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金曜徹夜礼拝
Title
黙示録講解(12)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:8-11
Date
2006-12-29
<黙2:8-11>
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
この時間は、今年、最後の金曜徹夜です。今年は今まで金曜徹夜で伝えた「創世記講解」が終わり、新しく「ヨハネの黙示録講解」が始まりました。
金曜徹夜にはある程度信仰のある聖徒たちが参加するので、神様は金曜徹夜で霊の世界の深いことまで解き明かしてくださり、まことに新しいエルサレムの望みの中で走っていけるように導いておられます。マンミン・マガジンでも、皆さんは毎週、どれだけ驚くべき神様のみわざをご覧になっているでしょうか?
ですから、皆さんは金曜徹夜に参加する度に、毎週毎週、信仰が加えられるべきであり、もっと目を覚まして花嫁の用意をしていく霊的な信仰生活に変えられなければなりません。
きょうも聞かれるみことばが信仰と力となり、二部のいやしの集会で大いにいやされて答えられますように。また、近づいてくる2007年をもっと新しい心で力強く迎えられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
聖徒の皆さん。前の時間には、主がスミルナ教会に下さったみことばで、終わりの時、本教会に与えられた北朝鮮宣教に関する内容を調べてみました。今後、北朝鮮宣教を成し遂げる過程で、どんな試練と患難が来るようになり、結局、どのようになるのかをお話しいたしました。
時になると、開放の波に乗って北朝鮮に入って行き、驚くべき御力のみわざの中で福音を宣べ伝えますが、しばらくして再び開放の門が閉ざされると、宣教活動もやはり難しくなります。このような過程で迫害と患難を経験するようになり、何人かは捕らえられて牢に監禁さえされるようになります。御力のわざとともに福音が急速に広がるのをひどく警戒するようになった北朝鮮当局は、自分たちなりに名分を立てて、牢に監禁された人々を殺すようになります。
このように、殉教に至るまでの時間を指して「十日」と言うと申しました。そして、このように殉教に至るまで忠実であったとき、その人に与えられる祝福はどんなものなのかが、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と言われた、このみことばの中に込められています。
いのちの冠とは、信仰の四段階に至った人、すなわち、聖められて三天層に入る人に与えられる冠です。かと言って、このみことばは、殉教した人々が必ずしも三天層にしか入れない、という意味ではありません。その上、全家を通じて忠実な者であったら、十分新しいエルサレムにも入れます。
ところで、事実、三天層に入るということは、決して簡単なことではありません。もちろん難しいことでもありませんが、悪はどんな悪でも捨てるためには、それだけ血を流すまで罪と戦わなければなりません。
殉教までしながら自分の肉の命を主のためにささげた人であれば、充分血を流すまで罪と戦って捨てることによって、結局聖潔を成し遂げる人なので、このように殉教を果たした人には三天層に当たる栄光が与えられるのです。そして、さらには新しいエルサレムまで見つめられるのです。
さて、皆さんが新しいエルサレムの栄光を知っているなら、そして、それよりはるかに劣る三天層の栄光がどうなのかだけでも明らかに知っているなら、殉教をしてでも三天層以上に行けることがどれだけ祝福なのかがわかります。殉教とはやさしいことではありませんが、本当に信仰でその座に至った時は、とこしえに生きていく天国で与えられる栄光がとても大きいのです。したがって、悪はどんな悪でも捨てて聖められ、北朝鮮宣教の使命を成し遂げるために死に至るまで忠実であることが、どれだけ栄えあることであり、幸いなことなのかを悟るよう願います。
しかも、北朝鮮宣教の過程でする殉教は、その後には続けて実を結ぶようになります。このような信仰の殉教を見守っていた現地の人々の中で、まことに自分たちも殉教の覚悟で、一粒の死ぬ麦となって福音を宣べ伝える人々がたくさん出て来るようになるからです。
福音を宣べ伝えるために外部から入って行って、殉教の覚悟で伝えることも重要ですが、このように彼ら自らの信仰が育ち、殉教の覚悟で福音を伝えていくなら、それはまことに強い力になれます。まさに、何人かの殉教が、このように彼らが内部で福音を宣べ伝える火を付ける起爆剤のような役割をするようになるのです。ですから、殉教、それ自体の報いも大きいのですが、その殉教がその後、数多くの魂たちを救うために及ぼす影響がとても大きいので、これによる報いもやはり共に受けるようになるのです。
それでは、このような北朝鮮宣教の使命を受けていないほとんどの聖徒たちはどうすれば、いのちの冠、それ以上を受けられるのでしょうか?今からは、スミルナ教会に下さったみことばに込められている普遍的な意味を調べてみます。
「悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」とありますが、悪魔とは、前の時間に説明したように、人々が行いで罪を犯すようにさせる悪い霊の存在だと申しました。また、人が罪を犯した代価として、いろいろな試練と患難をもたらします。
ところで、このような悪魔がこのような人たちをためすために、何人かを牢に投げ入れようとしている、とありますが、悪魔はだれでもためすために、このように牢に投げ入れることはできません。「牢」という所は、ある法律の基準にはずれたとき、その代価を払うために入る所です。したがって、牢があるということは、つまり法律とそれをつかさどる人がいるという意味なのです。
この世にも法律があり、罪の重さによって法律の判決を受けるように、霊の世界にも法律があり、人々が真理の中に生きる時は神様に守られますが、真理にそむいた時は、敵である悪魔・サタンから試練と患難がもたらされます。真理にそむいて罪を犯した分、それに対する代価を払うようになるのです。特に、悪魔の働きかけに従って犯した肉の行い(行いで犯した罪)に対しては、その罪の重さに見合う報いが伴います。これを指して、「悪魔はあなたがたをためすために、牢に投げ入れようとしている」と表現したのです。
ところで、この時、受ける試練と患難は、罪の重さによっても違いますが、各人の信仰の量りによっても違います。たとえ同じ罪を犯したとしても、信仰の大きい人と少ない人では受ける刑罰が違うということです。
<ルカ12:47-48>には、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」と書かれています。
主人の心を知っている人、また、多く任された者とは、結局、信仰がそれだけもっと大きい人なのです。一方、主人の心をよく知らない人は、それだけ信仰の少ない人です。このように信仰の量りの違いがあるとき、神様は主の心を知りながら働きもしなかった人、すなわち、信仰がありながらも神様のみこころのとおり行わなかった人に、もっと大きな責任を問われます。もっと多く任せた者はもっと多く求められると言われたからです。
そのため<ヤコブ3:1>にも、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」とあるのです。信仰が他の人より大きいので、人を教える教師の地位にまで上がったなら、当然、神様のみことばのとおりもっと完全に行わなければならないのです。
そうでない時は、それによる試練と患難にあうようになります。この時、それぞれの罪によって来る試練と患難が違い、それぞれの信仰によって来る試練と患難が違います。あるものは短く終わったり、あるものは悔い改めて立ち返ってすぐ終わったりもします。一方、あるものは長く続いたり、あるものは悔い改めて立ち返っても報いを払わなければならなかったりする場合があります。このようなあらゆる場合をいちいち書きしるすなら、何冊本を書いても足りないでしょう。このように、試練と患難を受けるようになるあらゆる場合を総称して、本文には「十日の間苦しみを受ける」と言われたのです。
十とは、十進法では基数であり、満ちていることを表す数です。したがって、十という数字の中には、あらゆる場合がみな含まれるのであり、したがって「十日の苦しみ」の中には、罪のゆえに受けるようになるあらゆる場合の試練と患難がみな含まれるのです。結局、「十日の苦しみ」とは、「この地上で受けるあらゆる苦しみを総称するもの」と言えます。
聖徒の皆さん。神様のみことばの中には、どうすれば祝福を受け、どうすればのろわれるのか、また、どうすれば栄え、どうすれば試練と患難に落ちるようになるのかがよく出ています。それなのに、このようなことを教える立場にいる主のしもべや働き人たちが正しく教えないことによって、多くの人々が神様を信じていると言いながらも、相変わらず試練と患難と困難を経験するのです。
たとえば、「ただ信じさえすれば救われる」と言うので、ある人々は教会に通いながらも相変わらず罪を犯して、最も基本的な十一献金と安息日も守れないので、さまざまな事故や患難にあったりもします。それなのに、どうして自分がこんな患難にあうのか、その理由がわからないので、立ち返ることもできないのです。
ところで、どんな場合でも十一献金をささげて安息日を守るからといって、みながすべて守られるのではありません。すでに初心者でなくなり、信仰がある程度ある人が、単に十一献金と安息日を守ることだけで自分のすべきことを全部したと思ってはいけません。信仰があるなら、それだけ神様の御前に行うべきことも大きくなるということです。
しかも初心者の時は、礼拝をささげても、祈りをしても、奉仕をしても、心の底から感謝と喜びでしました。ところが、いつの間にか信仰が成長しても、かえって感謝と喜びがなく、義務的に礼拝と祈りと奉仕をするようになったなら、これ自体がすでに神様との間に隔ての壁になっていると悟らなければなりません。
また、信仰が大きくなればなるほど、もっと大きな信仰に成長していくための信仰の訓練も伴うので、そんな時こそさらに自分を真理の中に完全に立てていかなければなりません。万が一にも、わなになりうる言葉はわずかでも口に出してはならないし、さらにすべての人との平和をつくるために努力していかなければなりません。皆さんが霊に、光にもっと入ろうとするほど、サタンもやはりとても小さなこと一つまでも、訴えて妨げようとするからなのです。
私は今まで講壇で、このような霊の法則について申し上げました。どんな場合に病気が訪れてくるのか、それも具体的にある病気はどうして来て、どの場合にどんな病気が来るのかなどをとても詳しく申し上げました。また、物質の困難はどうして来て、どうして家庭にあれこれの問題が来るのか、試練と患難が続く時はどんな分野を顧みなければならないのかなども詳しく説明しました。このようなみことばに照らしてみると、今、患難の中にいる方々は、自分の問題はどんなものなのか、その理由が正確にわかるようになります。
さて、私はその患難から逃れる方法もはっきり皆さんに申し上げました。その一番の基本は、まさに自分の罪を悔い改めて立ち返ることです。神様との間の罪の隔ての壁をまず打ち壊さなければなりません。そして、その後は、神様のみことばの中に生きて、神様の御前に忠実な者として進み出なければなりません。
さて、神様の望まれる忠実は、単に肉的な忠実ではありません。「死に至るまで忠実でありなさい」と言われたのも、単に肉の命を尽くすという忠実の次元ではなく、まさに霊的な忠実を望まれるのです。
それでは、はたして霊的に神様の御前に、「死に至るまで忠実であること」とはどんなことでしょうか?私たちがこの地上での人生を終えて、父なる神様の御座の前に立つ日、私たちはこの地上で父なる神様に似て、霊に、光に耕したほど、そして、行って働いたほど、それによって与えられる場所と報いを受けるようになります。
みなが冠を受けるのでもなく、同じ冠を受けるのでもありません。蒔いたとおりその刈り取りもさせる公義の神様は、信仰をもってどれだけ神様のみこころどおり行って生きたのかによって、もっと良い場所として、もっと良い報酬として報いてくださるのです。適当に信仰生活した人と神様の御前に命を尽くして忠実であった人が、天の御国で同じ地位に立って、同じ待遇を受けるなら、これ自体がもう公義ではないのです。
それで、神様は天国を分けて、そのそれぞれの場所にふさわしい冠と栄光を備えておかれました。これについての具体的な内容は、主日の大礼拝の時間に「天国」の説教で伝えられています。したがって、この時間には、それぞれの場所で与えられる冠についてだけ簡単にお話したいと思います。
まず、かろうじて恥ずかしい救いを受けた人が行くパラダイスでは、与えられる冠がありません。かろうじて救われる信仰を持っていただけであり、この地上でどんな報いも積まなかったので、与えられる冠もないのです。
次に、一天層に行く人は朽ちない冠を受けるようになります。<第一コリント9:25>には、「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とあります。一天層に入る人は、それでも神様のみことばどおりに行おうと努力する信仰があるので、この世の朽ちてしまうものを追い求めないために、何としてでも自制して努力しようとしたので、朽ちない冠が与えられるのです。
次に、二天層に行く人は<第一ペテロ>で言われた栄光の冠を受けるようになります。二天層に入るにふさわしい信仰を持っている人は、血を流すまで罪と戦って捨てていく人であり、その言葉と行いがこの世で光と塩の役割を果たすようになります。そうしたとき、神様に栄光をささげながら生きるようになり、このような人に栄光の冠が与えられるのです。
次に、三天層は、神様をこの上なく愛する信仰を持つ聖められた人が入る所であり、きょうの本文に出て来るいのちの冠が与えられます。
そして、最後に聖められただけでなく、全家を通じて忠実な者であり、新しいエルサレムに入る人には、最も栄えある美しい冠が与えられますが、<黙示録4:4>に出て来る「金の冠」と、<第二テモテ4:8>の「義の栄冠」が授けられます。これ以外にも、天国に行くと、聖書に記されていなくても、いろいろな種類の冠があります。
さて、皆さんはこの冠の中で、少なくともいのちの冠以上は受けるべきではないでしょうか?そのためには、死に至るまで忠実でなければなりませんが、「死に至るまで忠実である」ということは、一言で言うと殉教の信仰だと言えます。
たとえば、臣下が王に死に至るまで忠実だとは、国のために命をささげること、王のために命をささげることを言います。これは神様の御前でも同じです。いのちの冠が与えられる三天層には、神様をこの上なく愛していて聖められた人が入ると申しましたが、このような人はどんな状況でも、主のためであれば、喜んで命を捨てられる殉教の信仰を持っている人です。
ところで、これを単に目に見える肉の命をささげる忠実だけだと考えてはいけません。もちろん、神様の御前に忠実であるなら、先の多くの信仰の昔の人々のように、肉の命もささげるほど忠実であることは当然です。しかし、これにとどまらず、霊的な殉教、すなわち、生きてする殉教も重要なのです。すなわち、神様を愛して、神様が喜ばれるために、この世と妥協せず、血を流すまであらゆる罪と戦って捨てて、悪はどんな悪でも脱ぎ捨てることを言います。
そうしたとき、「私」は完全に死ぬので、ただ皆さんの中に真理である神様のみことばだけが生きていて、そのすべてのみことばどおり守り行っていきます。<第一コリント15:31>で、使徒パウロが「私にとって、毎日が死の連続です。」と告白したのも、このような霊的な意味を込めて言ったのです。
そして、このように「自分」が徹底的に死んで、悪はどんな悪でも捨てた人なら、ゆだねられた使命もよく成し遂げるはずだし、死んでいく魂たちのために涙を蒔いて祈り、愛の願いをしていくようになります。このように、聖められた人が聖なる心から、命を尽くすまでゆだねられている使命を成し遂げていくこと、これがまことに神様の願われる命を尽くした忠実なのです。
ところで、皆さんが自分で「私はこのように死に至るまで忠実である」と思うからといって、それが神様の御前でも認められる忠実だとは言えません。いのちの冠を受けるにふさわしい資格を整えるためには、それだけの試練を通過して、神様から認められなければなりません。
<ヤコブ1:12>にも、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあります。このみことばのように、いのちの冠を受けるためには、与えられた試練をよく耐え抜いて通過し、神様から良しと認められなければなりません。アブラハムも神様が息子イサクを「全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい」と言われたとき、それを感謝で通過して、良しと認められた後になってこそ、信仰の父として立てられたのではありませんか?
皆さんも同じなのです。まことに揺れ動かない岩に立っているなら、想像することもできない大きな試練が来るとしても、ただ死に至るまで忠実であり、あらゆる試練を喜びの中で耐え抜いて通過できるのです。
使徒パウロは<ローマ8:35>で次のように告白しました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」皆さんも主へのこのような愛があれば、主のからだなる教会のために、そして、立てられた牧者と聖徒たちのためにも、同じ心で命を尽くして忠実に働くことができます。このように、命を尽くした忠実によって、皆さんが少なくともいのちの冠、それ以上の約束を十分受けられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」というみことばについては、次の時間に続けて調べてみます。
愛する聖徒の皆さん。本教会は今も世界宣教を大いに成し遂げていっていますが、これからは今と比べられないほど、もっと大いに素晴らしく神の国を成し遂げていくでしょう。また、カナン聖殿と大聖殿もすみやかに成し遂げ、神様の摂理とみこころを成し遂げていきます。
ところで、このためには、本当に命を尽くして忠実であることができて、主と神の国のためであれば、自分の命までも喜んで与えられる殉教の信仰を持つ霊的な将軍たちが絶対に必要です。多くの殉教の血があったので、今日、キリスト教が全世界に宣べ伝えられたように、本教会がこの終わりの時に父なる神様の大きな摂理を成し遂げるためにも、愛する聖徒たちの祈りと汗と労苦、そして、命を尽くした忠実が殉教の血とならなければならないのです。約2000年前、インドで流されたトマスの殉教の血を、神様は約2000年経った後、インド連合大聖会で取り戻されたように、皆さんが流された殉教の血も、必ずその実を刈り取るようになるのです。
私と共にこのような殉教の覚悟で使命を成し遂げていける霊の人が、今はとても必要です。神様はまさにこの時のために、本祭壇を選んで、聖徒たちを召され、聖潔のみことばで練られて、今はひとりひとり霊の人々を表に現わしておられます。新しい年2007年には、このような方々がとてもたくさん現われ、本教会への神様のみこころと摂理を共に成し遂げていけるよう願います。
かと言って、神様のみこころと摂理を成し遂げることは、表に現われた幾人かの人々によってなされるのではありません。聖徒たち、ひとりひとりがみなきわめて大切であり、皆さんがいる所で座を守り、成し遂げてくださるその献身と行いの一つ一つが、教会と私にとても大きな力になっているのです。
しかし、それに満足するのではなく、皆さんが神様の御前に命を尽くした霊的な忠実でいのちの冠だけでなく、金の冠も義の栄冠も受けられる幸いな聖徒たちにみななられますよう願います。
それで、みなが輝く冠で美しく装って、神様の栄光の御座の前に立つことができますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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