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主日夕方礼拝 メッセージ > 主日夕方礼拝
主日夕方礼拝
Title
   真心 - 地域長・組長・区域長献身礼拝  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヘブル10:22
Date
   2017-04-09


[本文]

[ヘブル10:22]
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、GCN放送の視聴者の皆さん、2017年地域長・組長・区域長献身礼拝をささげられるように祝福してくださった父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。思いを尽くして献身礼拝に備えられた献身者の皆さんにも感謝いたします。
愛する献身者の皆さん、皆さんは今まで定めの祈り、断食とささげ物など、特別にまことを尽くしてきょうの礼拝に備えられたと思います。それほど特別な祝福を慕っているからです。
それでは、皆さんはどのような心の願いを持ってここに出て来られたでしょうか。物質的な祝福、健康、使命を果たすこと、家族が救われることなど、いろいろな願いがあると思いますが、その中でも最も大切なのはたましいに幸いを得ている祝福です。[第三ヨハネ1:2]に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるように、たましいに幸いを得ていて聖められるほど、肉的な祝福も自然についてきます。きょうの献身礼拝のタイトルのように「真心」に変えられればよいのです。
[ヘブル10:22]には「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。イエス様の尊い血が心に注がれた人たちは自分の良心では悟れなかった悪まで発見して悟ることができます。また、きよい水で、すなわち、真理のみことばで自分をきよく洗われると、真心に変えられ、全き信仰を持つことができます。御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされるし、病気やわずらいもいやされます。世がいくら不景気であっても、神様が守ってくださり、良い知恵を下さるので、事業の場と職場に祝福を与えてくださいます。家族や親戚も福音化されるし、任された使命も実を見せることができます。何より父なる神様のお心を悟り、毎日深く交わることができます。
きょう献身する皆さんは自分の時間と物質をささげて聖徒たちを顧みて、神の国のために忠実に仕えている方たちです。牧者である私が見ても、何としてでもその労苦に報いたい心が切実です。まして主が、父がご覧になる時にはどんなに大切で尊いと思われるでしょうか。それゆえ、さらに切に皆さんのたましいが幸いを得ていることを待っておられます。そうであってこそ皆さんの忠実と献身に思う存分報いてくださることがおできになるからです。
愛する献身者の皆さんすべてがきょうの礼拝を通して、さらにすみやかに変えられて、真心になって全き信仰を持つようになりますように。それで、いろいろと祝福の証しがあふれるだけでなく、堂々と御霊の人の働き人として出て来て、多くの魂にいのちを供給できる献身者の皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。


[本論]

愛する献身者の皆さん、真心に変えられるためには、第一に偽りがあってはいけません。
[コロサイ3:9,10]に「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」とあります。
神の子どもとして、嘘をついたり、だまして隠したりすることがあってはいけません。世の人は知っていながらも嘘をついたり、無意識に偽りを言ったりします。このような人に「なぜ嘘をついたんですか」と尋ねると、「私がどんな嘘をついたと言うのですか」とかえって怒ったりもします。あまりにも闇に染まっているので、偽りを言いながらも悟れないのです。
たとえば、正確に伝えないで、大きく膨らませたり小さくして言ったり、必ず言うべき内容は抜いて伝えたりもします。自分が確認しなかったことを確認したかのように伝えたり、報告したりもします。自分の思いの中で推測した内容をまるで事実であるかのように言う場合もあります。今すぐの状況を免れるために「後でやります」と言っておいて、そう言ったことさえ忘れてしまう場合もあります。
たとえば、幼い子どもがおもちゃを買ってほしいとせがむから、その場でせがむのをやめさせようと「後で買ってあげる」と言っておいて、忘れてしまいます。このようなことはすべてまことではなく、偽りです。また、心に真実がないほど、的外れな答えも頻繁にします。
もう少し具体的なたとえを挙げてみましょう。地域長が区域長に「区域員の中で主日を守った人は何人なのか確認してください」とお願いをしました。ところが、区域長はいちいち確認しないで、いつも来ていた人たちは当然出席したことにして報告をしました。ここからすでに真実からは外れることになります。
さて、後で確認してみたら、いつも出席していた人のうちある人がその日は大礼拝に参加しないで、夕方礼拝だけささげた、というのでした。数字を直してもう一度報告すべきなのに、自分がまともに確認しなかったことを言うのが恥ずかしいから、どうするでしょうか。「全部終わったことなんだから」とやり過ごしてしまいます。「夕方礼拝でもささげたんだから、欠席したのではない」と自分を正当化したりもします。そうすると当座の恥ずかしさから逃れることはできても、心の割礼とはかけ離れるようになります。罪に対して鈍くなり、安逸に生きていくのです。
他のたとえを挙げてみましょう。地域長が組長に「報告書を毎週主日が終わる前に必ず提出してください」と頼みましたが、ある組長はあれこれの理由で度々月曜日が過ぎてやっと提出します。地域長は何度も催促しようとしたら心穏やかでないし、その他にも組長が聞き従ってくれなかったことが思い浮かびます。「来年は私の心に合わせてくれる他の人が組長になったらいいのに」と思うことさえあります。
ちょうどかしらの人から「その組長は使命をよく果たしているでしょうか」と聞かれると、待っていたかのように胸にあった言葉が出て来ます。「他の組長たちはみんな約束をしっかり守っていますが、その組長だけ毎回破っています。この方は使命を果たすのがつらそうです」と言うのです。
この短い答えの中にも偽りがあちこちに現われています。約束を毎回破るのではなく度々そうしたのに、膨らませて言いました。その人以外の組長はみんなしっかり守っていると言いましたが、彼らがどうやっているのか、自分が全部確認したのでもありません。また、単に報告書を間に合うように提出できなかっただけなのに、それだけをもって使命を果たすのをつらがっていると、自分の思いを働かせて推測し、事実でない言葉まで作り出しています。そうしながらも自分は事実を言っているかのように人を欺いているし、自分に欺かれているのです。
このように日常の一瞬一瞬、自分の言葉と行いに偽りはなかったか、さらに目を覚ましてチェックしてみなければなりません。真実であるためにいつも祈っている人なら、その瞬間すぐ悟れなかったとしても、祈りの時間や他のある瞬間にでも聖霊が思い起こさせてくださいます。それで、ささいなことでも真実でない姿を発見したなら、火のように祈り、脱ぎ捨てていかなければならないのです。

愛する献身者の皆さん、真心に変えられるためには、第二、移り変わる心があってはいけません。
[第一サムエル15:29]には「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」とあります。真実であられる神様は神の子どもたちもまっすぐな心の芯になることを望んでおられます。「これが正しい。真理だ」と一度悟ったら、一度信じたことに揺らぎがあってはいけません。一度心に決めて決断したことは状況によってああしたり、こうしたりするのではなく、一筋に守らなければなりません。
[レビ記27章]では、ささげ物としてささげる家畜を決めておいて、より良いものに取り替えたくても、神様は「取り替えてはならない」と言われました。より良いものをささげたい心が真実なら、他のもので代用したり、悪いものを良いものに取り替えたりするのではなく、二つともささげなさいと言われています。
「移り変わる心」は肉の人の代表的な特性です。ひとり子を下さった父の愛、十字架を負われた主の愛に激しくむせび泣いたのに、いつの間にか世に目を向けて罪を犯したりもします。それどころか、死ぬしかなかった病気や大きな災いから救い出されたのに、神様から離れた人も多くいます。
牧者の犠牲に涙で感謝して、「必ず御霊の歩みに入ります」と告白しましたが、時間が経つとその涙が消えたりもします。自分なりに努力したのに実がないように見えると、疲れた、がっかりだと思うのです。
[ガラテヤ6:9]には「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。自分の中に移り変わる心がないほど父の愛、主の愛は変わらないし、牧者の愛も変わらないということもさらに堅く信じることができます。それゆえ、飽くことなく真理を行い、ついには御霊の人という実として出て来ることができるのです。
私は神様が下さった恵みを決して忘れていません。初めて神様が私に御手を差し伸べてくださった日を思い出すと、今でも嗚咽になります。リバイバル聖会に通いながら心を砕いて罪を告白したことも、きのうのことのようにありありと浮かびます。35年間、この教会に現わしてくださった神の力あるみわざも、何月何日、誰だったと全部覚えてはいませんが、その一つ一つの感激と感動は決してなくなりませんでした。そうなので、日増しに父への感謝と愛がさらに深まっていくばかりです。
皆さんが自分を顧みる時に移り変わる心があるなら、これからでも定めたことを守り、移り変わらない習慣をつければよいのです。特別ダニエル祈祷会を例に挙げても「今度は必ず最後まで全部参加しよう」と決めましたが、移り変わる心があれば、少しずつ遅刻したり、最初から欠席したりもします。このような姿を見つけたなら、その瞬間にでももう一度心を固めればよいのです。全部参加しようとしましたが、一日行かなかったら、もう一回抜けたからとあきらめるのではなく、残りの期間でも欠席しないで心を守ればよいのです。
2017年のスタートを切りながら「今年は必ずこれをしよう」と思いましたが、数日経ってやめたことはないでしょうか。それなら、今からでももう一度始めればよいのです。移り変わったことを悟った瞬間、もう一度始めて、また悟ったらまたもう一度始めて、結局、心を守る人にならなければなりません。
「集まりに参加して恵みを受けよう」と決めておいて、いざその時になったら心が変わったりもします。「私はどうしても行かなければならないのだろうか。そこで使命を任せられたのでもないし、あれこれやることもあるじゃないか」と思います。このような時は、そこに行って恵みを受けようと決めたのだから、定めた心を守るためにでも行けばよいのです。
「感謝献金をこれぐらいささげよう」とか「あの人に施しをしよう」と決めたのに、いざそうしようとしたら「暮らしに余裕がない」とためらうようになります。このようなことも、一度心に決めたなら、移り変わらないために最初に決めたとおりにするのです。このように一つ一つ行いで悪賢さと移り変わる心を脱ぎ捨てていけば、さらにすみやかに真心に変えられることができます。

愛する献身者の皆さん、真心に変えられるためには、第三、自分の利益を求めてはいけません。
世の多くの犯罪は結局自分の利益を追い求めることから発生します。自分の利益になりさえするなら、信念や価値観も履き古したぞうりのように捨てて、道理に背くこともしでかします。
しかし、神の子どもたちはそうであっていけません。[第一コリント10:31]に「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。また、[第一コリント10:24]に「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」とあります。このように神の栄光を求め、相手の利益を心がけるとき、真心に変えられることができるのです。
献身者の皆さんはどうでしょうか。すべての事において神の栄光をまず求めているでしょうか。自分の利益より相手のために、また人々のために、自分を犠牲にして生きているでしょうか。
使徒パウロは福音を伝えるとき、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。難船して海上を漂ったこともあったし、 同国民から受ける難、異邦人から受ける難、にせ兄弟の難に会いました。たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
そうでありながらも[第二コリント11:28]にあるように「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と言いました。わが身が楽で安全であるより、神の国を実現することを先に考え、飢え渇いても人々に福音を伝えることを喜びました。
それでも[第一コリント15:10]にあるように「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と告白しました。
このように自分の利益を求める心を全部捨てたら、偽りで策略を使う必要もないし、ああしたりこうしたりして移り変わる必要もありません。いつも安らかに正道を追い求めて歩めるし、神様に喜ばれる道へと進むことができます。このような人は自分の利益を自分で求めなくても、神様ご自身がその道を確かなものとされて祝福してくださいます。


[結論]

愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、真心に変えられるためには、第一に偽りがあってはいけません。第二に移り変わる心を脱ぎ捨てなければいけません。第三に自分の利益を求めないで神の栄光と相手の利益をまず求めなければならない、と申し上げました。しかし、そのように努力していっても、人は自分の力で真心になることはできません。火のように祈り、断食し、真理で行おうと努力しますが、これに神の恵みと力が臨み、聖霊の助けがなければなりません。すると聖霊が働いて深い罪の性質まで焼き尽くすことで聖めてくださるのです。
2017年に入り、過ぎし3か月間、このように皆さんを聖めてくださる父なる神様の恵みがさらに速い波に乗っています。この流れを逃してはいけません。これから御霊の人の祝宴と機関長教育、夏のキャンプまで、火のような祈りと変えられるための努力にさらに拍車をかける皆さんになりますように。それで、すみやかに全き信仰をもって、真心から父なる神の御座の前に近づける献身者の皆さんとすべての聖徒の皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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