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Title
黙示録講解(5)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 1:13-20
Date
2006-11-10
<黙1:13-20>
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
愛する聖徒の皆さん、また、アメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニヤ、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインタ-ネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、そして、視聴者の皆さん。
人々のうちには、自分が夢とか、あるいは、霊の目が開かれて幻を通してでも、主にお目にかかったと言う場合があります。そして、そのように主を見たと言うほとんどの人々は共通して主の御姿について、「とてもあわれみ深くて愛があふれている」と言います。もちろん、この地上のどんな単語でも、主の御姿を表現しにくいでしょう。
ところで、ほとんどの人々が見た主の御姿は、今、天におられる栄えに満ちた御姿よりは、人性的に見せてくださる御姿です。主が神性的な面を浮き彫りにして見せてくださるようになると、その権勢と威厳はとても素晴らしいのです。
聖められていない人なら、あえてその御顔をまともに見ることさえできません。また、主が今、栄光を得ておられる御姿をそのまま見せてくださるなら、人々はその明るい光によっても、主の御顔をまともに見られないでしょう。したがって、ほとんどの人々が夢や幻で主の御姿を見るのは、主のほうからそれだけ光を減らしてくださった御姿であり、人性的な御姿として見せてくださったということです。
きょうの本文にも、使徒ヨハネが幻の中で見た主の御姿が描かれています。<13-16節>には、「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」と書かれています。
使徒ヨハネが今、見ている主の御姿は、主の本体を直接見たのではなく、霊の目が開かれて幻の中で見ることなのです。将来、天国で主にお会いするように、顔と顔とを合わせたのではありません。このように、ヨハネは自分が主の本体を直接見たのではなかったので、きょうの本文にも主について直接的に「人の子」と表現せず、「人の子のような方」と表現しています。
さて、ヨハネは今、人の子のような方、すなわち、主がそれらの燭台の真中におられるのを見ています。先週説明したように、「燭台」とは「教会」を意味します。そして、<コロサイ1:18>には、「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」とあり、主が教会のかしらであると言われています。
したがって、人の子のような方がそれらの燭台の真中におられる、ということは、すべての教会のかしらとなる主が、いつも諸教会をくまなく行き巡ってご覧になっているという意味です。すべての教会が父なる神様のみこころのとおりに、正しく導かれるようにと、いつもとりなしの祈りをささげておられます。
しかし、今日、主が行き巡られない教会、つまり、主が共にされない教会が段々と増えていくだけです。祈りの火が消えた教会、この派あの派に分かれてしまい互いに争う教会、盲人が盲人を手引きするよう、神様のみこころとは全然違うように行っている教会、そして、聖霊のみわざが消えていく教会、このような教会とは主がこれ以上共にすることがおできにならないのです。そのような教会がどんな教会なのかについては、今後七つの教会についてのメッセージで詳しく説明いたします。
次に、ヨハネは主が「足までたれた衣を着て」おられるのを見ました。将来、私たちも天国に行くと、みなが麻布の長い衣を着るようになります。しかし、各人の着る衣の色や模様などは、この地上でどれだけ心を霊に耕したのかと、報いの程度によって違います。女性たちの場合には、髪の毛の長さも違います。
ところで、ヨハネが主を見たとき、主の衣が足までたれていた、ということには、「恵みが満ちあふれている」という意味があります。主はいつも私たちに恵みを注いでくださり、私たちが勝利していけるように助けてくださいます。
次に、「胸に金の帯を締めた」とありますが、これは「その信仰が純金のようなので、どんな変わる心もなく、その心根がまっすぐで完全だ」という意味です。主は心を尽くし、知性を尽くし、思いを尽くして、父なる神様のみこころに死にまで従われました。それで、父なる神様はまるで胸に勲章をつけてくださるように、心根を意味する胸に、変わらない金でできた帯をつけてくださったのです。
また、「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、」とありますが、ヨハネは主の髪の毛の色を表現するために、当時としては最も白い色と思われる白い羊毛と雪にたとえています。一番純白な色である白を表現したのです。「白」とは、傷もしみも汚れもないきよさ、すなわち、完全な聖潔と善を意味します。したがって、主の髪の毛を白い羊毛と雪にたとえたのは、「まことに完全で、悪はどんな悪もなく、完全な善のうちにおられる」という意味なのです。
次に、「その目は、燃える炎のようであった。」とあります。ところが、主の目は燃える炎のようであったからといって、ひょっとして「主の目は怖そうだ」と、こう思ってはいけません。使徒ヨハネが主の目を燃える炎のようであった、と言ったのは、はっきり明るくして、暖かさを感じさせるという意味です。しかし、それと同時に、主の目はすべての罪と悪を焼き尽くしてしまう炎でもあられます。また、とても正確に真理と真理に逆らうものを見分けられます。
したがって、主の目の前では、どんな偽りや欺きも通じないということです。だれも主の目を避けられず、主の御前ではすべてのことが明らかに表に現われるようになります。それで、事実、罪人たちは主を恐れます。罪人はあえて主を見ることさえできず、その御前に立つこともできません。花婿として来られる主をお迎えできる花嫁の資格を備えた人だけが、将来、主のふところに抱かれて、主の暖かい目を見ることもできます。
次に、<15節の前半節>には「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、」と書かれています。
聖徒の皆さん。人の体のうち、一番汚れているところの一つがまさに足です。<出エジプト3:5>には、「神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』」と言われる場面が出てきます。
神様がモーセに仰せられながら、このように足の靴を脱げ、と言われたことには、霊的な意味が込められています。一番汚れている足に履く靴を脱ぐ、ということは、神様の御前に出てくるためには、罪と悪に汚(けが)れた心と行いを脱ぎ捨てなければならない、という意味です。
さて、主の足は人の子らのように、そのように汚れた足ではありません。主の足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、と書かれていますが、「光り輝くしんちゅう」とは、傷もなく汚れもないとてもきよいものを意味します。
一般的に、金属物質を炉で精練すると、その中に混ざっていた不純物が燃やされて、段々と純度の高い金属物質になります。これと同じように、人の子らも訓練を通して罪と悪を脱ぎ捨てるほど、神様の御前にきよくて純粋な心になります。
主にはもともと何の罪も悪もありませんが、それでもこの地上に人となって来られて、人の子らが経験する喜怒哀楽を自ら体験しながら、人間耕作の過程を経験されました。したがって、主の足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、というのは、「主も人の子らのように耕作を受けられるとき、すべてのことを甘んじて受けられて、完全な信仰で勝利されたので、どんなことも訴えられない完全な御姿を見せられた」という意味が込められています。
皆さんもこのような主のように、いつもその足がきよくて、明るく光り輝かれますよう願います。ふさわしくない所には足を運ぶこともしないのですが、必ずしも足だけではなく、目も、耳も、口も、思いも、心もきよくない所に寄せてはいけません。
続く<15節の後半節>には「その声は大水の音のようであった。」と書かれています。私は、神様の御声を何度も聞いたことがありますが、その御声はあまりにも透き通って美しく清らかなのですが、大きく力強く響きわたっていて雄壮です。主の御声もこれと似ていますが、ヨハネはこのような主の御声を今、大水の音にたとえています。
ところで、主の御声をこのように水の音にたとえたのは、水が、すなわち、主の口から出るみことばだからです。水はきれいに洗ってくれる役割をして、ほとんどすべての生命体にどうしても必要です。このように、主のみことばによって私たちの心の罪と悪が洗われるので、きよくなるのです。
また、<第一ペテロ1:23>の「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」というみことばのように、神様のみことばによって新しく生まれて、永遠のいのちに至ることができるのです。したがって、神様のみことば、すなわち、主のみことばは永遠のいのちを得るためにどうしても必要なのです。
魚が水から離れては生きられないように、神様の子どもなら、決して神様のみことばから離れては生きられないことを心に留めなければなりません。そして、神様を愛してみことばを慕い求める人は、渇いている人がまるで涼しい滝にあったように、神様のみことばを聞く時に、心がとても生き返るようになります。
皆さんの口も、まさにこのような口にならなければなりません。相手の心を生き返らせる言葉、安らぎと幸せを与えられる言葉、いのちになれる言葉、まさにこのような言葉を出す口にならなければなりません。
次に<16節>には、「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」とあります。まず「また、右手に七つの星を持ち、」とありますが、人は一般的に左手よりは右手のほうが、もっと強くて力があります。それで、「右手」とは力と能力を意味します。また、「星」は「人」を意味します。
<創世記15:5>で主がアブラハムに、「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」と言われる場面が出てきます。アブラハムの子孫を星にたとえておられます。
この世でも、ある大きな人物が生まれたり亡くなったりするとき、空に星が新しく現われたり消えたりして、その前兆を現わすと言います。したがって、「七つの星」とは、きょうの本文<20節>にも出てくるように、七つの教会の御使いたち、すなわち、七つの教会を治める牧者を意味します。
そして、主がこの七つの星を右手につかんでおられる、ということは、神様が直接建てられた教会と選ばれたしもべたちは、神様の力でつかんでおられるという意味なのです。保証され共におられる証拠を現わしてくださり、訓練される時も神様が直接練られるのです。
<マタイ16:18>でイエス様がペテロに、「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」というみことばのように、神様が選んで建てられたしもべと教会は、敵である悪魔・サタンやだれであっても、決して倒すことができないのです。
そして、このように神様がつかんでおられる教会としもべは、将来、さばきの基準であり、物指しとなります。神様がどんな教会としもべを保証なさり、共にされるのかを見せてくれる測量の基準になるので、正確な判断の根拠になるということです。したがって、主が力ある右手でつかんでおられる教会としもべを、さばいたり罪に定めたりすることは、結局、主をさばいて罪に定めることと同じなのです。
次に、「口からは鋭い両刃の剣が出ており、」とありますが、これは主の口から出てくるみことばがまるで剣のようだ、ということです。<ヘブル4:12>には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」と書かれています。
主の口から出てくるみことばは、人の心の深い所にある罪と悪さえも刺し通すことができます。罪と悪の中にとどまる人には、神様のみことばがまるで剣のように心に刺さるようになります。それで、手術によって、患部を完全にえぐり取るように、真理に逆らう罪と悪を一つ一つ分解して脱ぎ捨てるようにするのです。
ところが、自分にあるどんな悪でも発見したら、みことばの剣で一度で確実に刺し通してしまえば終わるのに、捨てずに持ち続けている場合があります。それで、二回、三回と、同じ過程が繰り返されるので、それだけもっと辛くて苦しみも受けるようになるのです。
次に、「顔は強く照り輝く太陽のようであった。」とあります。主の御顔は太陽よりはるかに輝いていますが、この世の他のものでは表現できないので、このように強く照り輝く太陽のようであったと表現したのです。
さて、世の人々は、太陽をまともに見ることもできないだけでなく、かりにまともに見つめても、すぐ目がくらんでしまい、ちょっと間違えば見えなくなることもあり得るように、罪人は主の御顔や目が見られません。<マタイ5:8>の「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」と言われたように、心がきよくて聖められた人には、神様が見られる幸いが与えられます。
これは、将来、天国に行っても同じです。<ヘブル12:14>には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」と記されています。このみことばのように、天国に行くからといって、無条件にみなが主を見られるのではなく、すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めた人だけが、主を見られる資格を得るのです。
ところで、主の口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった、というみことばは、すべての暗やみを打ち砕いて、あえて暗やみがその御前に立ち向かえない主の絶対的な権勢を現わしています。キリスト・イエス、わが主の権勢の前には、すべての暗やみの力も従うしかないし、将来、主のみことばで正確にすべてのさばきがなされるようになります。その御前に現われないものがなく、一寸の誤差もない正確な公義の中でさばきがなされるようになります。したがって、敵である悪魔・サタンはもちろん、だれもどんな訴えもできないのです。
聖徒の皆さん。私たちの花婿となる主の御姿は、傷もしみも汚れもない、とてもきよくて美しいのです。このような主を花婿として迎えるためには、花嫁も当然ふさわしい姿にならなければなりません。ところで、ふさわしい花嫁の資格は簡単です。心をきれいにして聖められ、ゆだねられた使命をよく成し遂げることなのです。
このように資格を備えた時だけ、輝く主のその御姿を見ることができて、主の目を見つめながら話をすることもでき、そのふところに抱かれることもできるのです。そうでなくては、輝く美しい主の御姿をあえて見られないのですから、永遠に生きる天国でどんなに残念なことでしょうか?
きょうの本文<17節>で、使徒ヨハネは、主を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった、とあります。前にも申し上げたように、人々が夢や幻を通して、「主を見た」というのは、ほとんどが栄光の輝きの中で創造主なる神様と等しい権勢を持っておられる御姿としてではなく、人性的な面を見せてくださったのです。かりに神性的な権勢と威厳をそのまま見せてくださるなら、人々はとてもまともに見られず、その権勢と威厳の前に恐れおののくようになります。
ところで、今、使徒ヨハネは、将来、天国でお目にかかるようになる主の御姿、すなわち、完全に栄光を帯びておられる主を見たので、たとえ彼が主の御前で黙示を受けるほどふさわしい人だとしても、その御前でこのように倒れて死者のようになるしかなかったのです。しかも、今、繰り広げられている場面は、主の霊が親しくヨハネの前に現われて語っておられるので、ヨハネは主の御前でもっとおののくしかありませんでした。
このようなヨハネに、主は右手を彼の上に置いて「恐れるな。」と言われます。「右手」とは主の力を意味するものであり、主はこのようにヨハネに手を彼の上に置いて印を押すことによって、彼に終わりの時を目覚めさせるための黙示録のみことばを書き留めるというきわめて重大な使命を与えておられます。「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」と言われています。また、主はヨハネに手を彼の上に置くことによって、彼が安らかな心の中で、この使命を成し遂げられるように、彼を慰めておられることなのです。
それと同時に、主はヨハネに「わたしは、最初であり、最後であり、」と言われています。主が「わたしはアルファであり、オメガである。」と言われたことに霊的な意味があったように、「最初であり、最後であり」と言われたことにも霊的な意味があります。
主は「わたしは、最初であり、最後であり、」と言われ、続く<18節の前半節>に「生きている者である。わたしは死んだが、」と、死んだ後、よみがえられたことを言われています。したがって、「最初」と言われたのは、主がまさに復活の初穂となられたことを意味します。私たちもまさにこのような主と結び合わされて、一つになることによって、将来、再臨の主に会うとき、復活の実として出てくるようになるのです。
次に、主が「わたしは最後であり」と言われたのは、主の空中再臨を意味していて、その時は人類へのすべての贖いの業が終わる時です。もちろん、その後、落穂拾いの救いがあっても、まことの意味の人間耕作は、主の空中再臨とともに終わるようになります。その時がまさに「最後」になるのです。
したがって、主が最初と最後になられる、ということは、主は復活の初穂となられると同時に、主の空中再臨によって復活の実にあずかるすべての贖いの業が終わるようになる、という意味なのです。
このように、復活の初穂となる主は、いつまでも生きておられるだけでなく、また、死とハデスとの鍵まで持っておられます。「死とハデスとのかぎを持っておられる」ということは、死んだり生きたりすることが、結局、主にかかっているという意味です。
イエス・キリストによって魂たちが、「救いを受けるのか、永遠の死に行くのか」が決定されます。イエス様を救い主として受け入れた人は、それ以上、死の力に縛られていることはなく、死の力を滅ぼしてよみがえられた主にならって、よみがえるようになります。このように、永遠の死から解放されて出てくるようにすることが、まさに主によって可能になったので、結局、死の鍵が主にある、と言うのです。また、救われた人々が行くようになる上のよみと、救われなかった人々が行く下のよみも、主によって決定されます。したがって、主はハデスの鍵も持っておられるお方です。「よみ」については、来週の主日(明日)、大礼拝の「天国」の説教で説明されるでしょう。
ところで、主はこのように死とハデスとの鍵だけではなく、天国の鍵も持っておられます。<ヨハネ14:6>に、「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」とあるように、ただ天国に行く道はイエス・キリストだけであり、主だけが天国の鍵を持っておられるお方なのです。
次の時間からは、七つの教会についての内容を本格的に説明していきます。
愛する聖徒の皆さん。私たちが、将来、天国に行くと、主が白く光り輝く長い衣を着ておられるように、私たちも白い麻布の衣を着るようになります。
ところで、<黙示録19:8>には「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」と言われています。きよい心から出てくる正しい行いを通してだけ、将来、天国で麻布の衣を着られる資格が得られるのです。
それでは、皆さんは今、将来、皆さんに与えられる麻布の主人公として、どれだけ準備ができているでしょうか? 純潔な花嫁が純白のドレスを着て、花婿が待っている結婚式場に入場するように、天にラッパが鳴り響いて、花婿となる主が花嫁を迎えに来られるとき、皆さんも純白の美しい麻布を着て、主の御前に立つべきではないでしょうか?
まさにその日を望みながら、聖なる主の花嫁として少しも欠けたところがないように、きょうも聖なる正しい行いの中で熱心に麻布を備えていく、幸いな聖徒たちにみななられますよう、主の御名で祝福して祈ります。"
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