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Title
黙示録講解(29)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:14-22
Date
2007-06-29
黙示録3:14-22
「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
世のことわざの中に「カエルはおたまじゃくしの時を考えない」という言葉があります。つらくて苦しい状況にいた人が何かの助けを受けて、状況が良くなると、以前につらくて苦しかった時期はもちろん、その時、助けられたことまでもすっかり忘れてしまうという意味です。それで、これは受けた恵みを忘れてしまう場合や、昔の苦労を忘れてえらぶる場合などに、幅広く使われていることわざです。
ところで、信仰にあってもこういう場合があります。いろいろな問題でつらくて苦しかったとき、神様の前に切に祈り求めて、神様の恵みと祝福を受けましたが、それからもっと熱心に信仰生活をするのではなく、むしろ神様を遠ざけて世と妥協していく場合があります。
すると、ある方は「神様はその人がそうなるとは知らずに祝福を与えられたのでしょうか?」と聞くこともあります。もちろん神様はすべてをご存じです。ですから、神様は魂に幸いを得ている祝福を先に与えられてから、すべての点でも幸いを得る祝福を与えようとされます。それがまことの祝福だからです。
ところが、霊の世界には公義の法則があります。この法則にふさわしく行なうなら、法則に従って答えが与えられます。たとえば、ある人がまだ魂に幸いを得ている状態ではなくても、その当時に自分の信仰で最善を尽くして信仰を示し、心を尽くして蒔いて祈ったなら、それについては実を刈り取ることが公義です。もちろん魂に幸いを得ている祝福も下さるでしょうが、その時に信仰で蒔いて行なったことは刈り取らせるのです。
仮に すべての人が魂に幸いを得た後に初めて、すべての点に幸いを得る祝福も受けられるならば、はたして答えられて祝福される人がどれほどいるでしょうか? したがって、神様は公義の法則の中で、各自の信仰の量りに応じて、その時その時、答えと祝福を下さるのです。
ところで、重要なことはこのように答えられて祝福された後です。それ以後の信仰生活をどうするのかによって、その答えと祝福が完全なものとして実を結ぶこともあり、反対にまた消えてしまうこともあるからです。
各自がどんな信仰の道を選ぶのかによって、全く違う結果が現れるのです。ずっと魂に幸いを得ている祝福の道に行くなら、神様に守られて、さらに大きく祝福されていきますが、反対に、祝福されてからまた世に向かうなら、以前よりさらに良くない状態に陥ることもあります。
したがって、神様から祝福された後に、どう行なっていくのかが重要であり、その祝福をどのように使うのかも重要なのです。
ところが、時には教会も、神様が下さった祝福を間違って使う場合があります。たとえば、ある教会が熱心に祈って神の国のために忠実になっていくと、神様はリバイバルの祝福も、物質の祝福も下さって、聖徒たちにもふさわしい祝福を下さいます。そうするうちに、教会と聖徒たちが世の中の富と名誉と権勢を持つ場合があります。豊かで権勢のある聖徒たちがたくさん集まって、世でも認められる教会になるのです。
ところが、このように教会が富と名誉と権勢を得たとき、そのために世と妥協していく場合が問題です。教会が富と名誉と権勢を求めたり、それを持とうと欲を抱いたりしてもいけないのですが、仮にそういうものを持つようになっても、それはただ神の国と魂たちのために良い意図で使われなければなりません。さらにへりくだった姿で周りに仕えることで、世の光と塩になるべきであり、様の栄光を現すためだけに努力しなければなりません。
ところで、ある教会は富と名誉と権勢を得ると、さらに多くのものを得るために、世と妥協していくのです。「どうすればひとりでも多くの魂が救えるだろうか? どうすれば神の国をさらに拡張していけるだろうか?」などよりは、世で認められて力と権勢を持つことにもっと関心を持つようになるのです。そうするうちに世とも適当に妥協しながら、富と名誉と権勢を持っている人々とつながっていくようになります。
だからといって、世で富と名誉と権勢を持った人々を排斥しなさい、という意味ではありません。当然、その人々もキリストの愛でいだかなければならないし、主にあって交わり、彼らにも信仰を植え付けて、彼らを通して神様に栄光が返せるならば、とても良いことでしょう。ですが、このような純粋な目的ではなく、教会がさらに大きい富と名誉と権勢を得るために世と友になっていく場合があります。
きょうの本文に「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもない」というみことばには、まさにこのような教会への主の非難も含まれているのです。
聖徒の皆さん、しかし、「信仰がなまぬるい」というみことばに含まれた最も重要で根本的な意味は、まさに神様と世の両方をかけている信仰を言います。わかりやすく言えば、ふたまたをかけていて、状況によって自分の益や便宜を求めて良いほうを選ぶことです。
しかし、神様のみことばはこのような信仰に対して明らかに警告されます。<第一ヨハネ2:15>に、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とあります。
また<ルカ16:13>に、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。
ここで「富」とは、必ずしも物質だけを意味するのではなく、世と世にあるものを代表的に象徴しているのであり、このように世や世に属したものと神様を同時に愛して仕えることはできないというみことばです。
ある人々はこのようにふたまたをかけて信仰生活することが知恵のように思うのですが、これは決して賢いことでなく、愚かなことなのです。神様は、こういう信仰を持った人を口から吐き出そうと言われるのです。
ところで問題は、このようになまぬるい信仰の人々が、自らの信仰を顧みることも、過ちを悟ることもできないということです。なぜそうなのか、その理由が<17節>に出てきます。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」とあります。
いっそ自分の乏しさを悟って認めるなら、神様にすがり、立ち返る機会でも得られるのに、なまぬるい信仰を持った人は自ら「自分は富んでいる。」と思うので、自分の乏しさを悟ることもできなくて、認めようともしません。それで、「豊かになった、乏しいものは何もない」と言って、熱心になろうとも、変えられようとする努力さえもしません。
それでは、このような人が自ら言うように、はたして乏しいものは何もない、豊かな人でしょうか? 仮に肉的に乏しいものがなくても、霊的には霊と魂がいつもみじめであり、聖霊に満たされずに、霊的な力を受けることもできません。聖霊様は嘆かれて、心をたびたびたたかれるけれど、祈らないのでもう聖霊様と交わりができなくなり、その嘆きの声さえ聞けないのです。
ですから、このような人は霊的にみじめであり、肉的にはいくら富と名誉と権勢と学識など多くのものを持ったとしても、結局は霊と魂が死に向かうしかないので、本文ではこういう人を「哀れだ」と言うのです。
また、彼らを「貧しい」と言われたのは、彼らが霊的に貧しい人だからです。この地上での肉的な富は、結局すべてが朽ちてしまうむなしいものにすぎません。したがって、この地上で多くを味わって豊かに生きたとしても、それがまことの富ではありません。朽ちない天国に永遠の報いを積み上げている人が、まことに豊かな人なのです。
ところで、なまぬるい信仰を持った人は神様の前に忠実であることも、奉仕することもできなくて、物質が惜しくて神様の前に蒔かないので、結局天国に積むものがありません。したがって、たとえ後で悔い改めて、かろうじて救われて天国に行っても、報いが全くありません。ですから、こういう人々を「貧しい」と言うしかないのです。
また、そのような人々に「盲目」と言われたのは、このようになまぬるい信仰生活をする人は、御霊に属した人だけがわかる、霊の世界を知らないからです。つまり、霊的には目の見えない人と変わらないのです。みことばを聞いても霊的な悟りが来ないで、霊の世界を見ることも、悟ることもできないので、後の世に対する希望よりは、すぐ目に見える現実だけを見つめるのです。
一方、霊の目が開かれて霊の世界を見る人、またみことばに対する霊の目が開かれて、みことばを霊的に悟って理解する人は、後の世に対する明らかな希望があるために、決してなまぬるい信仰生活をすることができません。みことばを通して自分を熱心に発見して、暗やみを脱いで光へと出て来るようになります。また、天国に積むために熱心に忠実に仕えて、心を込めて神の国のために蒔いていきます。
しかし、霊的に目が見えない人々は、<マタイ6:22-23>に、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」とあるように、自分の暗さが発見できないので、相変わらず暗やみの中にとどまるようになります。ですから、聖徒として当然着なければならない義の衣が着られないのです。
それで彼らに向かって、また「裸の者である」と言うのです。「衣」とは「人の心」を意味して、「義の衣を着る」とは、「心に割礼して、心に義を実現する」という意味です。
ところで、なまぬるい信仰生活をする人は心の割礼をせず、みことばどおり行なわないので、その心が相変わらず罪と悪で満ちていて、暗やみの中で生きていきます。これがすなわち、霊的には裸の者であることを現しているのです。
人がうわべで美しくて華麗な衣を着たとしても、それがまことに美しいものではありません。心に割礼をしないので、相変わらず罪と悪をいだいているならば、これはうわべでいくら良い衣を着ていても、神様のほうでご覧になる時は、裸の恥を現すようなものです。
ですから、皆さんは肉的な容貌の美しさではなく、心の美しさが現せるような義の衣を着られますように。
<黙示録19:8>に、「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」とあります。
また、天国についてのたとえで <マタイ22:10-14>に、「それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあります。
暗やみが少しもない天国では、白い麻布の衣を着ますが、これは聖徒たちの正しい行ないだと言いました。天国は正しく神様のみことばどおり行って、罪に染まった肉の汚い衣を脱ぎ捨てて、美しい礼服である義の衣に着替えた人だけが入れる所です。
したがって、花婿であられる主を迎えて、美しい花嫁として天国に至るためには、こまめに花嫁の備えをして礼服を着なければなりません。そのために、皆さんはなまぬるい信仰、つまり、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることとは全く関係ない信仰生活をしなければなりません。
主はなまぬるい信仰の人々に、<18節>に、「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」とおっしゃいます。
このみことばを文字どおりに解釈すれば、誤解が生じます。このみことばは実際に金を買って金持ちになりなさい、というみことばでもなく、白い衣を買って着なさい、目薬を買って目に塗りなさい、という意味でもありません。
本文で「金」とは、純金のような信仰を意味します。世の人々が「金」を最も大事に思っているように、信仰生活でも宝の中の宝である信仰をこの金にたとえて言われたのです。したがって、「豊かな者となるために、金を買いなさい。」とは、金のように変わらない信仰を所有しなさい、という意味です。
信仰があってこそ、救われて天国に行くことができ、<マタイ9:29>に、「そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。」とあるように、信仰があってこそ、この地上でも何でも求めて答えられることができるのです。
ところで、重要なのは、口だけで「信じます」と告白するからといって、それを無条件に信仰だと言うのではなく、みことばどおり守り行なう行ないが伴う信仰でなければならないということです。また、状況と条件に関係なく、変わらない信仰でなければなりません。このような信仰を霊の信仰と言い、このように変わらない霊の信仰を聖書では金、または純金にたとえるのです。
それで、霊の信仰を持った人は、一度神様が言われたみことばならば、どんな状況でも絶対に信じて従います。人の限界の中でだけ信じるのではなく、人の限界を超えることに対しても、最後まで信仰を示します。
<第一列王18章>の預言者エリヤは、まさにこのような霊の信仰を持った人でした。神様はエリヤに、三年半も雨が降らなかったイスラエルに雨を降らせると言われました。エリヤはこのみことばを信じて、カルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめるほど切に祈ります。
そして若い者に、海のほうを見てくれ、と言います。雨の兆しがあるかを見てきなさい、ということでした。ところで、若い者から「何もありません。」という返事を聞きます。するとエリヤはまた神様に祈って、再び若い者を送ります。このように二度、三度、四度、五度、六度までしても、若い者からは相変わらず同じ返事だけでした。
さあ、このような状況で皆さんならばどうするでしょうか? 神様は明らかに雨が降ると言われ、それでそのみことばを信じて六度まで祈ったのに、雨が降りそうな兆しは全くありませんでした。せめて手のひらほどの雲もなかったのです。
ところが、エリヤはこの状況で七度目の祈りをささげます。若い者に「七たびくり返しなさい。」と言ったのです。ついに七度目になったとき、若い者は「あれ、人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言いました。しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となりました。
聖徒の皆さん、エリヤは神様のみことばを最後まで信じました。七は完全数であり、七度目に答えられたとは、すなわち、最後まで信じて祈って答えられたという意味です。仮に七度目に答えられなかったとしても、エリヤは答えられる時まで何度も信仰で祈ったでしょう。神様が一度おっしゃったので、エリヤはそのみことばを絶対に信じたからです。
これがまさにまことの信仰です。このように一度信じた神様を最後まで信じることが純金のような霊の信仰です。
ところで、こういう信仰はただで与えられるのではありません。世でも純金が出て来るまでは、火で精練する過程が必要であるように、信仰もやはり訓練の過程があってこそ、純金のように出て来ることができるのです。
多くの試練と患難を通過しながら、勝利して血を流すまで罪と戦って捨てて、みことばどおり生きるために、苦労して忍耐して自制していくとき、まさにこのような訓練の過程を通して始めて、純金のような信仰が所有できるのです。
世でも、高価な物を買うためには、それにふさわしい代価を払わなければならないように、霊的に純金のような信仰もやはり、犠牲と忍耐と努力の過程を通してだけ所有することができるのです。
エリヤが答えが来るまで忍耐の時間を揺れずに勝利したように、皆さんも訓練の中で喜びと感謝で忍耐の時間を通過していくとき、信仰がだんだん成長して、ついに純金のような全き霊の信仰を所有するようになることを信じるよう願います。
次に、「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」と言われました。ここで「白い衣」とは、聖徒たちの聖なる行ないを意味します。
ところで聖なる行ないはまさに、聖なる心から出て来ます。<マタイ12:34節後半>に、「心に満ちていることを口が話すのです。」とあるように、結局、心にあることが言葉と行ないに出て来るからです。心はきよめずに、うわべだけ聖なるふりをする偽善の人は、心をご覧になる神様の前に隠すことができないし、いつかはその心の悪が明らかにされるのです。
したがって、本文にある「白い衣を着る」というみことば、真理に逆らう黒い心を脱ぎ捨てて、真理の白い心に変えていくという意味です。このようにする時だけ、先も申し上げたように、義の衣を着るようになり、裸の恥が現れないのです。
ところで今日、どんなに多くの人々が自ら裸であることも知らずに、裸の恥を現しているでしょうか? はなはだしきは獣より劣る行ないをしながらも、それを恥だと思わない人もいます。
しかし皆さんは、罪で染まった黒い心を持っていながらも、自分の罪と暗やみが発見できず、神様のかたちに造られた人の本分を失っていることがまさに、霊的には裸の恥であり、これこそが本当に恥ずかしいことだと悟らなければなりません。「神様を信じる」と言いながら、自分が裸であることさえ悟らない、このような愚かな人になってはなりません。
こういう人は神様のみことばに照らして自分の姿さえも発見できない、霊的に盲目になっているのです。まさに彼らに向かって、主は「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」と言われます。これはつまり、霊的な目が開かれなければならないことを言われるのです。
皆さんが信仰を持ってみことばどおり生きているなら、だんだん聖霊の御声も聞くようになり、真理が何か、罪が何か悟るようになり、霊的な分別力が生じるのです。これがまさに霊の目が開かれることです。
そして、このように霊の目が開かれたとき、神様のみことばを聞いても理解できて、天国への希望も与えられ、みことばに照らして自分を発見して真理に変えられるのです。
したがって、「霊の目が開かれる」ということは、実際、霊の目が開かれて霊の世界を見るという意味もありますが、さらに重要な意味は、神様のみことばを聞き、神様のみこころを悟って、その悟りを通して「自分自身」を真理に変えていくことなのです。
このように霊の目が開かれて、神様について悟り、その方のみこころが何かを悟っていく人ならば、世と友になることはなく、何としてでもみことばに照らして自分の暗やみを発見して、真理に変えられようと努力します。こういう人が光の中を歩む人であり、神様とさらに深い交わりの段階に入るようになり、それだけ神様に愛されるのです。
次の時間は、ラオデキヤ教会への残りのみことばを説明して、七つの教会に下さったそれぞれのみことばをもう一度整理して、七つの教会のみことばをまとめます。
愛する聖徒の皆さん、皆さんのほとんどは初めの愛の熱さと火のような聖霊の体験の中で、満たされて走って行った時間があったでしょう。
もちろん、今もそのように初めの愛の熱さで、聖霊に満たされて走って行く方々がいます。万が一にもそうでなくて、今その初めの愛の熱さを取り戻すために、その時のように聖霊に満たされるために、また努めに努めて努力していく方々もいます。
しかし、ある人々は自分が初めの愛を失ってはいないのか、聖霊に満たされずに信仰生活をしてはいないのかなどに、関心さえない人々もいます。教会は行き来するけれど、信仰生活に熱心になろうともせずに、これ以上自分を犠牲にしようとせずに、熱くて聖霊に満たされる信仰生活を慕う心さえない場合があります。心はあると言っても、全く行ないが伴わないのです。これがまさになまぬるい信仰です。
皆さんに病気が、さまざまな問題が訪ねて来たなら、「私の信仰がなまぬるい信仰ではないのか」と、みことばに照らして正確に顧みられますように。それで、なまぬるい信仰だったら、今からでも直ちに悔い改めて立ち返りますように。
初めの愛を、初めての行ないを、聖霊の充満を失っても決していけませんが、それよりさらに大きい問題は、万が一失った時、また取り戻そうと努力もしないなまぬるい信仰です。
したがって皆さんは、神様の恵みで喜びと感謝と感動があふれた瞬間を、変わらずに保たれますように。仮にその瞬間を忘れたなら、一日も早く取り戻すように願います。
それで、皆さんは神様の前に決してなまぬるい信仰になってはなりません。熱い信仰、日が進むにつれさらに熱くなる信仰、神様をさらに愛して忠実になる信仰、まさにこのような信仰にならなければなりません。
その信仰が、私たちの主が私たちを連れにまた来られるその日まで、変わらずに保たれて、父なる神様にこの上なく愛されて認められる皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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