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Title
黙示録講解(34)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙4:4-5
Date
2007-08-10
黙示録4:4-5
また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
この間までは聖書の昔の信仰の人々のうち、将来二十四人の長老に入る12人について語りました。天国で序列が最も高いエリヤ、エノク、アブラハム、モーセの四人を除いて、その次の使徒パウロから二十四人の長老に入る、と言いました。その次にペテロ、使徒ヨハネ、ダビデ、サムエル、ヨセフ、ダニエル、そしてダニエルの三人の友だち、シャデラクとメシャクとアベデ・ネゴ、これにピリポ執事とステパノ執事が二十四人の長老に入ると言いました。
彼らの信仰を一つ一つ考えてみれば、それぞれが神様の前にどれほどふさわしい資格を備えていたのか、わかります。たとえば、相対的にあまり目立たないダニエルの三人の友だちを見ても、彼らは幼い時から神様の前に真実な信仰を持っていたことがわかります。幼い年にバビロンに捕えられて行ったとき、彼らは神様の前に自分を汚さないために、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒を拒み、代わりに野菜を食べ、水だけを飲みました。それにもかかわらず、彼らの顔色は王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていました。
彼らはどうしようもない現実に安住して、適当に妥協しようとしたのではなく、命が脅かされても、最後まで神様の前に信仰を守る、まっすぐな心を見せたのです。このような信仰だったので、彼らは普通より七倍も熱くした、火の燃える炉に投げ込まれても、偶像の前に決してお辞儀をしない、堅い信仰を見せたのです。
普段は信仰が良さそうな人でも、実際、自分に何か危険や害が来そうだったら、適当に避けようとする心のため世と妥協して、神様にさびしい思いをさせる場合があります。こういう人がもし、死の脅威の前に置かれたら、はたしてダニエルの三人の友だちのような信仰が見せられるでしょうか?
ピリポ執事やステパノ執事も、使徒パウロや使徒ペテロに比べたら、そんなに目立たない人物です。しかし、彼らの信仰はイエス様の弟子たちと比べても、決して劣らなかったし、むしろさらに優れていました。そのしるしがまさに御力です。
イエス様の弟子であっても、皆に御力が現れたのではありません。弟子のうち、御力を行なったことが正確に聖書に記された人は、実際、使徒ペテロひとりだけです。ところが、ピリポ執事とステパノ執事を通しては、御力が現れたことが聖書に記されています。
したがって、<マタイ7:20>に「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」とあるように、彼らの実によって、どうして彼らが二十四人の長老に入れたかが悟れます。
聖徒の皆さん、神様が今まで教えてくださった二十四人の長老に入る人物のうちには、まだ耕作を受けている人々も含まれています。そのうち、きょうはふたりを伝えます。後の人物についてはまだ語る時ではありません。前にも話しましたが、まだ人間耕作を受けている過程なので、確定されたことではないからです。
もちろん、予知予定なさる神様は使徒パウロの心を見て、「異邦人のための選びの器」と言われたように、彼らの心をご覧になって教えてくださいました。今後残った時間に、聖められて忠実になり、完全に変えられるとき、十分にその座に入る心だということです。
したがって、結果はあくまでも本人たちの自由意志にかかっているのです。約束を受けた人であっても、変わってしまい、父のみことばを捨てるなら、受けた約束が何の意味もありません。また、誰であっても、これからの耕作の時間に、もっと一生懸命に努力して、神様の前にふさわしい心になるなら、その人もいくらでも二十四人の長老に入れるという神様の約束が受けられます。
また、「二十四人の長老はやっと24人なのに、多くの人々が二十四人の長老にふさわしい資格を備えるなら、どうするのだろう」と心配する必要もありません。主がまた来られる最後の瞬間まで、皆さんの前に下さった目標に向かって行けばよいのです。
ところで、これから語るふたりは、たとえ今の時代に生きて、まだ人間耕作を受けているとしても、すでに彼らの存在が聖書に記されています。そして、必ず聖書に記されているとおり、彼らに与えられた使命を果たすでしょう。また、それくらいの信仰ならば十分に二十四人の長老に入れるので、まだ耕作が終わっていないのにもかかわらず、二十四人の長老にその名が挙げられたのです。
そのふたりとはまさに<黙示録11章>に出てくるふたりの証人です。このふたりの証人は、将来主が空中に降臨されるとき、当然上げられる信仰なのに、この地上の七年患難に残って、大きい使命を果たす人たちです。
聖書には、彼らが使命を果たす期間が一千二百六十日、つまり、三年半だと書かれています。これは、言いかえれば、七年患難のうち、正確にいつからいつまでなのかまではまだ教えてくださらなかったのですが、その人たちが七年のうちの三年半の間、この地で使命を果たす、ということです。
そして彼らの使命は、この地上に残った人々に神様のみことばを宣べ伝えて、御力で神様を証しすることです。たとえば、この人たちが預言をしている期間は、雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変える、と書いてあります。父の御旨によってあらゆる災害を命じると、その口のことばがそのまま実現されるのです。
こういう驚くべき御力とともに神様のみことばを宣べ伝えると、悪い人々は悔い改めて立ち返るのではなく、心が刺されるので、彼らを嫌ってむしろ殺そうとします。しかし、<黙示録11:5>に「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。」とあるように、神様の摂理のうちに、彼らに与えられた使命を終えるまでは、神様がこのように徹底的に守って保障されるのです。
そうするうち、決められた三年半が経ったら、ふたりの証人は殺されるようになります。この時、彼らを嫌った悪い人々は、ふたりの証人の死体を墓に納めることを許さず、そのまま放って置きます。
ところが、このふたりの証人は死んでから三日半になると、神様がまた生かしてくださるのです。そして、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言われると、生き返ったふたりは、彼らの敵が見ている前で、雲に乗って天に上るのです。この地上で七年患難の時、三年半の間、働くことは決してやさしいことではありませんが、そのすべてを完全に果たしたら、このように光栄ある結末を迎えるのです。
この人たちの使命については、これからまた詳しく説明しますが、簡単に言うと、この地上に残って七年患難を経験している人々にとって、神様が下さる最後の警告のメッセージであり、同時に救いのメッセージとも言えます。その上、少しでも善の残った人々は、これから説明する十四万四千名の伝道者とともに叫ぶ、このふたりの証人の声を聞いて、最後の救いの機会をつかむのです。
一方、むしろこのふたりの証人を迫害して、彼らの殉教を見て喜ぶ人々もいます。このような人々は神様が下さる最後の警告さえも無視するので、結局、自分たちがどれほど悪いのか自らが証しするようになります。
聖徒の皆さん、以前は皆さんが聖書のふたりの証人の内容を読むとき、これらのみことばがあまりにも不思議で、皆さんとはかけ離れたことのように感じたかもしれません。しかし、聖書に預言されたこのふたりの証人は、まさに今日、どこかで私たちとともに呼吸して生きているのです。
それなら、その人たちは今、どこで生きているでしょうか? まさに私がこの前、行ってきた国です。そしてこの人たちは、神様が終わりの時、本教会に下さった使命と緊密につながって、将来劇的に現れるようになっています。その詳しい説明は次にして、今はふたりの証人について簡単に伝えます。
このふたりの証人は、イスラエル民族として現在は徹底したユダヤ教の信奉者です。ところが、自らは自分たちが今後どのように用いられるのか、まだわかりません。終わりの時の主のふたりの証人をイスラエル民族から立たせることは、福音が始まったイスラエルで福音の働きを仕上げることを願われる神様の摂理によるものです。
この人たちはおとなしい羊のような性分を持っていて、神様の前に美しい心を持った人で、時になって神様が彼らにイエス・キリストを受け入れるように働かれるまでは、ユダヤ教の信仰を徹底的に守るのです。まるで使徒パウロが主を受け入れる前は、ユダヤ教にとても熱心だったことのようです。
彼らは心から神様をこの上なく愛するので、それなりに自分たちが習ったユダヤ教の律法を徹底的に行なって生きます。しかし、その心には、まことの神様の御心と真理にいつも飢え渇いているのです。
そうするうちに将来、時になり、聖霊の火のようなみわざを体験すると、彼らはその善良な心で直ちに悔い改めて、主を受け入れるのです。そして、主が来られる前まで、心で悪はどんな悪でも避けて完全に聖められ、神様が彼らに下さる使命を果たすように、御力を現す器を準備します。
ついに空中に主が降りて来られ、救われるすべて聖徒たちが上げられるとき、このふたりは荒れた原野のようなこの地上に残って、主のみこころを宣べ伝えるようになります。残された人々の中で主のみこころを宣べ伝えて、ついに殉教しますが、またよみがえり、空中に上げられることで彼らの使命が終わります。
それなら、皆さん自身がそのような使命をゆだねられたと想像してみましょう。すでにこの地上は、聖霊が呼び戻されて、すべてが敵である悪魔の手に渡された状態です。全世界に救われた聖徒がみな上げられて、全人類の中に皆さんの味方は誰もいません。もちろん落ち穂拾いの救いを受ける人々もいますが、皆さんが彼らに何か助けられるよりは、皆さんが彼らに福音を伝えて、彼らが最後の救いの機会をつかむように、この地上に残された立場です。
そのうち戦争と自然災害によって、全世界はますます荒廃していき、心が麻痺した悪い者たちが皆さんに立ち向かって殺そうとします。その中で三年半もこの地上にとどまって、神様のみこころに従ってさびしい霊の戦いをして、結局は殉教しなければなりません。まるで火が燃える地獄の真ん中で、ひとりで主の御名を叫ぶような状況で、地獄の使いのような悪い人の前に自分の命を完全に渡していなければならないようです。
こういう状況で、ただ神様だけに頼って御力を行ないながら、使命を完全に果たすなら、その信仰はどうあるべきでしょうか? ですから、彼らが二十四人の長老に入るのは当然です。
聖徒の皆さん、これで二十四人の長老に入る14人について語りましたが、メッセージを聞きながら、自分の信仰をその人たちと比べてみられたでしょうか?
二十四人の長老に入る人々の信仰の共通点は、その心がまっすぐで善良であり、神様をこの上なく愛して、どんな瞬間にも信仰を守ったということです。神様のみこころを実現するためなら命も惜しまなかったし、心には一生懸命に愛を耕しました。また、熱い心で忠実だったし、ただ神様の栄光のためにすべてをささげました。
それぞれ違う時代に、それぞれ違う環境で生まれ育ち、それぞれ違う状況で使命を果たしたにもかかわらず、彼らの信仰にはこのように明らかな共通点がありました。ですから、将来、審判の時になり、この地上で耕作を受けたすべての人々が神様の御座の前に立ったとき、彼らがどの時代、どこの国と民族、どんな環境と条件だったのかとは関係なく、二十四人の長老の信仰と比べてみると、決して弁解や言い訳をすることができません。
しかし、必ずしも彼らの信仰と比べて足りないところを現されるために、神様が二十四人の長老を立てられるのではありません。皆さんの信仰が二十四人の長老の信仰と比べたとき、いくらでも称賛と栄光を受けることもありえます。彼らに劣らないように、皆さんも神の国と義のためにいのちを尽くして忠実であって、献身して心と思いと最善を尽くして神様を愛したなら、二十四人の長老の信仰と比べて、それほどの報いと栄光を得るのです。
ですから、たとえ今は二十四人の長老の信仰と比べてまだ足りなくても、これから二十四人の長老の信仰を目標として、一生懸命に走って行かれますように。神様が将来、二十四人の長老に入る人物を本教会に教えてくださったのも、まさに皆さんに目標を与えられるためです。どんな人が二十四人の長老に入って、彼らの信仰はどうだったかを教えてくださり、皆さんも変えられるために努力するようにされたのです。
したがって、皆さんは二十四人の長老が心に実現したと義と愛と善と信仰などを信仰の目標として、必ず実現されますように、主の御名で祈ります。
聖徒の皆さん、きょうの本文に、二十四人の長老が白い衣を着て、金の冠をかぶって座にすわっていたとあります。天国に行けば皆が白い衣を着ますが、あえてここで「白い衣を着て」と言われたのは、彼らが父なる神様の前にどれほど聖められたのかを意味するからです。
もちろん、二十四人の長老が着ている白い衣は、同じ白い衣であっでも、天国の民が着るものとはかなり違って、新しいエルサレムの民が着るものとも見分けられるほど、さらに輝いて美しいのです。
また、二十四人の長老に与えられる金の冠には、彼らが神様の前に死に至るまで忠実であって、神の国のために涙で祈り、心を尽くして神様を愛したという意味が含まれています。冠が金でできているということは、まさに純金のような信仰のしるしです。
ところで、金の冠であっても、みな同じものではありません。大きさも同じではなく、形と飾りもそれぞれ違います。あるものは大きくて、あるものは小さいし、あるものは中間の大きさです。また、あるものには宝石がたくさん、あるものには少なく飾られていて、冠から出る光彩もそれぞれ違います。
同じ二十四人の長老に入ったとしても、彼らの中にもみな序列があります。序列に従って報いと栄光が違って、互いの間にも正確な秩序があります。また、神様が高く認めてくださった分野も違うために、信仰のどんな分野が優れていたかによって、与えられる報いと飾りが違うのです。ですが、二十四人の長老は天国で最も序列が高いほうですので、この人たちに与えられる栄光と誉れは、天国の民の誰とも比べられないほど、大きくて美しいのです。
続く本文<5節>に、「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」とあります。
神様の「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった」とは、これはすなわち、光の中で声を含んでおられた初めの神様の姿を表しています。もちろん今は光と声のかたちでなく、一つのかたちを着ておられますが、その根本の属性はそのまま含まれています。それで、光と声を通して働くことがおできになり、これには神様の威厳と御力がそのまま含まれているのです。
また、神様の御座から出てくるいなずまと声と雷鳴は、第一、二、三の天のすべてが父なる神様に属していて、すべてをつかさどる法則がみな父なる神様から出て来たという意味です。したがって、第一の天で天気を動かすことも、不思議を行なうことも、すべて父なる神様の御力に属したものなのです。
後半節からは次に時間に続けて調べましょう。
愛する聖徒の皆さん、使徒ヨハネはその霊が分離されて、神様の御座の前に行き、そこにいた二十四人の長老を見ました。
ところが、時間的に見ると、使徒ヨハネが黙示録を書いた当時は、まだ二十四人の長老が確定されていたのではありませんでした。すでに決められた方もいましたが、二十四人の長老が完全に確定されるのは、将来、主の空中再臨と同時に、この地上の人間耕作が終わる瞬間です。
もちろん、ふたりの証人はそれからもこの地上に残って使命を果たしますが、二人の証人は予知予定される神様の摂理によって、すでに二十四人の長老に定められていますので、実際、救われた神様の子どもたちが携挙されるのと同時に人間耕作が終わり、二十四人の長老が確定されます。
それなのに、使徒ヨハネはまだ人間耕作が終わったのでもない時に、すでに二十四人の長老が全部座っているのを見ました。それなら、二十四人の長老がすでに定められている、という意味でしょうか?
使徒ヨハネは、明らかに24人を全部見たのです。すべてをご存じの神様がこのように使徒ヨハネに見せられたということは、結局、二十四人の長老がすべて定められたという意味ではありません。まだ二十四人の長老、すべてが定められてはいません。すでに全部定められたなら、その中に入らなかった人は、いくら努力してもこれ以上何もならないのではありませんか?
ですから、前もお話ししたように、使徒ヨハネの霊が二十四人の長老を全部見たのは、時間と空間を超えて、遠い未来に神様の御座の前で行なわれる状況をあらかじめ見ているからです。神様はもちろん公義に従って働かれますが、心に願われるなら、いくらでも時間の流れを調節して、今後のことを現在のように見せることがおできになります。
したがって、誰でも今からでも努力してふさわしい資格だけ備えるなら、その人は確かに二十四人の長老に入れます。これがまさに神様の予知予定なのです。神様はすべてをご存じですが、かといって、すべて神様が望まれる通り、定められるものでもありません。もちろん、神様はどうなるのか、その結果まで全部ご存じなので、神様が定められたことは必ずそのままなされます。
ところが、これは予定論で言うように、「神様はすでにすべてのことの結果を定めて、摂理を成し遂げていかれる」ということとは全く意味が違います。神様のほうから結果をすべて決めておいて、そのまま作り上げていかれるのではありません。神様は各人の自由意志によって、誰にでも機会を与えられて、公義に合う資格さえ備えるなら、それにふさわしい実を刈り取らせるのです。
しかし、神様はすべてをご存じですので、各人が自由意志によってどう行なっていくのかまでもご存じです。結果までもあらかじめおわかりになるのです。それで、その結果に合うように神様の摂理を定められて、このように定められたことは必ず成就されます。
だからといって、神様が摂理を成し遂げるために任意に介入して、人の自由意志に逆らって何かを作り上げていかれるのではありません。すべては各人の自由意志に従って、自ら成していくのです。
たとえで説明すると、皆さんがご飯を炊くとき、米をどのくらい入れれば何人分のご飯ができる、とわかるでしょう。それで、仮に5人分の米を入れたなら、当然5人分のご飯ができるでしょう。しかし、ご飯を炊く過程で思わずご飯を焦がしてしまったなら、5人分のご飯はできないでしょう。
この時、予定論は、神様が5人分のご飯ができるように一度決められたら、結果的に必ず5人分ができると説明することです。ですから、おかずや汁も初めから5人分に合わせて準備すればよいのです。
一方、予知予定論の場合は、5人分のご飯を炊くために米を入れても、人がご飯を炊いている途中で焦がしたり、生煮えになったりすることもありますが、神様はそれもすべてあらかじめご存じだと説明します。それで、5人分のご飯がちょうどできるのか、でなければ3人分、あるいは4人分ができるのかをあらかじめご存じであり、おかずと汁もそれに合わせて準備するように定めておかれるということです。
聖徒の皆さん、今このようなことを申し上げる理由は、今からでも本当に心の底から覚悟して、新しいエルサレムの栄光のために走って行かれるようにと願うからです。まだ人間耕作の時間が残っているので、神様を熱く愛して、神の国のためにいのちを尽くして忠実な者になるなら、皆さんにも大きい栄光が備えられているのです。
さらに、今後しばらくの間ですが、本教会が世界宣教と大聖殿建築の使命を果たすことにおいて、皆さんの器さえ準備されているならば、皆さんはいくらでも大きい役割を果たすことができます。この時、「器の準備」とは、まさに霊の人になることです。霊でなければならないことを、今は皆さん自らもとてもよく感じているでしょう。
したがって、もっとすみやかに霊へ、全き霊へと耕して、皆さんを通して思いきり神様の働きが成し遂げられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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