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Title
黙示録講解(37)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 5:5-11
Date
2007-09-07
[黙示録5:5-11]
すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」さらに私は、御座―そこには、四つの生き物がいる。―と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
使徒ヨハネは、御座に座っておられる神様の右の手に、内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられている巻き物があるのを見ました。その巻き物は、まさに人間耕作の期限に近づくと、終わりの時に行なわれることについての神様の計画と摂理が書かれた書物です。封印が解かれると同時に、その巻き物に書かれた内容が行なわれるのです。
したがって、その巻き物の封印は、いつでもむやみに解いてはならないし、誰でも解けるのでもありません。神様が決められた正確な時になり、その封印を解くのにふさわしい資格を備えた方が、神様のみこころに従って解かなければなりません。
ところが、使徒ヨハネが見ると、この封印を解く資格を備えた存在が、天にも、地にも、地の下にもいなかったのです。封印を解いてはじめて人間耕作六千年のすべての歴史が締めくくられ、神様の計画と摂理が完成されます。救われた神の子どもたちには、あれほど待っていた七年婚宴と千年王国、そして永遠のいのちを受ける天国が与えられるのです。これらのすべてが封印を解いてこそなされるのです。
ところが、今、この封印を解く時が近づいたにもかかわらず、いざ封印を解く資格を備えた者を探すとなると、探せなかったのです。それで、使徒ヨハネは気を落としてもどかしい心になり、思わず泣いてしまったのです。
ところが、この時、二十四人の長老のひとりが使徒ヨハネにうれしい事実を告げてくれます。[5節]に「長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。』」とあります。ここで「ユダ族から出たしし、ダビデの根」とは、ユダ族から、ダビデの子孫としてお生まれになったイエス様を指しています。
[使徒13:22-23]に「それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。」とあります。
救い主としてのふさわしい資格を備えられた方は、ただイエス様おひとりであります。私たちの救い主になるために十字架につけられて死なれ、葬られて三日目に死の力を打ち砕き、よみがえられたので、復活の初穂になられました。このような主と信仰によってつぎ合わされて一つになった人も、復活の実になって救いに至るのです。まさに主が封印を解かれことによって、救いの実を刈り取る神様の摂理が完全に成就されるのです。
したがって、人間耕作の最後の瞬間まで、すべての主導権は結局、神様にあるのです。たとえこれからある七年患難の間、敵である悪魔・サタンが思いきり自分たちの権勢をふるっても、だからといって、七年患難の主導権が彼らにあるのではありません。
主が封じられている巻き物の封印を解かれてから、そこに記された内容に従って、終わりの時のすべてが繰り広げられるのです。七年患難の間、この地上に繰り広げられる患難と災いなども、結局は神様の摂理による計画に従って、一寸の誤差もなく、正確に時に合わせて起こるのが許されることです。これらすべての主体が主であり、主だけに封印が解ける資格があるということです。
まさに二十四の長老のひとりで、このすべての摂理を知っている人が今、使徒ヨハネに封印を解くのにふさわしい方が誰なのか告げているのです。それなら、これを告げている二十四の長老のひとりとは誰でしょうか?
聖書を見ると、イエス・キリストによる救いの摂理について明らかに悟り、それを体系的で論理的に確立した方がいます。それは使徒パウロです。その上、使徒パウロは旧約のみことばをところどころに引用して、イエス・キリストによる救済観を確立しました。また、人間耕作についての神様の摂理と終わりの時についても、明らかに啓示を受けました。
したがって、封印を解くのにふさわしい資格を備えられた主について、使徒パウロほどよく知っていて説明してくれる人が、二十四人の長老のうちに誰がいるでしょうか? ですから、今、使徒ヨハネに話している二十四人の長老のひとりとは、使徒パウロなのです。
また、続く[6節]に「さらに私は、御座―そこには、四つの生き物がいる。―と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」とあります。
二十四人の長老のひとり、使徒パウロから、封印を解くのにふさわしい資格を備えられたイエス・キリストについて聞いた使徒ヨハネに、ほふられたと見える小羊が見えます。ここで「小羊」とは、まさにイエス様を意味しています。
羊は動物の中で最も優しくてよく言うことを聞き、人にも全く害を及ぼさないことでよく知られています。互いに噛んだり、争って喧嘩したりする悪い姿がなくて、人のために毛、革、肉などすべてを与え、ただ益だけを与えます。
イエス様もこういう羊のように、私たちのためにすべてを犠牲にして、ただ私たちに益だけを与えてくださいました。その上、イエス様をただの「羊」でなく「小羊」と表現していますが、これはイエス様が小羊のように、わずかな傷もなくきよいからです。
イスラエルの民がエジプトから出てくるとき、エジプトに初子の災いが臨む前に、神様はイスラエルの民に、災いを免れて救われる方法を教えてくださいます。傷のない一歳の雄羊をほふり、その血を門柱につけるように言われます。
一歳の雄羊とは、まださかりがつく前の羊で、純粋できよい羊を言います。このような小羊のように、全く罪もない、きよいイエス様が私たちのために代わりに十字架につけられて、すべての水と血を注ぎ出されて死なれたのです。それも33歳という若さで死なれたので、使徒ヨハネは「ほふられたと見える」と表現しています。
そして、このような小羊が御座と四つの生き物と長老たちの間に立っていたということは、神様と私たち人間の間に、なだめの供え物になって、仲介者になってくださったことを表します。それで、[第一ヨハネ2:2]に「この方(つまり、イエス様)こそ、私たちの罪のための、―私たちの罪だけでなく全世界のための、―なだめの供え物なのです。」とあるのです。
ところで、使徒ヨハネが見ると、この小羊に七つの角と七つの目がありました。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である、と言っています。
七つの御霊についてはすでに説明しました。神様は七つの御霊を通してこの地上のすべてを探られます。人の心も、思いも、行ないも探られて、このように測られた結果に従って、それぞれの答えと祝福の可否を決定されます。七つの御霊を七つの目にたとえたのは、七つの御霊には、このように探って測る役割があるからです。
七は完全数で、七つの目とは、どれ一つも見逃さずに、すべてを完璧に探って、神様が定められた基準に従って一寸の誤差もなく測られる、という意味を象徴的に表現しているのです。
[黙示録4:5]では、七つの御霊を七つのともしびと言いましたが、これもやはり、七つの御霊はいくら暗くて隠されていることでも、明らかに照らして探られるという意味で、ともしびにたとえたのです。このように神様は七つの御霊について、私たち人が理解できるように、ともしびや目にたとえて言われました。
それなら、七つの角とは何を意味するでしょうか? 「角」にはいろいろな意味があります。
[詩篇18:2]には「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」とあります。ここで「角」とは、力と権威、能力、助けなどを意味します。
[ルカ1:69]には「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」とありますが、この時も「角」は力と権威と能力を意味しますが、特に「統治者」や「王」を意味します。
次に、[詩篇75:5]に「おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな。」とあります。ここで「角」は、自我、自尊心、自分の義と枠などを意味します。
このような意味のうち、きょうの本文にある「七つの角」の「角」は、王や統治者という意味です。したがって、小羊である主に七つの角があるということは、主が完全な王であり、統治者として人間耕作のすべての歴史を探って、つかさどっていかれる、という意味があります。したがって、七つの角も結局は、すべての支配者として全世界をあまねく探り、正確に判断して、支配して治められるという意味を表しているのです。
ところで、このようにすべてを探って、つかさどっていかれるために七つの御霊が存在しているので、七つの角とはすなわち、七つの御霊という意味もあります。
そして、私たちはここで、七つの角もやはり七つの御霊を意味するということによって、七つの御霊のもう一つの役割を知ることができます。それはまさに心を訓練する役割です。七つの御霊は各人の心を正確に測るだけでなく、欠けていることは何か探って、それを満たすようにする役割もあるのです。
肉的に、角は突く役割をします。霊的にも、角には突く役割があり、人の心を訓練する道具という意味があります。
たとえば、ある人の心に自尊心、自我、自分の義と枠という角がいっぱいあるなら、その角で他の人々の心をどんなにたくさん突くでしょうか? ところが、そのように突くことが、結局は相手の心を訓練する道具になります。角に突かれる人は心の訓練を受けるでしょうが、結果的にはその訓練によって、さらに全き姿に変えられるのです。ですから、自分自身が相手を突いて、心を訓練する角になってはいけないのですが、誰かが皆さんを角で突いて皆さんの心を訓練するなら、感謝で受けて通り抜ければよいのです。
このように角には心を訓練する役割があるように、七つの角もやはり各人の心を探り、同時に各人の心に触れ、訓練を受けるようにして、ついに基準に合格できるように導く道具としての役割があります。すなわち、七つの御霊の役割は単にすべてを探って測ることだけでなく、答えの基準に完全に合格できるように手助けして、導いてくれる役割もあるのです。
七つの御霊は神様の心と言いましたが、神様の心はすなわち、聖霊様の心でもあります。したがって、七つの御霊には、助ける霊として働かれる聖霊様の属性も、このように含まれているのです。
次に、[7節]に「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」とあります。唯一、封印を解くのにふさわしい資格を備えられた主が、今、父なる神様の手から巻き物を受け取られます。
もちろん父なる神様は直接封印を解いて、すべてを成し遂げられることもおできになりますが、このようにすべての権威を主に与えて、主の御名によって成就していくようにされました。このように主が父なる神様の手にあった巻き物を受け取られたので、もうすべての権限が主に移されて、主が主体になられたのです。
もちろん、だからといって、主が今後なされることを任意にされるという意味ではありません。主は当然、すべてを父なる神様の摂理に従って、父なる神様のみこころに従って成し遂げられます。しかし、実質的に封印を解いてつかさどっていくのは主による、という意味です。
[8節]に「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」とあります。
今、四つの生き物と二十四人の長老が小羊、すなわち、主の前にひれ伏したということは、主の権威と威厳がどれほど大きいのか表してくれているのです。王の王、主の主であられ、これから実際、すべてを成し遂げる権限を持たれた主の前に、四つの生き物と二十四人の長老であっても、このようにひれ伏して拝み、賛美をささげるのです。
ところで、ここに立琴と金の鉢が出て来ます。この時、立琴と金の鉢は、それぞれ聖徒たちの賛美と祈りの香を測る道具のような役割をするものです。立琴は、皆さんが心からどれほど喜びと感謝で神様の前に賛美したかを測ります。金の鉢は、聖徒たちの祈りを測ります。金の鉢には香がいっぱい入っていますが、これは聖徒たちの祈りだと言いました。
聖徒の皆さん、私たちが神様の前にささげるすべて賛美と祈りは香になり、神様の前に立ち上がるようになります。天には、私たちひとりひとりを探るように、神様が付けてくださった御使いがいて、この御使いが私たちの賛美と祈りを香として受けて、神様の前に持って行きます。もちろん、この御使いが直接神様の前に香を持っていくのではなく、途中で御使いのかしらが集めて持っていきます。この香が神様の決めておかれた量になると、それにふさわしい答えと祝福が与えられます。
ところで、人々がささげる賛美と祈りの香はみな違います。とても太い香として上がる人もいて、細い糸のような香として立ち上がる人もいます。とても濃い香として立ち上がる人もいて、薄い香として立ち上がる人もいます。したがって、同じように祈って賛美をしても、神様がさらに喜んでかがれるものもあり、そうでないものがあるのです。
また、同じ祈祷課題をもって祈ったとき、どんな太さの香で祈りをささげるかによって、それぞれ答えに必要な量を満たす期間も違います。ある人はとても太い香の祈りをささげて、一日目で答えに必要な祈りを満たすかと思えば、ある人は一週間、十日以上祈って、やっと必要な祈りを満たす場合もあるのです。
ところで、ある場合は祈ってもまったく香が立ち上がれない場合もあります。まず、神様の前に大きい罪の壁をもって祈ると、神様がまったく聞いてくださらないのです。
[イザヤ59:1-2]に「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。
また、居眠りしながら雑念の中で 同じ言葉をただ繰り返す祈りも、まったく神様の前に届かないのです。空中の権威を持っている悪い霊どもがこの祈りの香が上がれないように妨げて、散らすからです。神様が受けられるほどの香になる祈りだけが金の鉢に入れられて、神様の御座の前に届きます。
ところで、神様はなぜ聖徒たちの祈りの香を金でできた鉢に受けるようにされたのでしょうか? 金は「変わらない信仰」を意味します。神様はまさに信仰でささげる祈りの香を受けられるので、金の鉢に入れるようにされるのです。
そして、使徒ヨハネが見るとき、金の鉢に香がいっぱい入っていた、ということは、もう人間耕作の期限が近づいていることを意味します。今まで各人が神様の前にささげたすべての祈りと賛美の香を総合的に測られる時が来たことを意味しているのです。
続く本文[9-10節]には、四つの生き物と二十四人の長老が主の御前にささげる新しい歌の内容が出て来ます。この内容からは次の時間に続いて調べましょう。
愛する聖徒の皆さん、きょうのみことばを通して、皆さんの祈りのひと言、賛美の一節もすべて香となって、神様の御座の前に立ち上がることがわかりました。いくら祈って賛美しても、それが全然香として立ち上がれない場合もあると言いました。
それなら、皆さんの祈りと賛美は、今どんな香としてささげられているでしょうか? 仮に賛美がよくできない人がいても、神様はその声や実力そのもので評価されるのではありません。賛美する皆さんの心の香を受けられるのです。ですから、どれほど心を尽くして歌詞一節一節の意味を心に刻み、思いを尽くして神様の前にささげるべきでしょうか。
たとえば、皆さんがこのように金曜徹夜礼拝に来て、夜を徹して賛美をささげたのに、神様が「私はあなたの賛美の香を少しも受けなかった」と言われるなら、どれほどもどかしいことでしょうか。眠気に勝てず、つらそうに口だけパクパクして賛美をささげるなら、それは香となって立ち上がれないのです。
祈りも同じです。祈りをどれほど流ちょうにするのかが大切なのではなく、どんな心と思いで最善を尽くしてささげるのかが大切です。毎日、毎日、ダニエル徹夜祈祷会に来て祈っても、神様が受けられる祈りでなければ、そのような祈りは答えられません。ですから「私はいくら祈っても答えられない」と、結局あきらめてしまうのです。祈っても答えられないのでなく、皆さんのほうで神様が受けられるほどの祈りをささげなかったことを顧みなければなりません。
このようなことをよく心に刻み、皆さんが一瞬一瞬ささげる賛美と祈りが、本当に神様の御座の前に届くだけでなく、神様の御座を動かす、そのような太くて濃い香になりますように。皆さんの賛美と祈りが神様の心を感動させるほどの美しくて満たされた香としてささげられるなら、神様は「誰がわたしの前にこんな祈りと賛美をささげているのか」と御座から立ち上がり、当然皆さんをご覧になるのではありませんか? また、皆さんの祈りの香が積まれて、神の国を実現するのに力になったほど、そのすべては一つも地に落ちないで、最後の審判の日に皆さんに報いとして与えられます。一方、いくら神の国のために祈ったからといって、神様がその祈りを受けられなかったなら、皆さんの祈りが何の報いにもならないのです。
したがって、皆さんがささげる一瞬一瞬の祈りと賛美が全き香りとしてささげられますように。詩編の記者も、[詩篇102:1]で「主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。」と告白しました。このように皆さんの祈りと賛美も、神様がお聞きになって、皆さんがささげる香が主の前に美しく届きますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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