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Title
光の中を歩んでいる時の祝福
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
第一ヨハネ1:5-7
Date
2013-12-29
[本文]
[第一ヨハネ1:5-7]
「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、
ところで、このような神様の力を体験するためには、まず皆さんが神様を見つけなければなりません。この地上の問題が解決されて祝福されるだけでなく、救われて永遠のいのちを得ることも、神様を見つけてこそ可能なことです。
それでは、私たちが神様を見つけて、神様の力を体験するためには、どうしなければならないでしょうか? 空高く上れば、神様がおられるでしょうか? 教会にだけ行けば、それだけで神様を見つけられるでしょうか? 大声で神様を呼んだら、神様が答えて御手を差し伸べてくださるでしょうか?
きょうのメッセージのタイトルにその答えがあります。私たちが光の中を歩んでいれば、神様を見つけて祝福されることができます。この時間、メッセージをお聞きになる聖徒の皆さんはもう一度自分をチェックし、いつも光の中にとどまっていますように。それで、神様がともにおられる証しが新年にも皆さんの日常にあふれますよう、主の御名によって祈ります。
[本論]
愛する聖徒の皆さん、本文[5節]に「神は光であって、」とあります。暗いところが少しもない、完全な光であられます。私が教会にいるとき、聖徒の皆さんが私に会うためには、皆さんも教会に来なければなりません。私が牧師館にいるなら、皆さんも牧師館に来てこそ私に会えるでしょう。これと同じです。神様は光であって、光の中におられるので、私たちが神様を見つけて体験するためには、私たちも必ず光へと出てこなければなりません。相変わらず闇の中にとどまっていながら、「神様を見つけたいです。私に会ってください」と言うことはできません。
ここで「闇と光」とは、霊的な意味です。「光」とは、聖書66巻のみことばそのものです。みことばのとおりに聞き従って生きることが、光の中にとどまることなのです。一方、みことばと反対であるもの、罪、悪、不義、不法、このすべてが闇です。
具体的に説明しますと、聖書に「しなさい、してはならない、避けなさい、守りなさい」というみことばがあります。「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「偶像礼拝を避けなさい。」このように「してはならない。避けなさい。」というみことばがあります。「憎しみ、情欲、そねみ、ねたみ、高ぶり、悪い感情、憤り、悪賢さ、むさぼり」など、捨てるべきものも教えてくださっています。「愛し合いなさい。祈りなさい。平和をつくりなさい。」このように「何々をしなさい」と言われたみことばもあるし、「安息日を守りなさい。」のように、守るべきものもあります。
このようなみことばに逆らうなら、闇にとどまっているのであり、このみことばどおりに聞き従って行うなら、光の中にとどまっているのです。したがって、聖書に照らしてみたら、自分が光にとどまっているか、闇にとどまっているかを簡単に見分けることができるのです。
それでは聖徒の皆さん、相手の話や行動に気を悪くしたり、人の咎を他の人に伝えたなら、光でしょうか、闇でしょうか? 御霊の歩みに入りたい心が切実だったのに、あまりにも変えられるのが遅いようなので、気を落としたのであれば、あるいは、自分なりに努力したのに功労を認められなかったので、忠実に仕える意欲を失ってしまったなら、光でしょうか、闇でしょうか? 自分より務めが低かった信仰の兄弟の信仰がもっと成長し、自分より上の務めを受けたとき、祈る力を失ってしまいました。これは光でしょうか、闇でしょうか?
はい、とてもよく見分けておられますね。それでは、このように知っているだけで光でしょうか? いいえ、そうではありませんね。知っていながらも、真理のとおりに行えない人は相変わらず闇にとどまっているのです。真理を知っているだけでなく、そのとおりに行ってこそ光の中にとどまる道で、神様を見つけて体験する道なのです。
愛する聖徒の皆さん、光の中にとどまっている人は神様に属している人であり、その人生を神様がつかさどってくださいます。一方、闇の権威を持っているのは敵である悪魔・サタンです。闇の中にとどまっている人はサタンが支配します。教会に通っているという人の中でも、多くの人が光の中に出てこないで、依然として闇の中で生きていきます。このような人は相変わらず闇に属していて、敵である悪魔・サタンの支配を受けます。口では神様を「父」と呼ぶとしても、実際は神様と交わりがないし、神様から助けられないのです。
本文[6節]にも「もし私たちが交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」とあります。続く[7節]にも「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、」とあります。
教会に来て主を受け入れたなら、その後は必ず罪と悪から離れなければなりません。闇から離れて、光へと出てくる時こそ、光なる神様と交わりがあるのです。愛する聖徒の皆さん、皆さんは神様と交わりがあるでしょうか? ひとりひとりが真理の中にとどまっているほど、その答えが大胆にできるでしょう。
ところで、交わりにも程度があります。どちらか一方だけ相手を知っているなら、これは交わりがあるとは言えません。皆さんが韓国の大統領についてよく知っていても、それだけで大統領と交わりがあるのではありません。両方とも相手を知っていてこそ、交わりがあると言えます。また、お互い顔だけ知っている程度の交わりもあるし、しょっちゅう元気かと聞く交わりもあります。お互いに信頼し、何でも分かち合える、深い交わりもあります。
神様との交わりも同じです。人のほうから「神様を信じる」と言うだけでなく、神様のほうからもその信仰をお認めにならなければなりません。「あの人はみことばに聞き従っているし、わたしに属する子どもだ。」このように認められる人であってこそ、神様とまことの交わりがあるのです。神様とまことに交わりがある人には、明らかにその証拠が伴います。病気も、災いも、事故も離れていくし、すべての点で守られます。健康、名誉、物質など、必要なものを信仰によって祈り求めるたびに答えられます。
[第三ヨハネ2節]に「あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあり、[マルコ9:23]に「信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあるみことばをそのとおりに体験できます。[申命記28章]に約束されたとおりに、「はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。貸すであろうが、借りることなく、かしらとなり、尾とはならない祝福」も臨みます。
もちろん、使徒パウロやペテロのように、主のために迫害を甘んじて受ける場合もありました。しかし、このような時も、不思議としるしがいつも伴いました。イエス・キリストの御名によって人々に祈るとき、病気がいやされ、悪霊が出て行き、闇が退きました。このように光の中にとどまっている人には、神様と交わりがあるという証拠がいつも現れているということです。
愛する聖徒の皆さん、真っ暗な部屋の中に明かりをつけたら、明るくなります。明かりをつける前は部屋の中が闇でいっぱいでしたが、明かりをつけて光が臨むと、闇が退くしかありません。
霊の世界も同じです。皆さんが真理のとおりに生きて光になれば、闇が皆さんの日常から離れるしかありません。災いも、試練と患難も、貧しさも、病気も、闇を支配するサタンがもたらします。光の中で生きている神の子どもには、このようなものが近づくことができないのです。
もちろん光であっても、明るさはそれぞれ違います。強い太陽の光があるかと思えば、月の光もあります。星もそれぞれ光が違います。光が強いほど、闇はさらに退きやすいのです。霊的にも皆さんの光がどれだけ強いかによって、闇を退ける権威と力が違ってきます。みことばをたくさん知っていて、務めは高くても、罪と悪の中に、闇の中に生きているなら、それ自体が闇なので、闇を退けることができません。いくらイエス・キリストの御名によって退けても、敵である悪魔・サタンはびくともしません。
反対に、以前は真理を知らなくて、試練と患難の中で生きていた人でも、主を受け入れて光の中に出てくると、状況が変わります。みことばどおりに生きて、闇を脱ぎ捨てるほど、災いが離れて祝福が臨むのです。さらには[第一ヨハネ5:18]には「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあります。また、[第一ヨハネ3:21-22]に「もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。」と約束されました。
このみことばのように、罪を犯さないで、完全に真理の中に生きている人には、闇が近づけません。その光の権威の前に、敵である悪魔が恐れおののくのです。神様のこの上ない愛を受けているので、求めるものはすべて答えられて、神様の栄光を現わすのです。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、光の中にとどまる時に祝福されるというみことばは、実はマンミンの聖徒ならほとんどがとてもよく知っているものです。何が光なのか、何が闇なのかも、よく見分けることができます。しかし、頭でよく知っているからといって、皆が光の中にとどまっているとは言えません。
特に過ぎし3年間は、皆さんの光と闇をもう一度チェックして、自分の信仰を確立する時間でした。「私は自分なりに神様を愛しているから、務めもあるし、信仰生活も長くしたから、ある程度光の中にとどまっているだろう」と錯覚している場合もありました。うわべでは光の中を歩んでいるようでしたが、心の闇は捨てていなかったのです。
あるいは、教会の光が明るくて大きな神の力が現れているから、その光がまるで自分自身の光のように錯覚した人もいました。光の中に出て行くべきだと知っていても、闇が好きで、抜け出せない場合もありました。
しかし、今は信仰の量りというものを具体的にチェックされていくことによって、自分の光の明るさを直視するようになりました。目の前に現われた御霊の人を通して、光がどんなにすばらしいものなのかも悟りました。経験が少なく、若くても、光の中にとどまるなら、闇を退ける権勢があることを見ました。
そうであるほど、皆さん自身も光の中にとどまろうと、さらに切に慕うようになりました。霊的な目が開かれて、まことに慕い求める心を持つようになった、これ自体だけでもどんなに大きな祝福でしょうか。また、慕い求めるものを必ず得られるように、父なる神様は恵みと力を日増しに加えてくださるでしょう。
2014年は、すべての聖徒の皆さんがさらに熱く御霊の歩みへと走っていきますように。すべてのことにおいて光と闇を見分けて、これからは完全に光だけを行いますように。それで、皆さんひとりひとりの光がこの聖殿をまぶしく輝かせ、また、韓国と全世界にまで輝かせて、まことの光なる主のもとへと、すべての造られたものを導きますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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