょっとしてでも神様を誤解してはいけません。神様が無慈悲なので、七年患難に落ちた人々に、無差別に激しい怒りを注がれると思ってはなりません。
事実、七年患難の災いは人間が自分たちの悪のため、サタンに操られて自ら招いたものです。たとえば、第三次世界大戦だけを見ても、これは人々の悪が積み重なった結果です。神様が下された災いではありません。もちろん、神様が人間の心をつかさどって、戦争までにはならないようにできます。ですが、悪が積まれると、公義によって結局その実を結びます。しかも、七年患難の時は、すでに神様の摂理のうちに計画なさった人間耕作の歴史は終わりました。したがって、神様もこの地に御顔を背けて、闇の勢力が支配するのを放っておかれます。
このように神様が御顔を背けられること自体が、まさに神の激しい怒りなのです。もし、神様が神の子どもに御顔を背けられるなら、敵である悪魔・サタンがその人を放っておきません。神の子どもが光の中を歩むときは、当然、神様が敵である悪魔・サタンから守ってくださいます。しかし、闇の中を歩むときは、サタンに訴えられても、渡されるしかありません。
まさに、七年患難中のこの地も、敵である悪魔・サタンの支配に置かれているので、人々は悪に悪を加えていきます。神様が彼らに御顔を背けられるしかなく、だんだん人々は、自分たちの悪に従って、もっと暴力と破壊と殺生を行ないます。これに、人々が自分の益を追ってこの地上の自然を破壊した結果として、大きな自然の災いを招き、その代価を払います。
ところで、今は、そのような災いが最高潮に達して、終わりに向かっているところです。それを見て、使徒ヨハネは「天にもう一つの巨大な驚くべきしるし」と表現しました。
続く<2節>に「私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。」とあります。
<黙示録4:6>には「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。」とあります。神様の御座の前にあるガラスの海は、水晶のようにきよく澄んでいます。
ところが、きょうの本文には「火の混じった、ガラスの海のようなもの」とあります。ガラスの海は、人々がこの地上で行なったすべてをそのまま見せる役割をします。どんな思いと心で行なったのかまで、正確に映してくれます。ですから、神様の審判台の前では、決して偽りや弁解、言い訳が通じません。
ところで、七年患難の間に殉教して救われた人々の姿がこのガラス海に映れば、何が見えるでしょうか? 彼らがどのように殉教したのかが見えます。七年患難に落ちて、それでも救われた人々は、必ず殉教を経なければなりません。殉教で自分の信仰を証明すると同時に、過ぎた日の過ちに対して、公義によって代価を払わなければならないからです。
したがって、このように七年患難中に救われた人々が、審判台の前に立つと、神様は彼らの殉教の場面を見せてくださいます。ガラスの海にその場面を映して、「この人たちは、このように信仰で代価を払って救われた」と認めてくださいます。それで、この時のガラスの海は、火が混ざったように見えます。むごい災いと迫害の中でも、最後まで信仰を守って殉教した姿が映されるので、そのガラスの海に火が混ざったように見えるのです。
獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々は、その日に言葉にできない感謝でガラスの海のほとりに立てます。彼らは神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立って、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌います。
<3-4節>に「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。』」とあります。
神様はモーセを用いて律法を与え、みこころを教えてくださいました。そして、イエス様をこの地上に遣わして、心の完全な割礼をするように、愛で律法を全うするようになさいました。このような神様の摂理を悟り、心の悪を捨てて主の心に似せられるほど、心の中に喜びと感謝があふれます。律法を与えてくださったこと、愛で律法を全うしてくださったことに感謝します。ですから、モーセの歌と小羊、すなわち、主の歌を歌うのです。
これは、携挙された魂たちにだけあたるのではありません。たとえ七年患難に落ちても、遅まきながら悔い改めて立ち返り、殉教して救われた人にもあたります。迫害と拷問に勝ち抜いて殉教した時に得られるその救いの喜びと感謝が、心の底からわき出るのです。彼らも、御父と主の心を心の底から悟るようになるのです。
私たちが神様の摂理を悟るほど、神様が行なわれるくすしいみわざに驚くしかありません。もちろん、全能の神様を信じていますが、それを感じるたびに、また驚くのです。
トンボの出現だけを見てもそうではありませんか? 神様が言われたとおり現れるとは、当然信じて、それがいつなのかもすでに知っていましたが、実際にそれを見ると、どれほど驚くでしょうか? ですから、神様に栄光を帰すほかはありません。
聖徒の皆さん、主だけが正しくてまことなのです。被造物は当然、その方の御名を恐れなければなりません。そのように恐れ敬う心があってこそ、罪から離れて真理の中に生きられます。真理の中に生きた人は、主の正しいさばきが現れるとき、恐れません。最後のさばきの時が近づいてくるほど、もっと正しく行おうと努力します。そして終わりの日に、主を崇めて、永遠の喜びと感謝の賛美をささげます。主を崇める賛美を歌うのです。
結論
愛する聖徒の皆さん、皆さんはふだんどれほどよく神様と主に感謝と賛美をささげているでしょうか? もちろん、私たちが将来天国に行けば、その時はとこしえに三位一体の神様に感謝してほめたたえます。ですが、その時ささげる感謝と賛美の香りが、みな同じなのではありません。ある方の香りはとても濃くて美しく、周りにいる魂たちまでも恵みと感動があふれます。一方、ある方は堂々と出ることもできません。
ところが、将来、天国で三位一体の神様の前にどんな香りをささげるのかが、まさにこの地上に生きる間に決められるのです。皆さんご自分の感謝と賛美の香りを一度顧みますように。皆さんの心の香りが、どれほど濃く、美しくささげられているでしょうか? いつも主の正しさと聖なることをほめたたえる口になりますように。感謝と喜びの賛美が絶えない口になりますように。たくさん賛美して礼拝をささげるのも良いけれど、大切なのは、そこに含まれた心の香りだということを必ず心に刻まれますように。
福音を伝えて捕えられて、足かせを掛けられて奧の牢に入れられていたパウロとシラスが、真夜中に神様をほめたたえたその賛美の香りが、どれほど濃くて美しかったでしょうか? 神様を感動させるに十分でした。このように、たとえ苦しくてつらい現実であっても、その中でささげる喜びと感謝の香りが、まことに神様を感動させるのです。
このように皆さんの人生で、いつも神様を感動させるような美しい賛美の香りが絶えませんように。それで将来、父の御座の前でもその濃い心の香りをこめてほめたたえる皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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