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Title
黙示録講解(27)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:7-13
Date
2007-06-01
<黙示録3:7-13>
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
ある人は、ほかの人から見ると、信仰生活をちゃんとしているようですが、実際、中をのぞいて見るなら、あれこれの試練と患難によって苦しんでいます。すると、すぐ自分の思いの中で「何か神様の前に罪を犯したんだろう」「人の前でだけよくやってるふりをしたんだろう」と、こそこそして勝手に思い、さばいて罪に定める人もいます。
もちろん、神様の子どもたちがみことばを守って真理の中を歩む時は、神様が試練や患難の時に守ってくださいます。たとえ試練が来ても、<第一コリント10:13>に、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあるように、すべてを働かせて益としてくださいます。したがって、自分が神様から守られずに、試練と患難によって苦しんでいるなら、「自分が神様の前に正しく行なっているのか」、自らを顧みることが必ず必要です。
ですが、時には信仰生活をちゃんとしているのに、何かの試練が来る場合があります。これはつまり、祝福を下さるために許された試練です。こういう場合は、後で結果を見ると、その試練が過ちに対する懲らしめでもなく、神様から守られなくて来たものでもなかったことがわかります。したがって、誰かが試練にあったとき、真理に照らして見分けると言いながら、うわべだけを見てさばいたらいけません。
たとえば、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれ、その時は 患難にあうようでしたが、結果的にはダニエルが以前よりさらに高められて、神様に栄光を返しました。ヨセフも、異国に奴隷として売られて、ぬれぎぬを着せられたまま深い監獄に入ったことが、肉で見る時は、患難にあうようでした。しかしこれは、ヨセフにエジプトの全土を支配させて、イスラエル民族の土台を備えようとされた、神様の大いなる計画と摂理のうちになされたことでした。ですから、これは結果的に、ヨセフ個人にも祝福になっただけでなく、神様に大きな栄光を返したことになるのです。
主を正しく信じている人が迫害されて殉教に至るのも同じです。これも守られなかったからではなく、むしろ試練で勝利したということです。そして、このように主の御名で殉教した人は、信仰を捨てないために自分の命までも渡したことになるので、少なくとも三天層に入る栄光を得るようになります。
<ローマ8:18>に、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあるように、この地上でのつかの間の苦しみとは、比べられない栄光を得ることです。一方、試練に勝利できなかった人は、死の恐怖の前で思わず主を否定したり、教会から離れたりするので、結局、試練の時にあいます。
それでは、「試練の時」とは、いつのことでしょうか? 「試練の時」とは、真理の中で生きていない人、または主を裏切って離れた人などに、敵である悪魔・サタンがもたらす、さまざまな試練の時を言います。
ところで、この「試練の時」が意味する、もう少し具体的な時は、<10節後半節>に「地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」とあるように、まさに将来この地上に臨む「七年患難の時」です。
したがって、終わりの時を生きていく聖徒なら、よりいっそうこの試練の時にあわないように目を覚まして、身を慎んで信仰生活をしなければなりません。終わりの時に生きている聖徒が、適当に教会だけ行ったり来たりしながら、みことばに従って生きられず、世と妥協してしまうと、結局、主が来られる時、引き上げられずにこの地上に残されて、七年大患難に陥る悲劇にあうからです。
しかし、忍耐について言ったことばを守る人は、試練の時に守られるだけでなく、あれほど慕い求めて待っていた花婿であられる主とともに、七年の空中の婚宴に入ります。「どちらを選ぶか」はまさに各自の選択にかかっていて、その選択の結果に対する責任もやはり、自分で永遠に負わなければならないのです。
続く<11節>で、主は「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言われます。主が「すぐに来る。」と言われたみことばは、その当時だけでなく、その後約2000年が過ぎた今でも、同じように適用されるのです。
ある人々は「すぐに来る」と言われたのに、「なぜこんなに遅いの?」と言う場合もありますが、これは遅いのではなく、すでにこのみことばは、今まで2000年以上、数多くの人々にそのまま成就されてきました。数多くの人々が七十年、健やかであっても八十年のこの地上の短い人生を終えて、ついに「すぐに来る。」と言われた主に会ったからです。もちろん救われた人だけが主に会ったでしょうが、この地上の人生を終える瞬間が、誰にでも結局は、主が「すぐに来る」と言われた時になるのです。
さらに<第二ペテロ3:9-10>に、「主が来られるのが遅い」と思う人々に言われたみことばがあります。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあります。
したがって、主の約束が遅いと思うのではなく、主がいつ来られても迎えられる準備をいつもしておかなければなりません。その上、今は聖書にある終わりの時の兆しが所々で現れているので、「すぐに来る。」という主の約束が、本当にすぐ実現されることを心に刻まなければなりません。
主は「すぐに来る。」というお言葉に続き、「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言われます。
前に、主はテアテラ教会にも「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」と言われましたが、この時はただ、今持っている信仰でも守って、救いをのがさないように、という意味でした。
しかし、今フィラデルフィヤ教会に「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言われたのは、単に救いの次元を言うのではありません。フィラデルフィヤ教会の聖徒たちは、少しばかりの力の時から神様のみことばを守ってきたので、主が「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言われたのは、彼らに与えられた使命をよく全うして、将来天国に行けば、神様が約束された冠、すなわち、報いを奪われずに必ず受けなさい、という意味です。今までのように、変わらずに走って行ったら、彼らに与えられる途方もない冠があるのに、ひょっとして途中で変わってしまい、その冠を失うことがないように、という意味です。
それなら、冠を奪われることもあるでしょうか? そうです。もちろん、将来天国に行って、一度受けた冠をまた奪われることは決してありません。しかし、まだこの地上にいる間には、与えられた使命をよく果たさなかったとき、またはよく果たしていたのに、途中にあきらめたり変わったりしたとき、こういう場合はその使命が他の人に渡されるので、結局自分が使命を全うして受けるはずだった冠を他の人に譲り渡すようになります。
本当に信仰があって、天国を希望して、特に新しいエルサレムを希望する方ならば、自分に与えられた使命をおろそかにしたり、途中であきらめて手放したりして、自分の冠を奪われることがないようにしなければなりません。
また、「私でなければこれはできない」と思って、安易な心で使命を果たしている人も、まかり間違えば燭台が移されることもあると悟り、初めて使命を与えられた時の熱心と行ないを失わないようにしなければなりません。
神様の働きは止まらないので、初めに使命を与えられた人が果たさない時は、すべてをご存じの神様があらかじめ備えられた人を通して、どんな状況でも結局は神様の働きを成し遂げていかれます。
聖徒の皆さん、それでも神様は、使命をよく果たさないからといって、無条件に使命を取り返して他の人に与えられるのではありません。何回も機会を与えて、また与えられ、立ち返って回復できるようにしてくださいます。しかし、このように機会を数えきれないほど与えても、最後まで変えられないなら、この時は神の国を成し遂げるために、他の人を用いられるのです。
したがって今、このメッセージをお聞きになって、自分が今まで使命をよく果たさなかったと悟る方がおられるなら、今からでも新たに熱心に行なうよう願います。
それだけでなく、もっと重要なことは、今まで一生懸命に世を捨てて、天国を見つめて走ってきたはずなのに、ある瞬間、また世を見つめて、今まで積み重ねてきたすべての報いを一度に全部壊してしまうようなことは決してあってはなりません。
今までのようにずっと熱心に行なってきたなら、 少なくとも三天層以上に行ける人が、一瞬、死に至る罪を犯すなら、これはたとえ悔い改めて立ち返っても、その時からは、パラダイスからやり直さなければならない残念な状況になるからです。
今まで積み重ねてきたものを全部壊してしまっただけでなく、父なる神様にあまりにもさびいい思いをさせて、まかり間違えば地獄に行くところだったのですから、本当に信仰があったなら、どんなに愚かなことでしょうか?
ですが、今からでも立ち返ったら幸いなことです。今からやり直すつもりで、 以前よりさらに熱心に天国だけを見つめて走って行けますように。過ぎ去ったことがあまりにも残念で悔やまれるでしょうが、だからといって嘆いているだけではいけません。もう一度、父なる神様から恵みを注がれるなら、十分に回復していけるのであり、自分次第で、いくらでも新しいエルサレムまでも見つめて、また走って行けるのです。
続く<12節前半節>に、「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない」とあります。ここで「神の聖所」とは、神様がおられる御座のある所、つまり、新しいエルサレムを言います。そこの柱にしてくださる、というみことばです。
柱がなければ建物自体が立っていることができず、倒れるしかないことを考えると、これは新しいエルサレムでも最も重要な主軸の位置を約束される、途方もない祝福です。新しいエルサレムに入ることだけでも大したことなのに、そこの柱にしてくださると言われたのですから、どんなに驚くべき祝福の約束でしょうか?
ところで、このような約束を誰にでも下さったのではなく、まさに「勝利を得る者」に下さったのです。フィラデルフィヤ教会の聖徒たちは、少しばかりの信仰でも、みことばを守り行なって、主を否まなかったのです。ですから、彼らは信仰がだんだん成長するほど、さらに変わらずに真理を行なって、結局は全き聖潔に至れるのです。与えられた使命もまた忠実に果たすはずです。これがつまり、「勝利を得る者」であり、その中でもさらに完全な信仰で主に認められた人々は、新しいエルサレムの柱になるのです。
これは皆さんにも同じように与えられる約束です。
マンミンの聖徒は、何としてでも神様のみことばに従って生きようとして、神様が嫌われる罪を血を流すまで戦ってこれを捨てて、発見される悪の姿があるなら、それを取り出すために断食と祈りですがってきました。神様を第一に愛するので、教会と牧者もいのちを尽くして愛し、着る物、食べ物まで節約して、神の国のためにささげてきました。毎日聖殿に集まって祈りに努め、使命がいくつも与えられても、ただ感謝で受けて最善を尽くして忠実に働き、むしろもっと熱心にしなかったことを申し訳なく思いました。また、教会の試練と迫害の中でも、天の報いを見つめて、善をもって勝利したし、教会と聖徒と牧者を守るために、すべてを犠牲にして来られた方々も多くいます。このほかにも、聖徒の皆さんがどれほど神様を愛して、どれほど神の国のために忠実であったのか、皆さんが互いに証人であります。
それで、今後の姿まで皆ご存じの神様は、すでに開拓当時、本教会の聖徒たちに、フィラデルフィヤ教会に下さった約束のみことばを同じように下さいました。そして、「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。」ので、必ずその言われたことを成し遂げられるために、皆さんを訓練に訓練して、新しいエルサレムに入るにふさわしい器に作って来られたのです。
また、この教会に特別な使命を下さった分、恵みもやはり特別に注いでくださって、聖徒の皆さんが神様のみことばを堅く握って、この道を行くように働いてくださいました。今まで歩んできた道は平坦ではなかったのですが、それほど数多くの不思議としるしと信じられる証拠を通して、変わらずに走って行ける恵みを下さったのです。
しかし、いくらこのように多くの恵みを下さっても、自分がそれを握らずに心が守れなかったなら、「与える」と約束された祝福も奪われるしかありません。ですが、この教会にはまた、公義を越える愛がありますので、父なる神様は最後までその愛でこの教会を治めて行かれ、誰でもこの祝福の枠から出て行かないことをとても望まれます。
ですから、皆さんが神様の下さったみことばを信じて、言われたことが実現される瞬間まで、変わらずに忠実に働いて勝利していくとき、約束された冠が与えられるのであり、その冠を失うことは決してないでしょう。このように聖徒の皆さんは、必ず最後まで勝利を得る者になって、その祝福の場にみな一緒に立たれますように、主の御名で祈ります。
<12節後半節>に、「わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」とあります。
このみことばは、先に下さった約束を、神様の御名と新しいエルサレムの名と主の新しい名で、証印を押して保証するという意味です。新しいエルサレムで柱になるということは、自ら願うからできるのではなく、主の主である神様が、神様の御名で認めてこそできるのです。また、新しいエルサレムの名がその人の上に記されて証印が押され、ここに主の新しい名もその人の上に記されてこそ、完全な保証になるのです。そして、ここで「主の新しい名」とは、まさに「王の王、主の主」です。
<ピリピ2:9-11>に、「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して・・・」と あるように、この地上で私たちの罪を贖ってくださって、救いの働きを全うされて復活、昇天された主には、「王の王、主の主」という光栄ある新しい名が与えられました。
聖徒の皆さん、人々がこの地上でつかの間味わう安らぎと栄光のためにも、どれほどたくさんの労苦と忍耐をしなければならないでしょう? まして、永遠に奪われない天国、新しいエルサレムの柱になれるなら、どうしてつかの間の労苦が耐えられないでしょうか?
もともとエルサレムはイスラエルの首都で、王がいる所でした。また、神様の聖殿があって、すべての祭事がささげられるので、神様がおられるところでもありました。新しいエルサレムはこの地上のエルサレムのように、結局はなくなる所ではありません。
<黙示録21:1-2>に、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」あるように、聖なる都、新しいエルサレムとは、聖なる神様が親しくおられる所で、永遠のエルサレムを言います。そして、ここ新しいエルサレムには、神様に似せられて、完全で聖なる子どもたちだけが入れる資格を得るのです。
ところで、新しいエルサレムという名が将来、天国でも使われるのではありません。「新しいエルサレム」と表現してこそ、この地上のエルサレムでなく、神様がおられる新しい所を意味するとわかるので、そのように表現しただけなのです。
実際に新しいエルサレムの正式な名称は「栄光の都」です。この地上で罪を捨てて完全に聖められて、神様に栄光だけを帰して生きた人々が入る所であり、そこに入ると、今度は神様のほうから与えられる栄光をとこしえに受けるので、「栄光の都」と呼ぶのです。
このような栄光の都に入るためには、完全に聖められるだけでなく、与えられたあらゆる分野でも、全家を通して忠実にならなければなりません。聖められなかった状態で罪と戦って使命を果たすことと、完全に聖められて、真理の中で聖なる者として使命を果たすこととは、父なる神様にささげられる香りが全く違います。それで、父なる神様は全き霊の人々を新しいエルサレムに入れて、彼らととこしえに愛を分かち合って、彼らの美しい香りをかがれるのです。
このような希望の約束は、きょうの本文のフィラデルフィヤ教会だけでなく、フィラデルフィヤ教会のように行なうすべての教会と聖徒たちの上にも与えられる、同じ約束です。
最後に<13節>に、主はフィラデルフィヤ教会にも、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」というみことばでまとめておられます。
しかし、同じみことばであっても、それぞれの教会に下さるみことばの意味は違います。ある教会には、今まで下さった非難と勧めのみことばを絶対に聞き流さないで心に刻み、必ず救いに至りなさい、という意味です。また、ある教会には、その中に目を覚ましている者たちは、このみことばを聞いて最後までしっかりと持っていて、約束のみことばを実現しなさい、という意味にもなります。
ところが、今、フィラデルフィヤ教会に下さるみことばには、フィラデルフィヤ教会のためだけでなく、フィラデルフィヤ教会を見つめる、他の多くの教会と聖徒たちに下さる霊的な意味が含まれています。それはまさに、聖書にこのように記されたフィラデルフィヤ教会のように、神様が認めて直接働いていかれる教会に対して、明らかに悟らなければならない、ということです。
本当に聖霊の働きの中で目を覚ましている教会なら、今日、フィラデルフィヤ教会のように行なっている教会に向かって、間違っても聖霊を汚す言葉は言えないのです。耳があって、御霊が言われるみことばを聞いている教会ならば、神様が共におられて、聖霊が働いていかれる教会に向かって、聖霊を汚して冒とくしたり、逆らったりすることは決してできない、ということです。なぜなら、彼らの中におられる聖霊が、そうするように放っておかれないはずだからです。
愛する聖徒の皆さん、皆さんの最も大きい願いは何でしょうか? もちろんほとんどが、新しいエルサレムに入ることだと答えるでしょう。ところが、新しいエルサレムは誰でも入る所ではありません。適当な信仰で、適当に忠実で入れる所ではありません。悪はどんな悪でも避けて、完全に聖められて、いのちを尽くして全家に忠実である最高の信仰を認められてこそ入れる所です。
ところが、このような信仰に至ることは、一瞬にできるのでもなく、皆さんのほうで努力するだけでできるのでもありません。聖書を見ると、新しいエルサレムを見つめるほどの昔の信仰の人々は、神様の摂理のうちに厳しい訓練を通して、純金のような姿に出て来て、普通の人としては果たせない使命も、いのちを尽くした忠実で果たしました。このような姿になってこそ初めて、新しいエルサレムを見つめる資格があります。
ところで、神様は本教会の聖徒たちにも、新しいエルサレムという希望の約束を下さいました。そして、言葉だけでなく、実際に多くの聖徒の皆さんが新しいエルサレムに入れるように今まで導いておられます。聖潔のメッセージを通して、自らは発見できない深い罪の性質までも発見して捨てることによって、聖められる道を開いてくださいました。
また、聖潔と共に実現すべき、全家を通じて忠実であることのために、大聖殿建築と世界宣教の使命を下さいました。この使命は、揺れない全き信仰といのちを尽くした霊的な忠実を通して果たすことができますが、このような使命を下さったこと自体が、まさにマンミンの聖徒を新しいエルサレムに導くための神様の摂理であります。
皆さんが聖められて、神様を愛して信頼するほど、皆さんに大聖殿建築と世界宣教への全き信仰が与えられるのです。そして、このような全き信仰に至ってこそ、いのちを尽くした忠実で使命を全うすることができます。それで結局、このように全き信仰を持って、死に至るまで忠実である方々を通して、大聖殿建築と世界宣教が実現されるのです。まさにこのようにマンミンの働きを共に全うした方々が、将来新しいエルサレムに入る資格を得るのです。
私が時々皆さんに申し上げてきましたが、「聖徒の皆さん、もう少し頑張りましょう。」私たちは勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終えて、永遠の新しいエルサレムの栄光の中に、一緒に入るべきではありませんか? それで、皆さんの上に神様の御名と新しいエルサレムの名と主の新しい名で、「神様の聖所に柱にする」というみことばが完全に成就されますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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