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Title
黙示録講解(16)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:12-17
Date
2007-02-23
<黙示録2:12-17>
また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
この世には「神様を知っている、信じている」と言う人々が多くいます。しかし、神様を知って信じるということだけで、皆が救われるのではありません。<ヨハネ3:36>に、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあるように、神の御子イエス様を救い主と信じてこそ永遠のいのちが約束されるのです。
ところが、イエス様を信じると告白したからといって、皆が救われるのではありません。「信じる」という、その信仰がまことでなければなりません。信仰がまことであることを証しするのは、まさに主のみことばに聞き従って行うことです。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、」とありますが、「御子に聞き従う」ということは、イエス様が教えられたみことばを守り行うという意味です。したがって、口ではイエス様を信じると言いながら、実際イエス様のみことばに聞き従わないなら、それは「まことの信仰」だと言えず、結局永遠のいのちを得ることもできないのです。
きょうの本文にも、「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」とあります。ここで「勝利を得る者」とは、主の教えに従って、みことばを守り行って、世の罪と悪に勝って勝利を得た者です。このように勝利を得る者になってはじめて、イエス・キリストによって救いが約束されるのです。そして、こういう者だけがその名、すなわち、イエス・キリストの御名を知る者なのです。
自分のほうだけで「私は主を知っています、私は主を信じます」と言うからといって、その人がまことに主を知っている者ではありません。本当に重要なのは、主も皆さんに「私もあなたを知っている」と言ってくださることです。
<ヨハネ10:25-27>には、私たちのイエス様がどんな人に対して「私があなたを知っている」と言われるのかがよく出ています。「イエスは彼らに答えられた。『わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。』」とあります。イエス様を信じる者、イエス様の御声を聞いて従う者になってはじめて、イエス様がその人に「私もあなたを知っている」と言われます。
また、<第一ヨハネ1:6-7>に「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるように、光の中、つまり、真理の中を歩む人だけが、光であられる神様と交わりを保つことができます。こういう人がまことに父なる神様も知っていて、主も知っている人であり、イエス・キリストによってすべての罪からきよめられるのです。
聖徒の皆さん、イエス様の当時にもイエス様はただ真理と善を伝えて、父なる神様の御名で多くの不思議としるしを行われましたが、これを信じない人々がいました。彼らに向かって私たちのイエス様は「あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」と言われたのです。まことに主の羊ならば、主のみことばと行いを見てでも主を信じるでしょうし、信じるなら、その御声に聞き従います。
このような羊が主の羊であり、私たちの主も彼らに「あなたが私の羊だ。私もあなたを知っている」と言われるのです。皆さんのすべてが、このように主を知っていて、主も皆さんを「知っている」と言われて、互いにまことの交わりを保つ主の愛される羊になられますように。
愛する聖徒の皆さん、主がペルガモにある教会に下さったみことばの中には、今まで調べた一般的な意味のほかに、特別なケースに当てはまる内容があります。七つの教会に下さるすべてのみことばは、どの時代、どの教会にでも適用されるみことばですが、特別に終わりの時代を生きていく聖徒たちに悟らせてくださる内容も含まれています。
最初に、エペソにある教会に下さったみことばは、今日、初めの愛の熱さと熱情である程度までは教会が成長したのに、その初めの行いがなくなって成長が止まってしまい、はなはだしきは「これくらい成し遂げた」という高ぶりによって、もう神様の御心を求めるよりは自分たちが成し遂げたものを守って味わおうという心が大きくなっていく教会に向かって、悟らせて下さるみことばでした。
次に、スミルナにある教会に下さったみことばは、主の福音を伝えて御力を行うと現れる現象、つまり、ユダヤ人だと自称している者たちによる妨害といろいろな迫害や患難にあう教会に下さるみことばでした。たとえそのような環境に置かれていても、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と言われた希望の約束をつかんで、走って行くことを願われるのです。
ところで、今日の本文に、主がペルガモにある教会に下さるみことばの中にも、特別なケースに当てはまる内容があります。それは異端思想に染まってしまった、一部の教会に下さる悟りです。うわべでは神様の御名を立てているけれど、実際その中にはイエス・キリストの御名がなかったり、まったくイエス・キリストの御名を否定する人々、あるいは、うまく考え出して神様と主のみことばを変えてしまったりする人々がいます。それで、自分たちだけでなく、他の人々までも惑わして異端思想に染まるようにするのです。
ところが、教会に通って「主を信じている」と言う人々の中でも、真理がよく見分けられなくて、このような異端思想に染まってしまう人々がいます。このように異端思想に陥った人々に、主はご自分のことを「鋭い、両刃の剣を持つ方」と言われます。鋭い、両刃の剣である神様のみことばで、彼らの誤った異端思想を正確に照らして刺し通すので、結局、彼らの中からも悔い改めて、立ち返って、救われる人々が出て来るようにされるのです。
最後の審判の日に、たとえ彼らの中で「私は知らなかったのです」「私はこれが正しいと思ったのです」と言い訳する人がいても、一寸の誤差もなく正確な神様のみことばで彼らの言葉と行いを照らすと、彼らがどれほど真理から離れているのか、明らかにされるしかありません。
聖徒の皆さん、「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」というみことばのように、異端はまさにサタンのしわざです。うわべでは神様のみことばを主張して、教会という形も持っていますが、真理であられる神様のみことばの中の本当に重要な核心を巧みに変えてしまうのです。
それなら皆さんは、異端の基準について正確に知っていて見分けられるでしょうか? 異端は、決して人が立てた基準ではなく、ただ神様のみことばに基づいて見分けなければなりません。それでも今日、主を信じていると言う人々の中にも、自分たちが主張する教理や理論に合わなければ、自分たちが自ら作っておいた基準に基づいて、相手を「異端だ」「誤っている」と主張することがますます増えているのです。
それなら、聖書が言われる異端の基準とは何でしょうか? <第二ペテロ2:1-3>によく出ています。「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」とあります。
異端を見分ける最も明らかな基準は、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ことです。私たちを永遠の死の刑罰から救い出してくださる方は、ただイエス・キリストおひとりだけです。イエス様の尊い血で私たちの罪をきよめて救われるようにされたので、救われた神様の子どもたちは、みな、主がその尊い血で買い取っられたのです。
このように、ご自分の血で私たちを買い取ってくださった主を否定すること、これがまさに「異端」なのです。したがって、イエス様が十字架につけられて死なれて復活されることによって、キリストとしての働きを完成する前には、「異端」という表現自体が必要なかったのです。
「イエス」とは「ご自分の民をその罪から救ってくださる方 」という意味であり、「キリスト」とは「油そそがれた方」という意味です。したがって、イエス様が十字架につけられて死なれて復活された後に、キリストとしての使命を成し遂げて救い主になられたので、主を否定するのもこの時から始まるからです。
すなわち、イエス様が復活されることによってキリストとしての働きを完成されてから、「自分たちを買い取ってくださった主」であるイエス・キリストを否定する人々が生じ、異端も登場するようになりました。旧約聖書や新約聖書の四つの福音書に「異端」という単語が全くないのは、まさにこのような理由からです。
(ただ、ユダヤ人たちが使徒パウロに対して、「ナザレ人らの異端のかしら」-口語訳-という表現を使いましたが、この時「異端」とは、自分たちを買い取ってくださった主を否定したという意味からでなく、ユダヤ教の立場から見ると、キリスト教が自分たちの信じているものとは違う道なので、このように異端だと表現したのです。
辞書を見ると、「異端」を「その時代に多数から正統と認められているものに対して、例外的に少数に信じられている宗教・学説など」と定義していますが、事実、宗教間では自分が信じる宗教以外の他の宗教がすべて異端です。キリスト教の立場からは仏教やヒンズー教、イスラム教などがすべて異端であり、仏教の立場からはキリスト教、ヒンズー教、イスラム教などがすべて異端になるということです。
しかし、今私たちが調べている異端の定義は、キリスト教の中で言う「異端」の場合であって、仮にキリスト教の中で誰かを「異端」と言うなら、必ず聖書の基準に照らして「自分を買い取ってくださった主を否定しているのか。」を調べなければなりません。)
ところで、終わりの時になればなるほど、買い取ってくださった主を否定する異端思想も、ますます増えていきます。ちょうど自分が救い主のように振る舞い、自分を通して救われると教えて、結局イエス・キリストでない、他の名で救われることもあるように教えて惑わしていく人々が生じます。
しかし、彼らは時間が経てば正体を表します。好色を追い、真理の道を妨げて、むさぼりのため彼らを追って従う人々から財物を取り込み、自分たちの益にしようとします。この他にも、真理である神様のみことばに外れたいろいろな不法を行うようにします。
しかし、ここで皆さんが必ず知らなければならないことは、仮に真理に外れるいろいろな不法を行うとしても、それだけで彼らを無条件に異端だと罪に定めたりしてはならない、ということです。もちろん、彼らが悔い改めて立ち返って、不法から離れて、すみやかに真理へ帰るように勧めて、責めて悟らせることは必要です。だが、たとえ真理に外れる不法を行うとしても、彼らが救い主、イエス・キリスト、つまり、私たちを尊い血で買い取ってくださった主を否定しないならば、彼らを決して異端だと罪に定めてはならないのです。
<使徒の働き5:35-39>に、当時、すべての人に尊敬されている律法学者ガマリエルが、キリスト教をさばいて罪に定めている人々に向かってこう言います。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」と言ったのです。したがって、さばかれる方は、ただ神様おひとりだけであることを悟らなければなりません。
聖徒の皆さん、また、<第二ペテロ2:1>を見ると、「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」とあり、にせ預言者とにせ教師が、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込む者だと言っています。
ところが、ここで言う「にせ」とは、しばしば人々をだますための「にせ」ではなく、真理であられるイエス・キリストを否定することを意味します。<第一ヨハネ2:22>では、「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」とあり、イエス様がキリストであることを否定する者が偽り者であり、御父と御子を否認する者が反キリストだと言っています。したがって、にせ預言者とにせ教師もやはり、自分たちを買い取ってくださった主イエス・キリストを否定する異端と同じなのです。
したがって、<第一ヨハネ4:1- 3前半>には、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」とあります。
神の御霊をいただいた者は、人となって来られたイエス・キリストを告白する者であり、神様とイエス・キリスト、聖霊様、つまり、三位一体を信じる神様の子どもです。神の御霊をいただいてイエス・キリストを主と告白するなら、聖霊を受けて神様の子どもとして証印を押されて、聖霊に助けられて真理を悟り、真理のとおり行う者になっていきます。
一方、反キリストとは、神様のみことばをもってイエス・キリストに立ち向かっていく者たちであり、イエス・キリストによる救いの道を否定します。イエス・キリストを認めないということは、つまり、イエス・キリストをこの地上に遣わした神様に立ち向かうことと変わらないのです。
皆さんはこのように聖書に基づき、何が異端であり、何がにせ預言者でにせ教師であり、反キリストなのか、よく見分けて決して異端思想に惑わされないだけでなく、異端思想に染まった人であっても、鋭い、両刃の剣のような神様のみことばで悟らせなければなりません。
だからといって、異端と議論しなさい、という意味ではありません。<テトス3:10>に、「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。」とあるように、彼らと議論するのでなく、真理のみことばで一、二度戒めればよいのです。それで聞いて悟って立ち返れば幸いですが、そうでない時は、むしろ「除名しなさい」と言われるのです。
それは彼らを嫌ったり憎んだりするからではなく、真理の中に堅く立っていない人は、まかり間違えば彼らと議論をして、かえって異端思想に染まることもあるからです。彼らは真理を巧みに変えて、相手の弱点につけこむので、中途半端に知っているみことばで彼らと議論してはいけません。霊的な権威を持っていて、みことばの権威が伴う人が、正確に真理で教えなければならないのです。しかし、異端思想に一度染まると、それだけ悟って立ち返ることが難しいために、彼らと議論するなら時間だけ無駄になるので、彼らとの議論を避けて遠ざけなさい、というのです。
しかし、主はこのように異端に陥った人々にも、何としてでも悔い改めて立ち返る機会を与えようとされます。それで、バラムの教えとニコライ派の教えのことを言われ、ここに当てはまる人々を悟らせてくださったのです。
バラムを通して悟れることとは何でしょうか?
まず、世と妥協する適当主義信仰への警戒ですが、そのような信仰の内面には、まさに神様の御心がわかっても、自分の願うままに行こうとする肉の属性があるということです。また、自分は神様の御心を求めていると言っても、実際は自分の心の中にある肉の属性によって、神様の御心とは全く反対に行くのです。さらに進んで、サタンに操られて他の人々までも真理から離れるように惑わして、一緒に死の道に向かって行きます。
これだけでは「異端思想」と距離があるようですが、このようなことを少しずつ許していくと、結局は真理を巧みに変えてしまい、異端思想に陥ることもあるので、主は彼らに対して厳しく注意されるのです。
そして、その当時、真理を変えて人々を惑わした代表的な事例のニコライ派について言っておられます。ニコライ派の思想については、前に黙示録講解で何回か申し上げましたが、彼らは「からだではいくら罪を犯しても救われる」という、雲をつかむような話で人々を惑わしました。このような主張は、私たちの罪を代わりに負って血を注ぎ出して死なれた主の尊い血の勲(いさお)を完全に否定してしまうことで、明らかに真理に逆らう主張であるにもかかわらず、当時、世を愛して友になった人々はその甘い誘惑に陥ってしまいました。
終わりの時は、このような人々がますます増えるようになります。そうしながらも、彼らは「私たちは主を信じている」と思うので、自分たちの過ちを悟るのがやさしくありません。したがって、こういう人々を悟らせるためには、本当に魂と霊と関節と骨髄まで刺し通す、権威のあるいのちのみことばが必要です。主を信じることが何か、主を愛することが何か、神様の御心を明らかに提示してあげなければなりません。また、伴う御力のわざによって伝えられるみことばがまことであることを、はっきりと証明してあげなければなりません。そうしてこそ、たとえ異端思想に染まっていた人でも、悔い改めて立ち返り、救われるのです。
もちろん、そういう人が多いのではありません。しかし<第一テモテ2:4>に、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあるように、神様は異端思想に陥った人であっても、何としてでも悟って立ち返り、救われることを望まれるのです。滅びに行くように放っておかれるのではなく、どうしてでも機会を与えて、生きる道を開いてくださろうとする心です。
それで、この終わりの時に、聖霊の火のようなみわざを通して、彼らにも機会を許しておられるのです。その中で真理のみことばを聞いて悟る人は、それでも勝利を得る人になって、主を知って救われるようになります。こういう場合を、「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」と言っているのです。
このように、主がペルガモにある教会に下さったみことばには、異端思想に陥って本当に救われにくい場合でも、主の恵みと聖霊の助けで、それでも心が善良な人々には救いの機会が与えられて救われる、という意味が含まれています。
次の時間からは、七つの教会のうち、四番目として、テアテラにある教会について調べていきましょう。
愛する聖徒の皆さん、私と本教会の宣教チームは、今までイスラム国家にも、ヒンズー教の国家にも、またカトリックの国家にも行って、大胆に福音を伝えてきました。それで、数多くの人々がイエス・キリストを救い主として受け入れて、キリスト教に改宗するみわざが起きました。また、今からはユダヤ教の人々にも、本格的に福音の種を蒔かなければならない時が来ます。
ところで、伝道をしてみると、いっそキリスト教を全く知らなかった人よりも、むしろキリスト教を知っていると言っても、真理を知らずに誤った思想に染まっていたり、異端思想に染まっていたりする人々に福音を伝えるほうが、もっと難しいのです。神様を知って信じると言っていたユダヤ人たちが、神の御子であるイエス様がわからず、結局、十字架に釘つけて殺したではないでしょうか?
したがって、今日、本文のペルガモにある教会のような教会、つまり、真理をわい曲して誤ったキリスト教思想や異端思想に染まっている人々に真理を正しく伝えるためには、それだけ強い権威と力が必要です。彼らが決して否定したり否認したりせず、自ら認めるしかはない確実な証拠を見せながら、イエス・キリストと天国の福音を伝えなければなりません。そうでなければ、いくら長い時間と多くの物質を投資して福音を伝えても、実際に実を刈り取ることはできません。
ですから、私たちがすべきことがどんなに多いでしょうか? この終わりの時に、ひとりでも多くの魂を救うことを願われる父なる神様の切なる心をともに感じて、誤った道に向かっている全世界の多くの魂たちに、この聖潔の福音と御力を伝えなければなりません。
このような祝福された働きに参加するためには、皆さんがまず真理のみことばの中に堅く立たなければなりません。<エペソ6:13-17>に、「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」とあるように、霊的に完全に武装しなければならないのです。
こういう方がたくさん出てきて、皆がみことばの権威と力を持って、神の国を大きく成し遂げていく霊的戦士になられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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