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Title
黙示録講解(1)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 1:1-3
Date
2006-10-13
<黙1:1-3>
「イエス·キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは、神のことばとイエス·キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」
愛する聖徒の皆さん、また、アメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニヤ、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインタ-ネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、そして、視聴者の皆さん。
人々の中には自分の未来について、漠然とした恐ろしさと不安感を持って生きる場合がよくあります。明日でも自分にどんな不幸が迫ってくるかを知らないからです。また、世の終わりの日について、心配しながら生きていく人もいます。いつどんな天災地変や災いで地球が滅びるかもしれないし、この世の終わりが近づくほど、人々は段々と苦しみの中に生きていくだろうと思うのです。
もちろん、人類の未来について楽観的に考えている人々もいますが、今、人類の前に近づいている現実は決して楽観的にだけ考えることはできません。日増しにひどくなる自然の異常気候、文明の発達と同時に発生した環境破壊と、これによる環境の災害、日増しに増えていく不治の病と難病と新たに登場した新種の病、終わりを知らず墜落していく人間の道徳性と、ますます凶暴になっていく様々な犯罪、そして、民族と民族、国と国、宗教と宗教の間で鋭く対立していく国際情勢、このような状況で生きていく今日の人々は、日一日を不安と心配の中で送るようになります。
それで、人々はいつも未来について知りたがり、自分なりに未来に備えるための努力をします。しかし、世のどんなものによっても、未来についてはっきり知る方法はなく、人の方法で未来に備えても、それは完璧なものになれません。人間の生死禍福をつかさどる神様が、今すぐにでもその魂を召されるなら、その時は人が肉的に備えておいたものは何の役にも立たないのです。
それでは、この世の終わりが近づくとき、はたしてどんなことが起こり、その時にどう備えれば賢いのでしょうか? まさにきょうから講解の説教が始まるヨハネの黙示録に、その答えが入っています。
このみことばを朗読して聞く人々ごとに、まことに終わりの時に目を覚まして備えて、花嫁の用意ができるよう、主は終わりの時にすぐに起こるはずの事について詳しく記録するようにされました。また、将来、私たちが行くべき天国の中でも最も良い場所、新しいエルサレムについて知らせて、希望の中で走っていけるようにしてくださいました。
ところで、今日、このようなヨハネの黙示録について伝える教会は多くありません。ヨハネの黙示録のみことばは難しく難解なので、むやみに朗読しても解き明かしてもいけないと言って、最初から触れることさえできないようにする場合もあります。聖書に記されたみことばのとおり「時が近づいている」と伝えると、まるで期限つきの終末論を主張するかのように罵倒する人々もいます。「目を覚まして花嫁の備えをしなければならない」と伝えると、そのようなみことばを聞くことを嫌って教会を離れる人々もたくさんいます。そのため、自然に黙示録のみことばを遠ざけるようになり、しかも終わりの時についてのみことばは段々と埋もれていっているのです。
しかし、<出エジプト12:9-10>には、「子羊を食べるたとえ」を通して、私たちが神様のみことばをどのように糧としなければならないのかがよく出ています。「それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」と書かれています。
「頭も足も内臓も全部食べなさい」とは、神様のみことばの記された聖書66巻のみことばを、一つも漏れなく全部糧としなければならないという意味だと申しました。自分が聞いて良くて気楽なみことばだけを選んで、朗読したり信じたりするのではなく、創世記からヨハネの黙示録まで、何一つ欠かさないで全部食べなければならないのです。
また、「それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」とありますが、これは朝、つまり主が再臨される前に、一生懸命に神様のみことばを糧として、主と会うための花嫁の備えをしなければならない、という意味なのです。したがって、神様の子どもなら、主のみこころに従って、当然、ヨハネの黙示録のみことばも熱心に朗読して聞いて、糧としなければなりません。
ところで、このように神様のみことばを完全に糧にしたいと願っても、それを肉で解き明かしてはいけません。<第二ペテロ1:20-21>には、「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」と書かれています。
したがって、子羊を食べるとき、「火で焼かなければならない」と言われたように、神様のみことばもやはり、聖霊の火で焼かなければなりません。すなわち、神様のみことばは聖霊に動かされて書かれたものなので、みことばを朗読して聞く時も、聖霊に動かされ満たされて、対さなければならないのです。
それで、私も神様のみことばを聖霊に動かされて解き明かすために、数え切れない祈りと断食を積み重ねてきました。「ヨハネの黙示録講解」のメッセージも、まさにそのような祈りと断食の答えとして、神様が解き明かしてくださったみことばです。
ヨハネの黙示録はすでに去る86年に一度解き明かして、講解の説教をしたことがあります。ところが、内容があまりにも深くて重要なので、神様は三度にわたってこのみことばを解き明かして説教するよう言われました。しかし、今はさらに二回解き明かして、説教する時間がないので、今回、二番目の講解を伝えるとき、祈りでよく備えながら、三度解き明かされたように深く説明していくようにいたします。また、旧約の預言書とも関連して総合的に説明していくことによって、聞く聖徒たちが終わりになされる出来事について、明らかに理解できるようにしていくつもりです。
しかし、このように尊いみことばが解き明かされていくとしても、本当に重要なのは、聞く皆さんの心と態度です。まずは、皆さんがどれだけ幸いな条件の中で信仰生活をしているのかを悟らなければなりません。いくら尊いものを与えても、受ける人がその価値を悟れないなら、どんなに残念なことでしょうか? したがって、皆さんがこのみことば一つ一つを尊く思って、その価値を悟って感謝するとき、神様がこのみことばを解き明かしてくださることが、まことに意味があって尊いことになるのです。
また、ヨハネの黙示録のみことばが解き明かされるのを見て、皆さんは終わりが非常に近づいたことを悟らなければなりません。皆さんは、今まで神様が本祭壇をどのように導いてこられたのかを直接見てこられました。開拓の時から今まで、聖徒たちの霊的な成長と教会的な霊の流れに合わせて、神様はその時その時に必要なみことばで働かれました。
したがって、神様が、今のこの時点でヨハネの黙示録のみことばを解き明かしてくださることにも、確かな霊的な意味があります。これから本当にあまり残っていない時間、もっと目を覚まして主にお会いする準備をよくしていくよう願われるからです。
そして、終わりの時の流れとかみ合わさって、本祭壇が神様の摂理を成し遂げていくのを見ながら、これが皆さんに信仰となり、皆さんのうちで多くの方々が新しいエルサレムを激しく攻めて入ってくるよう望まれるからなのです。
このような父なる神様の心とみこころを悟り、きょうから伝えられる「ヨハネの黙示録講解」を通して、多くの方々が霊の流れに参加して、希望と喜びの中で力強く進んでいかれますよう、主の御名で祝福して祈ります。
愛する聖徒の皆さん。ヨハネの黙示録の著者は<黙示録1章1節>と<9節>に、その名前がはっきりと示されているように、「ヨハネ」だと伝えられています。そして、この「ヨハネ」はまさにイエス様の12人の弟子のうちのひとりだった使徒ヨハネを指しています。
使徒ヨハネは、ヨハネの黙示録以外にも、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一、第二、第三を記録したと伝えられています。ヨハネは自分の記録したヨハネの福音書のあちこちに自分を指して「イエスが愛しておられた弟子」だと表現しているのが見られます。主はこのように愛された弟子のうちのひとりだった使徒ヨハネを通して、とても深く重要な内容が込められているヨハネの黙示録を記録するようにされたのです。
しかし、単に主の愛する弟子だからといって、それだけで無条件に彼に深い黙示のみことばをお許しになれるのではありません。使徒ヨハネが主と交わって、それほど深い黙示のみことばを受けるためには、それだけの資格を充分整えていなければなりませんでした。その資格とは、すなわち悪はどんな悪でも避けて聖められ、主の心に似た心なのです。このような状態で火のような祈りをささげるとき、霊界の門を貫いて、深い霊的な交わりの中で奥義としての黙示のみことばまでも引きおろすことができるのです。さて、使徒ヨハネはそのような資格を整えていた人でした。
使徒ヨハネはA.D.95年、ローマの皇帝ドミティアヌスの時代にあった、キリスト教に対する大迫害の時に逮捕されて、沸騰している油の釜に投げ込まれるようになります。しかし、このように沸騰している油の釜に投げ込まれたのに、使徒ヨハネは死にませんでした。これにヨハネを殺そうとした人々は、代わりに彼を「パトモス」という島に流刑にします。使徒ヨハネはまさにここパトモス島でヨハネの黙示録を記録するようになったのです。
ところが、クリスチャンの中でも、使徒ヨハネがこのように沸騰している油の釜に投げ込まれたのに生き残ったこの出来事を、一つの作り話ぐらいに思ってしまう場合があります。人が沸騰している油の釜で何の害も受けず生き残るということが信じられないからです。しかし、これについて、私が主に祈ったとき、主はその出来事が実際あった事実だと言われました。
旧約のダニエル書でも、ダニエルの三人の友だちは普通より七倍熱くした火の燃える炉の中に投げ込まれたのに、何の害も受けず生き残った記録があります。<ダニエル3:27>に、「太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。」とあります。
きのうもきょうも、いつまでも、同じである主は、ダニエルの三人の友だちだけではなく、使徒ヨハネにもそのようなみわざを施してくださったのであり、今日もいくらでもそのようなみわざを施すことがおできになります。
ただ、そのように死が避けていくに値する資格を整えた人、そのようなみわざを引きおろすにふさわしい、大きな信仰を持っている人がほぼいないということなのです。しかし、使徒ヨハネは<第一ヨハネ5:18>の「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」というみことばのように、神様から守られる完全な資格を整えていた人でした。
それで、死ぬしかない状況でも充分救い出されることができ、主はこのように神様の御前にふさわしい使徒ヨハネを通して、この終わりの時になされる奥義である出来事について啓示してくださり、それを記録するようにされたのです。
ところで、使徒ヨハネがパトモス島に流刑にされたことが、肉の人が見た時は、自分たちが望んだとおりにしたと思ったでしょうが、そのすべては神様の摂理の中で、主が肉の人々までつかさどり成し遂げられたことでした。使徒ヨハネが、この世と完全に断絶された所で、ただ祈りだけに専念するようにされたことによって、霊の世界と明らかに交わりながら主の黙示を受けて下ろせるように、あらゆる環境をつかさどっていかれたのです。
このように、神様の働きを成し遂げることにおいて、肉の人々が見る時は自分たちの願うとおりにしたと思えることも、実際は神様が肉の人々の心までつかさどられたことによって、結局彼らも一つの道具として用いられるよう、すべてのことを働かせて益としてくださることなのです。
聖徒の皆さん。今から<1節>から調べてみると、まず「イエス·キリストの黙示。」と書かれています。これは、この黙示がだれからによるものであり、どのようにしてこのような黙示のみことばが可能なのかについて、説明しているみことばです。
それでは、「黙示」とは何でしょうか? 黙示とは、「人としては知ることのできない神様の真理を、神の御霊が霊感によって知らせて悟るようにすること」を言います。
したがって、<エレミヤ33:3>の「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」というみことばのように、神様の御前にふさわしい資格を整えた人が叫んで祈るとき、心に感じて、神様と交わりながら黙示を受けるようになります。
それで、旧約時代には、預言者たちが聖なる御霊に感じて黙示を受け、新約時代、つまり聖霊時代には、聖霊に感じて黙示を受けるようになります。そして、ちなみに、このように黙示を受けた内容が宣べ伝えられるとき、これがすなわち預言になるのです。
ところで、きょうの本文にこのような黙示を「イエス·キリストの黙示。」だと言われたのは、使徒ヨハネが受けたこの黙示が、イエス・キリスト、私たちの主によって可能になったことを現わしています。
もともと神様がお造りになった最初の人アダムは、いつも神様と交わることができました。「黙示」という言葉が必要ないほど、アダムはいつも神様からすべてのことに直接教えを受けられたのです。
ところが、アダムが罪を犯した後はその状況が変わりました。霊が死ぬようになったアダムと彼の子孫たちは、これ以上、霊である神様と交われなくなりました。それで、神様は、神様の御前にふさわしい幾人かの人々が聖なる御霊に感じるようにされて、彼らと交わることによって、神様のみこころを知らせて導いてこられたのです。
ところで、イエス様がこの地上に来られて、私たちの罪を代わりに負われ、和解のいけにえとなってくださり、再び状況が変わりました。神様との間の隔ての壁が崩れ、聖霊を受けることによって、死んでいた霊が生き返り、霊である神様と再びつながるようになりました。イエス・キリストによって、神様と交わることのできる道が再び開かれるようになったのです。
したがって、聖霊を受けた神様の子どもなら、当然神様と交わることができ、神様のみこころにふさわしい人には、いくらでも黙示が臨みうるのです。<第一コリント14:26>には、「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」と書かれています。確かに主の御名で集まった所に「黙示」もあることを言われています。
したがって、聖霊時代の今日、黙示は御霊に感じて臨むのですが、このような黙示が可能なのはまさにイエス・キリストによるので、使徒ヨハネは書き出しにこのように「イエス·キリストの黙示。」だと明らかに示しているのです。
しかし、このすべてはただ神様から来たものなので、続く本文に「これは、神がキリストにお与えになったものである。」とあります。<マタイ11:27>の「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」というみことばのように、神様はその子イエス・キリストによって私たちに黙示を下さいました。
そして、このような黙示を通して、神様の子どもとなる私たちが父なる神様について、何としてでももっと明らかに知って悟るよう願われます。子どもだと言いながらも、父についてよく知らないとか、あるいは、漠然と知っているのではなく、父について明らかに知って悟るまことの子どもになってほしいと望んでおられるのです。それで、このような父なる神様とその御子イエス・キリストが心に定め、父を知らせることのできる子どもをお探しになるのです。そして、そのように黙示を与えるにふさわしい人を見つけると、その人を通して神様のみこころを伝えるようになります。
きょうの本文にも、「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、」とありますが、神様は人間耕作の摂理の中でなされる出来事を、その時ごとにふさわしい人々を通してあらかじめ教えてくださり行ってこられたのです。<アモス書3:7>に、「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われたとおりです。
まして主が私たちを連れにこの地上に再び来られるその時と、世の終わりの日に起こる出来事について、父なる神様がどうしてそれほど重要なことをあらかじめ教えてくださらずに行われるでしょうか? それで、使徒ヨハネを通して、その時の出来事について明らかに黙示をくださったのであり、このために神様はひとりの御使いを遣わされました。「そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」と書かれています。
天国にもいろいろな部類の御使いたちがいます。軍隊のような役割をする御使いもいるし、仕える御使いもいるし、賛美や音楽を担当する御使いもいれば、行政的な働きをする御使いもいます。一国の組織を見ると、数多くの種類の職務を果たす公務員がいるように、その広い天国にも多くの部類の御使いたちがいて、それぞれの任務を果たすようになります。
また、御使いの世界にも秩序と序列があって、一般の御使いがいる一方、彼らの上で管理して責任を負わせられた御使いもいて、国の組織で言うと、長官の役割をする一番のかしらとなる、御使いのかしらもいます。<ユダ書1:9>には「御使いのかしらミカエル」が、<ルカ1:19>には「私は神の御前に立つガブリエルです。」とあり、御使いのガブリエルが出てきますが、ガブリエルも御使いのかしらなのです。
天国にはとうてい数え切れないほど多くの御使いたちがいますが、彼らのうちのだれもが神様の御前に立てるのではありません。神様の御前に立つということは、それだけかしらとなる御使いだということ、つまり御使いのかしら級だということです。そして、天国には聖書に記されたミカエルとガブリエル以外にも、多くの御使いのかしらたちがいます。
使徒ヨハネに下さる黙示のみことばはとても重要な内容なので、神様はまさに彼ら、御使いのかしらたちのうち、神様の心とみこころをよく込めて伝えられる御使いのかしらを選んで、遣わされたのです。
国でも大統領がとても重要な働きを、だれかを通して代わりに処理しようとする時は、それだけ大統領の心と意図がよくわかって行える人を遣わすことと同じなのです。それと同時に、それだけ地位と権威のある人を選んで遣わすことも見られます。これと同様に、神様もそれだけの地位にいる御使いのかしらを選んで遣わされたのです。
このように、ヨハネの黙示録は、神様の遣わされた御使いのかしらが伝える黙示の内容と、使徒ヨハネが自分の幻の中で見た内容を通して、終わりの時についての神様のみこころと摂理、そして、なされる出来事について明らかに記録しています。
愛する聖徒の皆さん。きょうの本文を見ると、ヨハネの黙示録に記された内容が「すぐに起こるはずの事」だと言われています。すると、ある方は「ヨハネの黙示録が記録されたのが今から約1900年前なのに、その当時に『すぐに起こる事である』と言われたことが、なぜいまだに成し遂げられていないのだろうか?」と、このようにまだ成し遂げられていない出来事に対し、「使徒ヨハネがなぜ『すぐに起こる事である」と記録したのだろうか?」と、このような疑問が起こるかもしれません。
しかし、「すぐに起こる事である」「時が近づいている」と言われたのも、決して人の言葉ではなく、万軍の主なる神の御告げなのです。以前もそうでしたが、今日もやはり、人が長生きするとしても100歳を越すことは簡単ではありません。また、きょうすぐどんなことが起こるか、明日や一ヶ月後、あるいは一年後でも、どんなことが起こるのかがわからないのが人の常です。したがって、今すぐにでも神様が皆さんの魂を召していかれたら、その瞬間がまさにその「時」なのであり、すぐに起こる事が成し遂げられたのです。
ですから、このみことばを聞いて朗読する人はだれでも、自分にいつすぐに近づいてくるのかをわからない、その「時」に備えていなければならないのです。「主がすぐに来られると言われたのがいつなのに、いまだに来ていらっしゃらないではないか」と言った多くの人々が、すでに彼らにすぐに臨んだその「時」にあったということです。したがって、皆さんは「自分の時はいつも近い」という事実をいつも心に留めるよう願います。神様が自分の魂を召していかれる瞬間、その瞬間にすべてのことがすでに決定されるのです。
きょう、「黙示録講解」の一番目のメッセージをお聞きになるこの時間、皆さんはもう一度心を新たにして決断できる、幸いな聖徒の皆さんになられますよう願います。今は本当に終わりの時の前兆が各地に起こっていて、黙示録に記された終わりの出来事が、実際に成し遂げられる日が遠くない時なのです。
まさにこのような時に、父なる神様が皆さんに「ヨハネの黙示録講解」を許してくださることはどれだけ幸いなことなのかをまことに悟り、完全な花嫁の備えをしていかれる皆さんになられますよう願います。
それで、本文<3節>に「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。」と書かれているみことばのように、お聞きになるみことばを心に留めて守り行い、まことに幸いな皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。"
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