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主日夕方礼拝 メッセージ > 主日夕方礼拝
主日夕方礼拝
Title
   人の子の肉と血 - 収穫感謝主日夕方礼拝(聖餐式)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハネ6:53-55
Date
   2014-11-16


[本文]

[ヨハネ6:53-55]
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」



[序論]

愛する聖徒の皆さん、全国、全世界のどこででも、マンミンの聖徒の皆さんは神の力を聖書だけで見ているのではありません。日常生活の中でいつも見て、聞いて、体験しています。しかし、いくら大きい神の力が現われている教会であっても、皆さん自身がそのみわざを体験するためには、必ず備えているべき条件があります。それは光の中にとどまらなければならないということです。言いかえれば、本文にあるように「必ず人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ」なりません。
きょうは収穫感謝主日を迎えて、2部には聖餐式があります。聖餐式を通して、過ぎし一年間、人の肉を正しく食べ、またその血を正しく飲んだのか、自分を調べてみますように。また、神様の大いなる愛をいただいた私たちがどう生きるべきか、さらに心の奥深く刻む時間になりますように。それで、生きておられる神の力をいつも体験して、また皆さんを通して現わして見せられる栄光に満ちた働き人になりますよう、主の御名によって祈ります。



[本論]

愛する聖徒の皆さん、まず「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければならない」というみことばの霊的な意味を簡単に調べてみます。
「人の子の肉を食べなければならない」とは、神のことばを糧としなさいという意味です。[ヨハネ1:1]に「ことばは神であった。」とあります。また、[ヨハネ1:14]には、神、すなわち、ことばが人となって、この地上に来られた方がイエス様だとあります。ですから、「人の子の肉を食べる」とは、結局「聖書66巻の神のことばを糧とする」という意味です。
聖書のみことばを糧とするということは、みことばを知識的に知っているだけのことではありません。そのみことばを心に耕すこと、すなわち、心を真理に変えさせることです。このように人の子の肉を食べるためには、必ず人の子の血を一緒に飲まなければなりません。これは、みことばを学ぶと同時に、そのみことばどおりに聞き従う行いが必ず伴わなければならないという意味です。
たとえを挙げますと、人が食べ物を食べるとき、水分を一緒に摂取しなければならないようなものです。栄養分と一緒に水分を摂取しなければ、体が栄養分を吸収することも、老廃物を排泄することもできません。
神のことばを学ぶ時も同じです。みことばを心に悟って心に留めるだけでなく、必ずそのとおりに行なう実践が伴わなければなりません。何々を「しなさい、してはならない、守りなさい、避けなさい・捨てなさい」というみことばのとおりに聞き従わなければならないのです。そうしてこそ皆さんが学んだみことばが自分にとっていのちと力になります。
聞き従って行うほど、心に真理が満たされて、真理に逆らう心が抜けていきます。愛が満たされるほど、憎しみが抜けていきます。謙遜が満たされるほど、高ぶりが抜けていくし、柔和が満たされるほど憤りが抜けていきます。
聖徒の皆さん、「人の子の肉を食べ、その血を飲みなさい」というみことばは、例祭のたびに宣べ伝えられているみことばです。それでは、皆さんははたしてどれだけ人の子の肉を食べ、その血を飲んだでしょうか? もし今皆さんの心の中にある霊的な成分を機械で測れるとすれば、愛は何パーセントぐらい満たされているでしょうか? また、憎しみは何パーセントぐらい残っているでしょうか?
十年、二十年と信仰生活をしたのに、憎しみは90パーセントぐらい残っていて、愛は10パーセントも満たされていないなら、人の子の肉をまともに食べて、その血を飲んだのでしょうか? 憤りが、高ぶりが、姦淫が、欲が相変わらずしょっちゅう揺れ動いているなら、信仰生活をまともにしたと言えるでしょうか?
いくら長い間教会に通ったとしても、まめに人の子の血を飲まなければ、霊の信仰が成長できません。知識的な信仰だけが大きくなるし、ただ停滞していて、むしろ信仰が後退することもあるでしょう。世に惑わされたら、それでも持っていた信仰ですら奪われて、救われることさえできない状況に置かれたりもします。
必ずみことばのとおりに行っていく努力があってこそ、救われるまことの信仰があると言えます。[第一ヨハネ1:7]には「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。ここで「光の中を歩んでいる」というみことばの意味も「みことばのとおりに聞き従って行うこと」です。
罪のないイエス様は血を注ぎ出してくださったので、すでに私たちの罪の代価を全部払ってくださいました。しかし、私たちがその尊い血の力の恵みをいただくには、必ず光の中を歩まなければなりません。このみことばも結局、人の子の肉を食べ、またその血を一緒に飲んでこそ、私たちにいのちがあるというみことばと同じ意味なのです。

愛する聖徒の皆さん、主を受け入れた後、人の子の肉を正しく食べ、その血を飲んだ人なら、信仰がたぶんすくすくと成長したでしょう。そのように成長していってこそ、結局、完全な永遠のいのちを持つことができるのです。
ここで私たちが悟るべきことがあります。約二千年前にイエス様がこのみことばを宣べ伝えられたとき、当時の人々はよく理解できませんでした。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければならない」と言われたので、どうすればイエス様の肉を食べてその血を飲めるのか、弟子たちでさえ悟りにくかったのです。
「神のことばを心に留めて行いなさい。そうしてこそ永遠のいのちを持つ」と言われたなら、はるかに理解しやすかったかもしれません。それなのに、なぜあえて人の子の肉を食べ、その血を飲んでこそ永遠のいのちを持つと、たとえで表現されたのでしょうか?
その中に込められている父なる神様と私たちの主の愛をさらに深く悟らせるためなのです。私たちが真理の中にとどまれば永遠のいのちを持つことも、イエス様の犠牲によって可能になったということを悟ってほしいと願っておられるのです。
罪人がみことばを学んで行うからといって、それだけで永遠のいのちを持つのではありません。原罪と自分が犯した罪が解決されないなら、自分の力でいくら戒めを守るとしても、依然として罪人であり、救われません。罪が赦されるためには、必ずイエス様の犠牲がなければなりませんでした。贖いのための小羊のように、イエス様の肉と血をすべて渡してくださらなければなりませんでした。
このことを信じて、真理の中にとどまる人は誰でも、救われる道が開かれたのです。それで「人の子の肉とその血」のたとえで救いの道を説明されたのは、私たちがその犠牲と愛をさらに深く悟って、心に留めるようにされるためなのです。
人間を耕作しておられる神様は「わたしが耕作の摂理を成し遂げようとしたから、あなたがた人の子らはこの地上で苦しみを受けなさい。相対性を悟れるように、涙、悲しみ、苦しみを体験しなさい」と言って、冷たく放っておかれたのではありません。神様も、主も、大きな犠牲の代価を払いながら私たちを聖潔の道へと導いて、救いと祝福へと導いておられるのです。

愛する聖徒の皆さん、私が幼い時は、ご飯粒をこぼしたり、残ったご飯を捨てたりしたら罪の意識を持つほど、お米を大切に思いました。それどころか、おとなはすえたご飯さえ、洗って食べるほどでした。あまりにも貧しかったのでそうしたのでもありましたが、それよりは農夫の労苦を思ったからでした。
田舎で農業をしている両親が一年中、腰が曲がるほど苦労して収穫したお米を、都会に住んでいる子どもたちに送ってくれるなら、子どもたちはそれにどう対するでしょうか? 両親の流した涙と汗が思い浮かぶので、その一粒一粒を尊く思うのです。
皆さんが神のことばに対する時も、このような心の姿勢にならなければなりません。人の子の肉を食べ、その血を飲みさえすれば、永遠のいのちを持つようになるという、いのちの約束を下さいました。守られ、答えられ、祝福される道も、聖書のあちこちに明らかに記されています。
罪人だった私たちにこのような約束が与えられるまでは、とうてい目を開けては見られないほどのイエス様のむごい苦しみがなければなりませんでした。また、まことの子どもを得ることを望みながら、長い歳月耐え忍ばれた父なる神様の涙が込められているものが聖書66巻、約束のみことばなのです。
このような恵みと愛を思えば、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければならない。」というみことばを聞き流してしまうことはできません。しかも私はこのみことばの霊的な意味を御霊によって解き明かしていただくために、7年という歳月を神様にすがりました。無数の断食と徹夜の祈りですがったあげく、ついに神様から一節ずつ解き明していただいた時の、その感動は決して忘れられません。難解聖節をはじめ「十字架のことば」「信仰の量り」「天国」と「地獄」「霊、たましい、肉」その他にも創世記から黙示録まで、深みのある内容を解き明かしてくださいました。
解き明かしていただいたみことばを講壇で宣べ伝えたら、多くの妨害と迫害がありました。しかし、私は屈服しませんでした。このみことばの糧を食べさせてこそ、聖徒の皆さんが父の深い心が理解できるし、それで霊の世界を突き抜けていけるということを確信したからです。七年間すがったあげく解き明かしていただいたみことばだったので、一節一節が私にとっていのちのように尊いものでした。
皆さんはそのように苦労する過程を経ないで、宣べ伝えられるみことばを糧とさえすればよいのですから、どんなに感謝なことでしょうか。力を尽くして人の肉を食べ、その血を飲みながら、父の愛を心の奥深く刻みますように。聞いて知識として積んでおくのではなく、必ず心に留めて、聞いたみことばのとおりに変えられますように。このように人の子の肉を食べて、その血を飲むことによって、生きておられる神の力をいつも体験できるし、十分行うこともできるのです。



[結論]

愛する聖徒の皆さん、私は過去32年間、神様が下さった約束を一度も疑ったことがありません。聖書66巻に込められた約束はもちろん、時に応じてこの教会に授けられた約束のみことばも完全に信じました。現実は正反対に進んでいるように見える時もありました。「今日だろうか、明日だろうか」と気をもみながら待ちましたが、数年間、知らせもないこともありました。
しかし、どんな困難にあっても、信実な神のお約束を最後まで信じたとき、神様は最も正確な時期に言われた事を成し遂げて、栄光をお受けになりました。また、長く待っている間、この教会に現われる神の力あるみわざは一瞬も途絶えませんでした。かえって神様は日増しにさらに大きな神の力で、さらに新しい体験をするようにされて、私たちとともにおられることを確かなものとされました。一年一年、このような過程を経ながら、私は父への信頼がさらに大きくなったし、私に対する父の信頼も加わりました。
また、今は聖徒の皆さんも、私が望んでいたその信仰の目で父を仰ぐようになったし、霊の平準化を一緒に実現しています。世界宣教と大聖殿が現われる条件が一つ一つ整えられているのです。
これからも、主が再び来られる時まで、父なる神様は前よりさらに大きな恵みのうちに皆さんを御霊の歩みへ、全く聖なるものへと導かれるでしょう。皆さんが人の子の肉を食べ、その血を飲むほど、また牧者と信頼と愛で一つになったほど、すみやかに御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされて、すべての点で神様に保障されるようになります。
皆さん自身と家族、職場が祝福されるでしょう。何よりも皆さんを通して神の力が現われます。[マルコ16:17-18]にあるように、悪霊を追い出したり、病気をいやしたり、サタンの会衆を打ち砕くなどのしるしも行えるのです。そのような皆さんを用いて、神様が初めからご計画されたとおりに終わりの時の摂理を成し遂げて、思う存分栄光をお受けになるでしょう。このような栄光の道具として用いられるすべての聖徒の皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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