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金曜徹夜礼拝 メッセージ > 金曜徹夜礼拝
金曜徹夜礼拝
Title
   黙示録講解(6)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 1:19-2:7
Date
   2006-11-17


<黙1:19 - 2:7>

そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を步く方が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』


きょうからは、主が七つの教会に下さるみことばについて説明いたします。
七つの教会は、主の御名でこの地上に建てられたすべての諸教会を代表するものであり、七つの教会に下さるみことばは、すなわち、終わりのさばきの日にすべての諸教会をさばく基準になるのです。
主は、このように重要なみことばの前に、まずきょうの本文<黙1:19-20>で、「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」と言われています。
主はヨハネに「あなたの見た事」だと言われましたが、これは今、ヨハネが幻の中に見ていること、つまり<黙示録1章>の内容を意味しています。そのうちでも、ヨハネは今、特別に主の御姿を見ているので、「あなたの見た事」とはもう少し正確に言えば、まさに「主イエス・キリスト」を意味します。
また、ヨハネはイエス様の弟子として、イエス様と三年間共にしながら、多くのことを見ました。その時に見て聞いて、教えられたすべてのことが、みな「あなたの見た事」に当たり、ヨハネはそのとき、見たことがあったので、主についてもっと完全に書き留めることができたのです。
次に、「今ある事」とは、今から下さる七つの教会についてのみことばです。しかし、広い意味で「今ある事」とは、主がよみがえって昇天された後から今までにあった出来事、すなわち、現在起こっているすべての事までも意味しています。なぜでしょうか?
<黙示録2、3章>に出てくる七つの教会についてのみことばは、単にその当時にあった七つの教会にだけ当たるみことばではなく、今、現在までその地上に存在している、そして、将来、主が再び来られる時まで存在するようになるすべての諸教会に当たるみことばであると申しました。したがって、七つの教会に当たる「今ある事」は、結局、今までどの時代にも存在し、現在も存在している、すべての諸教会にあった事だということです。
最後に、「この後に起こる事」とは、まだ成し遂げられていないけれど、将来、必ずなされる出来事、すなわち、主の空中再臨と七年患難、千年王国、白い御座の大審判、そして、最後にはすべての魂たちが天国と地獄に分けられるようになる、このすべての出来事を言うのです。まさに<黙示録4-22章>までの内容を言います。主はこのように将来なされる出来事を、ヨハネにあらかじめ見せてくださりながら、「書きしるせ」と語っておられます。
それと同時に、七つの星と七つの燭台が、何を意味するのかを言われています。「七つの星」とは七つの教会の御使いたち、つまり、教会を治めるしもべを意味して、「七つの燭台」とは七つの教会を意味しています。
ところで、このような七つの星と七つの金の燭台が主の右の手の中にある、と言われました。これは、すなわち、主が力でつかんでおられる教会と主のしもべを意味していると申しました。神様の御前にふさわしく、神様が共にされる教会とその主のしもべは、神様が力ある手でつかまれています。まさにこのような教会と主のしもべを、神様は願われるのです。彼らを通して、神様のみこころを宣べ伝えて、また、栄光をお受けになるのです。
愛する聖徒の皆さん。この地上に数多くの教会としもべたちがいても、主が親しく力でつかんでおられる教会と主のしもべが、まことの主の教会であり、主のしもべだと言えます。そして、このように主がつかんでおられる教会としもべは、主が親しく共にされるので、このような教会としもべをさばいたり非難したりすることは、すなわち、主をさばいて非難することになります。
しかも、主がつかんでおられるしもべはその口の教えが、すなわち、主のみことばであり真理であり、それがまさに「公義の物指し」になります。神様が保証されるしもべを通して、神様のみこころを正確に宣べ伝えるようにされることによって、このように神様の保証なさるしもべを通して伝えられたことばが、結局、終わりの日にさばきの基準となるのです。
今日、この地上に数多くの教会があり、それぞれ神様のみことばを宣べ伝えるしもべたちがいますが、彼らのすべての教えがみな真理なのではありません。ただ神様が認めて保証されるまことのしもべを通して伝えられたみことばであってこそ、それがまことに神様のみこころであり、正確なさばきの基準になれるのです。
また、すべての諸教会がみな救いの箱舟としての使命を果たすのではなく、主がつかんでいて共にされる教会である時だけが、もっとこの終わりの時に救いの箱舟としての使命を果たすことができます。うわべでは、主の御名で建てられた教会であっても、実際、主が共にすることがおできにならない教会がいくらでもあるからなのです。
したがって、終わりのさばきの日には、皆さんがこの地上でどのように信仰生活をしたのかが、皆さん個人のさばきの尺度になるだけでなく、皆さんがどの教会、どの祭壇に属していたのかも、さばきの尺度になるということです。
もちろん、救いはあくまでも神様と皆さん個人の関係で決定されることですが、聖徒たちがどの祭壇に属して信仰生活をし、どの主のしもべにかしらとして仕えたのか、ということが、結局、彼らの個人的な信仰にとても重要な影響を与えるからです。
たとえば、ある人が、真理をよく知らない状態で、自分が通っている教会の主のしもべが、他の教会や他の主のしもべをさばいたり罪に定めたりするのを聞いたとき、自分もそのとおりにさばいて罪に定めてしまう場合があります。このような場合は、たとえ何かの悪意があって、そうしたのではなかったとしても、終わりのさばきの日にその行いについて、決してただ見過ごされることではありません。
心の善良な人なら、自分が直接見て聞いたことではないことに対して、そのようにさばいて罪に定めたりもしなかったでしょうが、たとえ真理を全く知らない初心の者のとき、そうしたことだったとしても、その後、いくらでも自分の過ちを悟って立ち返り、悔い改められる機会があったからなのです。信仰生活をしながら、段々と真理が分かるようになると、以前の自分の言葉と行いが大変悪いことだった、ということが、当然、悟れるでしょう。
その時でも、以前の過ちを悔い改めればよいのに、そうでなく最後まで悔い改めないまま、終わりのさばきの日に白い御座の前に立つようになったなら、その時は単に「以前、私は真理をよく知らなかったのでそうしました」という、この一言で見過ごされるのではありません。<マタイ12:36>に「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」というみことばのように、必ず言い開きをするようになるのです。
ですから、この地上で信仰生活をする間、どの祭壇と教会に属して信仰生活をして、どんな主のしもべをかしらとして教えを受けるのかということが、どれだけ重要なのかを悟らなければなりません。その選択のいかんによって、魂に幸いを得ていて、もっとよい天国を激しく攻めて入っていくこともでき、反対に盲人であるかしらの手引きについて行って、一緒に穴に落ち込むこともあるからです。
聖徒の皆さん。信仰とは、<第二テモテ2:5>に「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」と言われたように、あくまでも個人的なものであり、終わりの日のさばきも個人的になされますが、団体点数、あるいは、団体競技というものもあるように、信仰の中でもそれと似たものがあります。皆さんがどんな祭壇で信仰生活をして、だれがその祭壇のかしらだったのか、ということが、皆さん個人のさばきにおいても物指しになるということです。
終わりのさばきに日には、個人だけでなく、教会へのさばきもあるようになりますが、このとき、皆さんの属していた教会が神様の御前にどんな評価を受けるのかによって、皆さんにとって得になることもあり、その反対になることもあるのです。イエス・キリストの御名で建てられた教会と祭壇なら、当然、みことばによってさばきがあるようになります。そのさばきの基準となるみことばが、まさに七つの教会に下さったみことばなのです。
また、教会と祭壇のかしらとなった主のしもべだったら、その人は自分の個人的な信仰へのさばきはもちろんであり、かしらとなった牧者としてのさばきも受けるようになります。主の御名によってゆだねられた教会と羊の群れを、はたしてどのように治めたのかによって、厳正なさばきがあるようになります。
イエス・キリストの御名によって建てられた教会のかしらとして、当然、主のみこころに従って、教会と羊の群れを治めるべきですが、もしそうでなかったなら、その人に臨むさばきに耐えることはやさしくないということです。
しかも、イエス・キリストの御名で建てた教会が、神様の栄光を遮り、偽って行ったなら、正確な公義にしたがって必ずさばかれるようになります。適当におおまかにさばきがなされるのではなく、神様のみことばに照らして、とても正確で明らかにさばきがなされます。それで、<ヤコブ3:1>で使徒パウロは、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と言われています。
<マタイ18:6>には「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」とありますが、まして教会のかしらとなり、多くの魂たちまで一緒に死の道へ導いたなら、そのさばきの刑罰がどんなに大きいでしょうか?
一方、かしらとなる主のしもべとして、自分にゆだねられた羊の群れを緑の牧場といこいの水のほとりに伴い、結局、良い天国に導いていったなら、その人には驚くべき報いと栄光が与えられます。
「主の右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、」というみことばには、このようないろいろな意味が込められているのです。

それでは、今からは本格的に七つの教会についてのみことばを調べてみます。
聖徒の皆さん。七つの教会に下さるみことばの中には、新旧約にあるみことばを総合して、はたしてどんな教会が主の称賛を受けて、反対にどんな教会が主の叱責を受けるのかがよく込められています。そして、このみことばをよく聞くと、今、自分の教会がどの部類に属しているのかが悟れます。また、七つの教会についてのみことばは、神様を信じているすべての聖徒、個人の信仰状態を顧みて、信仰を正しく立てるために必要な「信仰生活の道しるべ」と言えるでしょう。
しかし、主がこのように七つの教会についてのみことばを通して、いくら称賛を受ける教会になれる道を明らかに示してくださったとしても、皆さん自らどんな選択をするかによって、結果は全然違うかもしれないのです。
したがって、皆さんはこれから伝えられるみことばをよく聞いて、まことに心に糧とされますよう願います。主が非難された内容のうちに、ひょっとして個人的に自分にも当たるものはないかを顧みるように、発見されるものがあれば、これ以上遅らせず直ちに立ち返り、みことばどおりに行うことによって、この機会が皆さんの信仰を確実に岩の上に建てるという、祝福の時間になるようお願いします。
また、このみことばを聞くすべての教会と主のしもべたちも、終わりの日には必ず教会とその教会のかしらに対する正確なさばきがあることを悟り、その日、主の御前に称賛される教会と主のしもべたちとして完全に変えられて出てくるよう、主の御名で祝福して祈ります。

聖徒の皆さん。本文<黙示録2:1>には「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。』」とあります。ここで「エペソにある教会の御使い」とは、「エペソにある教会を治めている牧者」を意味します。そして、エペソにある教会の御使いに手紙を送ったお方は、まさに主です。
ところで、主について「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」と表現しています。これは、前にも申し上げましたが、簡単に言って、主の御名で建てられ、主が直接力でつかんでおられる教会と主のしもべたちがまさに正確な公義の物指しとなる、という意味です。
したがって、終わりの日に主の御名によって建てられた諸教会と、主の御名で行ったというすべてのことに対して、公義の中でさばきがなされるとき、まさに主が建てて保証された教会の主のしもべたちがさばきの基準になるということです。
したがって、主の右手につかまれた七つの教会とは、最初に建てられた初代教会から始めて、将来、主が再臨なさる時まで建てられるすべての教会の中で、主の御前にふさわしい教会を総称する意味なのです。このような教会は、神様のみことばの中に生きていくので、いつも聖霊に満たされていて、愛があふれ、神様が共におられるみわざが現われます。
この地上に存在するすべての教会が、まさにこのような教会にならなければなりませんし、教会を担当するかしらとなる主のしもべたちもやはり、主の力の右手につかまれていなければなりません。主人となる父なる神様が親しくつかさどり導いていかれる、そのようなしもべたちにならなければならないのです。そして、このように神様が認められるしもべになると、その人は神様が親しく保証されます。それで、もしこのような主のしもべたちをそしったり、是々非々を論じたり、さばいたりすると、それはすなわち、わが主に対することだと知らなければなりません。
また、主が七つの金の燭台の間を歩く、とありますが、「七つの金の燭台」とは「七つの教会」であり、燭台の中にある「ろうそく」とは「聖徒」を意味しています。ろうそくに火がともることによって暗やみを照らすように、神様を信じている聖徒たちの集まりである教会が、聖霊充満で真理の中に生きていくとき、光を放つようになります。
まことの信仰を所有した聖徒なら、神様のみことばのとおり光の中に生きていくことによって、このような聖徒たちが共にする教会を通して、数多くの人々が暗やみから光に出てきて、救いに至ることができるのです。主はこのような諸教会を探すために、今も燃える炎のような瞳でくまなく行き巡り、すべての教会をご覧になっておられるのです。
愛する聖徒の皆さん。七つの教会に下さるみことばは、時間と空間を越えてこの地上に存在しているすべての教会に当たるみことばなので、七つの教会、それぞれに当たるモデルを、今、存在する教会の中で見つけることができます。
それでは、今日、存在する教会のうち、エペソにある教会に当たるモデルとはどの教会でしょうか? 今から本文を一つ一つ調べてみるとき、はたしてどの教会がエペソにある教会のようなタイプに当たるのか、真理でよく見分けてみるよう願います。かと言って、「どの教会だな」とさばかず、もしかして皆さんの仕えている教会にはエペソにある教会のような姿はないのか、また、皆さん自身にはそのような姿はないのかを顧みる、恵みの時間になられますよう願います。
まず、主はエペソにある教会に称賛に当たるみことばを下さいます。<2-3節>には、「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」と書かれています。

第一に、「真理のとおりに行おうと、労苦して忍耐した」と言われます。エペソにある教会の牧者と聖徒たちは、真理に逆らうものを一つ一つ捨てながら、神様のみことばの中に生きていくために努力しました。
神様のみことばを調べてみると、「しなさい」「してはいけない」「守りなさい」「捨てなさい」と、このように大きく四つの類型があります。そして、このそれぞれに当たるみことばが聖書のあちこちに出てきます。ところで、このような真理のみことばのとおりに行おうとすると、労苦と忍耐が伴うようになります。
<へブル12:4>には「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」とあり、罪と戦って捨てるためには、血を流すまで罪と抵抗して戦わなければならないことを言われています。また、<第一コリント4:2>には「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」とあり、<黙示録2:10>には「死に至るまで忠実でありなさい。」とあります。
このように、心の中にある罪と悪を脱ぎ捨てるために血を流すまで戦って、また、ゆだねられた使命を完全に果たすためには、当然、労苦が伴うようになり、このように労苦してみると忍耐も伴うようになります。
それなら、皆さんもはたしてエペソにある教会のように、主から称賛されるほど、罪を捨てて使命を果たすために労苦して耐え忍んだでしょうか? 皆さん自身が見て、「私はこれくらいはやった」と満足してはいけません。<第二コリント10:18>に「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」と言われたように、主から認められて推薦される人にならなければなりません。
かと言って、推薦されるための目的で罪を捨てて忠実でありなさい、という意味ではなく、皆さんが主から受けた命令をみな行った後であっても、かえって「なすべきことをしただけです。」と、このように告白できる役に立たないしもべの心にならなければならないのです。そのような時、まことに主の推薦される教会と聖徒たちになれるのです。
まさにエペソにある教会は主の御前にこのように称賛されるほど、真理を行うために労苦して忍耐したので、主はこのようなエペソにある教会に向かって「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」と言われて、彼らの労苦と忍耐を称賛しておられるのです。

次に二番目として、主はエペソにある教会に「あなたが、悪い者たちをがまんすることができなかったこと」を称賛されました。
ひょっとして、ある方々は真理を間違って理解して、「教会は愛を実践する所だから、罪を犯しても無条件に我慢すべきではないか」と、こう考えたりもします。しかし、まことの愛を持っている両親は、家庭で子どもが罪を犯して脱線するようになると、それを無条件に赦して我慢するのではなく、かえってむちを打ってでも直そうとします。これは主にあっても同じです。
もちろん、主にあっては七度を七十倍するまで赦して、何としてでも我慢して耐え忍んで、相手が真理に変えられることを待たなければなりません。かと言って、この言葉は、明らかに相手が死へ向かっていることを知りながらもそのまま放っておきなさい、という意味では決してありません。
<マタイ18:15-17>には、「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」とあります。
相手の過ちを覆ってあげ、何としてでも赦して抱くために努力すべきですが、それにもかかわらず立ち返らず、教会の言うことさえも聞こうとしないなら、そのような人は異邦人か取税人のように扱いなさい、と言われています。
これは愛や憐れみがないからではなく、そのような人を無条件に我慢してそのままにしておくと、ちょっと間違えば他の人々まで罪に染まっていくことによって、教会全体に悪影響を与えるかもしれないからです。まさに、エペソにある教会は、このように悪い者たちを我慢することができず、主はこれについて称賛されたのです。
ところが、このようなエペソにある教会が、後には主から叱責を聞くようになります。なぜそうなったのでしょうか? これについては、次の時間に続いて調べてみます。

愛する聖徒の皆さん。神様は、<第一ペテロ1:16>に「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と命令しておられます。
しかし、必ずしもこの命令でなくても、私たちが聖でなければならない確かな理由があります。神様は私たちの罪を贖われるためにひとり子まで渡してくださり、イエス様は私たちのためのなだめの供え物となり、十字架につけられて亡くなるまで、私たちへの愛を現わしてくださいました。また、聖霊様を私たちの中に遣わしてくださり、聖霊様は今も言いようもない深いうめきによって、魂たちのために代わりにとりなしておられ、義と真理の中に導いておられます。
まさにこのような三位の神様の愛を知っているなら、決してこれ以上暗やみの中に生きていてはいけません。また、聖なる神様の子どもたちが集まっている教会もやはり、当然、真理の聖さの中にいなければなりません。ですから、主のからだなる教会の中で決して悪を我慢してはいけません。
ところが、今日の現実を見ると、教会の中に悪を行うことがあっても、それを責めたり治めたりするのではなく、かえって隠したり我慢したりする場合がよくあります。もしかして聖徒たちが罪を指摘されると、教会を離れてリバイバルに支障を招くのではないかと心配したり、あるいは、富と権勢と妥協するので、罪を我慢したりするようになるのです。
しかし、教会の役割とは何でしょうか? 救われた神様の子どもたちが、それ以上罪の中にとどまらず、暗やみから出てきて、真理の中に生きていくように教えることです。ひとりでも多くの魂を天国に導くことなのです。
したがって、神様のみこころではなく、神様の御前に罪となり死に行くことであれば、断固として指摘して教えて立ち返るようにしなければなりません。かと言って、講壇からみことばで刺してたたきなさいという意味ではありません。たださばかれるお方は、神様おひとりだけなのですから、私たちはただ神様のみことばに照らして、愛と憐れみの心で勧めたり励ましたりして、何としてでも真理の中に導かなければなりません。
このように、いつも神様のみこころの中で導かれる、すべての教会と聖徒の皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。"

 
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