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Title
黙示録講解(9)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:8-11
Date
2006-12-08
<黙2:8-11>
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
先週までは、七つの教会のうちの一番目として、エペソにある教会について調べてみましたが、今日、このようなエペソ教会のような諸教会が多いのです。教会を開拓して、ある程度、教会を成し遂げるまでは、それなりに熱心に労苦して忍耐し、神様のみこころのとおりに行うために努力します。悪い者たちを我慢することができず、聖徒たちを巧みに惑わしていく、ニコライ派の人々のような行いを憎みます。
ここで、「ニコライ派だからといって」皆さんは必ずしも初代教会の当時、異端思想を持っていたニコライ派だけを考えてはいけません。真理である神様のみこころを巧みに変えさせて、聖徒たちを惑わして罪に陥るようにさせるすべての行いが、まさにニコライ派の行いになるのです。
このように、諸教会がある程度成長するまでは、エペソ教会のように主から称賛を受けるに値する姿がありましたが、だんだんと教会が安定するようになり、周りから認められる教会になる時から、初めの行いを失ってしまう場合がよくあります。
これがともすると高ぶりになって、今度は自分たちと違う姿の教会について、さばいて非難する姿になってしまったりします。「自分たちはすでにこのように自らも、また、周りからも認められている教会になった」という高くなった心が場所を占めているからなのです。そうすると、さらには他の教会と主のしもべに対して、「間違っている。異端だ」とさばいて罪に定めるという、非常に大きな悪さえも行ってしまうのです。
神様のみことばは確かに、さばいてはいけません、罪に定めてはいけません、つぶやいてはいけない、量ってはいけない、と何度も言われています。自分と同じでないからといって、全部間違っていて異端なのではなく、すべての基準はただ神様のみことばである聖書にならなければなりません。
エペソ教会がニコライ派の人々の行いを憎んだことについて主から称賛されたのは、彼らの行いが真理である神様のみことばに照らして、確かに間違ったものだったからです。
ニコライ派が主張した内容は次のようでした。
「霊とは、きよくて罪がなく聖められたものだ。人が罪を犯すのは、目に見えるこのからだに罪があって罪を犯すのだ。人の中にある霊は罪とは無関係だ。人が死んで神様がその霊と魂を召されるとき、からだは腐って一握りの土に戻っていくので、肉体はいくら罪を犯しても救いとは関係がない。いったん主を信じさえすれば、霊と魂がきよめられるので、肉体はどんな罪を犯しても関係がない。」
それでは、真理である神様のみことばに照らして、はたしてこのような彼らの主張が少しでも合っているでしょうか? 神様のみことばは「罪を犯しては決していけない」とあり、主を救い主として受け入れたとしても、再び罪を犯すなら、御霊が消されることもあり得ると言われました。また、主をもう一度十字架にかける罪を犯すようになると、永遠に悔い改めることさえできないと言われています。ですから、ニコライ派の主張と行いは、神様のみことばを正面から否定する、確かな異端思想であることがわかります。
ところで、そのようなものではなく、ただ神様のみことばのとおりに生きなさいと教えて、何としてでも少しでももっと善良に生きて、もっと聖められるようにするために涙で教えている教会、また、ただ聖書がまことであることと、イエス様だけが私たちの唯一の救い主になられることと、創造主なる神様が生きておられることを、伴う確かな証拠とともに伝える教会について、「間違っている。異端だ」と言うなら、そう言う人々は神様のみことばではない、はたして何を基準としてそのように言うのでしょうか?
時間と空間を超える神様のみわざ、御力の込められている手ぬぐいや前掛けによるみわざ、これ以外にも様々な驚くべき奇しいわざが、みな聖書に記されているものであり、私たちはそれが確かなまことであることを数え切れなく証明しているのです。
聖書には、霊の目が開かれて霊の世界を見ることも出てきて、神様と交わっていることも出てきて、それもどんな人々が神様と交わったのかがはっきり書かれています。それなのに、このように聖書に出ている事実が今日も起こっていて体験していると言うと、なぜ非難して間違っていると言われるのでしょうか? そのように非難してさばかれる方々は、「何を根拠としているのか?」を本当に悟ってみなければならないでしょう。
したがって、真理に照らして見分け、神様が嫌って憎まれることであれば、私たちも当然憎んで遠ざけるべきですが、ともすると自らの高ぶりに目が遮られて、自分の間違った物指しに照らして、神様の愛される祭壇と主のしもべをさばいて罪に定めることは決してないよう願います。それで、間違っても神様の働きを成し遂げることを妨げることがあってはならず、しかも主のしもべが間違って教えて、羊の群れにまでさばいて罪に定める罪を犯させてはいけません。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言われたように、今からでも御霊が言われるみことばを聞いて、「まことに真理とは何か、まこととは何か」を悟れますよう、主の御名で祈ります。
愛する聖徒の皆さん。皆さんは主から称賛を聞いたエペソ教会が、なぜ「あなたの燭台を取りはずしてしまおう。」とまで恐ろしい叱責のみことばを聞いたのか、必ず心に刻まれますよう願います。主への初めの愛から離れてしまい、初めの行いを失ってしまったからなのです。
ところで、主がエペソ教会にこのように叱責のみことばを下さった理由は、彼らが恐ろしさの中で滅びに行くように放っておくためでは決してありませんでした。今でも悔い改めて立ち返り、勝利を得る者となり、神の国で共にするよう願われたからです。まさに、きょうにでも、エペソ教会のような教会と聖徒たちがいれば、これからすみやかに悔い改めて立ち返り、新しい力と希望の中で走っていくよう望まれるのです。
したがって、数年、あるいは、数十年信仰生活をしてきながら、自分も知らないうちに初めの愛の充満と熱さが冷めていた方々には、エペソ教会に下さったみことばが新しい挑戦と覚悟を固めるきっかけとなられますよう願います。これからもうこれ以上、後に遅らせる時間がないことを覚えなければなりません。
また、今まで変わらない初めの愛の充満さの中で走っている教会と聖徒たちもやはり、エペソ教会に下さったみことばを通して、「私は初めの愛と行いを持って、これからもっと主を愛していく」と決心する恵みの時間になられますよう願います。
聖徒の皆さん。きのうもきょうも、いつまでも、同じであるイエス・キリスト、わが主はいつも変わらない愛で神様の子どもたちを愛しておられます。それなのに、人のほうからは、自分の利益と欲、そして、変わる肉の属性など、いろいろな理由で主への愛にそむいたりもするのです。初めに持っていた愛の心が、時間が経つにつれて変わってしまうのです。
しかし、愛の神様は、たとえそのように心が変わった人であっても、自分の間違いを悔い改めて立ち返り、初めの愛と行いを取り戻すなら、決して顔をそむけたり以前の過ちを責めたりされないのです。前と同じ心で皆さんを待っておられて、帰って来た皆さんをふところにいだいてくださいます。帰って来た放蕩息子のために、急いで一番良い着物を持って来て着させ、手に指輪をはめさせ、肥えた子牛をほふって宴会を開いてあげるのが、まさに父なる神様の心です。
これが変わらない霊的な愛なのです。このような主の愛を心の奥深く感じることによって、ひょっとして初めの愛を失った方々がいたなら、もう一度初めの愛の熱い涙を回復する幸いな皆さんになられますよう願います。
それで、救ってくださった主の愛と恵みに感謝して、とめどなく涙を流しながら、いのちを尽くして忠実な者となって走っていくと決心した、皆さんの初めのその姿が、この後はわが主に再びお目にかかるその日まで決して変わらないよう、主の御名で祝福して祈ります。
それでは、今からは七つの教会の中で二番目として、主がスミルナにある教会に下さったみことばを調べてみます。
愛する聖徒の皆さん。スミルナ教会は、七つの教会のうち唯一、称賛も叱責でもない勧めのみことばを聞いた教会です。
ところで、この教会に下さったみことばの中には、霊的にとても重要な内容が込められています。私たちが信仰生活をしていくことにおいて、「なぜ時には試みと患難が来るのか」、そして、「サタンの会衆」とは何か、「どんな人にいのちの冠が与えられるのか」など、信仰生活にどうしても必要な内容が込められています。また、本教会に与えられた重要な一つの使命とも直接関連のあるみことばです。
まず<8節>に「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。』」とありますが、ここでスミルナにある教会の御使いとは、その教会を担当している主のしもべを意味していると申しました。そして、「死んで、また生きた方」、すなわち、主について「初めであり、終わりである方」とありますが、主を「初め」と言ったのは、主は復活の初穂となられるという意味だと申しました。
<ローマ5:12>の「そういうわけで、ちょうどひとりの人(すなわち、アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。」というみことばのように、アダムが罪を犯した後、彼の血を受けて生まれたすべての人は、「罪から来る報酬は死です。」という霊の世界の法則にしたがって、みなが結局、死に行くしかありませんでした。このような私たちのためにイエス様は、代わりに十字架につけられて亡くなることによって、私たちのあらゆる罪を贖ってくださいました。これによって人類には救いの道が開かれました。
これについて、<ローマ5:18-19>には「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」と言われたのです。そして、このように私たちに救いの道を開いてくださった主は、死んで三日目によみがえり、復活の初穂となられました。これを指して、主を「初めである」と言うのです。
次に、主を「終わりである」と言うのは、将来、主が空中再臨されるようになると、その時、まさに人類へのすべての贖いのわざが終わりになるからです。すでに主を信じて死んだ人々と、生きて主を迎えるようになる人々、みなが主の空中再臨と共に、復活の実として出てくるようになるのです。もちろん、その後、落穂拾いの救いがあっても、それは人間耕作を通して成し遂げられる完全な救いの摂理からは外れたものなので、主の空中再臨と共に実質的な救いのみわざは終わるのです。
したがって、主の空中再臨の時が、復活の終わりの実を刈り取る終わりとなります。このように、初めであり終わりである主は、確かに死んだ後、よみがえられました。
主が死んだ後、よみがえられたという事実は、信仰生活においてとても重要な部分です。<ローマ10:9>には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」と書かれています。主の復活を心に信じる時だけ救われると言われています。
それなのに、今日、教会は通っていると言っても、主の復活への確信を持てないまま、教会を行ったり来たりするだけの場合が多いのです。そして、このように復活の信仰への確信がないので、復活の望みもなく、神様のみことばのとおりに生きていける信仰もありません。
それなら、主が死んだ後、よみがえられたことを、私たちはどうしたら信じられるでしょうか? 一つの例を挙げると、イエス様の弟子たちの姿が、主の復活の前と復活の後にどう変えられたのかを見てもよくわかります。
イエス様は弟子たちと共にされた3年間、多くの不思議としるしを行うことによって、ご自身が神様から来られたという事実と、生きておられる神の子であることを充分信じられるように現わしてくださいました。そして、弟子たちにご自身が十字架につけられて息を引き取られることと、死んだ後、三日目に死の力を滅ぼしてよみがえられることもあらかじめお話してくださいました。
ところが、実際、イエス様が捕らえられて、十字架の上で息を引き取られると、弟子たちは恐ろしさに震えながら、散り散りに逃げてしまいました。その中でも、イエス様の一番弟子であったペテロは、イエス様の御前で「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と告白したにもかかわらず、結局、イエス様を知らないと三度も言いました。もちろん、他の弟子たちもペテロのように、「たとい死ななければならないとしても、主を知らないなどとは決して申しません」と告白しましたが、彼らもみなイエス様を捨てて逃げました。
皆さんは今、考えると、「どうしてそんなことができるのだろうか?」と言うかもしれませんが、皆さんも霊に変えられていない以上は、同じ姿が出るかもしれないのです。しかも、当時の弟子たちはまだ聖霊を受けていない状態で、「死んだ後、よみがえる」というイエス様のみことばを心に完全に信じられなかったので、そのような姿が出てきたのです。
さて、そんな弟子たちに、一朝にして驚くべき変化が起こります。死を恐れて逃げた弟子たちが、今は死の前でも堂々とイエス・キリストを叫んで、獅子のえじきになったり、刀で首をはねられたりもしました。また、ある人は、のこぎりで切られて殺され、使徒ペテロは十字架に逆さまにつけられて死にました。これ以外にも、途方もない殉教の苦しみの中でも、主の弟子たちは最後まで主を宣べ伝えました。
弟子たちがこのように変えられたのは、まさによみがえられた主に直接お会いしたからです。死んだ後、よみがえられた主を自分たちの目ではっきりと見るようになると、彼らの心にも復活の確信を持つようになり、天国への望みがあふれるようになりました。ですから、これからは死の恐怖から解放されて、主のために命までささげられるようになったのです。
このような姿は主の弟子たちだけからではなく、主の復活と昇天を共に目撃した多くの初代教会の聖徒たちにも見られました。彼らは、復活への確実な信仰と望みの中で、殉教の血を惜しまず犠牲になったので、ローマのその途方もない迫害の中でも、結局、キリスト教があれほど速く宣べ伝えられ、今日、全世界に伝えられたのです。彼らがもし主の復活を目撃できず、また、復活を心に信じられなかったなら、どうしてそのような迫害と苦しみを受けながらも、最後まで信仰を守れたでしょうか?
聖徒の皆さん。主の復活を目撃した弟子たちは、大胆に出て行ってその事実を伝えましたが、この時、言葉でだけ「主がよみがえられた」と伝えたのではありません。<マルコ16:20>に「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」と書かれているように、主の弟子たちと使徒たちにしるしが伴ったので、人々は彼らの言葉を信じることができました。
これは今日も同じです。私たちがまことに心に完全に信じられる信仰をもって主の復活を宣べ伝えるとき、主は伴うしるしをもって、伝えられるみことばを確かなものとしてくださいます。<ヨハネ4:48>に「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』」と言われたように、人々は目に見えるしるしと不思議が現われてこそ、それを見て信仰を持つ場合がほとんどなのです。
ところで、皆さんは今までどれだけ多くの不思議としるしと御力の証拠をご覧になったでしょうか? それなら、これからはまことに確かな復活の信仰と望みの中に出ていく皆さんになられますよう、主の御名でお願いします。
このように初めであり終わりである方、死んで、また生きた主はスミルナ教会に次のように言われました。<9節の前半節>には、「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――」とあります。それでは、スミルナ教会はなぜ苦しみと貧しさにあったのでしょうか?
愛する聖徒の皆さん。事実、主を信じる前には苦しみと貧しさの中で生きていた人であっても、これからは主を受け入れて信仰生活をしていくなら、神様の守りと保護の中でむしろ苦しみと貧しさにあわないことが当然なことです。ところが、実際、主を信じている人々の中にも、苦しみと貧しさにあう場合がよくあります。
それでは、なぜ主を信じている人々にこのような苦しみと貧しさがあるのでしょうか? まず苦しみにあうことには、大きく二つの場合があります。第一に、主を信じるがゆえに主の御名によって受ける苦しみがあり、第二に、主を信じていると言いながら、真理、つまり神様のみことばどおりに生きられなかったので、サタンに訴えられて受ける苦しみがあります。
ところで、信じている人々の中でも、この二つを混乱していることがよくあります。特に、自分が神様のみことばの中に生きられなかったので苦しみを受けていながらも、自分は主のために苦しみにあっている、と言うのです。また、賢くないので、もう少し善の知恵を受けられなかったので、あえて受けなくてもよい苦しみや迫害にあう場合もあります。それなのに、本人は主のために受ける迫害だと思うので、自分を顧みようと思わないのです。
また、主の御名によって受けている苦しみや迫害をどんな場合でも当然なものだと思いますが、それはあくまでも神の国を成し遂げるために受ける苦しみや迫害の場合です。主の御名で受ける個人的な苦しみや迫害は、皆さんが霊に入れば、全部消えるのです。夫の迫害、妻の迫害、家族の迫害、このようなものが離れるようになるのです。このような場合について、正確に悟って見分けられますよう願います。
まず、主を信じるがゆえに受ける苦しみは、義のために受けるものであり、私たちが主を信じる前には受けなくてもよかった迫害や苦しみを、これから主を信じることによって受けるようになるのです。たとえば、教会に行くからといって、夫が妻を迫害します。時には、姑や両親、あるいは、兄弟や友だちなどが迫害をして、その上、子どもが両親を迫害する場合もあります。
しかし、このような迫害は前にも申し上げたように、皆さんが霊に入れば消えます。光の前では暗やみが退くしかないので、皆さんが霊に入って来て、完全に光の中を步んでいるようになると、霊的な権勢が伴うようになるので、自然に皆さんを迫害していた暗やみは消えるのです。
しかし、5年、10年、20年信仰生活をしたのに、相変わらずこのような迫害が消えないなら、皆さんの信仰生活がはたしてどうなのかを自ら顧みなければならないでしょう。「皆さんの信仰生活がかぐわしいキリストの香りを放っているのか、良い行いで人々が父をあがめるようにさせているのか、本当にみことばのとおりに行いながら、光の中に生きているのか」このようなものを顧みることによって、どうして皆さんからまだ暗やみの迫害が退かないのか、その理由を悟らなければなりません。
さて、皆さんが霊に入ったとしても、主の御名によって受ける苦しみがあります。まさに神の国を成し遂げて、魂を救うために受ける苦しみです。モーセ、エリヤ、エレミヤ、イザヤなどを始めとした旧約時代の多くの預言者たちと、パウロ、ペテロ、ヨハネなどの新約時代の使徒たちもやはり、このような苦しみと迫害を受けたことがわかります。彼らは神様をとても愛して、神様からも愛される人々でしたが、神様のために、主のために、そして、神の国と魂たちのために、喜んで多くの迫害と苦しみに耐え抜いたのです。
これについて<マタイ5:11-12>には、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」と言われています。
したがって、このようなみことばをまことに心から信じているなら、たとえ当時は耐えがたい迫害と苦しみがあっても、これを通して天の御国に報いが大きいということを信じて、喜んで喜びおどることができます。
それでは、皆さんは主の御名であれこれの苦しみや迫害にあうとき、どんな心でしたか? 喜んで喜びおどったなら感謝してください。もしかしてそうでなく、つらくて、不平を言ったりつぶやいたりしたなら、この時間、そのすべてのことを徹底的に悔い改めて、この後には、心の底から喜んで喜びおどりながら、感謝できる皆さんになられますよう願います。
そうする時だけ、皆さんが受けた苦しみと迫害に対して、父なる神様が天の御国に大きな報いと、この地上での祝福としても報いてくださるのです。主の御名によって受ける苦しみについては、次の時間に続いて調べてみます。
愛する聖徒の皆さん。皆さんがまことに主のゆえに苦しみにあうのであれば、皆さんは確かにまことの霊の信仰のある方であり、この地ではない天の御国に望みをおいて生きていく人です。しばらくの間生きて、霧のように消えるこの地上の人生が目的ではなく、永遠の天国の人生を目指して行くのです。
さて、私たちがこの地でも、ある目標を成し遂げるためには多くの忍耐と労苦をしなければなりません。たとえば、大学や職場に入るためにも、どれだけ多くの努力をするでしょうか? しかし、そのような労苦と忍耐をするのは、結局その後に与えられる代価を見つめるためでしょう。
このように、世であること一つを得るためにも、このように労苦と忍耐が必要ですが、ましてこの地上のそのどんなものとも比べられない、天の御国の永遠の報いを見つめるなら、当然、どんな状況でも喜んで喜びおどれるべきではないでしょうか? 苦しみや迫害が来るほど、かえってさらに熱心になって走っていくべきではないでしょうか?
私たちの信仰の昔の人々もこのような信仰と望みがあったので、言いようもない苦しみを受けながらも、喜びと感謝で狭い道を行ったのです。
使徒パウロは<第一コリント4:11-13>で、「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは労苦して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」と、このように告白するほどに主のゆえに受ける迫害と苦しみが大きかったです。
したがって、私たちは<ローマ5:3-4>の「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」と言われたように、主の御名によって受けるどんな患難の中でも、ただ希望を生み出すと知っている幸いな人にならなければならないでしょう。
それで、主が私たちを連れに再び来られるその日に、みなが復活の初穂であられる主にならって、美しい復活の実として出てくることによって、永遠の天国で下さるまことの幸せと平安の喜びをとこしえに味わう皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。"
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