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Title
黙示録講解(47)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 7:11-17
Date
2007-12-07
<黙示録7:11-17>
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
七年患難の期間は大きく二つに分けられます。前の三年半と後の三年半です。前半のほうは、後半と比べるとそれでも相対的に環境が少し良いのです。もちろん七年患難の間、ずっと深刻な自然災害と戦争など、途方もない災いがあちこちでいつも発生します。以前は想像もできなかった災いです。それでも前半の三年半が後半の三年半と比べると、状況が少しましだということです。
また、前半の三年半の間には、まだ主を信じる人々への迫害がそれほどひどくない時です。時間が経つほどヨーロッパ連合がだんだんその正体を現し、主を信じる人々に対する迫害もひどくなっていきます。神様が十四万四千人の伝道者を立てられるのも、前の三年半の期間です。それでもまだ福音が伝えられるように環境と条件が許される期間です。
そして、この期間に立てられた十四万四千人の伝道者たちは、主のために命までもささげられる心を持った人々です。それで、たとえ短い時間ではあっても、彼らによって多くの人々が救いに至ります。
こうして救われた人々は殻の信者だったので、この地上に落ちて殉教によってかろうじて救われた人とは違う、と言いました。彼らはイエス・キリストを正しく知らないまま、まかり間違えば地獄に行くところだった人々です。ところが、このような自分たちにも機会が与えられて、イエス・キリストを受け入れて救いに至ったのです。ですから、ただただ感謝するのみです。
彼らが白い衣を着て手にしゅろの枝を持って、御座と小羊との前に立っていた、とあります。「白い衣」とは救われたしるしです。「しゅろの枝」は勝利の象徴であり、これを手に持っているとは、主を拝して「栄光を帰する」という表現です。
また、彼らは大声で「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」と叫んでいます。救いの喜びのため、このように大声で賛美と栄光を帰しているのです。喜びと恵みに満たされると、誰かに言われなくても、このように大声で賛美もして祈りもするようになります。だからと言って、他の人々に被害を与えるほど耳に障る声を出すのではありません。声が大きいといっても、恵みと聖霊に満たされているので、聞く人々にも恵みを与えます。
このように神様の恵みで救われた人々が神様と主に栄光を帰すとき、これに答えて賛美する声があります。<11-12節>に「御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』」とあります。
神様の御座の回りには二十四人の長老たちがいて、四つの生き物がいます。御使いのかしらをはじめ、数多くの御使いたちも回りに立っています。救われた聖徒たちの賛美に答えて、この御使いたちも御座の前にひれ伏し、神を拝しています。
この時、長老のひとりがヨハネに質問をします。<13節>で「長老のひとりが私に話しかけて、 『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。』」と言ったのです。
それなら、本当にこの長老が白い衣を着ている人たちについて知らないから聞いているのでしょうか? そうではありません。彼は当然、白い衣を着ている人々が誰なのか知っています。それでも聞いているのは、ヨハネが悟りを得て、さらに確信を持つようにするためです。言いかえれば、本人はすでに知っているけれど、それを相手にわざわざ聞いているのです。こうすると、ただ教えることとは相手の心に刻まれる程度が違います。さらにはっきりと入力されます。また、なぜこういう質問をするのか考えてみるので、自ら悟ることもできます。
時々、私も知っていることをもう一度周りの働き人たちに聞いてみる時があります。すると、働き人の中には「なぜ全部知っていることをまた聞かれるのだろうか」と思いながら返事をする場合があります。一方、ある働き人は「堂会長先生があれをなぜ聞かれるだろうか」と考えてみるので、私がなぜそれを聞いたのか、私の意中を探ってみようとする場合もあります。私が何の意味もなく言うことはないと、多くの経験によって知っているからです。
また、ある場合はわざわざ相手に質問をして、相手が自ら過ちを悟るように機会を与える場合もあります。または、周りにいる人々がみな悟って、さらに注意するように質問を投げる場合もあります。相手がはっきりと心に刻むように、わざわざ質問を投げる場合もあります。このように知らないから聞くのではなく、意味があるから聞く場合があります。
イエス様も弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」と聞かれたことがあります。イエス様がどうして人々がイエス様について何と言っているのかご存じなかったでしょうか? それでも弟子たちに聞かれました。それで、弟子たちは<マタイ16:14>で「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えます。
当時はイエス様について良くない話もありましたが、弟子たちはそんなことは申し上げなかったのです。これは、目上の人をだまして隠そうとする偽りの報告とは全く違う次元です。肯定的な信仰の告白であり、善の告白であるのです。
弟子たちのこのような信仰を見て、イエス様はまた意味ある霊的な質問を投げられます。<マタイ16:15>で「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と言われたのです。これに、弟子のうちシモン・ペテロが答えます。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
ペテロはこの告白のゆえにイエス様からものすごい霊的な祝福を受けます。私もこのように祝福が臨むように、質問を投げる場合が時々あります。私の質問を御霊に導かれて受けて答えるなら、本人には霊肉ともに大きい祝福になるでしょう。
<マタイ20:33>で、イエス様が目の見えない人ふたりに質問をされます。「わたしに何をしてほしいのか。」と言われたのです。すると、彼らは「主よ。この目をあけていただきたいのです。」と答えました。その結果、ふたりは見えるようになりました。
ところが、この時、仮にこのふたりが肉の思いを働かせたなら、どうなったでしょうか? 「今、目の見えない私たちを見ながらも、何をしてほしいのか聞かれるなんて、イエス様が冗談を言っておられるのだろうか」「イエス様がどうして私たちが何がほしいのか、どうしても聞かなければならないのだろうか」など肉の思いを働かせたなら、彼らは答えられなかったでしょう。
ところが、私が働き人や聖徒の皆さんを見ると、このように肉の思いを働かせる場合が多いです。ですから霊的な悟りも遅く、祝福も遅い場合があって、もどかしいのです。私がなぜそのような質問をするのか、霊的に悟って心に留めるなら、本当に良いのですが。
さあ、それでは、本文の白い衣を着ている人々は誰であり、また、どこから来た人々でしょうか? すでに前に説明したように、彼らは七年患難の中で落ち穂拾いによって救われた人々です。
ところが、彼らの中にはやっと救われた人たちもいますが、十四万四千人の神のしもべたちもいます。彼らがみな一緒に白い衣を着ていても、ただ救われた人たちと、十四万四千人の神のしもべたちが着る白い衣とは違います。たとえ七年患難の中で落ち穂拾いによって救われても、ある人は三天層に、ある人はパラダイスの端に入るのです。
使徒ヨハネはこれらのことについてまだ詳しく全部知っているのではありません。それで、自分に質問をした長老に「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言ったのです。すると、長老が白い衣を着ている群衆について説明してくれます。
<14後半節-17節>に「すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。』」とあります。
このように、長老はすでに白い衣を着ている群衆について詳しく知っていました。それにもかかわらず使徒ヨハネに質問をしたのです。こうすることによって、使徒ヨハネがしばらくの間考えてみるようにしたのです。それでこそ、長老が彼らについて説明するとき、もっと明らかに悟って、心に留めることができる、と説明しました。
まず長老は、彼らは「大きな患難から抜け出て来た者たち」だと言いました。つまり、七年患難の中で信仰を守って、救いに至ったことを言っています。これは決してなまやさしいことではありません。それでも彼らは正しい良心があったので、七年患難の中でも主を受け入れて、最後まで信仰を守ることができたのです。しかもそのうち十四万四千人の神のしもべたちは特別な恵みを受けた人々です。単純な救いの次元でなく、三天層を望める資格を得ました。
したがって「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」というみことばには、二つの意味があります。一つは、単に「救われた」という意味で、もう一つは「心をきよく洗った」という意味です。
「衣」とはすなわち「心」を意味します。このような心を小羊の血で洗って白くしたということは、聖潔を意味しています。したがって、本文の白い衣を着ている群衆の中には、単に救われただけの人たちもいますが、三天層に行く人もいるのです。
七年患難中に世と妥協せず、信仰を守って救いに至ることも、決してなまやさしいことではありません。ところが、その中でも何としてでも悪を捨てて心に割礼までしたとは大したことです。聖霊に助けられたのでもないのに、神様のみことばを聞いて、正しい良心を持って心の割礼をしたからです。
本教会によって出版される多くの書籍が、将来七年患難の時、彼らにとって大きい助けになるのです。書籍をはじめ、さまざまなみことばの資料に接して、神様のみこころである聖潔について悟るようになります。
また、この書籍は七年患難の時、多くの人々を目覚めさせる役割をします。この書籍で教えられてみことばを武具として身に着けた人々が、また出て行って福音を伝えることもあります。それほど書籍の役割が重要なのです。ですから、できるだけさらに多くの言語に翻訳して、全世界のすみずみにまで伝えなければならないのです。
このように七年患難中に救われた人々、彼らの中でも特に十四万四千人の神のしもべたちが神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えている、とあります。
皆さんがこのみことばを肉的に考えて誤解してはいけません。将来、天国に行けば、誰でもが神様の御座の前に立つのではありません。しかも、神様の聖所で昼も夜も神に仕えることは、大変光栄な使命です。このような使命は落ち穂拾いの救いによって得た人々に任せるのではありません。
もちろん、彼らの中には三天層に入る資格を持った神のしもべたちもいます。しかし、彼らもやはり、神様の御座の前にまで出て行けるのではありません。それなら、本文で長老はなぜこのように言ったのでしょうか?
将来、私たちが天国に行くと、神様は新しいエルサレムだけでなく、天国のすべての所をあまねく探られます。ですから、天国のどの場所に入っても、結局は神様の御座の前にいるようなものです。神様が望まれるなら、天国のどこにいる人でも、神様の御座の前に立ったように神様と交わることもできます。
もちろん、じかに神様の御顔を拝して、話をして交わるのとは違います。しかし、天国はどこでも神様に属する霊の空間なので、神様が望まれるなら話をして交わることができる、という意味です。
また、天国はどこにいようが、神様の御座の前で行われる行事がリアルタイムで見られます。すでに「天国」のメッセージで説明したように、天に広げてくださるスクリーンのような装置で、まるで神様の御座の前にいるかのように、現場の状況が見られます。
ところで、たとえ落ち穂拾いの救いではありますが、それでも三天層に入った人々には、主を拝する資格があります。新しいエルサレムに招待されて、三位一体の神様の御前で行われる宴会や行事に参加することもできます。
しかし、パラダイスに入った人々は、新しいエルサレムに一度行ってみることが、実際、そんなに簡単ではありません。パラダイスの代表になる人々に、それでも一度ぐらい機会が与えられるだけです。実際に新しいエルサレムの誰かから招待状をもらっても、自ら申し訳なくて新しいエルサレムに行けないのです。ましてパラダイスの端に入る人はどうでしょうか。
「聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。」とありますが、これもやはり、本当に神様の聖所で昼も夜も神様に仕えているという意味ではありません。ここで言われている「神の聖所」とは、広く天国全体を意味しています。したがって、「聖所で神に仕える」とは、天国で神様に仕えて生きるという意味です。「仕える」という意味も、奉仕してお手伝いするという意味ではなく、神様を賛美して拝することを意味します。
ところで、将来、天国に行って、実際に神様の聖所で昼も夜も三位一体の神様に仕える方々もいます。<詩篇101:6>に「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあります。このようなみことばにふさわしい資格を備えるなら、その人には光栄ある座が与えられます。
次に「御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。」とあります。
神様は天国に入ってきた人々に、それぞれふさわしい場所を下さいます。一天層以上に入る人たちには、個人的に家が与えられます。もちろんパラダイスに入る人たちにも、共同で住める空間が与えられます。
「幕屋を張られる」というみことばには、二つの意味があります。
第一として、やっとパラダイスに入る人々のために、彼らの住みかを用意してくださるという意味です。幕屋とは「日差しや雨を防いで、人が入っているために張りめぐらした幕」のことです。固定された家というよりは、臨時の住みかを意味します。このように、パラダイスに入る人々には、固定された自分だけの空間が与えられません。状況によって許される範囲の中でだけ、休める空間が与えられるのです。
ところが、一天層以上に入る人々にとっては、幕屋の意味がちょっと違います。「幕屋を張られるのです」というみことばの第二の意味は、パラダイスとは違って、自分だけの住みかを下さるという意味です。
彼らがこの地上で蒔いて行ったことに応じて、天国で美しい報いと幕屋として報いてくださるのです。特に三天層以上に入る人たちと二天層以下にとどまる人たちとでは、与えられる幕屋の水準も次元が違います。二天層で最も良い家であっても、そこには自分が願う施設が一つしか与えられません。しかし、三天層からは願うものは何でも与えられます。もちろん、新しいエルサレムの家は三天層の家と比べるとまた次元が違います。
ですから、本当に天国を望み、信仰があるならば、何としてでも三天層以上、さらに新しいエルサレムに必ず入ろうと努力するしかありません。本当に天国が信じられて、場所によって途方もない違いがあると信じられるなら、当然、何としてでもより良い天国の場所に入ろうとするのではありませんか? より良い天国を慕うこともなく、攻めて行くために努力もしない理由は、結局、それが完全に信じられないからです。
聖徒の皆さん、七年患難中に救われた人々は前にもなく後にもない患難を経験しました。特に主を信じる人々には、さらに苛酷な迫害と患難が加えられます。飢えて渇いて、あれこれの害を受けながら、その患難と迫害に勝ち抜かなければなりません。
しかし、すべてが終わって、その人が救われて天国に至ると、その時は飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。神様が彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるので、再び涙を流すことはありません。悔い改めながら流した涙、迫害と患難の中で流した涙など、七年患難の間、信仰生活をしながら流したその涙を、神様がぬぐい取ってくださるのです。
特に、殻の信者だったのでこの地上に落ちて、深刻な苦しみと迫害の中で殉教してかろうじて救われた人々は、それだけさらに多くの涙を流します。神様が前もって機会を与えられたとき、正しい信仰生活をしなかったことについて徹底的に心を砕いて罪を告白するみわざが現れます。彼らが殉教して勝利したとき、まさにこのような涙も、神様がすべてぬぐい取ってくださるのです。
しかし、皆さんはこういう過程を体験してはいけません。主が空中に再臨されるとき、携挙されて空中の婚宴に入ればよいのです。そうすれば、悲しみと苦しみの涙がなくても、美しい天国に入れます。皆さんのすべてがこの道を選びますように。
次の時間からは、七番目の封印を解く出来事について調べてみましょう。
愛する聖徒の皆さん、私たちが将来天国に行けば、神様は必ずしも七年患難の苦しみに耐えて救われた人たちの涙だけをぬぐい取ってくださるのではありません。皆さんもこれまで信仰生活をしてきながら、たくさんの涙を流したでしょう。
ところで、初心の者や信仰が小さかった時に流した涙と、信仰が成長しておとなの信仰になった時に流す涙とでは、その意味が違います。罪のために悔い改める涙、試練や迫害がつらくて流す涙、自分の悪と感情のために流す涙、このような涙は、まだ罪が捨てられずに肉にとどまっていた時に流した涙です。
しかし、御霊の歩みに入ると、それ以上このような肉的な涙は流しません。神の国を実現するために流す涙、魂のために流す涙、恵みと感動と喜びと感謝の涙、このような涙だけを流します。このような涙は、あまりにも嘆き悲しむのでなければ、流すほど良いことです。その涙の一滴一滴が意味なく落ちて消えるのではありません。御使いたちが受けて、天に報いとして積まれるのです。皆さんが流した涙を、将来天国で神様は美しい報いと栄光として返してくださるのです。
それなら、皆さんは今後どんな涙を流すべきでしょうか? 皆さんが罪と戦って捨てるために、いくらたくさんの涙を流しても、それは報いになりません。神の子どもとして当然捨てるべき罪を捨てるために流す涙だからです。
したがって、すみやかに罪を脱ぎ捨てて御霊の歩みに入って、天に報いとして積まれる涙を流しますように。そして、喜びと感謝と幸せの涙だけを流しますように。全世界でまだ主を知らないまま死にかけている数多くの人々のための涙も忘れませんように。いつも恵みと感動の涙があふれる信仰生活になりますように。このように玉のように宿る皆さんの涙を通して、皆さんが美しい真珠のような魂に変えられて、新しいエルサレムの十二の真珠門を堂々とくぐりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
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